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2019年12月31日 イイね!

新幹線が採用した「60ヘルツ」

新幹線が採用した「60ヘルツ」モデル線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

モデル線(モデルせん)、モデル線区(モデルせんく)とは、鉄道において、先進技術などの実験と広報の場として設定された路線およびその区間のこと。本項では東海道新幹線におけるモデル線とその付属施設・組織について記述する。

新幹線計画におけるモデル線、モデル線区とは、東海道新幹線の建設時に旧国鉄が東京大阪間全線に先駆けて完成させた試験用区間である。鴨宮基地(かものみやきち)がおかれ、モデル線管理区がこれを管理した。神奈川県小田原市と綾瀬町(現・綾瀬市)付近を結ぶ約30キロメートルの区間で、全線開通後は東海道新幹線の路線の一部に組み込まれた。開業から50年以上を経た現在では「鴨宮モデル線区」などとも呼ばれる。

[写真・画像] モデル線高架橋として造られたことが分かる「1961-12」の銘板 作成: 2017年5月3日

1 概要
東海道新幹線の建設では、それまでにない広軌高速電車の研究開発から開業までを、1959年(昭和34年)から1964年(昭和39年)までのわずか5年という短期間でやり遂げることが求められていた。東海道線の増設は喫緊の課題だった。

このために、全線開通まで待たなくても試作車両や新設備の実地試験を行える場として、「モデル線」が計画された。モデル線は全線に先駆けて建設され、1962年(昭和37年)から1964年(昭和39年)にかけての約2年間、新型車両と設備の試験、乗員と保線要員の養成、「夢の超特急」の広報と試乗者受け入れを行った。モデル線がなかったら、わずか5年で開業に漕ぎ着けることは難しかったと考えられている[1]。

現地には、車両基地として鴨宮基地が設けられ、現業機関としておかれたモデル線管理区がこれを管理した。区長は田中隆造。モデル線における研究実務は鉄道技術研究所が担当した。
1.1 公式名
新幹線開業当時に国鉄が刊行した公式記録『東海道新幹線工事誌』では、この試験用区間の名は「モデル線」もしくは「モデル線区」と表記されている。モデル線西端近くの鴨宮には「モデル線鴨宮基地」(モデルせん かものみやきち)がおかれた[3]。

新幹線のテスト走行を行っていた1962年(昭和37年)から1964年(昭和39年)にかけて、「モデル線」の名は日本中で知られていた。その走行実験や試乗会はニュースにもしばしば取り上げられた。しかし1964年の開業から長い年月が過ぎると、「モデル線」のみではだんだん通じにくくなり、「鴨宮のモデル線」から転じて、今では「鴨宮モデル線」あるいは「鴨宮モデル線区」と表記されることもある[4]。

3 沿革
3.4 先行建設
3.4.1 関連施設
モデル線の沿線には平塚(大神)・大磯(生沢)・鴨宮の3つの変電所が設置され、大磯は東日本の50サイクルを西日本の60サイクルの電力系統に置換するための周波数変換変電所の役割を持ち(開業後は饋電区分所となり、周波数変換変電所は大井・綱島・西相模・沼津の4カ所に設置)、平塚と鴨宮には新幹線運行管理システムを設置する信号機械室を併設。変電所内には地震発生時に電力供給を遮断して緊急停止させるための地震計(正式名は警報感震器)を設置し、人為的に作動させて運転停止動作を確認した。なお、当時の機械(SMAC型)は落下球式と倒立振り子式の位置エネルギー(運動力学)を用いた単純なもので、地震が発生してから作動するものであったため、後の地震動早期検知警報システム(ユレダス)開発の必要性が既に議論されることになった。

時速200キロを超える高速運転の新幹線では横風安定性の確保が重要で、模型による風洞実験から風速20メートル以上は警戒が必要になることが判明し、モデル線区間では丹沢山地からの丹沢颪(大山颪)が軌道建設中から懸念されていたこともあり、沿線に風速計を設置して運転指令所へ伝送するシステムを構築、その有効性が確認されたため本線開業時に全線で採用された。

3.7 発展的解消
1964年(昭和39年)2月15日、モデル線は西からの上り線と第一熱海トンネル内でつながって、綾瀬 - 三島間77kmが開通した。これをもってモデル線はモデルとしての役割を終えて、当初からの計画通り、東海道新幹線、東京 - 新大阪間の営業路線区間に組み込まれ、モデル線管理区は同年4月下旬に廃された。走行試験は新幹線局運転車両部が引き継いだ。鴨宮基地は、新幹線の鴨宮保線基地として現在も使用されている。

3.8 記念碑
鴨宮基地は、新幹線試作車両が初めて組み立てられ軌道を走り始めた地である。また、新幹線の車両や設備の実地テスト、要員養成もこの鴨宮が出発点となった。

1974年(昭和49年)8月、国鉄は新幹線開業10周年を記念して、日本国有鉄道新幹線総局長・原田種達の名で、鴨宮基地の跡地の新幹線線路際にモデル線鴨宮基地の記念碑「新幹線発祥之地」を建立している。それは平面御影石に日本列島のレリーフと鴨宮の位置を刻んだシンプルなモニュメントで、横壁には「新幹線発祥之地」というプレートがはめ込まれている。(鴨宮駅から下り側約700m、北緯35度16分24.5秒 東経139度10分20.5秒 付近)

また2009年には、地元市民有志により鴨宮駅南口側に「新幹線の発祥地・鴨宮の記念碑」が建立され、4月19日に除幕式が行われた。

最終更新 2019年12月16日 (月) 01:19 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。

交流電化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

交流電化(こうりゅうでんか)は、鉄道の電化方式の一つで、交流電源を用いる方式。

1 概要
交流電化には、単相交流を使うものと、三相交流を使うものがある。さらに単相交流には商用周波数(50 - 60 Hz)を使うものと、その2分の1から3分の1の低い周波数を使うものがある。現在、主流は商用周波数の単相交流で、電圧は主に25 kVを使用する。

2 特徴
直流電化と比較して、以下のような特徴がある。

・送電ロスが少なく地上設備のコストが低い
同一電力を送電する場合のロスはおおむね電圧の2乗に反比例することから、電圧はできるだけ高くした方が送電には有利である。同じ電力を送るのに架線で失われる電力損失が少なくて済むことから、交流電化は直流電化に比べ変電所の間隔を長く取ることができ[注釈 1]、直流電化の場合には別途必要となる饋電線(架線に並行した太い電力線)、変電所への送電用の特別高圧線そして、自動閉塞で用いる閉塞信号機で用いる高圧線も不要であり[注釈 2]、全体として地上設備コストの低減が図れる。交流は動力車において変圧器を用い容易に電圧を変えられるため、使用する電動機の電圧に合わせた600 - 3000 Vを用いる直流電化のような電圧の縛りから解放され、任意の高い電圧を選べる。しかし架線電圧が高くなると車両ならびに地上設備の離隔距離[注釈 3]を大きくとらなくてはならず、車両の設計が困難になるばかりか建設費など他のコストが上がってしまう。そのため動力車に供給すべき電力のほか、設備費用など制約条件を総合的に検討した上で11000 - 50000 Vの電圧が選択される。日本においては20000 V(在来線)と、25000 V(新幹線)の2種類の電圧が採用された。

・大容量送電が可能
交流は高電圧を用いることから、直流に比して小さい電流での送電が可能である。そのため、負荷電流が直流方式と比べて1/10以下になり、電車線は細いものですむ、したがって、大きな出力を必要とする電気車両への大容量送電に適している。日本の新幹線は高速走行で大量の電力を必要とするため、交流電化を採用した[注釈 4]。

・粘着係数が高い
交流車は粘着係数が高いという長所を持つ。直流車では低速で電動機を直列につなぐが、電流一定のために、ある電動機で空転が始まってもトルクが下がらず回転数がむしろ上がる傾向になる。一方交流車では一般に並列接続であるので、回転が上がるとその電動機に流れる電流が減少してトルクが下がり、容易に再粘着する。また、以前の直流車で一般的であった抵抗制御では、加速(力行)中に限流値により一段ごと抵抗を抜く時に電流が一時的に増大して空転を起こしやすいのに対し、タップまたはサイリスタにより連続的に電圧を変えられる交流車は優位であり[1]、一時は交流電気機関車のD級(動軸数4)は直流電気機関車のF級(動軸数6)に匹敵すると評された[2]。
ただし、後に直流車・交流車の区別なくVVVF制御方式が主流となり、再粘着制御が容易に行えることから、この点における交流車としての利点は少なくなっている。

・車両コストが高い
特別高圧を電動機が使用可能な電圧に下げるため、車両には重い変圧器を搭載しなければならない。また、主電動機は、直流を電源として用いる直流電動機の場合には、整流器またはサイリスタが必要であり、交流を電源として用いる誘導電動機の場合には、PWMコンバータで直流に変換した後にVVVFインバータで三相交流に変換する主変換装置が必要である。両者とも、重量のある商用電源対応の平滑リアクトル[注釈 5]が必要であり、集電装置も高電圧対応である必要がある。したがって、車両の製作費およびメンテナンスコストが高くなり、重量も大きくなりがちである。
直流直巻電動機を用いた直流電車においては短時間の最高出力は連続定格出力の4、5割増しの大きなものとなる。しかし交直両用車の場合、コストの制約・軸重制約のため、電動機の最高出力時の消費電力よりかなり容量の小さい、連続定格をやや上回る程度の変圧・整流機器となるため、最高出力は直流時をかなり下回る[注釈 6]。

以上が交流電化の特徴であり、地上設備と車両のコストに鑑みると、需要が少ない地域の輸送や動力集中方式に適した方式と従来言われてきた。JR在来線のように交流電化と直流電化が混在する場合、交流直流両用車を使うことになるが、20世紀終盤までは更にコストの高くなる交流直流両用車では交流電化のメリットはほとんど失われ、デメリットのみが残る傾向があった。

21世紀に入ると整流機器が安価になったことにより直流電化の費用が低下したことに加え、電車化の進展やVVVFインバータ制御により直流電車の性能が向上したため、変電所の設置間隔以外で交流電化のメリットは低下し、新幹線のような大電力の必要な高速鉄道や貨物輸送主体の鉄道以外での交流電化の優位は失われてきている。

5 採用事例
5.1 日本
  5.1.4 その他
   5.1.4.1 新幹線と商用周波数
東海道新幹線と北陸新幹線は、2つの周波数地域を跨ぐ路線を持つ。このうち東海道新幹線は、東京駅から静岡県内に至る50 Hz地域でも、綱島、西相模の周波数変換変電所に横軸型同期周波数変換機を備えて、60 Hz電源に統一した。開業当時の技術でも両周波数対応の電車を製作することは可能であったが、50 Hz区間は、東海道新幹線の当初の開業時点でも全体の4分の1程度であり、博多開業を想定すると10分の1程度になる。50 Hz対応のために大部分を占める60 Hz区間で無駄となる装備を載せて走ることは不合理となる。開業時点の車両数の少ない時点では、車上で対応した方が安いと試算されたが、将来的な編成数増加の見込みもあって、経済的な観点から地上で周波数を統一する方式を採用することにしたものである [7] [8]。 なお、開業後に浜松町変電所・沼津変電所にも周波数変換機を設けたため、現在は4箇所に周波数変換変電所が存在する。周波数変換はロスが多く、富士川以西から送電線を整備して60 Hzを給電した方が合理的であるが、電力購入先の規制によりやむなくの東京電力の50 Hz電源を周波数変換のうえ使用している。

一方、北陸新幹線は東京 - 高崎で50 Hzを採用する東北新幹線・上越新幹線に乗り入れるため、複周波数対応の新幹線車両[注釈 11]を使用し、軽井沢駅 - 佐久平駅・上越妙高駅 - 糸魚川駅・糸魚川駅 - 黒部宇奈月温泉駅の3か所で50 Hzと60 Hzとを切り替える。

なお異周波接続の方式に関しても、デッドセクションを参照されたい。
最終更新 2019年12月21日 (土) 03:22 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 今回のテキストは鉄道ジャーナル2019・9月号(7/21発売)「九州の周波数統一と鉄道電化」である。

「1960年まで九州電力は50Hz-60Hz併用であり異周波数の送電網の融通に苦しんであった。当時、西鉄貝塚線名島付近にあった九電・名島発電所に50Hz送電網を支えるのに使用した大型周波数変換器が温存されており、国鉄はそれを譲り受け鴨宮実験線に設置した。」

 60Hzでの発電所が効率が良いと思うが、東電は60Hz送電線を認めても良かったのでは。2重系統送電網は防災の点でも助かるのでは・・。
Posted at 2019/12/31 19:08:13 | コメント(0) | トラックバック(0) | 交流電化 | 旅行/地域
2019年12月31日 イイね!

「九州島内の交流電化」と"関門トンネル" の建築限界

「九州島内の交流電化」と"関門トンネル" の建築限界関門トンネル (山陽本線)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

関門トンネル(かんもんトンネル)は、関門海峡をくぐって本州と九州を結ぶ、鉄道用の水底トンネルである。九州旅客鉄道(JR九州)の山陽本線下関駅 - 門司駅間に所在する。単線トンネル2本で構成され、下り線トンネルは全長3,614.04メートル、上り線トンネルは全長3,604.63メートルである。

[写真・画像] JR九州下関変電所、関門トンネルに電力を送る直流変電所 作成: 2012年8月10日

7 運用
7.3 九州島内の交流電化
 第二次世界大戦後は、石炭の節約の観点から国鉄の主要幹線の電化を推進する方針となった[438]。しかし連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の民間運輸局 (CTS) は、戦災復興を優先するべきという理由で電化の推進に否定的な態度を取り、占領期には電化はあまり進捗しなかった[438]。1955年(昭和30年)9月26日に発足した日本国有鉄道電化調査委員会では、早急に主要幹線3,300キロメートルの電化を推奨する報告書を11月29日に提出した[439]。これを受けて1957年(昭和32年)度からの第1次5か年計画では、第1次計画として1,665.8キロメートルの電化を推進する方針となり、この中で関門トンネルの両側にあたる山陽本線の西明石 - 幡生間、鹿児島本線の門司港 - 鳥栖間が取り上げられた[440]。
 ちょうどこの時期、国鉄では交流電化の技術にめどを付けて採用を進める方針となっていた[441]。国鉄の交流電化調査委員会では、交流電化の経済性を検討し、電車運転および交直接続の費用を考慮しなければ、常に交流電化が有利であると結論付けた[442]。しかし、この検討は直流電化の技術の進歩を適切に考慮しておらず、また交流電化に必要となる建築限界の拡大に要する費用も評価されていないという問題があり、これに加えて既に直流電化されている東海道本線の延長となる山陽本線では交直接続の費用が交流電化の経済性を帳消しにしてしまうことから、交直接続をどこで行うのがもっとも経済的かということが検討された[442]。
 この検討の際に大きなポイントになったのが関門トンネルの建築限界の問題で、トンネルの断面は本来は設計上5,100ミリメートルの高さがあるはずであり、交流電化には大きな問題はないと考えられていたが、1957年(昭和32年)12月に実測してみたところ、戦時中の材料不足による工事方法変更の結果として短区間ではあるものの4,970ミリメートルの高さとなっている場所があることが判明した[443]。この高さでも、特別な架線吊架方式を採用し絶縁方法を工夫することで交流電化も不可能ではないとされたが、将来的に大きな貨物の輸送に支障をきたす恐れがあった[443]。これに加えて、関門トンネル内は海水の漏洩が激しく、直流電化においても絶縁の保持に苦労している現状があり、交流20,000ボルトに変更すればより一層保守が困難になるものとされた[444]。
 また交直接続箇所においては、地上切替方式を採用しないのであれば、高価な交直両用の機関車を必要とする[445]。交直接続箇所から西側をすべて交直両用機関車で牽引すれば、機関車の総所要両数は減るが、高価な交直両用機関車の所要数が増加する[445]。一方、交直両用機関車による牽引を交直接続箇所を跨ぐ区間に限定して、西側では交流専用の電気機関車を使うものとすれば、交直両用機関車の所要数は減るが機関車の総所要両数が増加となる[445]。しかし、関門トンネルは急勾配の長大トンネル区間であり、もともと高速運転をしない上に、電動機に電流を流して走る時間も短く、加えてトンネル内は一定の気温であることから発熱の観点で有利になる[445]。さらに短区間であることから蒸気暖房用の蒸気発生装置を搭載する必要もないとして、この区間に限れば交直両用の機関車としては安価な専用機関車を設計できるものとされた[445]。こうした点を考慮し、最終的に山陽本線を直流、鹿児島本線を交流で電化し、門司駅構内を交直接続点とする方式が決定された[442][444]。
 こうして電化が推進されることになった。通常は既存の電化区間をそのまま延長していくが、そうなると九州への電化の到達はかなり先のことになり、日本有数の重工業地帯で当時輸送量が急増していた北九州地区の輸送需要に応えることができないという問題があった[446]。そこで飛び地となるが、山陽本線の小郡以西と九州島内を先に電化する方針となった[446]。
 こうして1961年(昭和36年)6月1日に山陽本線小郡(後の新山口駅) - 下関間と、鹿児島本線門司港 - 久留米間の電化が開業した[447]。このために交直両用の421系電車が製作・配置され、関門トンネルを通過して山陽本線と鹿児島本線を直通する運転を開始した[448]。北九州の通勤輸送対策のためにこの電化開業では、交直両用電車を投入して一部の客車列車を置き換えあるいは増発することが先行することになり、この時点では客車や貨車を牽引する機関車については従来のEF10形が引き続き用いられた[449]。EF10形は直流専用であるため、門司駅構内の内側の関門トンネルから列車が出入りする線路から門司操車場に至る区間はこの時点では暫定的に直流電化のまま残され、外側の鹿児島本線の線路が交流電化され、交直デッドセクションは暫定のものが小倉側の山陽本線と鹿児島本線の分岐部に設置された[450]。
 関門トンネル区間用の交直流電気機関車としては、EF30形電気機関車が開発された[451]。1961年(昭和36年)8月から10月にかけて、量産形のEF30形が門司に配置され[452]、8月から順次営業運転を開始し、10月1日から本格的に運用を開始した[451][453]。代わって、EF10形は関門間の運用から外れ、直流電化区間へ順次転出していった[452]。これにより、交直デッドセクションを本来の位置に移設する工事が行われ、1962年(昭和37年)3月2日から門司駅構内は全面的に交流電化となった[454]。本来の交直デッドセクションの位置でも、下り線の旅客線と上り線の旅客・貨物線はともに関門トンネル出口付近のシーサスクロスポイント付近にあるが、下り線の貨物線は上下ホームの間をさらに進んだ小倉側に設置されており、これはトンネル出口の上り勾配で列車が停止してしまった場合に、再発進しても十分加速できないままデッドセクションのために惰行しなければならなくなる危険を回避するためだとされている[452]。
 1964年(昭和39年)10月1日には、山陽本線の全線電化が完成した[455]。この時、東海道新幹線も同時に開業したことから、在来線の東海道本線での運用を終えた151系電車が山陽本線での運用になり、特急「はと」「つばめ」として九州まで直通で乗り入れることになった[456]。しかし151系は直流専用であったため、電源車としてサヤ420形を連結した上で、九州島内では電気機関車で牽引されて走ることになった[456]。この運行は1年で終わり、交直両用の特急電車として481系電車が1965年(昭和40年)10月1日から使用されるようになった[456]。同時に急行用の475系電車も投入されて、関門トンネルを往来するようになった[456]。

12.2 出典
[438]^ a b 『日本国有鉄道百年史』14 p.213
[439] ^ 『日本国有鉄道百年史』14 p.214
[440]^ 『日本国有鉄道百年史』14 p.218
[441]^ 『日本国有鉄道百年史』14 p.219
[442]^ a b c 「山陽・鹿児島本線の電化方式について」p.13
[443]^ a b 「山陽・鹿児島本線の電化方式について」pp.15 - 16
[444]^ a b 「山陽・鹿児島本線の電化方式について」p.17
[445]^ a b c d e 「山陽・鹿児島本線の電化方式について」p.14
[446]^ a b 「鹿児島本線及び山陽本線の電化工事概要」p.14
[447]^ 「関門トンネル30周年」p.37
[448]^ a b 「関門トンネル70周年と交直接続」pp.28 - 29
[449]^ a b c 「関門トンネル70周年と交直接続」p.29
[450]^ a b 「関門トンネル70周年と交直接続」pp.29 - 30
[451]^ a b c d e 「量産EF30形交直流電気機関車」p.14
[452]^ a b c d 「関門トンネル70周年と交直接続」p.30
[453]^ a b c d e 「交流電気機関車 誕生の記録」p.32
[454]^ a b c d e 「関門トンネル70周年と交直接続」p.31
[455]^ a b 「関門トンネル30周年」p.38
[456]^ a b c d e f 「関門トンネル30周年」p.39

13 参考文献
13.1 書籍
『関門隧道』運輸省下関地方施設部、1949年3月31日。
田村喜子『関門とんねる物語』毎日新聞社、1992年8月30日。ISBN 4-620-30888-9。
黒川寛『海底死闘六年 関門トンネル』関門日報社、1943年2月25日。
『日本国有鉄道百年史』5、日本国有鉄道、1972年7月28日。
『日本国有鉄道百年史』6、日本国有鉄道、1972年10月1日。
『日本国有鉄道百年史』8、日本国有鉄道、1971年12月15日。
『日本国有鉄道百年史』9、日本国有鉄道、1972年3月25日。
『日本国有鉄道百年史』11、日本国有鉄道、1973年3月31日。
『日本国有鉄道百年史』14、日本国有鉄道、1973年12月1日。
吉村恒・横山章・下河内稔・須賀武『トンネルものがたり』山海堂、2002年4月30日、第1版第3刷。ISBN 4-381-01437-5。
長船友則『山陽鉄道物語』JTBパブリッシング、2008年2月1日、初版。ISBN 978-4-533-07028-0。
斉藤哲雄『下関駅物語』近代文藝社、1995年7月10日、第2刷。ISBN 4-7733-3980-2。
古川達郎『鉄道連絡船100年の航跡』成山堂書店、2001年6月8日、二訂版。ISBN 4-425-92141-0。
弓削信夫『明治・大正・昭和 九州の鉄道おもしろ史』西日本新聞社、2014年6月12日、初版第一刷。ISBN 978-4-8167-0885-5。
青木栄一『鉄道の地理学』WAVE出版、2008年10月15日、第一版第一刷。ISBN 978-4-87290-376-8。
今尾恵介『日本鉄道旅行地図帳 全線全駅全廃線 12号 九州沖縄』新潮社、2009年4月18日。ISBN 978-4-10-790030-2。
『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』1、JTB、1998年10月1日。ISBN 4-533-02980-9。
『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』2、JTB、1998年10月1日。ISBN 4-533-02980-9。
須田寛『昭和の鉄道』交通新聞社、2011年4月15日。ISBN 978-4-330-20811-4。
『鉄路の闘い100年 鉄道防災物語』国鉄防災100年史編纂会、山海堂、1972年9月1日、初版。
沖田祐作『機関車表 フル・コンプリート版DVDブック』ネコ・パブリッシング、2014年3月1日、初版。
『JR貨物時刻表2011年』鉄道貨物協会、2011年3月。
『JR貨物時刻表2012年』鉄道貨物協会、2012年3月。
高松宮宣仁親王『高松宮日記』第四巻、中央公論社、1996年7月25日、627頁。

13.2 論文・雑誌記事
松村憲勇「土木遺産の香 第42回 世界初の海底トンネル「関門鉄道トンネル」 (PDF) 」 『Civil Engineering Consultant』第236巻、建設コンサルタンツ協会、2007年7月、 58 - 61頁。
広井勇「下関海峡横断鉄橋設計報告 (PDF) 」 『土木学会誌』第5巻第5号、土木学会、1919年10月、 965 - 988頁。
田辺朔郎「海底隧道に関する報告 (PDF) 」 『土木学会誌』第5巻第6号、土木学会、1919年12月、 1281 - 1293頁。
平井喜久松「関門海峡水底隧道地質調査 (PDF) 」 『土木学会誌』第7巻第4号、土木学会、1921年8月、 605 - 638頁。
大井上前雄・佐伯謙吉「関門連絡線に関する第一回調査報告 (PDF) 」 『土木学会誌』第14巻第3号、土木学会、1928年6月、 387 - 417頁。
大井上前雄「関門隧道の調査及計画に就て (PDF) 」 『土木学会誌』第15巻第7号、土木学会、1929年7月、 479 - 493頁。
釘宮磐・星野茂樹・加納倹二「鉄道関門隧道工事に就いて (PDF) 」 『土木学会誌』第32巻第1号、土木学会、1947年1月、 1 - 8頁。
高坂紫朗・坂本貞雄・小竹秀雄「丹那トンネルから関門トンネルへ」『土木学会誌』第60巻第1号、土木学会、1975年1月、 43 - 47頁。
藤田雅弘「関門トンネルと青函トンネル」『土木学会誌』第71巻第5号、土木学会、1986年5月、 12 - 15頁。
三浦基弘・前田研一「フォース鉄道橋の隠された歴史 片持梁と渡邊嘉一 (PDF) 」 『土木史研究講演集』第24巻、土木学会、2004年、 215 - 218頁。
江村康博・福元俊国「50年を経過した海底トンネル 関門トンネルの健全度調査」『トンネルと地下』第23巻第2号、土木工学社、1992年2月、 113 - 119頁。
小野田滋「関門トンネルの立坑を探る(1)」『トンネルと地下』第38巻第10号、土木工学社、2007年10月、 26 - 27頁。
小野田滋「関門トンネルの立坑を探る(2)」『トンネルと地下』第38巻第11号、土木工学社、2007年11月、 44 - 45頁。
小野田滋「関門トンネルの立坑を探る(3)」『トンネルと地下』第38巻第12号、土木工学社、2007年12月、 44 - 45頁。
吉江一雄「関門トンネル30周年」『鉄道ファン』第142号、交友社、1973年2月、 32 - 41頁。
谷口良忠「関門時代のEF10形」『鉄道ファン』第142号、交友社、1973年2月、 42 - 46頁。
門司機関区OB生「関門の思い出」『鉄道ファン』第260号、交友社、1982年12月、 86 - 88頁。
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松久恒三「鹿児島本線及び山陽本線の電化工事概要」『鉄道ピクトリアル』第119号、電気車研究会、1961年6月、 14 - 18頁。
丹沢貞吾「関門電化と運転従事員の養成」『鉄道ピクトリアル』第324号、電気車研究会、1976年9月、 49 - 52頁。
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日本貨物鉄道(株)技術部運用車両課「JR貨物交流・交直流電気機関車の現況」『鉄道ピクトリアル』第563号、電気車研究会、1992年8月、 19 - 23頁。
久保敏「交流電気機関車 誕生の記録」『鉄道ピクトリアル』第563号、電気車研究会、1992年8月、 26 - 35頁。
杉田肇「交流電気機関車の系譜」『鉄道ピクトリアル』第563号、電気車研究会、1992年8月、 41 - 52頁。
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加島篤「昭和28年西日本大水害で水没した関門鉄道トンネルについての電気工学的考察-初期の電気設備と列車脱出事件-」『北九州工業高等専門学校研究報告』第40巻、北九州工業高等専門学校、2007年1月、 29 - 38頁。
加島篤「関門鉄道トンネルをめぐる電気技術史-変電所の変遷と西日本大水害時の列車脱出事件- (PDF) 」 『北九州工業高等専門学校研究報告』第41巻、北九州工業高等専門学校、2008年1月、 25 - 34頁。
朝倉俊弘・久楽博・鶴英樹・瀧口将志「関門鉄道トンネル」『コンクリート工学』第46巻第9号、日本コンクリート工学会、2008年9月、 71 - 75頁。
川野輝信「世界初の海底トンネルのメンテナンス-関門鉄道トンネル(在来線)-福岡県・山口県」『土木施工』第47巻第12号、山海堂、2006年12月、 63 - 68頁。
石丸勇「関門トンネルの管理保守」『鉄道土木』第21巻第1号、日本鉄道施設協会、1979年1月、 54 - 59頁。
山中文雄「関門トンネル50周年を迎えて」『日本鉄道施設協会誌』第31巻第1号、日本鉄道施設協会、1993年1月、 23 - 25頁。
岩垂定男「関門トンネルの水没」『日本鉄道施設協会誌』第42巻第6号、日本鉄道施設協会、2004年6月、 2 - 4頁。
吉田朝次郎「関門トンネルの復旧排水工事」『科学朝日』第13巻第9号、朝日新聞社、1953年9月、 82 - 85頁。
石岡米彦「山陽・鹿児島本線の電化方式について」『交通技術』第13巻第10号、交通協力会、1958年9月、 13 - 17頁。
真宅正博「量産EF30形交直流電気機関車」『電気鉄道』第15巻第10号、鉄道電化協会、1961年10月、 14 - 17頁。
宮崎健一「関門トンネル内電車線設備の変遷と保全について」『電気鉄道』第37巻第4号、鉄道電化協会、1983年4月、 11 - 15頁。
兼山證「関門トンネルの保守」『新線路』第30巻第5号、鉄道現業社、1976年5月、 30 - 31頁。
小山幸則「日本のシールドトンネル覆工設計法の変遷と課題 (PDF) 」 『トンネル工学論文集』第14巻、土木学会、2004年11月、 招待論文1-8。

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≪くだめぎ?≫
 関門トンネルも含め神戸-門司がJR山陽本線である。でも下関-門司がJR九州、下関以東がJR西日本の承継している。
 関門トンネルの建築限界で"交流電化"としても高さ不足により、直流電化維持・門司駅構内デットセクション設置となった。結果、省線山陽本線全線が直流電化線となる。なぜ、JR西日本の担当を門司までにしなかったのか。不思議だ。JR九州としても交流専用電車ばかりで、JR北陸線で交直流電車と共用出来るJR西日本の担当が良かったと思うのは私だけでないはず。
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2019年12月31日 イイね!

戦時中から戦後間もなくにかけての「関門トンネル」

戦時中から戦後間もなくにかけての「関門トンネル」関門トンネル (山陽本線)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

関門トンネル(かんもんトンネル)は、関門海峡をくぐって本州と九州を結ぶ、鉄道用の水底トンネルである。九州旅客鉄道(JR九州)の山陽本線下関駅 - 門司駅間に所在する。単線トンネル2本で構成され、下り線トンネルは全長3,614.04メートル、上り線トンネルは全長3,604.63メートルである。

[写真・画像] 関門トンネルを通過する最初の貨物列車、1942年6月20日、列車周囲の×印は当時の検閲によるもの 作成: 1942年6月20日

7 運用
7.1 戦時中から戦後間もなくにかけて
 関門トンネルは、先に開通した下り線で1942年(昭和17年)6月11日から試運転を開始し、6月20日から臨時扱いでの貨物列車の運転が開始され、7月1日に正式に貨物用に開通した[285]。旅客列車の運転開始は11月15日となった[285]。当時、山陽本線の電化区間は西明石までで、九州島内の国鉄線には電化区間はなく、蒸気機関車が列車を牽引していた[391]。しかし関門トンネルでは急勾配とトンネルの長さの条件から蒸気機関車は使用できず、幡生操車場から門司操車場までの間の10.4キロメートルが直流1,500ボルトで電化された[392]。このために、旅客・貨物の両用にEF10形電気機関車が投入された[393]。EF10形は丹那トンネル開通に際して開発された貨物用の機関車であった[393]。後に、関門トンネルで運用される機関車は塩害が激しいことから、外板をステンレス製のものに交換し、さらに耐食アルミ合金を使用したパンタグラフを採用し耐塩害塗装を施すなど、塩害対策に意を用いることになった[393]。
 旅客列車は、下関駅と門司駅の間の6.3キロメートルを、1両のEF10形で牽引して約9 - 10分程度で走行した[394]。機関車1両での牽引力は600トンとされた[393]。貨物列車については、下関の手前の幡生駅付近にある操車場を改良して、1日2,500両の処理能力のある平面式操車場とし、一方九州側では門司駅構内に1日2,600両の処理能力のあるハンプ式操車場を建設した[395]。これらの操車場は対になって役割を果たすもので、九州島内から本州方面への貨物列車はトンネルをそのまま抜けて幡生操車場で行先別に組み替えられて送り出され、一方本州から九州島内への貨物列車はトンネルをそのまま抜けて門司操車場で行先別に組み替えられて送り出される運用が採られた[395]。このため、貨物列車は幡生操車場から門司操車場までの間をEF10形が牽引して走ることになった[392]。貨物列車は重連運転(2両の機関車で牽引)とされ、1,200トンの列車を牽引した[393]。いずれもトンネル内の急勾配と湿った線路のために空転や滑走が続発し、対策として最大5トンの死重を搭載し、大量に砂を撒いて走行していた[393]。撒かれる砂は毎月20トンにもなり、砂を取り除く保線作業は大変な労力であったという[396]。
 運行開始された旅客列車は、東京 - 長崎間の特急「富士」1往復(第1・2列車)、東京 - 鹿児島間の2・3等急行列車第7・8列車(従来の特急「櫻」を急行化)など、1日5往復の優等列車に加え、普通列車が東京と九州の間で1日3往復、京都・大阪と九州の間で1日6往復、山陽と九州の間で1日に下り5本、上り4本であった[396]。しかし戦局の悪化に伴い、旅客輸送は次第に削減されて貨物輸送に重点が置かれるようになっていった[397]。終戦直前の時点では、急行列車は東京 - 門司間の1日1往復にまで削減されていた[397]。貨物輸送の増強のため、変電所の水銀整流器が1944年(昭和19年)に増強され、EF10形の配置両数も15両から25両に増強された[398]。さらに空襲による被災に備えて、従来の変電所の設備の一部を移設する形で、彦島に地下変電所が建設されている[399]。地下変電所の完成は終戦後の1946年(昭和21年)3月となり、約20日間実際に運転したとされるが、10月に廃止されて設備が元の変電所に戻された[399]。空襲対策では、1944年(昭和19年)に変電設備の被災による停電に備えてD51形蒸気機関車によるトンネル内の牽引試験が行われ、上り22パーミル勾配で1両の機関車で1,000トンの引き出しに成功したが、これが関門トンネルにおける蒸気機関車運転の唯一の記録である[400]。1945年(昭和20年)2月1日、石炭を満載した貨物列車が上り線トンネルの上り勾配で立ち往生し、再度の発進に失敗したためトンネル内に退行したところ、連絡不足と安全確認の不徹底のため、閉塞信号により停車中だった後続列車と衝突する事故があった[401]。
 第二次世界大戦末期に九州の電力事情が逼迫したため、中国地方から電力の送電を図ることになり、下関立坑と門司第2立坑の間の上り線トンネル内に、日本発送電の彦島変電所と新大里変電所を結ぶ22キロボルト特高送電線1回線が敷設された[398]。しかしこの回線は間もなく、12月に110キロボルト関門幹線(関門海峡を横断する架空送電線)に置き換えられ、撤去された[398]。
 終戦直前には交通の重要施設として、本土決戦に備えて北九州高射隊の13ミリ高射機関砲4門、将校1、下士官1、兵12が関門トンネルの防衛用に配置された[402]。一方の米軍は関門トンネルの破壊作戦を立案していた[403]。1945年(昭和20年)7月31日には、沖縄の基地を離陸したB-24爆撃機の編隊が、下関方のトンネル入口と橋梁を爆撃する作戦を実行しようとしたが、悪天候のために中止された[403]。1945年(昭和20年)8月5日付のアメリカ陸軍太平洋軍司令官から極東航空軍あての電文では、関門トンネルに対する爆破計画が指示されていた[404]。これは日本船に偽装した航空機救助船4隻に各25トンの爆薬を積んで送り込み、トンネル付近に沈めてリモコンで爆破するという作戦であった[404]。第二次世界大戦後、日本に進駐した連合国軍の中で工兵のヒュー・ケイシー(英語版)少将が、進駐直後に国鉄の現状を把握するために、当時の停車場課長立花次郎を呼び出して最初に質問したのが「関門トンネルは無事か」というもので、立花は「もちろん無事であります。関門連絡線は今日も多数の列車を走らせています」と答えたという[379][注 12]。
 戦争が終結すると、引揚者の帰還輸送と、日本で働いていた朝鮮人・中国人の帰還輸送が開始され、そのための臨時列車が関門トンネルを通過して設定された[397]。1946年(昭和21年)から1947年(昭和22年)にかけて極端な石炭不足により、急行列車の全廃、二等車の連結全廃などの措置が採られて鉄道の輸送力は大幅に減少したが、それでも関門トンネルを通過して東京と九州を結ぶ輸送だけは最低限確保されていた[397]。また冷戦体制が本格化するにつれて朝鮮半島との連絡を強化することを求めた連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) は、連合軍専用列車の設定を要求し、関東と九州を結ぶ専用列車が定期化された[397]。しかしこの頃、貨物輸送の減少もあって関門トンネルの通過列車は減少し、EF10形も一部が他の機関区に転属して、関門地区での配置数が減少した[406]。
 もともと北九州地区の商用電源周波数は50ヘルツであり、関門トンネルに九州側から電力を供給する門司変電区の受電周波数も50ヘルツであった[148]。しかし第二次世界大戦後、北九州地区の電力需要は増加の一途をたどり、九州島内の電力網の連系を行い、また中国地方からの受電を行うことも急務となったこともあって、1949年(昭和24年)の閣議決定で九州地方の電源周波数を60ヘルツに統一することになった[148]。これに前後して、九州地区の実際の60ヘルツへの周波数変更作業が進められ、門司変電区の受電周波数も1948年(昭和23年)2月に60ヘルツ化された[148]。門司変電区の周波数変更が迅速に行われたのは、もともと信号機や排水ポンプなどの電源は当初から両周波数に対応するように設計されていたこと、列車走行用の電力供給についても変圧器のみ交換すれば済んだこと、国の機関として率先して周波数変更に対応する立場であったこと、などが挙げられる[148]。一方で、関門トンネルの輸送量は低迷していたので、この機会に変電所の容量は削減され、水銀整流器が下関と門司の両方から1台ずつ1949年(昭和24年)に東海道本線電化用に静岡県の藤枝変電所と磐田変電所に移設された[398]。1951年(昭和26年)5月に電力事業再編成が行われ、下関変電区、門司変電区はそれぞれ中国電力、九州電力から受電することになった[148]。

12 脚注
12.1 注釈
[注 12]^ ヒュー・ケイシーは、『関門とんねる物語』p.205では中将とされているが、バーチャル国際典拠ファイルによると最終階級はMajor General(少将)である[405]。

12.2 出典
[147]^ a b 『関門隧道』p.166
[148]^ a b c d e f g h i 「昭和28年西日本大水害で水没した関門鉄道トンネルについての電気工学的考察-初期の電気設備と列車脱出事件-」p.31
[149]^ a b c 『関門隧道』p.167
[150]^ a b c 『関門隧道』pp.166 - 167
[151]^ 『関門隧道』p.174
[152]^ 『関門隧道』pp.167 - 168
[153]^ a b 『関門隧道』p.168
[285]^ a b c d 「関門トンネルものがたり」p.86
[379]^ a b c d 『関門とんねる物語』p.205
[391]^ 「昭和28年西日本大水害で水没した関門鉄道トンネルについての電気工学的考察-初期の電気設備と列車脱出事件-」p.29
[392]^ a b c 「昭和28年西日本大水害で水没した関門鉄道トンネルについての電気工学的考察-初期の電気設備と列車脱出事件-」pp.29 - 30
[393]^ a b c d e f g h i j k 「昭和28年西日本大水害で水没した関門鉄道トンネルについての電気工学的考察-初期の電気設備と列車脱出事件-」p.33
[394]^ a b 「昭和28年西日本大水害で水没した関門鉄道トンネルについての電気工学的考察-初期の電気設備と列車脱出事件-」p.30
[395]^ a b 「関門トンネル30周年」p.35
[396]^ a b 「関門トンネル30周年」p.36
[397]^ a b c d e f g 「関門トンネルものがたり」p.87
[398]^ a b c d e f g h 「関門鉄道トンネルをめぐる電気技術史-変電所の変遷と西日本大水害時の列車脱出事件-」p.26
[399]^ a b c 「関門鉄道トンネルをめぐる電気技術史-変電所の変遷と西日本大水害時の列車脱出事件-」p.29
[400]^ a b 「関門の思い出」pp.86 - 87
[401]^ a b 「関門鉄道トンネルをめぐる電気技術史-変電所の変遷と西日本大水害時の列車脱出事件-」p.32
[402]^ 「関門トンネルものがたり」p.84
[403]^ a b c 「昭和28年西日本大水害で水没した関門鉄道トンネルについての電気工学的考察-初期の電気設備と列車脱出事件-」p.38
[404]^ a b 「太平洋戦争末期、米軍が関門鉄道トンネル爆破計画 -徳山高専教授、指令電文を発見」毎日新聞2002年12月7日西部夕刊6面
[405]^ “バーチャル国際典拠ファイル 32946716”. Online Computer Library Center. 2015年4月12日閲覧。
最終更新 2019年10月15日 (火) 10:48 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 戦時中「関門トンネル」死守出来たわけだ。ただ当時から、いずれ北九州市(まだ合併前)も60Hzなる見込みで、割とスムースに転換出来たのだろう。それだけ電源逼迫していたわけである。戦後直後12月に110キロボルト関門幹線(関門海峡を横断する架空送電線)が開通、中国地方から九州へ安定送電出来るようになった。門司変電区の受電周波数も1948年(昭和23年)2月に60ヘルツ化された。

 北九州から「50Hz」東日本へ送電は夢物語か・・。
Posted at 2019/12/31 14:37:23 | コメント(0) | トラックバック(0) | 交流電化 | 旅行/地域
2019年12月31日 イイね!

世界初の海底トンネルとなる「関門トンネル」

世界初の海底トンネルとなる「関門トンネル」2019.11.15
11月15日 山陽本線の関門トンネル開通(1942年)
科学 今日はこんな日
ブルーバックス編集部

地球のみなさん、こんにちは。毎度おなじみ、ブルーバックスのシンボルキャラクターです。今日も "サイエンス365days" のコーナーをお届けします。
"サイエンス365days" は、あの科学者が生まれた、あの現象が発見された、など科学に関する歴史的な出来事を紹介するコーナーです。

関門トンネル工事で使われたシールド掘削機 photo by public domain

 1942年(昭和17年)の今日、世界初の海底トンネルとなる「関門トンネル」が、山陽本線の下関~門司間に開通、本州と九州が鉄路で結ばれました。トンネルは、上り線、下り線が独立していますが、この日にまず下り線から先行して旅客用の使用が開始されました。
 下関・門司間の連絡鉄道線路の新設の調査は、明治末頃から始められていましたが、着工は昭和11年(1936)。
 トンネルは、さまざまな工法が採用されましたが、当時の最先端工法であった「シールド工法」を本格的に導入した事例の1つでもあります。シールド工法は、鋼鉄の筒の先端に地盤を掘削する機械を据え、筒の後方で周囲の土砂の崩壊を防ぎながら、掘削機で少しづつ削り取りながら掘削を進め、後方のすでに掘削した部分でトンネル壁面を構築していく工法です。
 こうして関門トンネルは建設資材も人材も乏しかったなかを開通し、当時は賞賛と希望を込めて、海の彼方の「竜宮へつながる回廊」とも称せられました。
 その後、国道の関門トンネル(1958年開通)、新幹線の通る新関門トンネル(1975年開通)、そして高速道路橋の関門橋(1973年開通)と、関門間の交通路も多数開通しました。今でも本州と九州を結ぶ大動脈として1日に200本あまりの列車を通しているということです。
 現在は、JR九州が管理しており、開通77周年を迎える2019年には記念の乗車券も発売されています。

現代ビジネス 講談社


関門トンネル (山陽本線)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

関門トンネル(かんもんトンネル)は、関門海峡をくぐって本州と九州を結ぶ、鉄道用の水底トンネルである。九州旅客鉄道(JR九州)の山陽本線下関駅 - 門司駅間に所在する。単線トンネル2本で構成され、下り線トンネルは全長3,614.04メートル、上り線トンネルは全長3,604.63メートルである。

1 概要
関門海峡は九州(福岡県北九州市)と本州(山口県下関市)の間にある狭い海峡で、このうち深さの関係から西側の「大瀬戸」と呼ばれる部分に関門トンネルがある一方、もっとも海峡が狭くなる東側の「早鞆(はやとも)の瀬戸」に、他の関門海峡横断交通手段である国道2号の関門トンネル、山陽新幹線の新関門トンネル、高速道路の関門橋が通っている(→地理)。もともとは関門連絡船でこの海峡を横断して結んでいたが、乗換・積替の手間を省き輸送力を増強するために3回に渡って関門海峡にトンネルを建設する計画が持ち上がり、3回目の昭和初期の計画により実際に着工することになった(→建設に至る経緯)。

当面は単線の輸送力で十分であったことに加えて、工事の容易さから、単線でトンネルを建設することになり、将来輸送量が増えた時にもう1本の単線トンネルを建設して複線とすることになった。先に建設されたのは下り線のトンネルで、両側の取付部との関係に機関車による牽引性能を勘案して、20パーミル勾配を採用することにしたが、後に上り線のトンネルを建設した際には、海底部分での土被りを増すために一部で25パーミル勾配が採用された(→建設計画)。

事前に潜水艇による調査やボーリング調査などを実施して地質を調べた上で、まず、地質の調査や周り込んで本線の掘削箇所を増やすことやセメントの注入による地盤改良を行うため、細い試掘坑道を建設することとなった。これは1937年(昭和12年)に着工し、1939年(昭和14年)4月19日に貫通、8月5日に完成した。まだ試掘坑道を建設中であった1937年(昭和12年)12月から下り線トンネルの掘削にも着手し、門司側からは日本では3番目というシールド工法も使用して建設が進められた。

1942年(昭和17年)6月11日に最初の試運転列車が下り線トンネルを通過し、7月1日に貨物用に開通、11月15日に旅客用にも開通し、まずは単線での供用を開始した。さらに1940年(昭和15年)に上り線トンネルの着工も決定され、1944年(昭和19年)8月8日に開通し、下り線から上り線に列車を移したうえで下り線トンネルの改修工事を行って、9月9日から複線での運転が開始された(→建設)。

第二次世界大戦中は船舶不足に陥るなか、九州・本州間の連絡に重要な役割を果たした。1953年(昭和28年)6月28日には昭和28年西日本水害により水没し、復旧には2週間ほどを要した。当初から直流電化で開業した関門トンネルは、1960年代に入ると九州島内を交流電化する方針となったことから直流と交流の接続点ともなり、門司駅構内に交直デッドセクションが設けられて、そのための特徴的な車両が通過するようになった。1958年(昭和33年)から1975年(昭和50年)にかけて、関門海峡を渡る国道や高速道路、新幹線も開通したことで並行路線が実現された。1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化に際しては、九州旅客鉄道(JR九州)が承継している(→運用)。

2 地理
関門海峡は、九州の北端の福岡県北九州市と、本州の西端の山口県下関市の間にあり、西の日本海・響灘と東の瀬戸内海・周防灘を結んでいる海峡である[6]。東側の下関市壇ノ浦と北九州市門司区和布刈間が早鞆の瀬戸と呼ばれる幅約600メートル程度の海峡最狭部であり、また西側には彦島があって、彦島と九州の間は大瀬戸、彦島と本州の間は小瀬戸と呼ばれる[7]。小瀬戸は昭和初期に埋立工事が行われ、閘門で締め切られて、彦島と本州はほとんど地続きとなっている[8]。

関門海峡を横断する橋やトンネルは、山陽本線(在来線)の関門トンネルの他に、国道2号の関門トンネル、山陽新幹線の新関門トンネル、高速道路の関門橋があるが、在来線の関門トンネルのみ大瀬戸を通過しており、他の3経路はいずれも海峡がもっとも狭くなる早鞆の瀬戸を通過している[9]。

在来線の関門トンネルは、高架上の下関駅を出て本州から彦島へ渡ってトンネルに入り、弟子待(でしまつ)から大瀬戸の海底下をくぐって九州側の小森江に渡り、門司駅構内で地上に出る[10]。在来線の関門トンネルが早鞆の瀬戸ではなく大瀬戸を通過することを選んだのは、早鞆の瀬戸の方が水深が深く、急勾配が許されない鉄道のトンネルでは全長が長くなってしまうことや、既存の鉄道との接続の関係からである[11]。

周辺の鉄道路線網は、本州側を山陽本線が通り、下関駅から関門トンネルをくぐって九州側の門司駅へとつながる[12]。一方九州側は鹿児島本線が門司港駅を起点とし門司駅で山陽本線と合流して小倉駅へと通っている[12]。門司港駅は当初門司駅という名前で、門司駅は当初大里駅(だいりえき)という名前であったが、1942年に改称された[13]。

4 建設計画
4.3 建設基準
 鉄道省内に設けられた技術委員会では、トンネルの最急勾配を20パーミルとすることが適当であるとした[65]。これより勾配を緩くすると前後の取付線路の接続に困難をきたす一方で、これより勾配をきつくすると運転に必要とする機関車の数が増大して不経済となるためで、工事費や運転速度、所要両数などを勘案して決定された[65]。ただし、下り線トンネルの施工経験を踏まえて後に建設された上り線トンネルでは、施工が困難な下関側の第三紀層地帯の突破のために被覆を増す必要があるとして、最大25パーミル勾配が設定された[66]。
 トンネルの工法は、海底下を通常通りに掘っていく普通工法[注 1]を採用することになり、地質に応じて圧気工法[注 2]またはシールド工法を併用することにした[65]。これは、関門海峡は潮流が激しく船の通航も多い上に、海底が掘削の困難な岩盤となっていることもあって、海上からの作業(沈埋工法)は困難であると判断されたためである[65]。
 単線トンネルと複線トンネルを比較すると、複線トンネルは断面積が大きくなり、断面の直径に対応して海底との距離を大きくしなければならなくなるので、海底下より深い場所を通ることになり、トンネル総延長が長くなるとともに前後の既存路線への取付に影響する[69]。また施工自体も単線トンネルの方が複線トンネルに比べて容易であり、さらに完成後トンネル内で列車脱線等の事故が発生した場合に、単線トンネル2本であればもう1本のトンネルで単線運転をすることができるが、複線トンネルでは全面的に運転不能となる恐れがある[69]。これに加えて当面は単線の輸送力で十分であったことから、単線トンネルを採用することにした[65]。後に必要となった時点で追加の単線トンネルを施工して複線とすることになった[65]。また当初から電気運転[注 3]をすることが想定された[65]。

5 建設
5.2.4 電力供給

関門トンネルの工事では、シールド工法および圧気工法を採用した区間があるため、常時多量の電力を必要とし、空気圧縮機や排水ポンプが停止する事故は避けなければならなかった[147]。このため周辺の変電所や余剰電力の状況を調査して電力供給の計画を立てた[147]。

第二次世界大戦後の日本では、地域別に商用電源周波数の統一作業が進められ、九州地方では60ヘルツ電源へと統一された[148]。しかし統一作業が実施される以前は、北九州地区は50ヘルツで電力供給されており、下関側の60ヘルツと周波数の相違が存在していた[148]。そのままでは機械の運用上不便で、試掘坑道貫通後に双方の工事現場を単一配電にして電力の融通を図ることができなくなるので、下関側の変電所に周波数変換機を設置して、工事現場はすべて50ヘルツの電源に統一することにした[149]。

下関側は山口県電気局(後に中国配電)、門司側は九州電気軌道(後に九州配電)が電力供給を行った[149]。山口県電気局側では、電力は前田火力発電所から彦島変電所を経由して3,300ボルトで受電し、工事最盛期には1,000キロワットの消費を見込んだ[149]。九州電気軌道側では、当初は大里変電所と門司第二変電所からの受電を想定したが、最終的に小倉火力発電所および大門火力発電所から特別高圧送電線を経て鉄道省の小森江変電所で受電する方式を選択し[150]、大里変電所および門司第二変電所からの受電は予備電源とすることにした[151]。3,300ボルトで現場へ供給し、工事最盛期には2,000キロワットの消費を見込んだ[150]。

下関側は彦島変電所からの1回線のみであるため、停電に備えるためにディーゼルエンジンによる非常用の発電所を受電設備に併設することになり、鉄道省営の弟子待発電所とされた[150]。非常用発電所は、どうしても停電を避けなければならない設備である、排水ポンプ、エレベーター、坑内電灯に限って電力を供給できる容量で設計することになり、余力がある時に空気圧縮機やセメント注入などの設備に回すこととされた[152]。試算の結果、最小限維持する必要がある設備の電力消費は191キロワットとされたため、200キロワットの発電機を予備を含めて2機設置した[153]。ディーゼルエンジンは池貝鉄工所製、発電機および配電盤は富士電機製、付属ポンプ類は荏原製作所製であった[153]。

12 脚注
12.1 注釈
[注 1]^ 普通工法は、火薬で爆破し、あるいは掘削してトンネルを掘って、天井や壁面を仮の支柱で支えて、その後恒久的なコンクリートの覆工を行う工法である[67]。
[注 2]^ 圧気工法は、トンネルや立坑に圧縮空気を送り込んで、その圧力で湧水を排除しながら掘削を進める工法である[68]。

12.2 出典
[6]^ “関門海峡の位置”. 国土交通省九州地方整備局関門航路事務所. 2014年11月2日閲覧。
[7]^ “関門海峡”. kotobank. 2014年11月2日閲覧。
[8]^ a b 『下関駅物語』p.309
[9]^ 「土木遺産の香 第42回 世界初の海底トンネル「関門鉄道トンネル」p.58」
[10]^ a b 「鉄道関門隧道工事に就いて」p.1
[11]^ a b c d 「土木遺産の香 第42回 世界初の海底トンネル「関門鉄道トンネル」p.61」
[12]^ a b 『日本鉄道旅行地図帳 全線全駅全廃線 12号 九州沖縄』p.7
[13]^ 『日本鉄道旅行地図帳 全線全駅全廃線 12号 九州沖縄』pp.26 - 27
[65]^ a b c d e f g h 『関門隧道』pp.5 - 6
[66]^ a b 『関門隧道』pp.8 - 9
[67]^ “北九州イノベーションギャラリー トンネル掘削方法の種類”. 北九州イノベーションギャラリー. 2015年8月30日閲覧。
[68]^ “圧気工法(あっきこうほう)とは”. コトバンク. 2015年8月30日閲覧。
[69]^ a b 『関門隧道』p.37

13 参考文献
13.1 書籍
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『日本国有鉄道百年史』6、日本国有鉄道、1972年10月1日。
『日本国有鉄道百年史』8、日本国有鉄道、1971年12月15日。
『日本国有鉄道百年史』9、日本国有鉄道、1972年3月25日。
『日本国有鉄道百年史』11、日本国有鉄道、1973年3月31日。
『日本国有鉄道百年史』14、日本国有鉄道、1973年12月1日。
吉村恒・横山章・下河内稔・須賀武『トンネルものがたり』山海堂、2002年4月30日、第1版第3刷。ISBN 4-381-01437-5。
長船友則『山陽鉄道物語』JTBパブリッシング、2008年2月1日、初版。ISBN 978-4-533-07028-0。
斉藤哲雄『下関駅物語』近代文藝社、1995年7月10日、第2刷。ISBN 4-7733-3980-2。
古川達郎『鉄道連絡船100年の航跡』成山堂書店、2001年6月8日、二訂版。ISBN 4-425-92141-0。
弓削信夫『明治・大正・昭和 九州の鉄道おもしろ史』西日本新聞社、2014年6月12日、初版第一刷。ISBN 978-4-8167-0885-5。
青木栄一『鉄道の地理学』WAVE出版、2008年10月15日、第一版第一刷。ISBN 978-4-87290-376-8。
今尾恵介『日本鉄道旅行地図帳 全線全駅全廃線 12号 九州沖縄』新潮社、2009年4月18日。ISBN 978-4-10-790030-2。
『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』1、JTB、1998年10月1日。ISBN 4-533-02980-9。
『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』2、JTB、1998年10月1日。ISBN 4-533-02980-9。
須田寛『昭和の鉄道』交通新聞社、2011年4月15日。ISBN 978-4-330-20811-4。
『鉄路の闘い100年 鉄道防災物語』国鉄防災100年史編纂会、山海堂、1972年9月1日、初版。
沖田祐作『機関車表 フル・コンプリート版DVDブック』ネコ・パブリッシング、2014年3月1日、初版。
『JR貨物時刻表2011年』鉄道貨物協会、2011年3月。
『JR貨物時刻表2012年』鉄道貨物協会、2012年3月。
高松宮宣仁親王『高松宮日記』第四巻、中央公論社、1996年7月25日、627頁。

13.2 論文・雑誌記事
松村憲勇「土木遺産の香 第42回 世界初の海底トンネル「関門鉄道トンネル」 (PDF) 」 『Civil Engineering Consultant』第236巻、建設コンサルタンツ協会、2007年7月、 58 - 61頁。
広井勇「下関海峡横断鉄橋設計報告 (PDF) 」 『土木学会誌』第5巻第5号、土木学会、1919年10月、 965 - 988頁。
田辺朔郎「海底隧道に関する報告 (PDF) 」 『土木学会誌』第5巻第6号、土木学会、1919年12月、 1281 - 1293頁。
平井喜久松「関門海峡水底隧道地質調査 (PDF) 」 『土木学会誌』第7巻第4号、土木学会、1921年8月、 605 - 638頁。
大井上前雄・佐伯謙吉「関門連絡線に関する第一回調査報告 (PDF) 」 『土木学会誌』第14巻第3号、土木学会、1928年6月、 387 - 417頁。
大井上前雄「関門隧道の調査及計画に就て (PDF) 」 『土木学会誌』第15巻第7号、土木学会、1929年7月、 479 - 493頁。
釘宮磐・星野茂樹・加納倹二「鉄道関門隧道工事に就いて (PDF) 」 『土木学会誌』第32巻第1号、土木学会、1947年1月、 1 - 8頁。
高坂紫朗・坂本貞雄・小竹秀雄「丹那トンネルから関門トンネルへ」『土木学会誌』第60巻第1号、土木学会、1975年1月、 43 - 47頁。
藤田雅弘「関門トンネルと青函トンネル」『土木学会誌』第71巻第5号、土木学会、1986年5月、 12 - 15頁。
三浦基弘・前田研一「フォース鉄道橋の隠された歴史 片持梁と渡邊嘉一 (PDF) 」 『土木史研究講演集』第24巻、土木学会、2004年、 215 - 218頁。
江村康博・福元俊国「50年を経過した海底トンネル 関門トンネルの健全度調査」『トンネルと地下』第23巻第2号、土木工学社、1992年2月、 113 - 119頁。
小野田滋「関門トンネルの立坑を探る(1)」『トンネルと地下』第38巻第10号、土木工学社、2007年10月、 26 - 27頁。
小野田滋「関門トンネルの立坑を探る(2)」『トンネルと地下』第38巻第11号、土木工学社、2007年11月、 44 - 45頁。
小野田滋「関門トンネルの立坑を探る(3)」『トンネルと地下』第38巻第12号、土木工学社、2007年12月、 44 - 45頁。
吉江一雄「関門トンネル30周年」『鉄道ファン』第142号、交友社、1973年2月、 32 - 41頁。
谷口良忠「関門時代のEF10形」『鉄道ファン』第142号、交友社、1973年2月、 42 - 46頁。
門司機関区OB生「関門の思い出」『鉄道ファン』第260号、交友社、1982年12月、 86 - 88頁。
原田勝正「関門トンネルものがたり」『鉄道ジャーナル』第313号、鉄道ジャーナル社、1992年11月、 84 - 88頁。
「JR貨物EH500形が関門間で走行性能試験を実施」『鉄道ジャーナル』第456号、鉄道ジャーナル社、2004年10月、 93頁。
「関門トンネルを通過する気動車列車廃止」『鉄道ジャーナル』第469号、鉄道ジャーナル社、2005年11月、 103頁。
松久恒三「鹿児島本線及び山陽本線の電化工事概要」『鉄道ピクトリアル』第119号、電気車研究会、1961年6月、 14 - 18頁。
丹沢貞吾「関門電化と運転従事員の養成」『鉄道ピクトリアル』第324号、電気車研究会、1976年9月、 49 - 52頁。
「EF30形のお別れ運転」『鉄道ピクトリアル』第482号、電気車研究会、1987年7月、 80頁。
日本貨物鉄道(株)技術部運用車両課「JR貨物交流・交直流電気機関車の現況」『鉄道ピクトリアル』第563号、電気車研究会、1992年8月、 19 - 23頁。
久保敏「交流電気機関車 誕生の記録」『鉄道ピクトリアル』第563号、電気車研究会、1992年8月、 26 - 35頁。
杉田肇「交流電気機関車の系譜」『鉄道ピクトリアル』第563号、電気車研究会、1992年8月、 41 - 52頁。
杉田肇「EF81形電気機関車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』第760号、電気車研究会、2005年4月、 16 - 24頁。
春日雅之「JR貨物 EF81形の配置と運用」『鉄道ピクトリアル』第760号、電気車研究会、2005年4月、 42 - 45頁。
大塚孝「関門トンネル70周年と交直接続」『鉄道ピクトリアル』第876号、電気車研究会、2013年6月、 22 - 31頁。
加島篤「昭和28年西日本大水害で水没した関門鉄道トンネルについての電気工学的考察-初期の電気設備と列車脱出事件-」『北九州工業高等専門学校研究報告』第40巻、北九州工業高等専門学校、2007年1月、 29 - 38頁。
加島篤「関門鉄道トンネルをめぐる電気技術史-変電所の変遷と西日本大水害時の列車脱出事件- (PDF) 」 『北九州工業高等専門学校研究報告』第41巻、北九州工業高等専門学校、2008年1月、 25 - 34頁。
朝倉俊弘・久楽博・鶴英樹・瀧口将志「関門鉄道トンネル」『コンクリート工学』第46巻第9号、日本コンクリート工学会、2008年9月、 71 - 75頁。
川野輝信「世界初の海底トンネルのメンテナンス-関門鉄道トンネル(在来線)-福岡県・山口県」『土木施工』第47巻第12号、山海堂、2006年12月、 63 - 68頁。
石丸勇「関門トンネルの管理保守」『鉄道土木』第21巻第1号、日本鉄道施設協会、1979年1月、 54 - 59頁。
山中文雄「関門トンネル50周年を迎えて」『日本鉄道施設協会誌』第31巻第1号、日本鉄道施設協会、1993年1月、 23 - 25頁。
岩垂定男「関門トンネルの水没」『日本鉄道施設協会誌』第42巻第6号、日本鉄道施設協会、2004年6月、 2 - 4頁。
吉田朝次郎「関門トンネルの復旧排水工事」『科学朝日』第13巻第9号、朝日新聞社、1953年9月、 82 - 85頁。
石岡米彦「山陽・鹿児島本線の電化方式について」『交通技術』第13巻第10号、交通協力会、1958年9月、 13 - 17頁。
真宅正博「量産EF30形交直流電気機関車」『電気鉄道』第15巻第10号、鉄道電化協会、1961年10月、 14 - 17頁。
宮崎健一「関門トンネル内電車線設備の変遷と保全について」『電気鉄道』第37巻第4号、鉄道電化協会、1983年4月、 11 - 15頁。
兼山證「関門トンネルの保守」『新線路』第30巻第5号、鉄道現業社、1976年5月、 30 - 31頁。
小山幸則「日本のシールドトンネル覆工設計法の変遷と課題 (PDF) 」 『トンネル工学論文集』第14巻、土木学会、2004年11月、 招待論文1-8。

最終更新 2019年10月15日 (火) 10:48 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。


≪くだめぎ?≫
 戦前の開通であるから北九州50Hz・下関60Hzだが、関門トンネル工事現場は「50Hz」に統一はスゴイ。
Posted at 2019/12/31 13:02:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | 交流電化 | 旅行/地域
2019年12月30日 イイね!

『カムリ E-Four』投入

『カムリ E-Four』投入カムリ | トヨタのお店「仙台トヨペット」トヨタ車のことならお任せください
[写真・画像] G“レザーパッケージ”(E-Four)<オプション装着車>

雪道などでの発進をサポート。
E-Four(電気式4WDシステム)*1

2WD同等の足元スペース確保しながら、後輪駆動システムを車両後方にコンパクトに搭載。加速時や雪道などの滑りやすい路面で無駄なくスムーズに4WD状態へ切り替えることで、低燃費に貢献しながら発進性、走行安定性をアシストします。

*1. E-Fourは、機械式4WDとは機構および性能が異なります。さまざまな走行状態に応じてFF(前輪駆動)走行状態から4WD(4輪駆動)走行状態まで自動的に制御し、安定した操縦性・走行の安定性および燃費の向上に寄与するものです。


TOYOTA ニュースルーム
2019年09月30日
TOYOTA、カムリを一部改良し、スマートフォンアプリの操作ができるディスプレイオーディオを標準装備-あわせて全グレードにE-Four搭載車を設定-

TOYOTAは、カムリを一部改良し、10月1日に発売*1します。また、12月16日には全グレードにE-Four(電気式4WDシステム)搭載車を設定し発売します。

今回の一部改良では、ディスプレイオーディオ(DA)およびDCM*2を標準装備することにより、スマートフォンと機能を連携するとともに、全てのお客様にコネクティッドサービスをご利用*3いただけるようにしました。

具体的には、SmartDeviceLinkTM*4に対応するナビアプリや、音楽・ラジオアプリなどをDA上に表示し操作可能とし、LINEカーナビでは、音声認識で目的地設定やLINEのメッセージ送受信、音楽再生などができます。また、Apple CarPlay*5、Android AutoTM*6についても利用できます。(TVとセットオプション、契約時にT-Connect契約が必要)。

なお、従来のナビゲーション操作など使い慣れた機能を利用したいお客様向けに、エントリーナビキットおよびT-Connectナビキットをご用意*7し、多様なニーズにも対応しています。

そのほか、安全装備では、車線変更時の後方確認をアシストするブラインドスポットモニターや駐車場での車両後退時に左右後方から接近する車両を検知し、衝突の可能性がある場合、ブレーキを制御するリヤクロストラフィックオートブレーキ(パーキングサポートブレーキ[後方接近車両])を標準装備*8しました。

さらに、全グレードにE-Four(電気式4WDシステム)搭載車を設定し、積雪エリアなどさまざまな路面状況で、カムリの走りを楽しんでいただけるようにしました。
*1 取扱販売店
全国のトヨペット店、トヨタカローラ店、ネッツ店およびトヨタモビリティ東京(株)
*2 DCM : Data Communication Module(車載通信機)
*3 T-ConnectエントリーまたはT-Connectスタンダードにご加入いただくことで安全・安心に関するT-Connectサービスを5年間(従来は3年間)ご利用いただけます(6年目以降は3,300円/年[税抜き]または300円/月[税抜き])
*4 SmartDeviceLinkTMは、SmartDeviceLinkConsortiumの商標、または登録商標。スマートフォンをBluetooth®(Bluetooth SIG,Inc.の商標)で接続することで、TCスマホナビやLINE株式会社と協業し提供する無料ナビアプリLINEカーナビ(LINE株式会社の登録商標)などのナビアプリのほか、様々なアプリをディスプレイオーディオ上で使用できる(アプリによってはUSBケーブルの接続が必要)
*5 Apple CarPlayは、米国その他の国で登録されたApple Inc.の商標
*6 Android AutoTMは、Google LLCの商標
*7 エントリーナビキットはWS、G、Xに販売店装着オプション。T-ConnectナビキットはWS“レザーパッケージ”、G“レザーパッケージ”に標準装備。WS、G、Xに販売店装着オプション
*8 WS“レザーパッケージ”、G“レザーパッケージ”


メーカー希望小売価格(単位 : 円)
仕様車 ハイブリッドシステム 駆動 価格*(消費税10%込み)
・WS リダクション機構付のTHSⅡ(A25A-FXS 2.5Lダイナミックフォースエンジン) 2WD 3,871,000
・WS リダクション機構付のTHSⅡ(A25A-FXS 2.5Lダイナミックフォースエンジン) E-Four 4,069,000 ◎
・WS“レザーパッケージ” リダクション機構付のTHSⅡ(A25A-FXS 2.5Lダイナミックフォースエンジン) 2WD 4,450,000
・G リダクション機構付のTHSⅡ(A25A-FXS 2.5Lダイナミックフォースエンジン) 2WD 3,728,000
・G リダクション機構付のTHSⅡ(A25A-FXS 2.5Lダイナミックフォースエンジン) E-Four 3,926,000
・G“レザーパッケージ” リダクション機構付のTHSⅡ(A25A-FXS 2.5Lダイナミックフォースエンジン) 2WD 4,334,000
・G“レザーパッケージ” リダクション機構付のTHSⅡ(A25A-FXS 2.5Lダイナミックフォースエンジン) E-Four 4,532,000
・X リダクション機構付のTHSⅡ(A25A-FXS 2.5Lダイナミックフォースエンジン) 2WD 3,456,000
・X リダクション機構付のTHSⅡ(A25A-FXS 2.5Lダイナミックフォースエンジン) E-Four 3,654,000

◎ : 掲載写真(除くオプション)
THSⅡ : TOYOTA Hybrid SystemⅡ
E-Four : 電気式4WDシステム
* 北海道、沖縄のみ価格が異なる。価格にはリサイクル料金は含まれない

カムリ 車両情報はこちら : https://toyota.jp/camry/
以上


≪くだめぎ?≫
 「セリカカムリ」の時代に戻った?2017年7月フルモデルチェンジ時からカローラ店・トヨペット店・ネッツ店併売から、やっとE-Four(電気式4WDシステム)搭載車を設定した。2001年6月にカムリをベースとしたはエスティマハイブリッド・世界初の電気式四輪駆動システムE-Fourから、ようやくである。
 「マークX」 "Final Edition"に間に合った。
Posted at 2019/12/30 17:19:12 | コメント(0) | トラックバック(0) | 車全般 | クルマ

プロフィール

「「Yamato」体重計 ♫〜」
何シテル?   04/02 16:02
 「昔々、有ったとさ、 『トヨタディーゼル店』、『トヨタパブリカ店』、『トヨタオート店』、『トヨタビスタ店』・・・」。      身長165cm・体重6...
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