もう何ヶ月も前のことになりますが、
2012年も暮れに押しせまったとある日、
2012.12.9の日曜日の早朝。
もうすでに寒くなっているのに
物静かな日曜日の真夜中からお出かけし、
いったん中国道の西宮名塩のSAで仮眠してから
中国道の宝塚インターを降りて、道がすいている日曜日の朝っぱらから兵庫県地図とナビとをにらめっこしながら、ようやくたどり着いた先は「西宮市立 甲山公園駐車場」でした。
なおここのブログのタイトル写真は、新緑豊かな季節の甲山の写真が掲載されていましたウィキペディアの甲山のページから拝借いたしました。
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≪ プロローグ ≫
「西宮(にしのみや)」 という地名、現代の表記では“兵庫県西宮市”となりますが、“西の宮”といいますから、京の都から見て西の方角にあるお宮といういうことで、“西宮”と名づけられたというのが定説のようです。
旧国鉄時代からJRになってもずっと “にしのみや駅” は「西ノ宮」と、2007.3.17まではその字の意味する通りの駅名で表記されていました。
(すでに過去の表記となったJR西日本の旧西ノ宮駅の駅票板 : ウィキペディアより)
その“西のお宮”というのが阪神タイガースが毎年優勝祈願することで有名な、現在の広田(ひろた)神社のことを指すものと思われます。
日本書紀によりますと西暦201年、神功皇后(じんぐうこうごう)が三韓征伐した帰途、ちょうどこの西宮付近を通りかかった折に天照大御神の荒魂(あらみたま)が現れ、「この廣田国に鎮まりたい」、とのご神託(下写真の石板)があったため、この廣田のお宮=広田神社が創建されたようです。
(現在の広田神社 : 2012.12.9筆者撮影)
ただ創建当時は現在の広田神社の位置ではなくて、
もっと甲山(かぶとやま)のふもと近くに建っていたようです。
(広田神社にあるご由緒板をそのまま撮影)
こちら2枚の写真は、関西学院大学の時計台を後日写したものですが、
この時計台の背後には、ぴったりと甲山がそびえ立つようになっています。
こちらの写真は、兵庫県道82号線のJRさくら夙川駅付近から撮影した甲山です。
こうして見ると、甲山は皆神山(みなかみやま)と同じような台形状のお姿をしていますね。
ただ残念なことに、この写真からでも分かりますが、甲山ではすでに無秩序に開発されてしまって、
山の中腹にまでマンション等が建て込んでいて、実に殺風景な姿をさらしています。
同じような例は磐梯山のふもとでも同様で、ノッポなホテルがそびえ建っていて景観は台無しです!
2枚の下写真のように幸い山中湖から仰ぎ見る富士山は、
ノッポなホテルなどの人工構造物が一切なくて私は大好きですね。
(山中湖畔から仰ぎ見た早朝の紅富士 : 2014.1.16 筆者撮影)
富士山ほどではなくても、もし甲山の山頂に奥宮などがあって人々が絶えず敬い、
山全体が広田神社などの所領になっていたなら、こんなことにはならなかったでしょうに。
戦後、日本人も自然を大切にしない人が増え、
さらに金の亡者も増えたせいで(バブルとその破綻)、
どれほどの美しかった日本の自然が無残にもつぶされて開発され、
その結果として日本人の心が荒れ果てていったのか、
国を動かしている政治家・財界人・経済人・教育者たちは、
もっと大いに考えるべきなのではないかと思いますよ!
以前の三峯神社参拝のブログの後半で詳しく触れましたが、
( 三峯神社参拝のブログはこちら →
https://minkara.carview.co.jp/userid/1144014/blog/27849094/ )
過去の歴史では、森林を大切にしない国は衰退の道を歩んでいますね。
まあ、日本の戦後教育とマスコミ
…特に朝日新聞と、公共放送なのに朝日に追随しているNHK…
が大いに狂っていて、 自虐史観(じぎゃくしかん)に囚われた人たちが、
この日本に跋扈(ばっこ)している限りは、良くならないのかもしれませんが。
≪さらなる追記≫
最近つとに自然災害が多発していますが(2014年度)、
この甲山の麓でも傾斜が激急! なのにもかかわらず、
どんどんどんどん家やらマンションが建っています。
なぜあんな災害が起これば危険だといえそうな場所に、
家やらマンションが建てることができるのか、建築許可がなされるのか
私から見れば実に不思議です。
最近の強烈な自然災害は、
経済効率優先主義となり、まさに自然を冒涜している
現日本人たちへの、天からの警告そのものだとしか思えませんね。
災害が起こるから砂防ダムを、という発想は、血税を使いながら自然破壊
しているのと同じで、箱物ばかり作りたがる行政連中も問題だが、
それよりもドイツみたいに宅地開発に厳しい制限をし、杜は森として守り、
居住地はもっと安全な場所に、効率よく整備していく時が
来ているのではないでしょうか?
ちなみに埼玉県の秩父の山奥深くに所在する、
三峯(みつみね)神社の参拝のブログは
こちら になります。
→
https://minkara.carview.co.jp/userid/1144014/blog/27849094/
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西宮や宝塚市内を通る幹線道路から、この甲山へ行く一直線の道はなく、
そのうえ甲山へ行く道はとても
坂が激急!ですよ。この写真はその一枚です。
そして道に迷いながら
主に住宅街の中をくねくねと進んでやっと甲山森林公園の駐車場へ到着。
(こちら2枚の写真は、後日2014.5.18に撮影)
しかも到着時刻はすでに朝の8:40頃になっていました。
(甲山森林公園の駐車場 : 2012.12.9筆者撮影)
紅葉の時期も過ぎてしまいすでに真冬に近くなり寒いので、ここを訪れる人は少なくてもの静かなので落ち着いて回れますね。そしてこの駐車場からすぐに甲山森林公園へと入れます。
入り口には甲山の案内看板が。
設置看板より甲山の標高は309.4mです。
この年、2012年の真夏に初登頂した富士山の10分の1以下の標高ですが、
ここは海抜0m地帯ではないものの標高差は200m以上はあるでしょうか。
残念ながら今回は真冬に近い12月の半ばの撮影なので、
冒頭のタイトル写真のように緑あふれる写真でなく、枯れたような色彩です。
(森林公園の入口にある自由広場から撮影した甲山 : 2012.12.9筆者撮影)
同じく2012年に行きました、鹿児島の指宿(いぶすき)にある開聞岳(かいもんだけ)は、
標高こそは924mだが、海抜0m地帯にそびえ立つので900m以上登ることになります。
(薩摩富士と呼ばれている、独特な円錐形の形をした独立峰 開聞岳)
だが2012年の春にここ開聞岳を訪れたときは、兵庫県からの遠距離ということもあり、登山時間が取れなくて山登りは残念ながら断念しましたが、甲山はそこまではないのでそんなに苦しまなくても登れそうです。
とりあえず森林公園の駐車場に我がコンテ号を停めて、今回はこの少し上にある神呪寺(かんのんじ)から甲山に登ることにしました。神呪寺入口にも駐車場はありますがあえて歩いて行きました。
神呪寺へのもよりのバス停は、甲山大師です。
(こちらの写真は、後日再訪問した2013.6.24に撮影した時のものです)
甲山は空海、つまり弘法大師に縁が深かったようで、
別名「甲山大師」と呼ばれているそうで、バス停にもその名がついていますね。
その神呪寺(かんのんじ)、またの名の甲山大師への入口はこちら、
長い階段を登ったところにあります
かえすがえすも真冬に行ったので、山が枯れていてちょっぴし残念です
長い階段を昇り切ると神呪寺の本殿になります
こちらの写真は
新緑の季節に撮影されたらしいフリー百科事典のウィキペディアに
掲載されていたのをお借りしました。緑が豊かで美しそうです。
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そして甲山への登山道はいくつかあるようですが、
今回はここ神呪寺から登ることにしました。
登山道の入り口は神呪寺本堂の右端(東側)からですが、
登山道の入り口にあたるミニ鳥居の手前には、甲山のいわれを示した石碑があります。
そして「甲山」と書かれた扁額(へんがく)が掲げられたミニ鳥居をまずくぐっていきます。
昨年(2012年)は古事記編纂1300年目ということで脚光を浴びましたが、
その古事記に書かれているお話しとして、第14代の仲哀天皇(ちゅうあい てんのう)の御世、
当時、大和朝廷に反抗し九州に勢力を張っていた熊襲(くまそ)というのがいたのですが、
『熊襲の背後には朝鮮半島の新羅(しらぎ)がいるから、それをたたけ』
というご神託を仲哀天皇が信じなかったために突如急死してしまい、その神なるご意志を引き継ぎ三韓征伐をしたのが、仲哀天皇のお后であった神功皇后(じんぐう こうごう)、またの名を気長足姫尊(おきながたらし ひめのみこと)だった、いうことが古事記に書かれています。
(三韓征伐に赴く神功皇后 / 1880年 月岡芳年による版画・ウィキペディア)
その神功皇后が三韓征伐を行った後に帰省する際、
もう二度とこのようないくさが起きることのないように祈りを込めて、この西宮の甲山の山頂に 「如意宝珠(にょいほうじゅ)」 と 「兜(かぶと)」 を埋めたので、甲山(かぶとやま)という名が付けられたといわれています。
この小さな扁額の意味するところは、このような故事によるようです。
その扁額、上の写真から甲山の扁額を大きくトリミングしてみました。
甲山の扁額が掲げられた小さな鳥居をくぐるとすぐに登山道の入り口となりますが、
まず甲山の案内図があります。
案内図のすぐ横は登山道の分岐点がありますが、
行きはとりあえず大回りだが階段のない右側を選択。
右側(東側)を選択すると、甲山の周囲を周るような感じであぜ道を進んでいきます。
木が折れているのか、はたまた斜めに伸びているのか分からない木もありますね。
しばらく歩くと三叉路に出ました。甲山山頂へはここを90度左に折れ曲がりますが、
もし真っすぐに行くならば甲山自然の家方面へと出るようです。
そしてここまでは階段もなく割合平坦な道でしたが、
ここからはどうやら階段がずっと続いていくようです。
今日は真冬に近い12月初め、
割合温暖な地、西宮でも寒いので汗だくだく、ということはさすがになかったですが、
ずっと階段を登ってきたせいで息はゼーゼー、上着も脱ぎ捨てたが汗も少しかきました。
きっと夏頃なら、汗でじゅくじゅくになり蚊などにもかまれまくり、
ヘビなども見かけたろうと思います。いゃ~あ、真冬で良かった。
そして何段? いや何百段あがってきたのか、数えなかったので分からないですが、
やっと頂上へ着いたようです。
初めて甲山の山頂へと登りました。
が、山頂は低く309.4m、10倍以上高い富士山とは違い、
周囲には木々が植わっていて何も見えず、
石が山状に積み上げられているのみで、見た目には何もなかったです。
でも山頂には休憩用の木製のベンチシートがいくつか設置されていました。
ちなみに同じ年に初登頂した標高の高い富士山では、五合目からは木が育たないので、
ガスがなく視界が良ければこのように下界がよく見えます。
(2012.8.20夕刻 富士山富士宮口登山道から撮影した駿河湾)
(2012.8.21早朝 お鉢めぐり中に富士山頂から撮影した山中湖と南アルプス山脈)
残念ながら周囲が見渡せない甲山の山頂でしたが、
元々ご神体山のようなので、禿げ山でなく木々に覆われているのはいいことでしょう。
あと他には、山頂から 「銅戈(どうか)」 が出土したとの案内板がありました。
そうこうしながら山頂のベンチで休んでいると、
なんと阪神地区の西宮では非常に珍しい
“ 粉雪 ” が降ってきました。
これを何とか写真に収めようとしたけれど、白っぽくなっている青空に白色のごく小さな粉雪では、私の腕ではうまく写すことができず、残念ながらここでご紹介することはできなかったです。
【2015.6.30 追記】
2015.6.12の日、平日でしたが神戸に用事で出かけた際、
みん友さんであるミラカスおじさんと午前中にプチオフ。
その後、午後から用事を済ませると夕刻近くになっていましたが、その間に天候は回復して晴天になり、しかもまだまだお空が明るかったので、久しぶりに甲山に登ってみることにしました。
登山の道中写真は暗い中での撮影でしたので省略、上の山頂写真は真冬で枯れた写真でしたが、ここでは新緑あふれる甲山の山頂の写真をここに追記いたします。
ところで今回、このブログを書くにあたり甲山のことを調べてみると、幾度となく山火事で焼けたことがあったようです。古くは織田信長の時代、荒木村重の乱のときに信長が西宮へと攻め込んだため、地元民が避難と抗戦のため甲山に立てこもり、それを
信長がなんと山ごと焼き討ち? にしたらしいです。
(甲山を焼き討ちしたらしい織田信長 狩野元秀筆 : ウィキペディアより)
あまりにも残虐非道なことをした織田信長の人生は、その後の歴史が証明するところですが、江戸時代にもここの所有権をめぐって争いもあったようですが、終戦後間もない頃の1946(昭和21)年にまたもや火災が発生し、どうやら再び禿げ山になったようです。
古来甲山は、奈良県桜井市三輪にある大神(おおみわ)神社と同じようなご神体山だったそうですが、この昭和の大火事で禿げ山になってしまい、その後ピクニックコースとして登山道が設置されたようです。下記のホームページによると、さらにはロープウェイの設置計画まであったそうな。
さすがにロープウェイは建設されず、古来のままとはいえなさそうですが甲山は無事守られました。
しかし残念ながら甲山の山頂には奥宮とかのお社が全く無いため、
神聖な山だというイメージが薄れてしまっていますね。
ちなみに甲山の歴史などは、こちらに詳しいホームページがありました(関連情報URL)
『ちょっと歴史っぽい西宮』
→ http://blog.livedoor.jp/p_lintaro2002/archives/55401589.html
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この粉雪がチラチラと舞っていた甲山を下ったあと、広田神社へ移動して参拝してきました。
こちらの写真は神社の入り口(神門)になりますが、この手前にわずかに残る松並木が、
古来は海のそばにあったと思われる神社の面影を伝えているようです。
現在の広田神社は街の中にあるような感じになっていますが、古来は海のそばにあったようです。
こちらの写真は神社境内にある、古来と江戸時代の西宮の様子を描いたものを撮影しました。
土砂が堆積したり埋められたりして、海岸線が大きく変化しているのが良く分かると思います。
江戸時代のものは現在とそう大きく変わらないようです。
この大きな説明看板、トリミングし拡大してみました。
3世紀ごろは海岸線が大きく内側まで入り組んでいて、
現在の広田神社のところまで海があったことが分かると思います。
現在この地に立てば神社の手前まで海があったなんて全く想像できないですよ。
日本書紀によれば、神功皇后が三韓征伐から帰省の折、ここ広田の地を通ったときに天照大御神さまの荒魂が現れて、この広田の地に鎮まりたい、とおっしゃられたため、この地に神社が創建されたのが始まりとされています。
このご由緒の石板はそう書いてありますね。
先に触れましたが、どうやら創建当時の広田神社は今の位置ではなくて、
奥宮にあたる甲山の近くにあったようです。
過去水害とかでやられて幾度か遷座し、江戸時代の1724(享保9)年、現在地になりましたが社殿は太平洋戦争の戦災で被災し、現在の本殿は伊勢神宮荒祭宮の旧社殿を譲り受けて昭和31年に竣工しました(ウィキペディアより)。
また十日エビスで有名な西宮神社は元来この広田神社の摂社だったのが、後年になると商売の神様として大いに繁盛していき、もうどちらが本社か分からないほど! になっているのも、ちょっと面白いですね。
西宮神社は阪神・淡路大震災で倒壊し再建されたので真新しいのですが、
やはり建物のせいもあるのか、私には古来からの広田神社のほうがより素朴に感じられます。
(素朴な感じのする広田神社の拝殿と本殿 : 2012.12.9筆者撮影)
そのえびす総本山や十日えびすの福男選びで有名な、えべっさんの西宮神社の写真はこちらです。
西宮神社の本殿は阪神・淡路大震災で倒壊したので、新たに再建されました。
(平成21年度の福男の写真 : 西宮神社境内に掲出されていたのを撮影)
こちらの写真2枚は福男のスタート地点となる、西宮神社の表大門を撮影。
こちらの写真は、阪神・淡路大震災の倒壊後新たに再建されましたご本殿写真。
(再建された西宮神社の本殿写真 : 2014.2.19筆者撮影)
ここの西宮神社の本殿掲載写真、
以前はウィキペディアに掲載の写真で代用していましたが、撮影に使ったカメラのレンズのせいなのか、石畳が曲がって撮影されていたりして画質に問題があったので、後日西宮を訪れた際に西宮神社に立ち寄って撮影し、いくつかの追加写真とともに本殿写真は差し替えました。
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≪ 後日編 ≫
前回ここ甲山を訪問したのが木枯らしも吹くころの2012.12月でしたので、木々も枯れていて物寂しい様子でしたので、翌年の2013年 6月 24日に知人と大阪へ出かけるついでに、再び立ち寄ってきました。
6月末ともなれば新緑が育ってきていて深緑色の美しい姿となっていましたが、ただもうこの頃になると室外は蒸し暑くなっていたので、時間の都合もあり登山はご遠慮しておきました。
ではここから以下、簡単ですが新緑の花咲く甲山と神呪寺の様子をアップしていきます。
まず甲山森林公園の入り口を入りますとすぐに甲山が望める自由広場へと出ます。
そこでまず写真を1枚パシャリと撮影しました。
梅雨明けのような天候で、残念ながら晴天とは言えなかった甲山です。
そしてシンボルゾーンへ向けて歩いていきますと、
野外ステージへと降りる道すがらに紫陽花がいっぱい咲いていました。
こんな感じです。
まだこの頃はマクロ撮影できるシグマDP3メリルの購入前でしたが、
広角のDP1メリルでも極力被写体に寄って撮影。
よく見るとカマキリみたいなのが1匹いました。もっと接写して撮影。
そしてすぐに甲山森林公園のシンボルゾーンである、記念碑広場へと到着。
平日の昼間なので誰もいなくて邪魔にならないので、三脚を立てて甲山を撮影。
池の水が空のためみすぼらしくなるのであまり近寄れず、遠くから撮影しました。
この噴水、たまたま通りがかった人が教えてくれましたが、
平日は噴水は閉められているとのことで、ちょっと残念。
ちなみにこの彫刻は「愛の像」と言うそうで、彫刻家の新谷秀夫さん作だそうです。
彫刻自体は国内では数少ない白大理石で作られていて、台座はポルトガル産赤御影石で、
「愛」の文字作品は山口県産白大理石との記載がホームページにありました。
高さは8.6mだそうです (台座4m、作品4.6m)。
フリー百科のウィキペディアには噴水されている写真がありましたので代わりに掲載です。
こちらはさらに後日の2014.5.18の日に私が撮影した甲山です。
もう少し後ろに引いてから撮影すれば良かったと後で後悔しました写真です。
そして次に前回訪問時と同様、神呪寺へと行きました。
まず駐車場へと車を停めると長い階段が。
何段あるのか数えるのを失念しましたが、階段を登り切るとご本堂と背後には甲山が。
横にはお寺の象徴ともいえる釣鐘があります。
1突き10円だったのか50円だったのか忘れましたが、
せっかくなのでお金を支払って突いてみました。ゴ~~ン。
夜景ではないですけど、最後に神呪寺から見た西宮付近の街並みです。
(2013.6.24に撮影した西宮の街)
(こちらは2015.6.12の夕刻近くに撮影した西宮の街)
次回のブログは
2013年 夏の旅行 白川郷訪問・白山スーパー林道走行・白山登山等を予定しています。