2012.8.23(木)の日、富士登山に出てから4日目。
今日も早朝から雲少ない晴天のなか、
秩父の山奥にある三峯神社へと参拝。
秩父の山奥なので
早朝ならまだ人も少なくて落ち着いて参拝し、
おかげでたくさんの写真も撮影することができました。
富士山登山から始まって八ヶ岳沿線や北関東をぐるっと回ってきましたが、今日はもう帰宅日。
もちろん東名・名神高速道路を使って帰宅しますが、その道中記よりもこの旅行のいちばん最後に立ち寄った、静岡県島田市にある「蓬莱橋(ほうらいばし)」からご紹介していきたいと思います。
実はこの蓬莱橋、以前の琵琶湖にある竹生島の歴史ブログで一度取り上げたことがありました。
「琵琶湖の竹生島参詣と近世日本の歴史(南北朝から太平洋戦争まで)」はこちらです。
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https://minkara.carview.co.jp/userid/1144014/blog/24917302/
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歴史にご興味のない方は、以下の文面は読み飛ばしていただければと思いますが、
竹生島のブログ自体は、始めは竹生島を初めて訪問した時にこの目で見た景色と建物をご紹介していただけでした。が、竹生島に縁の深い信長や秀吉といった人たちの歴史を加筆していくうちに、中身がだんだんと変わってしまい歴史ブログとなっちいました。
その内容ですが簡潔に要約しますと、信長・秀吉の安土桃山時代は世の中が大いに発展していったのに対し、異論はあろうかとは存じますが、徳川家康が開いた江戸幕府というのは徳川家の維持と繁栄ばかりを考えた社会制度で、身分差別を作ったり人民か虐げられたりしたろくでもない時代だ、と言う内容でした。しかも江戸時代の後半は飢饉と自然災害の連続でしたね。
この保守的な江戸時代の間にイギリスのワットから始まる蒸気機関が発達した諸外国は、大いに科学技術が進歩して国力(軍事力)をつけ、鎖国していた日本の国は世界から取り残されてしまい欧米列強の植民地になる寸前までいきましたね。
(軍服姿と晩年の徳川慶喜の写真2枚 : ウィキペディアより)
で、世の中の転換といいますか、
1868年に徳川15代将軍の中で(あくまで私が)最も聡明だと思っている、最後の将軍であった徳川慶喜が、大政奉還を決断したおかげで内乱が起こることもなく、外国からつけ入る隙を与えることもなく無事に明治維新が起こって日本が開国しました。
そして聡明な明治天皇を中心として明治維新からわずか36年後の1904年には、当時世界最強の軍事国家であったロシアと日露戦争できるぐらいまでに国力をつけることができました。
(第122代の明治天皇 明治21年 : ウィキペディアより)
「四方の海 みな同朋(はらから)と 思う世に
など波風の 立ちさわぐらん」
この短歌(御製)は明治天皇が日露戦争の開戦を前にお詠みになったのですが、
聡明だった明治天皇、もちろん好んで帝政ロシアとの戦争を望んだわけではないのはすでに歴史が証明しているところですが、不凍港の獲得と領土欲丸出しの帝政ロシアに対抗すべく、やもうえず戦争をせざろう得ませんでした。
これは上杉謙信公と全く同じ心ですが、でもそうしないと荒々しいロシア民族に日本民族がやられて滅んでいたことでしょう。
そして日露戦争と第一次世界大戦に勝利して日本人が慢心してしまい、太平洋戦争では今度は軍閥が幅を利かせて適材適所の人材を活用せず日本が敗戦してしまうところまでを、その竹生島のブログにしたためました。
こうして明治天皇とは裏腹に、困窮する人民のことを考えず徳川家の維持安泰ばかりを考えた江戸時代の265年間!を象徴するものの代表として、この「蓬莱橋」をその竹生島のブログで取り上げました。
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で、その「蓬莱橋」とはいったいどんな橋でどんな歴史なのか、以下にご紹介していきます。
(静岡県島田市にある蓬莱橋 : 2012.8.23 筆者撮影)
江戸時代によく言われた言葉に
「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」 というのがありました。
先ほども触れましたように江戸時代の265年もの間、アホの一つ覚えではありませんが戦国時代が終わり泰平の世になっても、保守的な江戸幕府は富士川や大井川や天竜川などの大きな川には一切架橋を認めませんでした。
家光の弟にあたる徳川忠長(国松)は、1626(寛永3)年の家光上洛の折、許可を得ず勝手に船を並べて?大井川に浮き橋で架橋し、これで家光の怒りを買っていますね。
よって旅人は江戸の初期には自ら渡るか川越人足に頼っていましたが、そのうち自らでは自由に渡れなくなり、「勝手渡り」という抜け道はあったようですが基本的には自力での渡河は禁止となり、川越制度により川越えにもお金が取られるようになりました。
しかも川越人足は幕府の下級役人であったようで、今で言う利権と一緒ですね。
(ダムなどによって水量が減らされている富士川 : 2005.12.24撮影・ウィキペディア)
現代(特に戦後)では、主に電力会社が大井川の水利権を持っていて、たくさんの発電用ダムが作られ、あまりにも水をせき止めてしまって川の流量が減り、河原は砂地ばかりが目立つ状態となってかえって社会問題化し(長い無水区間とか)、このあたりの「水返せ運動」にもなったようです。
でもダムなどない江戸時代では、これらの川は流れも急でかなりの水量もあったようですよ。今では大雨の時しか見る影もないですが、往時では普通に平均水深70~80cmもあるほど豊かな水量を誇っていたそうです。
しかも大井川は水量のあるときとないときの差もかなり激しかったようで、特に渇水状態の時などは何の苦労もなく渡れるぐらいだったようです。
(歌川広重作 「東海道五十三次・金谷」より : ウィキペディア)
ちなみに大井川は蓬莱橋のところでは川幅は900m前後もあり、水深も1m前後もあるのなら本当に橋がないと川を渡るのは大変ですが、単に橋を架けたり水害で流されたりして修復するのに膨大な費用をかけるのが惜しいのなら渡し舟にすればいいのだけれども、これも結局川越人足の利権がからみ江戸時代はずっと禁止していました。
1700年の元禄のころには川越人足は300人ほどでしたが、1870年あたりの幕末~明治初期ごろになると両岸で合わせて1300人前後にもなっていたそうですよ。まさに大井川の川渡しは一大産業化していたようです。
でも明治維新直前、官軍(薩長軍)が江戸へ攻め込んでいくときに、なんと即席でこの大井川にも橋を架けさせたんだとか。よってどうやら架橋を認めなかった真の理由は、両岸に家族も含めると3000人にもなる川越人足の家庭を守るためだったのでしょう。
ちなみにこの浮世絵は著作権が切れているため
国立図書館で公開されていたデジタル画像3枚を筆者が合成しました。
3枚の絵の継ぎ目部分が欠けているため、合成画像に段差が出来ているのはご愛嬌で
(歌川国久作 東海道川尽 大井川の図 : 国立図書館デジタル化資料より筆者合成)
架橋費用やその修復費用が惜しかった、また駿府城を守るためとか架橋の技術的問題からだと一般的によく言われてもいますが、築城技術にしても徐々に発達してきたことから特に科学技術や土木技術は、何事もやってみなければ物事は発展していかないのは歴史が証明しているところです。
といっても江戸幕府、
たとえ飢饉の中でも大奥には膨大な維持費をつぎ込んでいまして、私は以前本でも読みネットでも紹介されていますが、多い日には1日でなんと砂糖
600kg!ですよ、たった1日で砂糖を何百kgも大奥内だけで消費していました。
しかも当初、白砂糖は舶来品だったようで年間数十万両?の幕府予算のうち、後年になると贅沢になりこの砂糖購入の支払いだけのために5万両/年も支払っていたようです。
とあるサイトでは、幕府の莫大な固定費を除けば、使えるお金は13万8千両/年だったとの試算もあります。そのサイト 「大江戸財政危機~萩原重秀、徳川吉宗、田沼意次の苦悩~」はこちらです。
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http://www.kcc.zaq.ne.jp/kids_clinic/Cafe/Ohedo/CafeOhedo.html
(こちらのサイト、開くと音楽が流れてきますので、その点にはご注意ください)
将軍の吉宗を始め幾人かの老中も、この厄介で金食い虫の怪物大奥を改革しようとしたけれど、女ばかりのこの独特な世界、改革はことごとく失敗してこの摩訶不可思議なハーレムは結局幕末まで続き、こんな政権はもう滅びるほうが世の人々ためにも良かったですよね…これあくまで私の主観です。
(水量がない現代の大井川 : 2006.4撮影・ウィキペディア)
で、これらの 「橋を架けることはまかりならぬ」 という政策によって、どれほど旅人が移動に不自由していたかは計り知れません。もっとも川岸の宿場町は繁盛したかもしれませんが。まあ江戸時代は元々農民の移動は認められていませんでしたけれども、ちょっとひどすぎですよね。
しかもこのことにより日本の土木技術、特に架橋技術とトンネル掘削技術は江戸時代の間には全く発展せず! 交通体系の整備もなく、蒸気機関の発達により諸外国では大幅に交通体系が変革していても、日本では江戸期の265年間にも渡りずっと馬かほとんどは徒歩で、産業革命を経た欧米に比べてどれほど遅れたか計りしりません。
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ところで山口県の東端に位置する岩国市に 「錦帯橋(きんたいきょう)」 という名の橋がございまして、けっこう有名な橋なのでご存知の方も多いと思います(下写真)。
(岩国にある現代の錦帯橋 : 2005.5.5撮影 ウィキペディアより)
岩国市といえばただ今は米軍基地のオスプレイで有名かもしれませんが、毛利元就の毛利家家臣の位置づけらしい? 吉川広家が岩国城を1608年に築城して以来、城と城下町とを結ぶ橋が川幅200m前後の錦川に架けられたものの、やはり江戸初期ごろの架橋技術、水害のたびに橋が流失していたようです。
私が購入して読んだ本、その名もズバリ「大井川に橋がなかった理由 (松村博著・創元社刊)」を読みますと、当時の橋の橋脚は木を使い、川底に押し込むほうの先端を尖らせて金属板を張ったりしてから、水面に垂直に立てて押し込む木の上に米俵(中身は土とか?)の重しを徐々に追加して乗せていき、ゆすりながら川の中へ橋脚となる木を押し込めていったとか。
この工法を当時「震込」…ゆりこみ、と呼んでいたそうです。
(大井川に橋がなかった理由 : 松村博著・創元社2001年刊)
たしかにお城と違って、橋脚を川の中に立てるのに重しを載せてゆすりながら川の中へ押し込めていくような工法では、基礎が脆くて水が出れば流されてしまうのは仕方なかったかも知れません。
そこで三代目の岩国藩主の吉川広嘉は、洪水に耐えられる橋を造ることに着手します。
橋脚を無くすことで流失を避けられるとのアイデアのもと、大工の児玉九郎右衛門を甲州に派遣し、橋脚がない跳ね橋(刎橋)である猿橋の調査を命じた。しかし川幅30メートルの所に架けられている猿橋に対し、錦川の川幅は
200メートルもあるため、同様の刎橋(はねばし)とするのは困難であった。
広嘉は、明の帰化僧である独立(どくりゅう)から、杭州の西湖には島づたいに架けられた6連のアーチ橋があることを知る。これをもとに連続したアーチ橋という基本構想に至った。アーチ間の橋台を石垣で強固にすることで洪水に耐えられるというのである。
児玉九郎右衛門の設計により、1673年(延宝元年)に5連のアーチ橋の錦帯橋が完成した。しかし翌年の1674年(延宝2年)に洪水によって流失してしまった。同年、橋台の敷石を強化して再建したところ、この改良が功を奏し、その後は昭和期まで250年以上流失することなく定期的に架け替え工事が行われてその姿を保った … ウィキペディアより引用。
(葛飾北斎が描いた錦帯橋 : ウィキペディアより)
ウィキペディアの記事にさらに付け加えるなら、石の橋脚の周囲(前後100mに渡ってらしい)には、洪水のときに橋脚の根元が削り取られないよう=洗掘(せんくつ)されないように、橋脚の周りをさらに石で補強されているのが下写真からでも判別できると思います。
(石の橋脚の根元にさらに石を敷き詰めている錦帯橋 : 2010.7.24撮影 ウィキペディアより)
(錦帯橋の木製によるアーチの部分 裏側 : 2009.3.21撮影 ウィキペディアより)
当時の稀に見る優れた児玉九郎右衛門の設計と藩主の決断により、1674年に改良した錦帯橋が完成後、架け替えの保守はあったものの、江戸時代には珍しく276年間も洪水に流されることなく耐えてきました(前出の本より)。
錦帯橋は戦後の1950年に台風により一度流されてしまったが、これは前年に米軍が岩国基地拡張のために、この橋の近辺から大量に砂利を取ったのが主な原因だとか。
ということで、たとえ江戸時代でも費用と手間をかければ大井川とかでもこのような橋もできそうですが、錦帯橋は川幅が200mに対し大井川の蓬莱橋のところではほぼ900mなので、重機のない=鎖国していたこともあり当時なら蒸気機関のなかった江戸時代では相当な大工事となったことでしょう。
でも裏をかえせば、多いときで年間5万両!ともいわれた、大奥で使った砂糖の代金をそのまま回して10年ぐらいかけて大工事をやれば、何とかできたのではないかとも言えますね。
また大井川を渡る大名行列とかは付け届けも含めて超多額の渡河費用を出費しており、その費用を橋の建造費に回せば恐らく橋はかけられたことでしょう。ちなみに前出の本によりますと、多い時で年間1万両ぐらい?(1両=20万円とすると20億円) の大金がこの徒渡し制度によってもたらされたみたいなのです。
これらのお金はもちろん徒渡し人足にも渡されましたが、かなりの額が宿駅制度とも宿駅伝馬制度とも言われている、江戸時代の公儀のための馬の乗り継ぎ制度の維持などに使われたようです。
そして特に大井川の徒渡しは収入があまりにも莫大だったため、どんなに渡船設置の嘆願が出されようともそれらは一切無視され、地元の利益と相まって人足による徒渡しは、明治の世になるまでずっと続けられたことにより多くの旅人はこれに苦しめられました。そういうことを考えれば江戸時代は本当におかしな時代ともいえますね。
こういった265年も続いた江戸時代の不便極まりない状況が、ようやく明治維新により江戸の時代は終わり、「明るく世を治める」 という意味にとれる明治の世になって、この不便な状況を打開すべく島田の宿の開墾人たちは時の県令(現在の知事にあたる)に必死に陳情して架橋が許され、1879年(明治12年)1月13日、ようやく「蓬莱橋」という名の橋が大井川にも架けられました。
これが蓬莱橋のおおまかな歴史でございます。
(蓬莱橋のそばに掲げられている説明看板)
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そしてその竹生島のブログの中で取り上げたこの木製の橋、
このたびの旅行での帰宅時に幸いこの近くを通るので、せっかくなので立ち寄ってみようと思い立ち、東名高速道路の吉田インターを途中下車し、JR島田駅方面に向かって片道7~8kmほど下道を走って到着です。何台かは橋の横の堤防に車を停められます。
(全長897mの橋の対岸の牧之原側から : 2012.8.23 筆者撮影)
で、上の写真は対岸の牧之原側から写した写真ですが、
この橋、最初一目見たときにどこかで見たなぁ、と思いましたが、この看板を見て気が付きました。
この看板、最後の最後の撮影でデジカメの電池がまた切れてしまって携帯からの撮影ですが、
1994(平成6)年度の三田佳子さん主演の、NHK大河ドラマ「花の乱」のテーマ曲の冒頭シーンでこの橋が出てきていたのですね。
ところで余談ですが、
この大河ドラマの主人公ともいえる足利義政については、以前の銀閣寺のブログに取り上げたことがありました。こちらです →
https://minkara.carview.co.jp/userid/1144014/blog/25024433/ 。
現代にまでずっと続く、日本文化の源を作った人でしたね。
将軍としての職務だけを見るなら最低評価に近いと思われ、しかも政治力が足らず応仁の乱を引き起こしたという当時の人にとってはしごく迷惑な人でしたが、その代わりに東山文化に代表される日本文化の源流を作ったという大きな天命を果たしたのではないでしょうか。
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ではこのギネスブックにも認定されている、
「世界一長い木造歩道橋」の各部をダイジェストで。
受付窓口で通行料100円を支払い、まだ暑いなかさっそくこの木製の橋を渡り始めます。
まず「大井川河口より拾弐粁四百米」の碑です
この蓬莱橋は、大井川の河口から12.4kmさかのぼった位置にあるようです
(花の乱の看板とこの写真のみコンデジの電池切れで、ガラパゴス携帯で撮影)
1965(昭和40)年に、さすがに橋脚だけはコンクリートパイルに変更
蓬莱橋の下部と真下から撮影
蓬莱橋から大井川下流を眺める
何百メートルか下流にある現代の頑丈なコンクリート製の島田大橋
3分の1ほど進んだ時点で撮影
大河ドラマ「花の乱」の冒頭のシーンはこのあたりで撮影されたのかなぁ
下流側を橋の上から覗く
上流側を橋の上から覗く
2011(平成23)年の9月、台風による水害で橋脚が流失、通行止めに
(この写真はフリー百科事典のウィキペディアより借用)
2011年の7月の大水の様子がYou Tubeにアップされていました
2012.3に修理が完了し、2012.3.31に開通式が行われました。
どうやらこの敷板の真新しいところが修復跡?のようです。
修復跡を近撮
上流側の川の水がきれいなエメラルドグリーン色に
下流側の川の水も同様の色に
下流側を蓬莱橋の牧之原側から撮影
同じく牧之原入口直前の上流側。西日が水面に反射し光っています
ゆっくりと歩いてようやく対岸の東側に位置する牧之原側へと到着
夕刻近い16:53着でした
元の島田側に戻りました。
17:04着でした、橋を渡るのに徒歩10分程度でしょうか
そしてここを夕刻の17時半ごろに発ちました。
それから来た道をそのまま戻りガソリンを満タンにして、吉田インターから東名へ流入。
東名の下り線の牧之原SAにはコインシャワーがありまして、蓬莱橋を歩き回って汗をベットリかいたのでシャワー待ちの列に加わりました。
しかしこの日はシャワーが超混んでいたうえに、4つあるコインシャワーのうち1つが故障で使用不可。自分に順番が回ってくるのに1時間ほどかかり、シャワーを浴びて車に戻ったときはすでに陽が暮れていました。
実は静岡県浜松市と湖西市にまたがる浜名湖も写真に収めたかったけれど、もうコンデジの電池もすでに全滅していたので写真撮影はあきらめて、まだまだ距離のある自宅まで帰るのに汗を流すほうを選択しました。
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そしてこの2012.8.23の日は、
埼玉県秩父の秩父鉄道の三峰口駅への訪問
秩父の奥にある3つの峰がよく見渡せた三峯神社への訪問
静岡県島田市にある明治初期に架けられた蓬莱橋への訪問
の間をぬって山梨県の甲府市内におきましてみん友さんのあかねさんとプチオフ。
山梨のお土産までいただきました。どうもありがとうございました。
私が早朝から寄り道したうえに、雁坂みちと雁坂トンネルとかの道中写真を撮影したりして、最初の待ち合わせ時刻だった10:00にはとても間に合わず、再度連絡をとりまして道路地図の甲府市街のところを見ながら集合場所を変更。私が行き易いように甲府市街まで出てきていただきました。
ちなみに集合場所はここ、国道140号線・西関東道路の終点を下りて、JR中央本線を超えてすぐのところ、和戸通りにあるファミレスの「デニーズ」にしました。到着時刻は11:20ごろとなっていました。
(甲府市和戸町にあるファミレス デニーズ)
あかねさんのエブリワゴンは修理中とのことで、代車のスターレットで参上です
(あかねちゃんの代車のスターレット & 我が愛馬コンテRS号)
私が大遅刻してしまって、AM11:30ごろから1時間半ぐらいでしょうか、もちろん暑いので涼しいファミレスの中で私は遅い朝食兼昼食を摂りました。
もっとゆっくりできれば良かったのだけど午後13:00ごろにあかねさんとお別れして甲府を出発。帰途に就きました。
帰宅はどのようにしようかと悩みましたが現在地は甲府市街なので、お天気も良いしせっかくなので蓬莱橋を見てから帰宅しようと思い、大回りになる中央道経由でなく、御殿場まで下道を走って東名へ出ようと決め国道137号線の御坂みちへと向かいました。
ところが国道137号線の上黒駒バイパスへ入るあたりから雲行きが怪しくなり、
ものすごい雷と豪雨に。この豪雨は河口湖手前付近まで続きました。
河口湖大橋を13:50ごろに通過、今日の午後の富士山頂は雲隠れですね。
(河口湖大橋上にて撮影 : 撮影時刻は2012.8.23 13:50)
昨日の早朝にここの先で見た雲ひとつなかった富士山(下写真)とはえらい違いです。
(富士河口湖町の船津付近?で撮影 : 撮影時刻は2012.8.22 6:52)
そしてここ富士吉田からは東富士五湖道路を通って須走まで抜けて時間を稼ごうとインターチェンジへ入ると、間違えてほんの少し手前にある大月・東京方面へしか行けない河口湖インターへ入ってしまって、バックすることもできず東京方面へ。
しかも次のインターの都留(つる)インターまで片道16kmもあり、仕方なく往復32kmを無駄に走ってしまいました。結局富士吉田料金所通過が14:30でした。
甲府市内からここ富士吉田インターまで1時間もかからなかったのに、この失敗で30分近くロスタイムが生じてしまいましたね。
それから東名御殿場インター手前2kmぐらいから国道138号線が渋滞していて、裏道も分からず東名に乗るのにひと苦労。これなら身延まわりで富士宮へ出たほうが早かったかもしれないです。
そしてやっと御殿場インターから東名高速下り線へと流入。
ほどなくして新東名との分岐点である御殿場JCTへと遭遇(下写真)。
(東名と新東名の分岐点である御殿場JCT : 撮影時刻は2012.8.23 15:07)
由比の景色も見たかったし、
蓬莱橋は旧東名の吉田インターから降りていくほうが行き易そうだったので、
あえて旧の東名を走行しました。
15:40ごろ東名の由比PAへと到着。
河口湖や富士吉田市と違ってここではすこぶる晴天でしたので、思わず撮影しました。
伊豆半島?が良く見えています。
新東名が開通してがぜん交通量が減ったように思える(旧)東名高速道路
こうして由比PAでしばし休んで、吉田インターまで走って途中下車。
タイトル写真の蓬莱橋へと行きしばし散策しました。
17:30すぎぐらいだったでしょうか、再度東名高速へ流入。
カメラの電池切れのため浜名湖の撮影は断念し、
牧之原SAでコインシャワーを浴びてすっきりして、
ここからは自宅へと帰宅の途につきました。
この丸4日間の旅行で1754.8kmも走っていました(誤差+1.5%前後)
初回の車検もまだなのに、どんどん走行距離が延びて67552kmに
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これでようやく丸4日を要した、
私の2012年夏の旅行 富士登山もろもろ編はすべて終了しました。
ブログも13連投となり、旅行全体の様子をすべてアップするのに1ヶ月弱も要しました。
そしてプチオフの設定をお願いし来てくださりましたRIKO☆さんをはじめ、
角*鹿RSさん、依身コンテさん&たかトシさん夫妻、
それから翌日大幅に遅刻しましたが快く応対してくださいましたあかねさん、
どうもプチオフにお付き合いくださりありがとうございました。
下記↓関連情報URLには、江戸時代の大井川の渡しについての情報が書かれています