最近なにかとニュースに登場している山口県岩国市。 
 これは岩国米軍基地に、日本で初めて悪評高いオスプレイが来たことでニュースに取り上げられたのですが、元々岩国市には 「錦帯橋」 という、オスプレイではなく良い意味で全国的に有名な橋がございます。 
        《プロローグ》 
 私がこの錦帯橋(きんたいきょう)に興味を持ったのはつい最近のことで、それまでは単に観光名所ぐらいの感覚しかありませんでした。 
 その錦帯橋に興味を持つきっかけとなったのが、 
    ここより
4つ前のブログ 「2012年 夏の旅行/その⑬ 静岡島田の蓬莱橋へ行く」
       → https://minkara.carview.co.jp/userid/1144014/blog/27873846/ の作成中で、
そのブログを作成中に江戸時代の橋梁技術について調べていくうちに、江戸期に架けられた大きな橋のなかで、唯一? この橋のみが現在まで残っている、ということを知ったからです。 
 その静岡県蓬莱橋には2012(H24).8.23(木)に実際行き、この足で渡ってきました。  
 
       
 
 
       (静岡県島田市にある蓬莱橋より3枚 : 2012.8.23 筆者撮影) 
 江戸時代によく言われた言葉に 
    「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」 というのがありました。 
 先ほども触れましたように江戸時代の265年もの間、アホの一つ覚えではありませんが戦国時代が終わり泰平の世になっても、保守的な江戸幕府は富士川や大井川や天竜川などの大きな川には一切架橋を認めませんでした。 
 よって旅人は江戸の初期には自ら渡るか川越人足に頼っていましたが、そのうち自らでは自由に渡れなくなり、「勝手渡り」という抜け道はあったようですが基本的には自力での渡河は禁止となり、川越制度により川越えにもお金が取られるようになりました。 
 しかも川越人足は幕府の下級役人であったようで、江戸末期頃には川越人足はなんと1000人以上の大所帯となったこともあり、人足制度を廃止して渡船にもせずにずっと人足制度を続けていて、東海道の旅人を苦しめていました。川越は命がけの仕事とはいえ今で言う利権と一緒ですね。 
 
 (歌川国久作 東海道川尽 大井川の図 : 国立図書館デジタル化資料より筆者合成) 
 このような理由と架橋の技術的問題から、江戸時代にはずっと大井川には橋がかけられず、やっと明治の世になってこの蓬莱橋(ほうらいばし)が架けられました。1879年の明治12年のことです。 
 江戸時代にはもちろん重機などはなくて現代のように機械力に頼ることは出来なかったけれど、どうやら「震込」…ゆりこみ、という、橋脚となる丸太の上に重しを載せて、揺すりながら川の中へ橋脚を立てて行ったとか。 
    詳しくはこちらの本で記載されていました。 
 
(大井川に橋がなかった理由 : 松村博著・創元社 2001年刊) 
                         (錦帯橋物語 : 伊藤正一著・叢文社 2004年刊) 
 簡単に言えば江戸期の橋の橋脚の建て方は、ちょうど鉛筆削りで芯の先端を尖らせた鉛筆を粘土の中へ垂直に押し込んでいくような感じでしょうか。素晴らしいお城の石垣の建築技術に対し、こちらは非常に幼稚なやり方ですね。 
   ----------------------------------- 
 そんな江戸時代の一般的な架橋技術に対し、真っ向から果敢に挑戦した人がいました(藩がありました)。毛利元就からの分家にあたる吉川(きっかわ)家の三代目の岩国藩主(毛利方から見れば岩国領主)になる吉川広嘉と大工の児玉九郎右衛門です。 
 ごく小さな岩国城が不便な山の頂点にちょこんと建てられたのかはいささか不思議でもありますが、これは関ヶ原での戦いの敗戦よるところが大いにあるのでしょう。 
 そして毛利家は豊臣方の石田三成派、それに対して吉川家は徳川家康派に組し毛利家の安泰を図ろうとした複雑な事情?によるのでしょうか、万が一幕府方に攻められた時のことを考え川と山を利用した天然の守りの城にしたのだと思えます。 
 
(1957・昭和32年に復元された岩国城 : ウィキペディアより) 
 ともあれ吉川広家がこの岩国領に移封された後、この山城の「岩国城」と麓に平時の居館となる「土居」とが築かれたようです。その7年後に岩国城は一国一城の令により、本家の毛利家から藩として認められていなかったため、幕府からは何も言われなかったのに岩国領の岩国城は廃城となりました。 
 だが岩国城や土居と城下町との間には錦川(にしきがわ)という、大井川ほどではないけれど川幅200mの大きな川が横たわっており、当然この川にも橋が架けられたようですが江戸初期の架橋技術、これでは当然大きな水害が来るとその度に流失していたようです。 
 そこで吉川家の三代目の岩国領主(毛利本家から見れば、藩主でなく家臣ということで岩国領主と言うらしい)となる吉川広嘉(きっかわ ひろよし)は、歴代藩主の悲願だった洪水で流されない橋を架けることに着手します。 
 そしてこのプロジェクトの責任者に選ばれたのが大工の児玉九郎右衛門で、彼は独創的なアイディアと優れた技術でもって領主の期待に十分応えました。 
 吉川広嘉や児玉九郎右衛門は洪水に流されない橋の構造をいろいろ調査していましたが、ちょうど明の帰化した禅僧である独立(どくりゅう)から、杭州の西湖の六石橋には島づたいに架けられた6連のアーチ橋があることを知りました。 
 これにヒントを得て、連続したアーチ橋を架ければ洪水に流されないであろうとの基本構想を得、当然ですが錦川の中洲には島がないので、アーチ間の橋げたには強固な石垣とする設計とし、これで洪水に耐えられるのではないかということで、木橋を設計・建設し始めます。 
 
            (葛飾北斎が描いた錦帯橋 : ウィキペディアより) 
 その錦帯橋の見本となった、杭州の西湖にかかる六石橋のアーチ橋の写真は入手できなかったのでここでの掲載は見送りましたが、吉川広嘉と大工の児玉九郎右衛門とその人々が作り上げた錦帯橋は、1673年(延宝元年)9月30日に5連のアーチ橋の形状で完成しました。 
 もちろんこの当時にはまだ写真はないので、葛飾北斎の浮世絵を代わりに掲載しました。 
 葛飾北斎の浮世絵がどこまで真実の錦帯橋を表現しているのか不明ですが、石の橋脚は円形になっています。しかし初代の錦帯橋の完成から1年もしない翌年の1674年(延宝2年)5月28日、梅雨時の大雨により橋は流失してしまったようです。 
 そこでその錦帯橋の流失原因を追究し、すぐさま石の橋脚の周囲をさらに石で敷き詰めて現代でいう洗掘(せんくつ)、つまり橋脚の周囲が濁流で削り取られないような対策をしまして、さらに石の橋脚自体も先端を尖らせた形にして?極力洪水が滑らかに流れるよう工夫しました。 
 
(石の橋脚の根元にさらに石を敷き詰めている錦帯橋 : 2010.7.24撮影 ウィキより) 
 この改良が功を奏し、その後は昭和期の1950(昭和25)年まで276年間も流失することなく、木製のアーチ部分は時とともに腐食するので、定期的に架け替え工事が行われて現代までその優美な姿を保つことになります。 
 しかもアーチ部分の架け替えの技術が途絶えぬようにと、50年ほどの寿命よりも前にアーチ部分は20年に1回程度、両脇の桁橋は40年程度の割合で架け替えられていたらしく、その資料もきちんと残されているらしくて技術は途絶えることなく後世に伝わっていきました(ウィキペディアやその他資料より)。 
 なお一説には、太平洋戦争中は橋の管理が十分でなかったことと、前年の1949年頃に米軍が岩国基地を拡張するために、この錦帯橋のすぐそばの上流側から大量の土砂を採取したため、流れが急になってしまい、276年間も流失しなかった錦帯橋が初めて流されたのだとか。 
    これの詳しいサイトは 
錦帯橋流出写真の紹介というサイト で
         →
 http://www32.atpages.jp/sa1702toru/19500913hasiryusyutu.html 。 
    日本文化を全く理解しない米軍の行動はいつの世もはた迷惑な話ですよね。 
   ----------------------------------- 
 先の大井川の蓬莱橋のブログでも触れましたが、庶民の苦しみをよそに贅沢三昧だった大奥をぶっつぶして、その予算を使えば錦帯橋の5倍の規模になるが大井川にもこのような橋は架けられたことでしょう。 
 毛利家岩国領(実質岩国藩といえるが)は、藩の規模が小さかったのでまとまりやすくやりやすかったのだろうが、このように藩主の熱き思いと稀に見る優れた大工の児玉九郎右衛門がいたからこそ、江戸初期に架けられ補修しながらも何百年と命脈を保った、世界に誇れる錦帯橋が現代の世でも残っているのでしょう。 
 
     (周防岩国領の第三代目領主 吉川広嘉:ウィキペディアより) 
 それに対し巨大な官僚機構の江戸幕府と世情に疎い将軍や老中の連中らは、庶民の苦しみは分からず艱難多い大井川に橋を架けるよりも、大奥の権力を恐れ無事勤め上げて家の名誉を守る…ということが専らの江戸の武士・官僚連中の目標だったのでしょう。 
  これは現代の政治家や官僚たちもなんら変わらない
  事なかれ主義の悪弊です。ムラ社会の弊害でしょうか。 
 そういう意味では江戸時代は、
 世の中が発展せず停滞していた時代の見本のような歴史ですが、
 こんな世の中は100年ぐらいでとっとと終わって、
   明治維新のような時代に転換していれば、
   日本はどれだけ発展していたか計り知れませんね。 
   ----------------------------------- 
 それでは、世界に誇れる(と私が思っている)錦帯橋の写真をダイジェストで。 
 なお今回の撮影写真は、2012.10.28のJR貨物会社のイベントの空き時間を利用しての訪問だったため27日と28日の両日にまたがり、しかも午後やら夕方やら日没後に撮影した写真が混ざり、景色や背景が統一されておらずバラバラなのは、ご愛嬌で。 
  まずは錦帯橋を下流側から撮影。 
  橋の長さは全長193mもあり広角のカメラでも200mくらい引き下がって撮影です。 
 
       
 
 
  右手に見えるこげ茶色の箱の中には、夜間ライトアップ用の投光器が入っています。 
  ふたは黄色のプラ板なので黄色の光が夜間発光されます。その写真は最後に掲載。 
 
  今度は200mちょい上流側に回って現代の橋、錦城橋上から撮影です。 
 
  上写真は私が撮影した10/27の夕刻近くのものですが見栄えが良くなかったので、 
  再度翌日の午後にも行きましたが、今度は西日が水面に反射して最悪の結果に。 
  よって、ウィキペディアに投稿された綺麗な写真も合わせて掲載しました(下写真)。 
 
 次に錦帯橋の要となる橋脚の部分をご紹介していきます。 
 江戸時代の橋はかなりの橋で丸太の橋脚が使われたのに対し、ここでは築城技術をふんだんに使用しての?石造りの頑丈な橋脚です。 
  しかも錦帯橋の完成後、 
  翌年の洪水で橋が流失したので橋脚の周囲をさらに広範囲に石を敷き詰めて補強をし、 
  これにより洪水にも耐える橋となりました。 
 
 
       
 
       
 
 
       
 
 そして大工の児玉九郎右衛門の能力が大いに発揮されたと思える錦帯橋のアーチ部分を撮影。 
 鉄道の電車に使われている架線のカテナリーにそっくりな形状です。 
  まずは中央の大きな長さ35.1mもある木製の3連アーチのほうから。 
 
       
 
  アーチの真下からも撮影 
 
 
  次に土手と橋とをつなぐ両脇の桁橋構造の反橋の真下部分を撮影。 
  この部分は江戸時代の一般的な橋梁の、木材による橋げた構造ですね。 
 
  そして、この木製なら世界に類を見ないほど巨大らしい3連アーチの構造は、 
  建築用語?では「カテナリー構造」と言うらしく、 
  鉄道の電気の集電用の電線=架線は“カテナリー架線”という形状ですし、 
  「カテナリー曲線」で検索すると、ウィキペディアに下写真の構造物が。 
 
  これはセントルイスにあるゲートウェイ・アーチの写真だそうですよ。 
 つり橋もカテナリー構造に近いそうで、 
   これは構造物が重力に対し安定する構造の一種だそうです。 
 これを江戸時代に採用し設計・活用した大工の児玉九郎右衛門さん、すごいの一言につきます。 
   もっと評価されるべきでしょう。 
   ----------------------------------- 
  それでは、その錦帯橋を歩いていきます。 
 
 
  対岸にもありますが、この料金所にて 
  錦帯橋往復券大人300円(子供150円)を支払って渡っていきます。 
       
 
         江戸時代にはこの橋用の用材も植林されていたとか。 
         50年ぶりに2004年に古図面にならってすべて架け替えられたそうです。 
 
       
 
 
 
   ----------------------------------- 
 時間が多少あったので錦帯橋の対岸をしばし散策です。 
 ロープウェイに乗って山頂まで行く時間は今回はなかったですが。 
 対岸には元岩国藩の氏神ともいえる吉香神社がありましたが、現在は移設されたのを機に公園として整備され、桜の名所として吉香公園(きっこうこうえん)の名で知られているようです。 
 
                    (吉香公園の案内図) 
  桜の名所で有名らしい吉香公園の様子です。 
 
  公園内にある江戸時代の武家 香川氏の武家屋敷の門。 
  当時の雰囲気を今に伝えているそうです。 
 
       
 
  公園のそばにある茶屋と休憩用の大傘と人力車。 
 
 
         公園内の大きな杉も 
       
 
 
 そして錦帯橋の対岸側のすぐのところにアイスクリーム屋が。 
 10月末なので暑くはなかったが、おいしそうなので食べてみることに。 
 しかしメニューを見てビックリ。これだけあればいったいどれを選んでよいのやら。 
   結局、このお店の一番のお勧めらしい1番目の「こだわりバニラ」にしました。 
 ちなみに個人的に撮影した写真なので店員さんの顔はガウスで隠しました。 
 
       
 
         しかし120種類!のアイスクリームとは 
  私の食べるソフトクリームにカメラのピントを合わせた写真 
  少し溶けて形が崩れています 
 
  こちらはお店の看板にカメラのピントを合わせた写真 
 
  宮本武蔵から名前を取ったのか「むさし」というお店で、珍百景で放送されたとか。 
  ちなみに向かい側のお店の名は「小次郎商店」というのだそうな。 
  このお店の店頭TVにはこの時の放送が流されていましたが、 
  ユーチューブで動画を探してみたけれどなかったので、リンクを貼りました。 
    こちらです→ 
tv asahi 地デジ5ch 珍百景No.176 
    → 
http://www.tv-asahi.co.jp/nanikore/contents_pre/collection/090128.html
 ソフトクリームを食べ終えて錦帯橋を渡って戻るときには日没に近い16:45ぐらいでしたが、 
 まだ河原の有料駐車場にはこんなにいっぱいの車やバスが(撮影は10/28日のほう)。  
 
   ----------------------------------- 
 2012.10.27(土)にここを訪れたときには宮島散策の後だったのでもう夕暮れに近く、 
 河原の有料駐車場でしばらく休んでいました。 
 そうするうちに日没となりあたりは真っ暗に。すると錦帯橋がライトアップされていたので 
 いつものコンデジDP1xでの、ISO100設定で露出時間1秒にて記念撮影です。 
 まずはライトアップ用の投光機を夕方に撮影。暗くなってからの撮影のためノイズが。 
 
 2012.10.27 18:22頃に撮影。黄色にライトアップされた錦帯橋です。 
 どうやら山頂の岩国城もライトアップされているようです。 
 
 こちらは私のお遊びで作成した写真で、上の元写真に 
 シグマのRAW現像ソフトSPPのカラーパレットで電球色のライトアップのような現像に。 
 
   ----------------------------------- 
  これで錦帯橋のブログは終了です。 
  次回のブログは、この広島へ行った本来の目的である 
  第19回 JR貨物フェスティバル 広島車両所公開イベントをアップする予定です。 
↓関連情報URLは、岩国観光.comをご案内しています。