![北米マツダとオールズモビル 北米マツダとオールズモビル](https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/blog/000/041/395/802/41395802/p1m.jpg?ct=ef5954923c6c)
先週見たマツダ2・デミオは我が国では珍しく、四年間で僅か62,000台販売しただけで、その前のデミオも無かったですし、現行型のデミオも売る気配はなさそうで、北の隣人、キャナダでも同様の状態です。でも新工場があるメキヒコではちゃんとマツダ2・デミオのハッチバックを売っているだけでなく、4扉セダン型に小変更を加えて合衆国でトヨタ・ヤリスのセダンとして売っています。これは本来、トヨタの潰れた販売チャンネル、サイオンで売る予定だったのが、サイオン廃止になったので急遽、トヨタのバッジを付けて売り出した物です。同じヤリスでもハッチバック版を合衆国で買うとヴァレンシエンス工場から輸入してくるフランス車なんですから話はこんがります。因みに合衆国では全く売れていない日本で人気のあるCH -Rは土耳古🇹🇷製の輸入車です。。。。
マツダの合衆国での歴史はスバルやらホンダより浅く、1970年になって、地区限定でようやくルーチェ1500やら1971年からファミリア1200で商売を始めます。当然ヴァンケルエンジンも持ってきてさあ、行くぜ〜と意気込んだ所に第一次オイルショックが勃発します。その後ファミリアAP/323/GLCとRX-7が来るまで財政的に崖っぷちに立たされれ非常に辛い時期があったんですが、何を考えていたのか、1976年にマツダ・コスモが合衆国で発売されます。
煌びやかなこのコスモ、当時米国マツダの極めて貧弱な整備・販売網。比較的高い値段のお陰で全くと言って言い程売れませんでしたが、何故か姉貴がシカーゴで生活していた時、ヴェロアの内装に憧れて中古車屋から騙されて買わされたのがその、コスモ。翌日からエンジンは始動しない。壊れまくるで散々な目に会い、コスモではなく名前を "押すモ" と呼び、その後たまたま動いた日にデイーラーが開いていたので乗り付け下取りに出し、そこにあった、今度は ”動く” 自動車に乗って帰って来た経験がありました。その ”動いていた” 自動車がこれまた苦難のルノーR5なんですが、そのハナシはまた別の機会に。。
日本でも爆発的に売れたこのCDコスモ、ぼくの好きな日本車の一つです。何と言ってもカッコがええ。前後に伸び伸びとしたプロポーション。特に流れるような後ろ姿、窓の切り方、それにオールズモビル そっくりのバリカン状のラジエータグリル。いすずの117クーペに似た性格・車格と理解しています。派手な赤塗りもいいですが、地味な色も似合いますし、合衆国に来て白リボンタイヤ履かせてもなかなか素敵でした。残念な事にオペラ窓の付いたタイプLは合衆国には来ませんでしたが、コチラも後から取って付けた割にはバランスが取れていて、あの小さなオペラ窓が開閉できた、と言うのもよかですばい。
CDコスモが登場したのが確か1975年。オールズモビルにそっくりと言いましたが、カトラスの、あのバリカンの刃、滝の落ちるラジエータ・グリルが出たのは翌年、1976年なんです。おまけにカトラスの滝落グリルをデザインしたのは、マツダ・ミアータのデザインで有名なトム・マタノさんだったんです。
GMに入社早々、あの頃のカトラスは月に50,000台(月にですよ、年間じゃなくて。。。)売れる超人気車を、日本から来た未だ名も無い一人にマイナーチェンジのデザインを任せたんですから、マタノさんは余程優れた才能の持ち主だったんですね。。。。マタノさんの手がけたカトラスは大評判で、1977年、モデルチェンジ前の年なのに最高量産記録を更新して、632,742台が工場から出荷されました。
その翌年に第二次オイルショックが始まり、1ガロン55セントだったガソリンが1ドル55セントとほぼ三倍に値上がり、運よくGMはダウンサイズしたミッドサイズを発表したのでした。。。。(フルサイズは1977年から)。
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2018/04/26 04:32:58