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角鹿のブログ一覧

2025年07月07日 イイね!

ブルース・リーの名言

ブルース・リーは格闘映画のスターですが、その一方で格闘技を極める中で得た数々の人生訓を残しています。
宮本武蔵は剣の道を極める中で人生の極意を言葉として残しましたが、ブルース・リーも似ていますね。

宮本武蔵の言葉の中で私の好きな言葉はこれです。

「千日の稽古をもって鍛となし、万日の稽古をもって錬となす。」

これは宮本武蔵の「五輪書」に書かれている有名な名言です。

よく頑張りました、という言葉を聞く。
どこまで頑張ればいいのか?
宮本武蔵の言葉をそのまま当てはめれば、まずは三年間、練習しなさい。
それだけではだめです。三十年間、練習しなさい。
それが「鍛錬」ということです。

一つの道を極めようとすれば、それくらいやらないと無理だということでしょう。

ブルース・リーはワシントン大学の哲学科に入学しています。
肉体の鍛錬を支える心の世界の哲学を探求したのでしょう。
その結果、格闘家とは思えない深い言葉を残しています。
たぶんブルース・リーは宮本武蔵の五輪の書は読んでいたのだと思います。


ではブルース・リーの名言をあげてみます。


感性の名言
●「考えるな、感じろ」

原文:Don’t think, feel.
自分の気持ちを優先するべきだと教えてくれる名言。あれこれ頭の中で考えすぎるのではなく、直感や心で感じたことを優先して行動するのも大切である。

生き様の名言
●「友よ、水になれ」

原文:Be water, my friend.
人生の生き様を水に例えた名言。他人にとらわれず、水のように自分そのもので流れ続けることが大切だ。

時間の名言
●「人生を大事にしているなら、時間を浪費してはいけない。人生は時間の積み重ねなのだから」

原文:If you love life, don’t waste time, for time is what life is made up of.
時間の大切さを教えてくれる名言。よい人生を送りたいなら、1分1秒を無駄にしないようにしよう。

境遇の名言
●「境遇なんてクソくらえだ。俺は自らチャンスを創りだす」

原文:To hell with circumstances; I create opportunities.
自ら行動することの重要性を教えてくれる名言。何かを成し遂げるためには他人や境遇のせいにせず、自らの意思で切り開いていこう。

幸せの名言
●「幸せであれ。しかし決して満足するな」

原文:Be happy, but never satisfied.
人の幸せについて説いた名言。人は皆幸せであるべきだが、その幸せにいつまでも満足していては成長できない。


ブルース・リーが残したやる気が出る名言5選
TK Kurikawa / Shutterstock.com

ブルース・リーは、171センチの小柄な体格ながらテクニックやスキルを極め、身体の大きい相手にも果敢に立ち向かって行った。

ここからは、ブルース・リーが残した名言の中から、やる気が出る名言をピックアップして紹介する。

努力の名言
●「わたしは一万種の蹴りを一度だけ練習した男は怖くないが、一つの蹴りを一万回練習した男は恐ろしい」

原文:I fear not the man who has practiced 10,000 kicks once, but I fear the man who has practiced one kick 10,000 times.
努力の大切さを説いた名言。成果を上げたければ一つの物事に集中し、愚直に継続することが大切である。

自己表現の名言
●「常に自分らしくし、自分を表現し、自分を信じろ。どこかの成功者のお手本なんてマネするな」

原文:Always be yourself, express yourself, have faith in yourself, do not go out and look for a successful personality and duplicate it.
自分を信じる大切さを教えてくれる名言。安易に成功者の真似をするのではなく、自分の軸を持って進む姿勢が大切だ。

継続の名言
●「歩み続けよ」

原文:Walk on
努力を継続する大切さがわかる名言。成功したければ歩みを止めず、成功に向かって歩き続けよう。

逆境の名言
●「覚えてろよ、俺は世界一の中国人スターになる」

原文:You just wait. I’m going to be the biggest Chinese Star in the world.
武術家からアクション界のトップスターになった、ブルース・リーならではの名言。成功するには、夢を周りに宣言することも大切だ。

夢の名言
●「何かを得るには、心の中でそれを思うことから始まる」

原文:The possession of anything begins in the mind.
夢への思いを綴った名言。壮大な夢は、自分の中で強く思い続けることから始まる。

ブルース・リーが残した努力に関する名言5選
parkisland / Shutterstock.com

ブルース・リーは、1日にパンチを5,000回、キックを2,000回練習するなど、常人には真似できない努力を重ねていた。

ここからは、ブルース・リーが残した名言の中から、努力に関する名言をピックアップして紹介する。

我慢の名言
●「気楽な人生を願うな。困難な人生を耐え抜く強さを願え」

原文:Do not pray for an easy life, pray for the strength to endure a difficult one.
困難に耐え抜く我慢強さを教えてくれる名言。気楽な人生は一見するとよく思えるが、困難な人生を耐え抜く強さがあってこそ人は輝く。

失敗の名言
●「失敗を恐れるな。失敗することではなく、目標が低いことが罪なのだ。大きな挑戦ならば、失敗さえも栄光となる」

原文:Don’t fear failure. – Not failure, but low aim, is the crime. In great attempts it is glorious even to fail.
失敗することは悪ではないことを教えてくれる名言。失敗を恐れて目標を低くするのではなく、失敗も糧にできるほどの大きな挑戦をしよう。

勇気の名言
●「失敗は、それを認める勇気さえあれば、いつでも許されるものだ」

原文:Mistakes are always forgivable, if one has the courage to admit them.
失敗から逃げずに、立ち向かうことの大切さを説いた名言。失敗をした際は素直に認めて次の挑戦に活かそう。

期待の名言
●「俺はお前の期待に応えるためにこの世にいるわけではない。そしてお前も俺の期待に応えるために生きているのではない」

原文:I’m not in this world to live up to your expectations and you’re not in this world to live up to mine.
人の期待について発した名言。人は皆、他人の期待に応えるために生きているのではない。他人に左右されず、自分の軸を大切にして生きよう。

目標の名言
●「目標は必ずしも達成されるためにあるのではない。目指すべき何かを与えてくれることも多い」

原文:A goal is not always meant to be reached, it often serves simply as something to aim at.
目標について語られた名言。目標は達成するだけが正解ではなく、目指すべき何かを知れるだけでも十分価値があるのだ。

ブルース・リーが残した学びに関する名言5選

cowardlion / Shutterstock.com

ブルース・リーは、大学時代に哲学を学んだり、2,000冊以上の本を読んだりするなど、貪欲に知識を吸収していた。

ここからは、ブルース・リーが残した名言の中から、学びに関する名言をピックアップして紹介する。

姿勢の名言
●「賢い人は、愚かな人が賢明な答えから学ぶこと以上に、愚かな質問から多くを学ぶ」

原文:A wise man can learn more from a foolish question than a fool can learn from a wise answer.
物事は何でも学びになると教えてくれる名言。賢い人は愚かな質問でさえも自分で考え、多くを学ぶ姿勢を持っている。

知識の名言
●「知識は力を与え、人格は尊敬をもたらす」

原文:Knowledge will give you power, but character respect.
人間の人格をつくる要素を学べる名言。知識と人格のどちらも磨いてこそ、素晴らしい人間だと言えるだろう。

自己理解の名言
●「自分を知るということは、他人の振る舞いから自分を学ぶということだ」

原文:To know oneself is to study oneself in action with another person.
自己理解について語られた名言。自分を知るためには、他人の振る舞いからも学べるところが多くある。

栄光の名言
●「自慢したり見せびらかすのは、栄光をはき違えた愚か者の考えだ」

原文:Showing off is the fool’s idea of glory.
数々の栄光を手にしたブルース・リーらしい名言。栄光を手にすると人に自慢したくなるものだが、謙虚さを忘れてはいけないのだ。

取捨選択の名言
●「日々何かを増やすのではなく、日々何かを減らすのだ。重要でないものを切り落とせ」

原文:It’s not the daily increase but daily decrease. Hack away at the unessential.
取捨選択の大切さを説いた名言。何かを成し遂げるには自ら取捨選択し、重要ではないものに時間を使わないことが大切だ。


いかがでしょうか。
なるほど、と思う言葉が多いですね。
なかでも次の2つは深い意味があります。

Walk on(歩き続けよ)

Be water(水になれ)


ここでブルース・リーの言葉とは無関係に、「点滴石をも穿つ」と言う箴言が浮かんできました。
紀元前二世紀の中国、前漢王朝の時代の 「枚乗(ばいじょう)をという人が書いた文章の一節ということです。 元の出典は『漢書』ですが、後に編纂された『文選』にも収録されてます。日本でもよく知られてますが、日本の学者が中国の古典を読んで日本語に訳して流布させたものでしょう。
「さざれ石」も岩に穴を開けるの反対の意味ですが言わんとする心は似ています。
 千里の道も一歩より、塵も積もれば山となる、も似てます。
 
 ブルース・リーは絶えず努力すれば何事かは成せるということを説いたと思います。
 あるいは何かをやろうと思えば死ぬほど日々努力せよと、説いたとも言えます。
 こう言えば当たり前で、平凡な言葉のようですが、それを身をもって実践できた人は稀有です。
 
 
 
 ここに引用したブルース・リーの言葉は下記のリンクのブログから引用しました。
Posted at 2025/07/07 12:10:11 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日々の雑感 | 日記
2025年05月03日 イイね!

難波と「とうもろこし」

難波ととうもろこし


大阪の地名に「難波」という繁華街がある。
かつて大阪に難波宮が置かれ日本の都だったことがある。
難波宮には、前期と後期があり、前期は645年に孝徳天皇が飛鳥から遷都し難波長柄豊碕宮と呼ばれた。後期は726年に聖武天皇が再建した。
この難波宮の名前は地名の難波からつけられている。

大阪の難波のあたりは、古くから人が住んでおり、古事記には『浪速』、日本書紀には『難波』と書かれている。この地名の読み方は、万葉仮名を見ると漢字から「なにはづ」と呼ばれていたことがわかる。
それがいつから「なんば」と呼ばれるようになったのかはよくわからない。
「なんば」という呼称の記録は江戸時代以前の慶長年間の検地書面にある。

 ところで大阪の人は「なんば」と言うと「とうもろこし」の事らしい。
 「玉蜀黍」(とうもろこし)のことを大阪人は「なんば」と呼んでいるらしい。
大阪だけでなく、奈良県でもそういうので、関西地方では「とうもろこし」のことを「なんば」と呼ぶのは間違いない。

 最近はAIで調べることが流行しているのでGOOGLEのAIで「とうもろこしの語源」と打ち込んで検索してみた。
 その結果が↓である。
  
 GOOGLE AI による概要
詳細
「とうもろこし」の名前は、16世紀に日本に伝来した際に、すでに中国から伝来していた「モロコシ」というイネ科の植物に似ていたことから、「唐(中国)のもろこし」という意味で「とうもろこし」と呼ばれるようになったと考えられています.
詳細:
「もろこし」:
もともと「モロコシ」は、中国(三国時代の蜀)から伝来した黍(キビ)を指す言葉でした。後に、キビが略されて「モロコシ」と呼ばれるようになった.
「唐」:
「唐」は、中国(唐王朝)を指す言葉で、外来のもの、特に中国からのものを指す言葉として使われることがありました.
「玉蜀黍」:
「とうもろこし」を漢字で書く場合は、「玉蜀黍」と書きます。これは、トウモロコシの粒が綺麗で、玉のように見えることから、「玉」の字が当てられたと考えられています.
その他:
日本各地で「とうもろこし」を指す名称が様々あります。例えば、近畿地方では「なんばん」や「なんば」とも呼ばれます.
英語で「トウモロコシ」を表す言葉は「corn」ですが、これは「角」や「穀粒」を意味するゲルマン語系の言葉から来ています.
 

 ありました。
 近畿地方では「なんばん」や「なんば」とも呼ばれます。
 やはり、近畿地方では「とうもろこし」のことをそう呼ぶらしい。
 それは何故か?
 その前に、外来と思われる「とうもろこし」の日本伝来はいつなのか?
 ここでちょっとややこしいが、「とうもろこし」伝来の前に「もろこし」という植物が中国から日本へ伝来していたのである。
 では、「もろこし」とはどんな植物なのか?
 これは、簡単に言うと「コーリャン」である。中国映画の題名で「紅いコーリャン」という名前を記憶している人もいるかもしれない。
 「もろこし」は、日本には室町時代に中国から伝来した。イネ科モロコシ属に属する植物で、別名「ソルガム」または「コーリャン」「タカキビ」など、とも呼ばれる。
 昔話の「桃太郎」に出てくる「きび団子」はこの「きび」すなわち、日本に入ってきた「コーリャン」でこしらえた団子のことである。
  
  
 モロコシ(蜀黍、唐黍、学名 Sorghum bicolor)は、イネ科の一年草のC4植物・穀物。タカキビ(高黍)とも呼ぶ。外来語呼称にはコーリャン[1](中: 高粱, gāoliáng[2]から)、ソルガム(英: sorghum)、ソルゴー(伊: sorgo)がある。沖縄ではトーナチンと呼ばれる。
 (Wikipediaより引用)
 
 「とうもろこし」のことを別名で「きび」と一般的に言うが、この呼び名は、この「もろこし」を「きび」と呼ぶことに由来するネーミングである。もろこし、きび、は「蜀黍」と書く。そこで「とうもろこし」のことは漢字で「玉蜀黍」と書く。
 
 私は山陰地方の出身だが、子供のころは「とうもろこし」とは言わなかった。「きび」と呼んでいた。
 ふと、全国的に「きび」と「とうもろこし」の呼称分布はどうなっているのだろうという興味が湧いた。
 ある調査をみるとこんなことが書かれている。
 北海道  とうきび とうきみ きび きみ
 青森県  きみ
 岩手県  きみ
 宮城、福島、山形、茨城、栃木など とうみぎ とうむぎ
 新潟   とうきび
 富山   とうなわ
 石川   とうきび
 福井   とうきび
 山梨   もろこし
 長野   もろこし
 岐阜   とうなわ
 愛知   なんばとう
   
 近畿地方、岡山、山口など   なんばん なんば 
 滋賀   なんば こうらい
 岡山   なんば
 広島   きび
 徳島   なんば
 香川   とうきび
 愛媛   とうきび
 高知   とうきび(きび)

 福岡   とうきび
 佐賀   とうきび
 長崎   もろこし
 熊本   とうきび
 大分   とうきび
 宮崎   ときび
 鹿児島  たかきび
 
 沖縄   ぐすんとーなちん
 
 ここに地名のない県は「とうもろこし」と呼んでいる。
 
  
 かなりアバウトな感じだが各地にいろんな呼称があるということがわかる。
 なかでも、近畿地方のなんばん、なんばが中国地方にも及んでいるらしいことがわかる。
 
 島根県出雲地域で「とうもろこし」の呼び名を出雲の地域内での呼称分布調査をしたブログを見た。これを見ると、出雲という限られた地域内だけで実に多様な言い方がある。
 「とうもろこし」を呼ぶネーミングを上げるとこうなる。
 なんばぎん
 とーぎん
 たーたこ
 きみ
 とうもろこし
 とうとぎん
 とーときみ
 とーとこ
 まんまんこ
 とうとーこ
 
 
 ちなみに、「とうもろこし」のことを指す「とーとこ」は出雲方言では、「とても」や「すごく」という意味を表す言葉だという。とうことは「とーとこ」とは「とうもろこし」の固有名詞ではないということだ。想像するに、「とうもろこし」を見て「こりゃなんだ」「すごいな」「とてもおいしいな」という昔人の思いが呼称として定着したのかもしれない。
 
 また一般的に考えると「とうもろこし」が出雲地域に伝わったころは、出雲全域が「とーとこ」(凄い)だったと思われる。それが次第に、これは「なんば」と言うらしいという二次情報が都の京都方面から伝わってきて広まった。柳田國男の「蝸牛考」ではないけれども新しい言葉が伝搬すると新しい言葉が広まる一方で比較的遠隔地域には文化伝搬の速度が遅く古い言葉ほど過疎遠隔地域に残るというのが実際のところである。
 そう考えると出雲の中心部や平野部には「なんば」が広まったけれども遠隔地の南部の山岳地域に「なんば」は伝わらず、古い言葉の「とーとこ」が残ったというのは自然の成り行きのようにも考えられる。
 もしそうでなければ言語境界線の形成には別の要因が想定される。
 分布図をみると日本海に面した出雲北部から中部にかけては「なんばぎん」が占めており、南部の山間地域に「とーとこ」が分布している。呼称の広がりは「なんばぎん」が主流である。なぜ南部の山間部のみに、「とーとこ」が存在しているのかは、言語境界線が何によって境界を形成しているのかという社会学的、また民俗学的な観点からの検討が必要になろうし、
それは出雲地域という習俗や因習を含めた地域特性との関連へのアプローチも視野に入れねばならない。これはあまりに横道にそれるので、ここで中断する。
 島根県にも「なんば」が広まっている。
 こうした調査を見ると島根県出雲地方という山陰地方にも近畿地域の呼称である「なんば」が普及していることに驚かされる。山陰地方は一言で言えば、京都文化圏なので京都からの文化伝搬が「なんば」を鳥取や島根にももたらしたのだろう。
 これは近畿地方の方言が近畿一円もみならず、山陽方面から山陰方面にまで広く及んでいることがわかる。ということは「とうもろこし」の「なんば」という表現は、近畿地方というよりも、、むしろ、西日本地域に拡大できるかもしれないという予測がなりたちそうだ。
 
 いずれにしても、「とうもろこし」の呼び方は実に多くあり、細かく言えばきりがない。
 すでに上げた呼称のほかにも、「とうまめ」「とうむぎ」「まるきび」「ときみ」などもあり「あぶりき」や「さんかく」など地域独特の言葉もあるという。
 
 横道に入りすぎたので話を強引に引き戻す。
 以下は、「とうもろこし」がいつ頃日本に伝わったのか、そして、難波という地名と「とうもろこし」との関係のありやなしや、というこの論考を書来始めた動機つまり本題(テーマ)について少々考察して終わりにしたい。
 
 
 実は「とうもろこし」はアメリカ大陸が原産地だ。
 
 とうもろこしの原産地は、アメリカ大陸、特にメキシコとボリビアの地域と推定されています。紀元前7000年頃にはすでにメキシコで栽培されていたとされ、その後、マヤやアステカなどの古代文明で栽培されてきた重要な作物でした。
(GOOGLE AI)
 
 15世紀末にコロンブスがアメリカ大陸へ上陸し「とうもろこし」をスペインへ持ち帰ったらしい。
 スペインへ入った「とうもろこし」はスペイン国内にとどまらずヨーロッパ各地へ広まり、さらに貿易船によって世界各地へ持ち込まれる。コロンブスが持ち帰ると、とうもろこしはスペインをはじめ西ヨーロッパ諸国、北アフリカ、中近東に広まった。
 さらに16世紀にはスペインから全ヨーロッパにとうもろこしの栽培が広がった。
 一方で、ヨーロッパだけでなく、海路でインド、中近東、中国にも伝わった。
 コロンブスのアメリカ大陸発見は世界にとうもろこしを広める結果となった。
  日本にとうもろこしを伝えたのはポルトガル船だった。16世紀の終わりころ、長崎にポルトガル船が長崎に「とうもろこし」を持ち込んだ。1579年のことだと言われている。
 
  ポルトガルから日本へ伝わったものには、鉄砲、火薬、中国製の生糸、またキリストをはじめ実に多種多様である。ビスケット、ボーロ、金平糖、カステラなどのお菓子もそうだ。
  またポルトガルの文化である「言葉」も日本へ伝わった。
  ポルトガル語に由来するの日本の単語ではパン、コップ、タバコ、ボタンなどが有名だ。
  その他、ブランコ、キャラメル、コロッケ、シャボン、かるた、カッパ(合羽)、ジョウロ、おんぶ(ポルトガル語の肩=オンブロ)、ビードロ、シャボン(石鹸)、おいちょカブ、てんぷら、オルガン、などもある。
  
  このようにポルトガル人は日本に多くのものを伝えたのだが、その一つが「とうもろこし」だった。想像だが、とうもろこしの種を持ってきて日本人に売ったのだろう。日本人がこの種を植えてみたところ、とうもろこしの苗が育った。
  それを見た日本人は、「こりゃあ、もろこしだ」と。先に、もろこし(コーリャン)が中国から伝来して日本で栽培されていたと書いたが、「とうもろこし」の苗は中国由来の「もろこし」に似ていたので、日本人は「これは唐のもろこしだ」(唐は舶来品という意味)と意味で「とうもろこし」と呼ぶように、なったと言われている。
    
  一方、ポルトガル人は一般に「南蛮人」とも呼ばれていた。この南蛮人が持ち込んだキビ(もろこし)だというので、ナンバンキビ、という名でも呼ばれていた。南蛮黍(なんばんきび)である。このキビが省略されて、「なんばん」また「なんば」と呼ばれるようになった。
  
  そこまでは良くわかった。
  だが、わからないことがある。
  「とうもろこし」は南蛮黍だから「なんば」となった。それはいいとして、なぜ、全国的には「とうもろこし」というのに、近畿地方とその文化圏である西日本、中国地方だけでなぜ、「なんば」と言うのだろう。
  大阪の地名の「難波」と「とうもろこし」は関係ない。難波と南蛮とも関係ない。
  では、なぜ近畿地方で「とうもろこし」のことを「なんば」と呼ぶのか?
  この疑問は、残ったままである。
  
  おまけに、「とうもろこし」を題材にした俳句でお口直しを。  
  
  唐秬や軒端の萩の取りちがへ
                芭蕉「六百番発句合」

  古寺に唐黍を焚く暮日かな
                蕪村「蕪村遺稿」
                
  唐黍の驚きやすし秋の風  
                蕪村 『蝸牛 新季寄せ』              
                

  唐黍やほどろと枯るる日のにほひ
                芥川龍之介「澄江堂句集」

  唐黍焼く母子我が亡き後の如し
                石田波郷「春嵐」

  蜀黍を食った美瑛の空の丘
                拙句
  
  
  
  
Posted at 2025/05/03 15:10:14 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日々の雑感 | 日記
2023年11月05日 イイね!

日南

「日南」という漢字について少し考えてみたい。

 これをどう読むのが正解なのだろう。
「日南」といえば、まっさきに思いつくのが九州の「日南市」。宮崎県にある市の名前についている「日南」(にちなん)である。
 
 日南市のホームページには次のように紹介がある。
 日南市は、宮崎県の南部に位置し、東に日向灘を臨み、西は都城市・三股町、南は串間市、北は宮崎市に隣接しています。
宮崎市から日南市を経て鹿児島県に至る延長112kmは全国有数のリアス式海岸で、日南海岸国定公園の指定を受けています。

 ちなみに、人口は約50000人である。
 現在の日南市の「日南」という名称は古名ではなく、比較的新しい名称で戦後の命名である。
 昭和25年(1950年)1月1日 に油津町,飫肥(おび)町,吾田町,東郷村が合併して成立した市名が「日南市」である。
 この地域のその昔をたどると、古くから「飫肥」(おび)と呼ばれていた。
 平安時代後期になり島津荘という荘園が成立した。荘園の持ち主は現在の奈良県の強大な寺院・興福寺だった。そこで飫肥(おび)は一時期は奈良の興福寺一乗院が荘園領主となった。その後、武家の台頭があり、「飫肥」は薩摩国の島津氏の支配下に入る。
 この飫肥は山と海に恵まれた地域であり、豊富な山林資源に加えて、海岸線には油津や外之浦という日明貿易や琉球貿易の拠点となる港湾を有する要衝の地であった。そこで戦国時代には、これまで飫肥を勢力下に置いてきた薩摩の島津氏に対抗して新たに宮崎平野一帯に勢力を拡げてきた新興勢力の伊東氏が飫肥をはじめ宮崎一帯の領有権を巡って抗争を繰り返したのである。島津が九州の地元の武士集団というのはわかるが、そこに割り込んできた伊東氏とはいったいどこから来たのだろう。
 
 伊東氏はもともとは鎌倉幕府勃興の地、武家の本拠地とも言える関東武士だ。関東の中でも南部に属する伊豆半島に興った武家が伊東氏だ。伊東氏は伊豆の出身とあって海に強くその子孫が各地へ出張って勢力を拡大した。
 伊東氏の中の一族が鎌倉幕府から日向の地頭職を与えられた。
 これが伊東氏の九州進出の端緒である。彼らは地頭職を任せられたので現在の宮崎へはるばると赴き、以後土着して勢力を拡大した。これが「日向伊東氏」である。
 この日向伊東氏は、やがて九州の大勢力である薩摩の島津氏の強い対抗勢力になっていく。
 室町〜戦国期を通じて、日向伊東氏は守護の島津氏と抗争を繰り返しながら版図を拡大した。伊東氏は11代当主伊東義祐の時代には最強勢力となり、現宮崎県の佐土原城を本拠に四十八の支城を国内に擁し最盛期を迎えた。飫肥には伊東義祐の子の伊東祐兵が飫肥城を与えられていた。さすがの島津氏もなかなか手を出せない伊東氏の勢力であった。
 
 だが夜の栄枯盛衰を見ると武家に限らず時としてそれまでの資産を食い潰す奇人変人がたまに出現する。伊東氏も、その例外ではなかった。
 なぜか伊東氏の棟梁である伊東義祐が武家としての調子外れを起こした。
 伊東義祐は文化人気取りで京都の雅な気分に浮かれて奢侈に溺れ、贅沢三昧、京風文化を取り入れて武家の本分を忘れてしまうのであった。まあ格別悪いことではないだろうが、奢る平家はなんとやらで・・・・。
 そんなわけで、伊東氏は武家本来の戦闘集団として次第に軟弱となっていった。弱みを見せれば付け込まれるのが世の常である。
 このように隆盛に奢って浮かれている伊東氏を倒すべく、領地奪還に燃える元祖領主の島津義弘は、元亀3年(1572年)伊東氏に戦いを挑んだ。このとき、3000人の軍勢の伊東軍がわずか300人の島津義弘率いる軍勢に敗れるという有様であり今に語り継がれる「木崎原の戦い」で伊東氏は大敗北した。
 いったい何があったのか。この戦いは戦史研究でも興味深いものがある。
 
 話はこの文章の本来のテーマとは無関係に、どんどん横道にずれていくのだが、乗りかかった船の誼でしばしお付き合い願いたい。
 
 この「木崎原の戦い」の敗北で伊東氏は日向伊東氏を支えてきた多くの武将や重臣を失ったことが致命的だった。以後の日向伊東氏は衰退した。
 島津に追われ伊東氏義祐・祐兵親子とその主従は命からがら宮崎を逃げ出しすかなかった。その後は瀬戸内海を彷徨い、没落の不運を嘆きつつ放浪していたのだが、どこまで伊東氏は運に恵まれた一族なのであろうか。
 
 落魄の身でありながらそれまで付き合いのあった知人や支援者などの有形無形の助力を得て幸運にも豊臣秀吉の知遇を得る。伊東義祐の3男である伊東祐兵が羽柴秀吉に仕えたのである。そのとき、「次は九州攻めだ、誰か先陣を切るやつはおらんか」という秀吉の問に名乗り出たのが伊東祐兵である。
 「おそれながら我が伊東一族はこれまで日向を本拠地としておりました。九州のことなら我が庭のごとく知悉しており申す、なんなりとご下命くだされ」
 と言上する伊東祐兵に秀吉は破顔一笑、
 「そうか、頼もし、先陣は任す、存分に働いてみせよ」
  上機嫌になった。と、こういうシーンがあったのか、なかったのか、しかとは解らないのだが、ともかく伊東祐兵は秀吉の九州平定軍の先導役として任命されて出陣しめざましい活躍をしたのである。
 その功績により伊東氏は再び飫肥の地を取り戻したのである。作り話ではなく、これが史実なのだから、漫画みたいな話だ。
 伊東氏が失脚したあと、飫肥を支配していたのは島津氏であった。伊東氏から飫肥を奪還したのはいいが、秀吉が敵とあっては相手が悪かった。秀吉の九州平定により島津氏は秀吉軍に降伏した。そして日向国の伊東氏旧領を全て明け渡して薩摩へ撤収した。その後に伊東氏がまさに奇跡的とも言える10年越しの日向大名としての復活を果たしたのである。
 
 この伊東氏の大逆転はなんたる奇跡か、天もびっくりの強運というべきか。
 さらに驚くのは、その後の関ケ原の決戦である。
 当然、伊東氏は大恩のある秀吉側につくと思いきや、豈図らんや、九州大名のほとんどが西軍につくなかで、伊東氏はなぜか徳川の東軍にこっそりと参加して勝運を拾っている。まさか、まさかの強運というか、慧眼というべきか。
 関ケ原の戦いのときには、伊東氏総帥の伊東祐兵は大阪で重い病に伏していた。祐兵は成り行き上、西軍に加盟すると伝えるのだが実際には病気を理由に関ケ原に出陣はしていない。
 その上で、黒田官兵衛を通して内々に徳川家康に恭順の意を伝えたのである。その証拠として嫡男の伊東祐慶を密かに九州へと派遣している。実際に、伊東祐慶は九州では数少ない東軍として西軍側と戦っている。
 この伊東祐兵の実質的に東軍に加担すると決めた判断と九州へ派遣された息子の伊東祐慶の働きが徳川家康にしっかりと伝わり、その後の伊東氏の命運を決めた。
 名目上は西軍についたが、自らは徳川に恭順する意志を伝えて伊東祐兵は一歩たりとも動こうとはしなかった。そして、九州では息子を総大将とする伊東家の家臣軍団が家康の東軍として西軍相手に戦ったのである。
 この功績により、徳川政権樹立後も伊東氏は日向の所領を安堵されたのである。
 その後なんと伊東氏は明治維新まで宮崎の殿様であり続けた。
 日南市の来し方を振り返ればこんな歴史が秘められている。
 
閑話休題(あだしごとはさておきまして)

 なぜ「日南」を今回、取り上げたのかと言えば、ある俳句のブログを見たためである。
 それが次のブログである。
 
 この中に、「日南」を使った俳句が取り上げられている。それが次の一句である。
 
 https://haiku-textbook.com/risshu-famous/
 
 【NO.14】右城暮石

『 日南暑し 朝を裸で 今朝の秋 』

季語:今朝の秋(秋)

意味:日南地方は暑いなぁ。朝でも裸になりたいくらいだ、今日は立秋なのに。

ブログの解説には以下のようなことが書かれている。

解説●俳句仙人●
日南とは宮崎県南部にある地域です。暖かい地域なので、立秋といえども裸になってしまいたいくらいの暑さなのになぁというぼやきが聞こえてきます。

 引用はここまでだが、なんとなく、うっすらとこの解説に違和感を覚えた。

 この俳句を詠んだ俳人は右城暮石である。
 右城暮石という俳人は、日南市とは関係のない高知県の人である。ちなみに、この名前は、「うしろ ぼせき」と読む。
 
 

右城暮石の俳句

あきらかに蟻怒り噛むわが足を
ねんねこもスカートも膝頭まで
一芸と言ふべし鴨の骨叩く
一身に虻引受けて樹下の牛
万緑に解き放たれし如くゐる
人間に蟻をもらひし蟻地獄
何もせぬ我が掌汚るる春の昼
入学の少年母を掴む癖
冬浜に生死不明の電線垂る
夜光虫身に鏤めて泳ぎたし
水中に逃げて蛙が蛇忘る
氷菓売る老婆に海はなき如し
油虫紙よりうすき隙くぐる
百姓の手に手に氷菓したたれり
芒の穂双眼鏡の視野塞ぐ
草矢よく飛びたり水につきささる
裸に取り巻かれ溺死者運ばるる
電灯の下に放たれ蛍這ふ
首伸ばし己たしかむ羽抜鶏
鮎かかり来しよろこびを押しかくす


右城暮石の俳句鑑賞は、さておき、気になるのは

『 日南暑し 朝を裸で 今朝の秋 』

である。このブログの解説には、この俳句の意味としてこう書かれている。

「意味:日南地方は暑いなぁ。朝でも裸になりたいくらいだ、今日は立秋なのに。」

 また、その解説の下の囲みに
「日南とは宮崎県南部にある地域です。暖かい地域なので、立秋といえども裸になってしまいたいくらいの暑さ」
とも書かれている。

 とすれば、この句の「日南」は「にちなん」と読んで、宮崎県日南市を指す俳句だということになる。立秋とは、毎年の、毎年8月7~8日にあたるので季語としては秋だが季節としては真夏である。
 そうしてみると、真夏の朝は朝でも裸でいても寒くはない、場合によっては暑い、とさえ感じるのは「日南」地方だけのことなのだろうか?という軽い疑問が湧いてくる。また「日南」地方は特別に暑い、という解説だが、真夏に暑いのは日南地方に限ったことなのか?季節が秋、たとえば10月、11月でも朝は裸になりたいほど暑い、というなら、本当に暑い地域なのだろうと思う。そういう俳句なら「今朝の秋」という実際の季節は真夏の「立秋」という季語を使うのだろうかという疑問がわいてくる。
 
 
 この句の季語は「今朝の秋(けさのあき)」である。
 この季語は「秋」とはちょっと違う。俳句の季語として使う「今朝の秋」は、「立秋の日の朝。秋立ちそめた朝。今朝から秋めいた感じになったという気持を強調していう語。」(精選版 日本国語大辞典 )なのである。
 秋めいた感じになった朝。立秋の日の朝をいう季語が「今朝の秋」である。
 実際の季節は8月の上旬だ。
 秋らしい秋ではなくて、真夏の最中に、朝のほんの微かな気配に秋への予兆を感じる繊細さがある。暑さの中にある何らかの秋の爽やかさを表現したのが「秋が立つ」という感覚的な言い回しであり、秋の季語の中でも、とくに「初秋の季語」になっている。
 
 
 したがって「今日は立秋なのに日南の朝は暑いな」という解説にある「立秋」は「今朝の秋」の説明としては間違ってはいない。
 しかし、「立秋」は、先に書いたように毎年、8月7~8日なので真夏である。
 そうしてみると、「朝でも裸になりたいくらいだ、今日は立秋なのに。」という解説は、立秋を真夏と置き換えてみれば、「なのに」という書き方にはいささか、違和感がある。
 
 そうした細部はこの際、置いておいて、気になるのは「日南」である。右城暮石は高知県の人である。日南市の人であるなら、日南を俳句に詠むこともあろうが、高知県の人がわざわざ九州の日南市の地名をあげて俳句を詠むのだろうか?

 だが私は右城暮石についてはまったく詳しくない。この俳句専門ブログに異議申し立てるほどの何の知識も情報も根拠もないので、漠然とした違和感を感じたまでである。
 そうこうしているうちにこの俳句のことは忘れていた。
 しかし、完全に忘れたわけではなく、記憶のどこかに、小さい棘となって刺さり続けていたと言えるのかもしれない。


 たまたま何かのおりに、右城暮石の俳句と解説が記憶の谷間から浮上してきた。そのとき、「日南」という言葉を使った俳句はほかにないのだろうか?ふとそんな思いにとらわれた。それから、「日南」をつかった俳句を探していたら、いろいろと、見つかってきた。
 
 あるブログにこんなことが書いてあった。
 新聞に飯田蛇笏の俳句が紹介されていたが、その俳句にある「日南」の漢字に、「ひなみ」という読み方が書いてあった。「日南」を「ひなみ」と読むのは間違いで「ひなた」と読むのではないだろうか云々、ということが書かれていた。
 
 「日南」は地名としての「にちなん」がある。
 ほかに、「ひなみ」と読む例もあった。また「ひなた」という読み方もある。
 「ひなみ」というのは、意味がわからないが、「ひなた」というのはなんとなくわかる。陽が当たっている場所を「ひなた」というが、それに「日南」という漢字を当てているのだ。
  でも、「ひなた」なら、漢字は「日向」「陽向」がすぐに思い浮かぶのだが、わざわざ「日南」と書いて「ひなた」と読ませるのはいささか凝りすぎのような気もするのだが。
  
 そこでなにはともあれ、「現代日本文学全集」(筑摩書房)第91巻「現代俳句集」を開いてみた。この文学全集はかなり古いものだ。
 
 第91巻「現代俳句集」を見ると、俳人・飯田蛇笏の俳句に次の一句がある。

 乳牛に無花果熟る丶日南かな

乳牛が居て、無花果の実が熟れていて「日南」となる。
この「日南」も、先の俳句の解説にあるように、宮崎県日南市の光景を詠んだものなのだろうか?それとも「ひなた」なのだろうか。

 字余りになるが宮崎県の日南市の無花果を詠んだ俳句としても読むことができる。

 ところが、この句はどうもそうではないようである。なぜなら、この文学全集には俳句の漢字には漢字のよみかたが小さいルビ活字で印刷してあった。
 
「無花果」には漢字の横に「いちじく」と読み方のルビがふってあり、「日南」には「にちなん」ではなく、「ひなみ」でもなく、「ひなた」とルビがふってある。

 漢字を読む際に、無花果を見て「いちじく」と読める人は問題ない。しかし、どう読むかわからない人もいる。そこで、無花果を「むかか」「むかじつ」などと誤読しないためのルビだ。おそらく筑摩文学全集の俳句集を担当した編纂者がつけたものだろう。

 この俳句にはもうひとつ、ルビのついている漢字がある。それが「日南」だ。これには「日南」の右に極小の活字で「ひなた」と書いてある。
 「日南」もどう読めばいいのか、そして、どういう意味なのか、なかなか判読が難しい単語である。
 「ひなた」のルビの意味はこの俳句では「日南」は「ひなた」と読むのであって「にちなん」「ひなみ」などとは読まないという注意書きということになる。「ひなた」とルビがついているので、ああこれは陽のあたっているという意味だなと、意味もわかる。
 
 ところで「ひなた」というのは、日南のほかには日当、陽向、日向という漢字もそう読まれている。イメージでいえば太陽があたっている情景や空間を「ひなた」といい、反対は「ひかげ」(日陰、陽陰、日影)となり、太陽が照っている中で、特に陽の当たらない場所を指すことになる。
 陽の当たっている場所に「日南」という漢字をなぜあてているのだろうか。想像だが太陽が登っているとき、北半球では太陽は南から照るために南側には日がよくあたる。そこから日と南がくっついて「ひなた」に「日南」の漢字があてられたのではないだろうか。陽向、日当、日向もだいたい似たような意味で「ひなた」と読まれているのだろうと想像する。
 
 ここに、飯田蛇笏の俳句を引用し、そのルビを書いてきた。それらを引用したのは、「現代日本文学全集」(筑摩書房)第91巻「現代俳句集」からの引用である。この古い文学全集は活字印刷であり、俳句のルビも極小の活字で丁寧に付けられている。漢字に読みを付けた編者の精緻な研究成果や印刷所の職工さんの活字を組み上げた労苦を想えば、読んでいてペイジを開くごとに感動を覚えずにはいられない。現在ではほとんど製作が不可能と言える貴重本である。
 この全集の俳句に付けられたルビのお陰で、「日南」を「ひなた」と読むということがわかったのである。本当にありがたいことである。
 
 昔話だが昭和20年代はもちろん、30年代に入っても普通にそこらに活版印刷所があった。子供の頃、新聞印刷専用の活版印刷所によく遊びに見に行ったがゴミ捨て場に銀色をした鉛?の活字が捨ててあった。それを拾って宝物のように持ち帰ったことを今でも覚えている。活字には大きい見出し用の大活字もあれば、中くらいの大きさ、紙面本分用の小さい文字の活字もあった。写真用は微細な凹凸のある板のような版があった。先に書いた「ルビ」用の活字は、物凄く小さい活字である。これを漢字の活字の横にぴたっと張り合わせて動かないように、するのは相当に難しい活字組の技術だったのだろうと思う。活字は手に取ると漢字やひらかなが逆さまの凸型になっている。その逆さまの文字を判別して上下間違いなく手にもった小さい箱に揃えて詰め込んでいくのだ。
 
 よく新聞記者は新米の記者には活版印刷所を見せない、と聞いた。印刷機のインクや鉛の活字で真っ黒になって働いている職工の姿を見れば、どれほど汗水たらして夜を徹して新聞印刷の活字が組まれているか、それも毎日、毎日の紙面に合わせて活字を拾い、新聞の型に合わせて拾った活字を組んでいくのである。
 新聞記者がその印刷所の光景を見たら、もし大スクープがあったり、自分の記事の間違いに気がついたとき、「新しく記事を差し替えるので組み直してくれ」と印刷所へ原稿を回すのに、ためらわないわけがない。せっかく何時間もかけて組み上げた活字の1ページ分の版組を全部壊して、また一から活字を拾って組んでいくのだ。
 だから新聞記者はよりよい原稿を書くために新人記者には活字印刷の現場は見せない、ということだろう。
 
 それと活字は印刷すると字となる凸面が摩耗するので、何回も使うことができない。そこで活字印刷所には活字の型があって、摩滅した活字を加熱して溶かして型に流し込み新しい活字を作っていた。長い柄のついた柄杓で活字を溶かした銀色の液体を掬って新しい活字づくりをしていた光景を見た気がする。それはたぶん活字を拾った庭のごみ捨ての穴の周りでやられていたような気がするが定かではない。もう小学生のころの記憶なので、60年以上も前の話である。
 
 日本で鉛活字による印刷がいつころから始まったのか知らない。子供のころに、山本有三の「路傍の石」という小説を読んだことがある。その中に、たしか、吾一?とかいう主人公の少年が栃木県かな?働くシーンがある。彼は印刷所へ就職して、大人の職工から活字を拾う仕事を教わるのだ。印刷所とか、活字を拾うという仕事がどんなものかわからずに読んでいて、なかなか、子供心に活字を拾うのは一日中立ち仕事だし難しい仕事だなという印象を受けた。
 
 新聞だけでなく、そもそも、本も昔は全部、活字で組んで印刷していた。
 印刷所には本を一冊印刷する活字の箱がうず高く積み上げられていた。
 これはしばらくは保存しておく。もし増刷になれば、この活字箱を出して印刷するのである。活字をバラせば増刷の場合はまた一から活字を組まないといけない。
 
 際限ないので、本稿で二回目の横道へそれるのは、これにて終了する。
 
 飯田蛇笏の俳句に「日南」が使われており、それは、「ひなた」という言葉であることがわかった。それはそれで一件落着と思えるが、先の右城暮石の「日南暑し・・・」の俳句も「にちなん」ではなく、「ひなた」が正しい読み方なのだろうか?しかし、日南市の日南だということも完全に否定されたわけではない。
 
先に飯田蛇笏の俳句「乳牛に無花果熟る丶日南かな」を引用して、この「日南」は「ひなみ」と読むということを紹介した。

ほかに、調べてみると以下のような「日南」を使った飯田蛇笏の俳句が見つかった。
いずれも、「ひなた」と読んでさしつかえないように思うが如何だろうか。

雷やみし合歓の日南の旅人かな

山茶花や日南のものに杵埃り

みさゝぎや日南めでたき土筆

渓流のをどる日南や竹の秋
 
 
 では「日南」をいつころから「ひなた」と読むようになったのだろうか。あるいは「ひなた」という言葉に「日南」の漢字を当て始めたのはいつころなのか?これはよくわからないのだが、一説には尾崎紅葉の小説にこの使用例があるという。
 「日南」を「ひなた」と読んだ例のはじめは、尾崎紅葉『多情多恨』(『日本国語大辞典』と書いてあるそうだ。
 そこで尾崎紅葉の小説「多情多恨」を図書館で借りて開いてみた。
 この本は筑摩書房の『日本文学全集』第二巻である。余談だが、図書館へ行く前に実はネットでこの本を買ったのである。本が届いたので開いてみると、「多情多恨」が載ってない。あれ、おかしいな?とよくよく見たら、私が買ったのは「現代日本文学全集」の第二巻、だった。同じ、筑摩書房であるし、第二巻であるし、全集のタイトルも・・・・・と、よく見たら私の買ったのは「現代日本文学全集」であった。
 「多情多恨」の載っているほうの全集は、「現代」のない「日本文学全集」なのであった。間違えて買ったのである。それにしてもよく似た全集があるものだ。
 こちらの方には、尾崎紅葉のどんな小説が載っているのだろうか。
 金色夜叉
 二人比丘尼色懺悔
 拈華微笑
 心の闇
 青葡萄
 
 この二巻にはほかに山田美妙、広津柳浪、川上眉山の三人の小説も載っている。これはこれで面白い。早速、「金色夜叉」を読み始めた。これが、また凄い文章である。難解な漢字が次から次に出てきて、その一つひとつに、ほとんど読み方のルビがついている。
 明治の作家は頭に入っている漢字の素養の桁が違う。しかも、これが文学とは言い難い卑俗な通俗小説だというのだから絶句するしかない。どれほど明治の教養人が知的レベルが高かったのか驚嘆するばかりだ。
 
 またここで、「金色夜叉」に深入りするわけにはいかないので、間違えて買った本は置いておくことにして、図書館から借りた尾崎紅葉の小説「多情多恨」の当該箇所を引用しよう。
 
 
「柳之助は又一遍座敷から茶の間へ通って、茶の間から座敷へ出て、座敷から縁へ出ると、お種と保との不断着が魚を開いたやうに日南(ひなた)に並べて干してある。(筑摩書房『日本文学全集』第二巻) 

 「多情多恨」について言うと少しだけ読んでみた。これが滅法面白い。現代でいうダメ男の物語である。そういうわけで、今年の後半の読書は尾崎紅葉にどっぷりと、はまっているのである。
 
 と、ここまでだらだらと書いてきたが、この長い文章の結論は、「日南」という漢字は俳句や小説では「ひなた」と読むことがある、というたったそれだけのことである。



関連リンクは ↓ 「右城暮石の俳句」
Posted at 2023/11/05 15:12:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日々の雑感 | 日記
2023年07月22日 イイね!

尾崎放哉。「墓のうらに廻る。」


「大空」(たいくう)という俳句の本がある。手元に置いてときおり開いて読む。復刻本だが古い活字の俳句集だ。この俳句を詠んだのは尾崎放哉(おざきほうさい)。彼は明治の人で鳥取市に生まれ最期は瀬戸内海の小豆島で身罷った。本名は尾崎 秀雄〈おざき ひでお〉1885年~1926年)。放哉の俳句の著作は生前にはなく死後に編纂出版された。
尾崎放哉は種田山頭火とともに日本の自由律俳句の代表的俳人として知られる。この自由律俳句というのは俳句と言っても季語があり五七五の定型にならういわゆる有季定型俳句ではない。季語もなければ五音、七音の韻律も踏まない。自由奔放な俳句でありいわば異端の俳句と言えるだろう。定型を重んじ季語を大切にする俳人からみればとても俳句とは言えないと言われても仕方ないような俳句である。
見方を変えれば短い詩とも言える。この総称して自由律俳句と呼ばれる俳人として尾崎放哉は我が国の俳界に確固とした爪痕を残した俳界の奇才である。今回は自由律俳句の簡単な紹介と尾崎放哉という俳人について書こうと思う。

 後で自由律俳句については書くが、まずは、尾崎放哉の詠んだ俳句を紹介してみたい。こんな俳句をどう思われるだろうか。これが俳句なのか?と感じられる人もおられると思う。
 
 咳をしても一人
 
 墓のうらに廻る
 
 春の山のうしろから煙が出だした
 
 
 こういう俳句を詠んだ人である。
 またこんな俳句もある。
 
 入れ物はない両手でうける
 
 こんな良い月を一人で見て寝る
 
 肉が痩せて来る太い骨である
 
 大空のました帽子かぶらず
 
 漬物桶に塩ふれと母は産んだか

 何がたのしみに生きてると問はれて居る

 たった一人になり切って夕空

 
 尾崎放哉は鳥取一中時代から俳句に親しんでいた。文学的には早熟であったと言える。また学業でも秀才として知られ上京して一高から東京帝国大学に入り、法学部を卒業している。卒業後は有名な保険会社に入社してエリートサラリーマンとなった。彼の人生は順風満帆に見えた。
 しかし生来の自己中で我儘な性格は社会人となっても変わらなかった。当然、世間との折り合いがつけられず職場では孤立する。その鬱憤や不満のはけ口を酒に求めた。その程度なら並の酒飲みだが尾崎放哉の酒は癖が悪すぎた。
 過度の飲酒は酒乱であり酒癖は仕事にも支障をきたすようになり、とうとう会社に居られなくなる。自暴自棄の日々を過ごす尾崎の心を癒やすのはやはり酒と俳句であった。
 彼の一生をここで詳述しないが、仕事を得て渡った朝鮮や満州の寒さの中で病を得た上に満身創痍の状態で帰国してからは唯一の理解者であった妻にも愛想を尽かされてしまう。その後の尾崎はいっさいの社会的な関わりを捨て世捨て人なる。寺の堂守など雨露を凌ぐだけの隠遁の場を転々としながら吾と我が身は悪性の肋膜炎という持病に蝕まれながら俳句を詠み俳句投稿一筋の生活に入る。
 そんな困窮、貧窮の隠者姿の放浪俳人となった尾崎放哉を支えたのは自由律俳句の俳句誌「層雲」を主宰する荻原井泉水など若い頃からの先輩、同輩の俳人仲間であった。かろうじて生きながらえつつ俳句三昧だけの尾崎は生活能力をまったく欠いていた。俳句を詠むほかの一切を捨て去った尾崎放哉は、荻原井泉水のはからいで最期の命の捨て場としての小豆島へたどり着き、そこで短い生涯を終えた。享年41歳であった。
 
 人は誰しもが心も身も着飾って世間の眼を欺いて生きている。いい悪いではなく、それが人間の世渡りをする実態である。しかし尾崎放哉の生き方はその正反対であった。
 世間そのものを断捨離し、いっさいの関わりを絶って身も心も無一物となった尾崎放哉にとっては虚飾は無用の長物であった。尾崎放哉は金も名誉も学歴も家庭もみな投げ捨てた。ありのままの素のままの自分で生きたいというのが尾崎放哉の願望であった。しかし、そういう潔癖さやある種の純粋さが世渡りの不器用さと相まって放哉は世の中に受け入れられない。その結果、どこへ行っても世知辛い人間関係の柵の中で孤立していく。
 人並みに生きることに悪戦苦闘する放哉は、憂き世の辛さのはけ口を酒に求めた。酒に溺れることで傍目にも自覚でも放哉は自暴自棄、人間失格さながらの破滅の極地に追いやられ鬱々とした日々を過ごす。
 そのような生活の中でも、放哉は俳句をつくることをやめなかった。
 日記を書くように、放哉は心の呟き、独白を俳句の言葉に写し取っている。
 
 尾崎放哉の俳句は世間に背を向けた無一物生活をそのまま詠む孤高な心境そのものの表白であった。俳句というものはこういうものだ、という固定概念、知識や常識を破り捨てた。文字とおりの「型破り」俳句が、放哉の独自性、個性であり、俳句をつくる流儀であった。尾崎放哉の俳句からは、どの句一つとってもうまい俳句をつくって褒められたい、世評を得たいというような色気は微塵も感じられない。人の目は意に介せず、ただ己が信じる俳句の細道をひたすらに追究しつづけている。
 ただ、自らの心境を見つめ嘘偽りのない、作りものでない、俳句をつくる。それが世間から脱落し放浪する破戒僧となった放哉の俳句道である。晩年の俳句にはそうした虚飾を一切拒絶した研ぎ澄まされた心境、心象風景、心模様、心情が自由自在に表現されている。
 
 尾崎放哉の句を収載した「大空」の句を鑑賞すれば、そこには季語も韻律も問わない俳句の原石ともいうべき漂白する放哉の魂が露呈しているだけである。放哉の句には、飄々として世間を超越した句境がある。おかしみや悲しみのないまぜになった独特の世界がある。また生きる根源苦からの救いを感じさせる言葉が随所にころがっている。
 俳句から技巧も捨て俳趣味も捨てなにもかも捨て去った無一物の俳句。自分さえも世の中から捨て去り命さえも捨て去ろうとして生と死の間を彷徨いつつ懊悩する我と我が身を放哉は凝視し深掘りし続けている。
自分をとことん掘り下げ自分をみつめる。それはほとんど底の抜けた柄杓で水を汲む虚しい営みそのものである。放哉の句の悲しや寂しさの底には底のない柄杓で汲めない水を汲むその虚しさが通低音のように音のない音を出して流れる地下水のように存在しているからだ。。
 放哉は徹底して己にこだわり、己を見つめ、わが心の内を呟き続けた。それが放哉の俳句になった。極めて私小説のような、私俳句であるが、私つまり、個の深化は普遍に通じるのだ。
 それが放哉の俳句である。

 底がぬけた柄杓で水を呑まうとした 
 
 この放哉の句、それこそが放哉の人生そのものであった。柄杓の底、それは自らの本心を偽る自制と虚飾の板である。それがなければ、金も名誉も家族も円満な人間関係などの何もかもが得られないということは放哉にはわかってはいた。両親も家族も親戚も知人、友人もみなそれを放哉に求めたはずだ。
 放哉が酒で人生を破滅させたことは放哉を知る誰もが証言している。
 善意で好意で哀れみでまた俳人としての放哉への畏敬の念で、放哉に手を差し伸べてくれる人はあまたあった。だが一杯の酒が酒を呼び、泥酔の極みで手を差し伸べてくれる恩情の人たちに対し、放哉は凄まじい酔眼でなじり、罵倒し、冷笑の罵詈雑言を浴びせるのが常であった。これでは話にならない。

 放哉は酒の誘惑に負け、酒乱の泥沼に自らを投身自殺させるような破滅の道を歩んだ。いくら反省し自戒してはいても、酒の前には自制の心はいとも簡単に砕け散った。わが心の欲するままに生きる放哉にとって世間は放埒な心を閉じ込める牢獄そのものだったであろう。
 放哉は心を入れ替えて底のある柄杓を持ちたいと願うこともあった。だが世間は放哉をすでに見放していた。放哉の手には、もはや、底の抜けた壊れた柄杓しか残ってはいなかったのである。
 晩年、孤独な放浪の果にせめて別れた妻の写真一枚でも見たいと本心から思った。しかし、妻にそういう手紙を出すこともできなかった。無視されることがわかっていたのだろう。それでも放哉はその手紙を妻に送ったようだ。返事は来なかった。これまでのハチャメチャな生き方を見れば妻に愛想を尽かされてもしかたない放哉なのであった。

 底の抜けた柄杓。それが放哉の人生だった。柄杓についた水滴くらいはしゃぶってどうにかこうにか喉の乾きを抑えられたかもしれない。しかい、当たり前に人が飲んでいる、柄杓の水を尾崎放哉は遂に飲むことができなかったのである。そんな放哉にとって、唯一の救いが俳句であった。


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上が尾崎放哉。
下の笠の人が種田山頭火。


●正岡子規●

 近代の俳句の源流を素描すると、まず短歌や俳句の確立に貢献した正岡子規にたどり着く。それまであった発句や俳諧と言った江戸の文芸から俳句と言う文学を確立しようと一身をささげた文学者であり俳人として知られる、正岡子規(1867年~1902年)。本名は正岡常規(つねのり)といい、愛媛県松山市に生まれた。俳号の「子規」というのは、「ホトトギス」という鳥を指す言葉。子規は結核のため喀血を繰り返す闘病生活を送っていたことから、自分を「のどから血を流して鳴くと」と言い伝えられている鳥のホトトギスに例えたと言われている。正岡子規は21歳のときに結核を患い、以後34歳で亡くなった。闘病のなかで今に残る俳句を生み出した。亡くなる数時間前まで句を詠み続け、短い生涯に残した俳句の数は20万句ともいわれる。彼の俳句は命の絶唱といえる。
 正岡子規の代表的な俳句は多いが少し紹介する。
 『柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺』
 『柿くふも 今年ばかりと 思ひけり』
 『 故郷や どちらを見ても 山笑ふ 』
 『 島々に 灯をともしけり 春の海 』
 『 夏草や ベースボールの 人遠し 』
柿の俳句が多い。正岡子規は、柿が好物だったようだ。

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正岡子規の写真 ↑


●高浜虚子●

 次にこの偉大な正岡子規の弟子に高浜虚子と河東碧梧桐の二人がいる。
 師匠の後継者として俳句の興隆を担った逸材である。
 高浜 虚子(1874年~ 1959年〉は愛媛県松山市の人。本名は高浜 清(たかはま きよし)。
 高浜虚子は学校で1歳上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わった。高浜虚子と河東碧梧桐は大の親友であったが、俳句観においては相容れず対立相剋し世間を騒がせた。

 子規の没後、五七五調に囚われない新傾向俳句を唱えた碧梧桐に対して、虚子は俳句は伝統的な五七五調で詠まれるべきであると唱えた。また、季語を重んじ平明で余韻があるべきだとし、客観写生を旨とすることを主張し、「守旧派」として碧梧桐と激しく対立し、俳句こそは「花鳥諷詠」「客観写生」の詩であるという理念を掲げた。(Wikipediaより引用)

 高浜虚子は、俳句の創作だけでなく、俳句指導者としても大きな存在となり、俳句の入門書を著し、俳句作家を育成した。また俳句を詠む女性が少なかった時代に女性俳人の育成にも力を入れた。そうした功績により1954年、日本政府から、高浜虚子は俳人として初めて文化勲章を受章した。その5年後の1959年に85歳で亡くなった。

 遠山(とおやま)に日の当りたる枯野かな
 時ものを解決するや春を待つ
 一つ根に 離れ浮く葉や 春の水
 道のべに 阿波の遍路の 墓あはれ
 牛も馬も 人も橋下に 野の夕立
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高浜虚子 ↑

●河東 碧梧桐●
 さて問題は自由律俳句である。正岡子規の門下にあって高浜虚子は伝統の有季定型の俳句を世に広めて大いに威勢をふるった。一方、正岡子規に師事した河東碧梧桐は季題趣味の脱却を目指した自由律俳句を進めた俳人で季題と定型にとらわれない自由律俳句を提唱し実作していった。その意味で、日本の自由律俳句の創始者は河東碧梧桐と言えるだろう。
 河東 碧梧桐(かわひがし へきごとう。1873年~1937年)は、正岡子規の高弟として高浜虚子と並び称され、俳句革新運動の代表的人物として知られる。
従来の五七五調の形にとらわれない新傾向俳句を創案し『新興俳句への道』(春秋社)という著書を出版している。こうした河東碧梧桐の定形にとらわれない新傾向俳句運動に参加したひとりが、これまた無季自由律俳句で知られる荻原井泉水(1884~1976)だ。
河東碧梧桐の段階ではまだ季語を含む自由律俳句も混在していた。だが荻原井泉水は更に一歩進んだ俳句の革新を試み、俳句に必須とSれていた季語や季題にとらわれず生活感情を自由に詠い込む自由律俳句を提唱した。
 こうした俳句革新の旗印を掲げた俳句誌『層雲』を主宰する荻原井泉水のもとに自由律俳句の異彩、鬼才というべき、尾崎放哉、種田山頭火が出現するのである。
 
 ここで自由律俳句を提唱しながらも季語を捨てさることはしなかった河東碧梧桐の俳句をみてみよう。有季あり無季あり、俳句情緒の滲む句もあれば脱有季定型に徹して突き抜けた句もあり、その創作感性は多彩にして非凡であり自由奔放にして独自の味わいに満ちている。

冬枯や 墾き(ひらき)捨てたる このあたり 
一軒家も過ぎ 落葉する風のままに行く 
この道の 富士になり行く 芒(すすき)かな 
千編を 一律に飛ぶ 蜻蛉かな 
愕然として 昼寝覚めたる 一人かな 
赤い椿白い椿と落ちにけり
鳥渡る博物館の林かな
思はずもヒヨコ生れぬ冬薔薇
松葉牡丹のむき出しな茎がよれて倒れて
正月の日記 どうしても五行で足るのであつて
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河東碧梧桐 ↑

●荻原井泉水●
 
 正岡子規、その弟子の高浜虚子、河東碧梧桐、という俳句革新の流れの中から、河東碧梧桐が突破口を開いた有季定型俳句を打破する自由律俳句の世界。その流れを更に大きく切り開いたのが荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)である。
 荻原 井泉水(おぎわら せいせんすい、1884年~ 1976年)は、東京の生まれの俳人で自由律俳句の俳人として知られる。自由律俳句に特化した俳句誌「層雲」を主宰して一時、河東碧梧桐も加わった。荻原井泉水は季語への未練を断ち切り、俳句には季語無用だと主張し、自然のリズムを尊重した無季自由律俳句を提唱した。この「層雲」に投稿する尾崎放哉や種田山頭火らを俳人として引き立て、育てたのは荻原井泉水の功労である。
 荻原井泉水の作風は、自由律俳句の中でも徹底している。
 季語を詠まないだけでなく、575音の韻律えも踏まないという徹底したものである。
 季語があってもなくても構わない、場合によっては言葉に韻律があってもよいとする緩やかな自由律俳句とは一線を画した。それが荻原井泉水の「無季自由律俳句」の特徴である。あとで尾崎放哉や種田山頭火の俳句を紹介するが、なんでこれが俳句?というような句のオンパレードに仰天される人もおられることだろう。だが、それこそ荻原井泉水の提唱した俳句革新の真骨頂なのである。
 荻原井泉水を師として、尾崎放哉(おざきほうさい)、種田山頭火(たねださんとうか)という奇才たちは俳句から季語を廃し十七音を無視して、口語で瞬間的な印象を読む無季自由律俳句を生み出していった。
 では荻原井泉水はどんな俳句を詠んだのであろうか。
 『論議の中につつましく柿をむく君よ』
 『 たんぽぽたんぽぽ 砂浜に春が 目を開く 』
 『 咲きいづるや 桜さくらと 咲きつらなり 』
 『 うちの蝶として とんでいるしばらく 』
 『 湯呑久しく こはさずに持ち 四十となる 』
 『 はつしと蚊を、おのれの血を打つ 』
 『 わらやふる ゆきつもる 』
 『 われ一口 犬一口の パンがおしまい 』
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荻原井泉水 ↑

●種田山頭火●

 さて、ここまでは書かずもがなの前置きである。いきなり、尾崎放哉の俳句から語りだしてもよかったのだが、それはあまりにもマニアックかもしれないと逡巡したのである。したがってわかっている人にはこれまでの説明はどうでもいい話ばかりで申し訳ない。そこで、ここでまたまた言い訳がましいのだが尾崎放哉の前に種田山頭火の句をどうしても紹介したい誘惑に駆られるのはしかたないことかもしれない。尾崎放哉は知らなくても、山頭火といえば何となく一度は名前を聞かれた人も少なくないだろう。それほど、自由律俳句は知らなくても山頭火は知っているというほど世間や俳句世界での山頭火の知名度は高い。
 
 早く放哉へ行け、とせかされるのは重々承知であるが、ほんのさわりだけ、山頭火の句についても触れておきたい。自由律俳句という山脈があるとすれば、山頭火という山はとんでもなく富士山のように高い巨峰なのだ。しかも今でも噴火している活火山なのである。まさに、山頭火なのだ。
 
 
 分け入っても 分け入っても 青い山
 後ろ姿のしぐれていくか
 ほろほろ ほろびゆく わたくしの秋
 焼き捨てて 日記の灰の これだけか
 どうしようも ないわたしが 歩いている
 まっすぐな道で さみしい
 生死の中 雪ふりしきる
 あるけばかつこう いそげばかつこう
 鉄鉢の中へも霰
 また見ることもない 山が遠ざかる
 この道しかない 春の雪ふる
 こころ疲れて 山が海が 美しすぎる
 生まれた家は あとかたもない ほうたる
 また一枚 脱ぎ捨てる 旅から旅
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 種田山頭火の俳句を初めて読んだのは、高校一年生のときで、どうしてその本が手元にあったのか記憶にない。たしか、山頭火の句集「草木塔」だった。その時受けた衝撃はいまもぼんやりとはしているが圧倒的なものだったことは記憶している。以来、折に触れては山頭火の句を読み返し読みかえししておりもう彼の俳句世界とは60年以上の長い付き合いとなる。それでも読むたびに新鮮で山頭火の紡いだ言葉の魅力にぞくぞくする。
 いまだに、山頭火の俳句は永遠の未踏峰のように燦然と高みに輝いていてその頂上は雲に霞んで見ることもできない。山頭火を追っかけても追いかけても、彼はいつもはるか先にいてその句境には近づくこともできない。
 そんな思いをする詩人が日本にもうひとりいる。それは日本語の文学表現を比類なき豊穣なものにしてくれた言葉の魔術師・北原白秋である。冗談だが、もし私がノーベル賞の選考委員なら、この二人にノーベル文学賞を贈りたい。
 どんどん脇道にそれていくのだが、本論は尾崎放哉である。
 
 尾崎放哉の人生や俳句について説明するのはやめる。山頭火と並んで自由律俳句の奇才と言う評価はすでに定まっている。私は枕元に放哉の句集をおいて寝る前に少しづつ読んでいるのだがなかなか進まない。その最大の理由は夜中の11時ころになると自然に眼が霞んで字が読めなくなるからだ。老化とはそういうものだ。若い頃には字が霞んで読めなくなるとは思ったことも感じたこともなかった。

 ぼうやりと字が遠ざかる
 
 自由律俳句を真似てみたがまことに駄句の極みだ。
 
 
 ここで少しだけ尾崎放哉の句をあげておこう。
 
 尾崎放哉は放浪の果に最後は小豆島に渡って最期を迎える。その僅かな時間の中でも多くの句を残している。一部をあげてみる。
 
咳をしても一人
いつしかついて来た犬と浜辺に居る
とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた
ビクともしない大松一本と残暑にはいる
障子あけて置く海も暮れ切る
足のうら洗へば白くなる
自分をなくしてしまつて探して居る
竹籔に夕陽吹きつけて居る
鳳仙花(ほうせんか)の実をはねさせて見ても淋しい
入れものが無い両手で受ける
雀が背のびして覗く俺だよ
月夜の葦が折れとる
墓のうらに廻る
あすは元日が来る仏とわたくし
夕空見てから夜食の箸とる
枯枝ほきほき折るによし
霜とけ鳥光る
お菓子のあき箱でおさい銭がたまつた
あついめしがたけた野茶屋
肉がやせてくる太い骨である
一つの湯呑を置いてむせている
白々あけて来る生きていた
これでもう外に動かないでも死なれる
大空のました 帽子かぶらず 
 
この中で、特に有名な句が「咳をしても一人」という句だ。
これほど人生の孤独、寂寥を表した文学表現を私は知らない。人間は生まれるも一人、死ぬも一人なのだ。咳をしても一人。さっきまで笑っていた人であっても、この句を読めば、涙が突然吹き出すほど寂しい俳句ではないか。
尾崎放哉が一生をかけて吐出したこの句の凄みは圧巻である。
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詩人とは何か問われれば、一生をかけて一つの詩を紡ぎ出した人のことだと言いたい。
一つの俳句、一つの詩、それを生み出すために、詩人は一生を費やすのである。
尾崎放哉はまさにこの句によって日本の詩に不滅の刻印を残したと言えるだろう。尾崎放哉という名前が忘れ去られても、「咳をしても一人」という俳句は永遠に残り人々に読まれ続けていくであろう。この句は不世出の俳人・尾崎放哉の俳人として生きた証なのである。

 もう一つ、誰も気になってしようがない放哉の句がある。それが次の句だ。これは尾崎放哉の代表作の一つと言われる。
 
 『墓のうらに廻る』
 
 なんとも不可解で奇妙な句だ。何を言いたいのか?なんでこんな句を作ったのか?おそらく、古今東西の世界中の詩人で、こんな詩を書いた詩人はいないだろう。無類の珍詩と言って良い。それだけにかなり難解であることは間違いない。書かれていることは明快で単純であるがその心は?と聞かれれば、謎だらけで言葉に詰まる。。
 墓のうらに、廻った、ということだけである。何も紛らわしいことはない。では、どういう意味が込められているのか?この句の意味、解釈は?と言われると答えに窮するのである。
 実は、この句の意味を探るというのがこの原稿を書き出した動機なのである。 
 長々と前段を書いてきたが、ようやく本論の核心に近づいてきた。私なりの解釈はあるのだが、その前に、いったいこの句を世間の人々はどのように解釈しているのかを見てみよう。
 誰が、どこに書いているのかは、あえて記さないことにする。
 ただ、この句をがどのように受け止められているのかがわかれば事足りると思う。
 以下、アトランダムに要点だけを列挙していく。
 
 
解釈①死にひきつけられる暗いイメージ

 墓石の裏側に廻るのは墓地で何気なくする行為であるが、「うしろ」でなく「うら」、「うらへ」ではなく「うらに」という表現に死にひきつけられる暗いイメージが漂っている。

解釈②この詠み味、余韻こそ芭蕉以来の俳句らしい俳句、俳句の中の俳句
 
 皆さんは墓の裏に廻ったことがありますか?私はあります。先日も廻ったばかりです。うろ覚えの道を辿って記憶も辿り「ここで良いはずだけど?」とぐるりと回って景色をみて思い出して。墓の裏に刻んである友人の戒名や俗名を確認します。ああ、ここで間違いない、と。血縁でない人の墓だと確認します。逆に、親族の墓だとそんなことはしません。表からお参りして、掃除をするときにまわるくらい。

ところで皆さんは古いお墓、放哉と同じ明治のお墓、江戸時代のお墓でも構いません。見たことがありますか?

その頃のお墓というのは今のようにピカピカの御影石ではなく、ざらついた緑褐色の脆い岩です。光るほど磨かれてもいません。

正面は今のお墓と大差なく家の名前が刻んであります。没年等の文字が刻んであるのは側面まで。裏に廻ると文字はなく、ノミのあとも生々しいざらりとした岩そのものがのっぺりとあるのです。平らにもしてありません。それが当時の普通のお墓です。放哉が見た墓はおそらくこのタイプです。

表から名前を見て故人を偲び手を合わせ、ふと裏に廻るとそこにはただののっぺりとした岩そのものの存在。表側が世俗的な儀式の場なら裏は即物的な、突き放したような無常観に包まれた世界です。放哉は、墓石を澪標として此岸から荒い岩肌のように冷たい彼岸を覗き見たのではないでしょうか。

「墓」という言葉は死に直結しどうしてもウェットになりがちです。そんな思いをたった9文字に凝縮し昇華することで、すっかりウエットさがなくなり、さらりとした詠み味にまでなっています。さらりとしていながら、深みを見つめる目があります。

自由律ではありますが、この詠み味、余韻こそ芭蕉以来の俳句らしい俳句、俳句の中の俳句だと思います。

解釈③裏に回って何か書いてないか?探してみた。

墓は人と見れば 表は立派かもしれない。
だがその人は、ほんとの姿はどんなものだったのか?
死んだ人の表の経歴には興味がない方際は、裏に回って何か書いてないか?探してみた。



解釈④どうにも、裏が気になる。放哉です。

人には表と裏と有る、
この人の裏に真の姿に興味がる。
けど、裏には何も書いてない。
墓場まで持っていった故人の秘密は誰も知らない。
墓を見ても、何も書かれてはいないだろうけど、どうにも、裏が気になる。放哉です。

解釈⑤すべてを捨て去ってなお残る感覚だけを本物の真実だと言いたい。

 俳句の三大要素といえば、「定型」「季語」「切れ字」が挙げられます。しかし掲句には三つとも存在しません。だからこの句を俳句ではないという人もいますが、一般的には自由律俳句と呼ばれています。
 放哉は現在の東京大学法学部を卒業して生命保険会社に就職しますが挫折。病気の悪化、妻子と別居と続き、後は各地の寺男を転々。妻子や家庭、仕事や名誉はいうに及ばず、俳句の三大要素まで捨て去った41歳の生涯でした。世の中の規則や規範に縛られることに堪えられなかったのかもしれません。
 掲句、不思議な臨場感があります。理屈でなく詩でもない力があります。墓はあの世とこの世の境界線上にあるといわれるが、どの墓も表から見るのと裏に廻って見るのでは全く異なった感じを受けます。表側にはその人の公式面が表れていて、裏側には隠そうとしている部分が垣間見えるのかも知れません。物事の裏側にある世界が表出しているのです。人間の文化は、たくさんの時間をかけて作られた虚構の世界であるとも言えます。放哉は保険会社に勤めていたときに表側の虚構に嫌気がさしたのかもしれません。寺男として墓守をしながら、たくさんの墓に接する中で裏側の世界に気付き、すべてを捨て去ってなお残る感覚だけを本物の真実だと言いたいのではないでしょうか。人生のすべてを懸けて追求した到着点がここだったのではないでしょうか。放哉の他の句からも同様な匂いがします。
  淋しいからだから爪がのび出す
  肉がやせて来る太い骨である
  せきをしてもひとり

解釈⑥墓石の裏を見て、みんなの息災を確認する。
「咳をしても一人」は晩年に小豆島で作った句です。病気で寝ていて咳をすれば、普通は、大丈夫ですか、とか言って家族が様子を見に来ます。しかし彼は一人なので誰も声をかけてくれません。咳をしても一人。

「墓の裏へ回る」久しぶりに故郷に帰ってきた。しかし実家の人々には今さら合わせる顔もない。それでも家族の安否が気になる。そこで墓に行って、墓石の裏を見て、みんなの息災を確認する。墓の裏に回る。

解釈⑦これは何を表現したいのかさっぱり分からない。
え?終わり?という感覚になる。
「三・三・三」。
「咳をしてもひとり」は、孤独を表したかったんだなという気持ちがなんとなく分かるが、これは何を表現したいのかさっぱり分からない。

ただ事実を述べているだけではないか。これがありなら「コンビニでタバコ買う」もありになりそうだ。
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 これくらいにしておこう。いま、あげた解釈の中に、うーん、そうだな、それだな、うん、と納得できる解釈はあったでしょうか。
 では、自分の解釈はこれだという感想はいかがでしょうか。俳句の解釈にこれが正しいというものはないようで、読んだ人が作者の当人でも思いもつかない解釈をしていると驚くこともあるらしい。
 そういうものだという俳句の解釈の常識はそれとして私は、この句について自分なりに納得できる解釈にたどり着いた。そこでそれを書いてこの論考を終えたいと思う。
 
 墓のうらに廻る。
 
この句の解釈は、文字とおりの、それだけである。
放哉は、墓のうらに廻ったのである。
そこで放哉は何をしたのだろうか。既存の解釈では墓石の裏に何が書いてあるのか見たというのもある。ほかはとくにないが、墓の裏で墓掃除をしたとか草を引いたとか昼寝したとかいろんな想像ができる。しかし、墓のうらへ廻る、というのは、墓石の裏側を見るとか、墓石の後ろを歩くとか、墓地のまわりを散歩するとか、そういう行動は連想しにくい。

 ごく普通に考えれば「墓のうらに廻る」というのは、墓石の後ろに廻って立っている、というのが自然である。墓石の裏に立てば、どうなるのか。墓石の前の方を見るのではないだろうか。つまり、墓石の前方のそこらの景色を見るためにわざわざ墓のうらに廻るのである。むしろ見ようとしなくても、墓の裏にまわれば墓の前方の風景が目に入るのは自然のなりゆきである。
「墓のうらに廻る」という俳句からは、放哉が意識して墓の裏に廻ったと読み取れる。
何のため廻ったのか。それは、極々単純に考えれば墓石の裏側から見える墓の在る墓地前方の景色を見るためだろう。
そのために墓のうらに廻った、というのがこの句である。墓の裏に廻って墓の前に広がっている景色をみたい。放哉はそう考えた。それは何のためなのか?

墓石の後ろから見える景色を見るために、墓のうらに廻りました。それはまあわかった。ではなぜ、墓の前の景色を見たかったのか。その理由や説明は、この句には書かれてはいない。
廻った理由を述べる件はこの句ではばっさりと省略されている。
俳句は説明ではないからだ。そこは読み手の想像に委ねられているのである。
ただ、これだけは想像できる。放哉は生きながらにして死者の視線をもって墓裏に廻っているのだと。

なぜ放哉は墓に行って、しかも、墓の裏にまで廻ってみたのだろうか。
墓には誰が入るのか。死んだ人が骨となって墓に入っているとすれば、骨となった人が見る墓石からの景色は、墓に向かって墓の表を見ていては見ることができない。
墓の裏に廻ってみれば、墓からどんな景色が見えるのか、わかる。否、後ろに回らないと前の景色は見えないのである。

放哉のこの視線の移動は、死者となり、骨となった自分の視線を自分の足を使って追っている。
放哉はこの墓に埋められたとする仮定の自分を想像をして、俺が死んでこの墓に入れば、どんな景色が見えるのか、と気になって墓のウラに廻って見たのだろう。
放哉は自分が死んでしまった気持ち、さらにいえば、お骨になりきって墓のうらに廻ったのである。まだ生きてはいるが、死後の骨となった己の視線さえも放哉の中では二重になって動いているような印象を受ける。
墓の後ろに立った放哉はここから、大好きな海が見えるのかな、と。この墓のある場所のような海の見えるような場所に、海に向かって墓を立ててほしいなと願っていたのだろう。

 もちろん、この解釈を押し付けるつもりはない。私の妄想である。

 放哉は死んだ気分になり、墓に入ったお骨の気分になって、墓のうらにまわり、そこから見える景色を見ていたのだ。もはや結核菌に全身を侵され、痩せ細り、死の影が取り憑いている。放哉は、自分の余命はいくばくもないことを痛感する日々である。そういう放哉にとって無条件に自分を許し、抱きしめてくれる穏やかな海の変わらぬ景色だけが救いであった。
放哉は自分が死んだつもりで、死者の気分となって墓から見える前の景色を確認したかったのだ。墓の裏から放哉はどんな景色を眼にしたのであろうか。
たぶん、そこには小豆島を取り巻く青い瀬戸内海の海原が輝きながら広がっていたに違いない。
 自分が骨となってしまったらもう何も見えない。だからせめてまだ命のあるうちに、墓から見える景色を眼に焼き付けてみたかったのだろう。それはいずれ骨片となるに違いない骨となった自分へ無一物の自分がせめても贈ることのできる精一杯の心尽くしだった。


 ここまで書いて私は芭蕉の有名な俳句「古池や蛙飛び込む水の音」を思い出す。
 この句にケチをつける人は誰もいない。しかし、放哉の「墓のうらに廻る」を知った今、この芭蕉の句が途端に色褪せるのを感じざるをえない。句の下五の「水の音」は言ってみれば説明であり句の想像派生、イメージを「水の音」に限定している。また蛙が池に勢いよく飛び込んだのだから、ボチャンと大きな水の音がするのは当たり前で、この連想は通にして俗であり、月にして並である。
 むしろ、この下五により句そのものが矮小化してしまったとさえ言えるのではないかと思えてくる。
 放哉は、どうかと言えば、この句において、芭蕉の句における「水の音」を付け加えていない。そこが芭蕉の句との大きな違いである。放哉の鍛えた自由律俳句の真骨頂がそこにある。
 つまり、一つの例をあげれば、「墓のうらに廻る青い海原だ」と書くこともできた。そう想像することもできるのだが放哉はそうは書いていない。青い海原、と書けばそのイメージに限定されてしまう。私は真昼の海原を連想したが、人によっては夕陽の沈む落日の海を連想するかもしれない。瀬戸内を真っ赤に染めて水平線に沈む夕陽に西方極楽浄土を重ね合わせることもできるだろう。その夕陽は空も海もまた小島の墓石も、その裏に立っている放哉までも夕焼けの赤に染め尽くしているだろう。
 
 放哉は、芭蕉の句で言うならば「古池や蛙飛び込む」で句を止めた。つまり「墓のうらに廻る」とだけ書いてあとは省略している。そこから見えた光景は読者に預けたのである。
そう思えば、この句において放哉は芭蕉を超えた、と言えば言いすぎだろうか。

 放哉は墓という骨となった自分の終末の居場所を見据え、しかも、その裏に廻るという陰の世界に身を置いて見せた。しかし墓の裏から振り向いた放哉は次の瞬間に、人の生死を超えて青く輝く悠久の瀬戸内の大海原の大パノラマが穏やかに広がっている光景を眼にしたのである。この鮮やかな陰から陽への大転換の恍惚の瞬間をたしかに放哉は痩せて骨と皮となった全身で味わったに違いない。その歓喜を言葉に結晶させたのがこの句であろうと思う。
 「咳をしても一人」という寂寞の極地を味わった放哉は、「墓のうらに廻る」ことによって眼前の海原に身を委ねることができた。放哉にとっての阿弥陀浄土ともいうべき海に抱かれて眠る死後の自分のいる光景を実感することによって永遠の救済を得たのではないだろうかと想像するのである。
 
 死期の迫っていた尾崎放哉は、大好きな海の見えるこんなお墓に入れたらいいなと思いつついつまでも墓の裏から立ち去りがたかったのではないだろうか。

 放哉は海を見ることを好んだ。
 海は母であった。
 放哉にとって厳父の存在はどうでもよかったが、自分を慈しんでくれた母の存在は絶対であり追慕の念を片時も忘れることはなかった。そして、母なき今は、母の慈愛を海に仮託して感じるのであった。放哉は海に母の無限の慈愛を思わずにはいられなかった。小豆島という瀬戸内海の海に四方を囲まれた島はまさに放哉にとって母の懐に還ってきたように心安らぐ安住の地であった。

「自分はあのやさしい海に抱いてもらへる、と云う満足が胸の底に常にあるからであらうと思ひます。丁度、慈愛の深い母親といっしょに居る時のやうな心持ちになって居るのであります。
 私は勿論、賢者でも無く、智者でも有りませんが、只、わけなしに海が好きなのです。つまり私は、人の慈愛・・・と云うものに飢ゑ、渇して居る人間なのでありませう。處(ところ)がです、この、個人主義の、この戦闘的の世の中に於いて、どこに人の慈愛が求められませうか、中々それは出来にくい事であります。そこで、勢い之を自然に求める事になってきます。私は現在に於いても、(中略)父の尊厳を思ひ出すことはありませんが、いつでも母の慈愛を思ひ起こすものであります。母の慈愛・・・母の私に対する慈愛は、それは如何なる場合に於いても、全力的であり、盲目的であり、且(か)つ、他の何者にもまけない強い強いものでありました。善人であらうが、悪人であらうが、一切衆生の成佛を・・・その大願をたてられた佛の慈悲、即ち、それは母の慈愛であります。そして、それを海がまた持っているやうに私には考えられるのであります。」
 (尾崎放哉 俳句集「大空」 入庵雑記 海 より)
 
 死の前にして放哉は海を眺めた。墓のうらに廻って、どこまでも広がる海原を見た。それは、海でありながら、母そのものだった。放哉にとっては、もっとも心安らぐ、母の無限抱擁そのものであった。
 この頃の放哉はまるで骨と皮になり食べ物も喉を通らなくなっていた。あと、何日、命が持つかわからない。自分に残された命はあと幾ばくもないないいことを自覚する中で、やっとの思いで外に出て海を眺めた。母の懐に抱かれているような安らかな思いに満たされている放哉の姿がそこにはあった。
 実際に尾崎放哉のお墓は海の見える小豆島の明るい墓地の高台にある。
 
 合掌。



  ★関連情報に尾崎放哉のリンク★
 
Posted at 2023/07/22 16:08:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | 読後感想文 | 日記
2023年01月23日 イイね!

和歌山県の歌

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串本節 Kushimoto-bushi( 江利チエミ Eri Chiemi )( With loose English translation of lyrics )

和歌山県の歌でよく知られているのは?
串本節、と言う人が多いハズ。いい歌ですね。これは珍しい江利チエミの歌う串本節、です。
串本は和歌山県のある紀伊半島の最南端、その前に大島がある。
民謡は串本節が有名だが、和歌山県には昔、県民を鼓舞する歌があったらしい。
その幻の和歌山県の唄が発見されて話題になっている。

幻の和歌山県勢歌、ボカロで再現 戦前「大毎」紙面に楽譜

 1939(昭和14)年に発表されたが、歌い継がれずに幻となった和歌山県テーマソング「県勢歌」。県立博物館(和歌山市)の調査で、大阪毎日新聞(現・毎日新聞)の記事から楽譜と歌詞が見つかった。判明した全容を館のパネル展「よみがえる『和歌山県 県勢歌』」で紹介。音声合成ソフト・ボーカロイドによる歌唱を館ホームページや会場のQRコードで公開している。展示は3月5日まで。

 県では48年、現在も歌われる山田耕筰作曲、西川好次郎作詞の「県民歌」が制定されている。20年ほど前から時折、「終戦前に歌った県の歌について教えてほしい」と、高齢者から歌詞や楽譜の問い合わせが県に寄せられたが、既に関係資料は処分され回答できなかったという。2022年10月になり作曲者、鈴木富三さん(1997年死去)の横浜市在住の遺族、鈴木徹さんから、富三さんの妻の記憶を頼りに書いた楽譜や、作曲当時の写真など具体的な情報が寄せられたため、館が本格的な調査を開始した。
  https://mainichi.jp/articles/20230116/k00/00m/040/097000c

 (毎日新聞のリンク ↑)
 
 
 令和5(2023) 年1月7日(土)~3月5日(日)
パネル展 よみがえる「和歌山県 県勢歌」
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 昭和14年(1939)5月に和歌山県統計協会によって制定された「和歌山県 県勢歌(けんせいか)」は、この種の県民歌としては全国的にみても先駆的で、和歌山県の自然・歴史・産業が盛り込まれ、曲調は明朗潑剌としたものになっています。当時は学校を中心に歌われることが奨励されたため、高齢の県民の中には、記憶されている方も多いようですが、公的な記録が失われているため、これまでこの曲の正確な情報を示すことができませんでした。

 このたび、作曲者の鈴木富三(すずきとみぞう)(1910〜97)の子息・鈴木徹(とおる)氏からこの曲に関する情報と再現された楽譜等を提供いただき、それらをもとにした調査により、忘れられていた「和歌山県 県勢歌」がよみがえることになりました。

 これに合わせて県立博物館では、「和歌山県 県勢歌」の歌詞や楽譜、当時の新聞記事などを紹介する下記パネル展を開催します。

下のリンクでボーカロイドでの県勢歌の唄が聴けます。
 https://hakubutu.wakayama.jp/exhibit/kenseika/
 

 申し訳ないけど、私としては、いま歌われている新作の和歌山県の唄よりも、こっちのほうが聞いていてメリハリがあって歌詞も明確で断然いい。歌詞も曲も心地よい。和歌山県のみなさんは、どうだろうか。 


  
 よみがえる 和歌山県 県勢歌
 
 https://hakubutu.wakayama.jp/cms/hakubutsu-management/contents/uploads/2023/01/%E3%82%88%E3%81%BF%E3%81%8C%E3%81%88%E3%82%8B%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E7%9C%8C%E5%8B%A2%E6%AD%8C.pdf
 
 
 
 ここで県民の歌というものが他にもあるのか?という疑問を持たれる方もいるかもしれない。あるいは、我が県の県民歌を知らんのか、と言われるかもしれない。
 私が知っている県民こぞって歌うのは長野県の「信濃の国」で、これは歌えないと長野県民ではないとさえ言われるほど有名である。1900年(明治33年)発表されいまだに歌い継がれている。これは県民歌の草分けかつ代表格だろう。
 そこでちょっと安易だが(Wikipediaより引用)してみた。現在、形式的にも県民歌の存在しているのは、44であり、東京都の歌などは占領軍のGHQの命令で制定したというから驚きだ。また兵庫県はなぜか行政が県民歌は存在しないと否定しているらしいが実際にはあるという。なぜ兵庫県が県民歌の存在を否定するのか、なぜなんだろう。そのほうが気になる。ほかには県民歌のない県もあるそうだ。 
そこで全国県民歌事情をちょっと考察してみよう。
 
 都道府県民歌を制定していない府県
 
2012年(平成24年)現在、大阪府・広島県・大分県は都道府県民歌を制定していない[4]。ただし、大分県には2004年(平成16年)まで県民歌に準じた扱いで県民手帳に紹介されていた非公式の楽曲「大分県行進曲」が存在する。

大阪府と広島県はそれぞれ1996年(平成18年)のひろしま国体、1997年(平成19年)のなみはや国体開催に合わせて体育歌や府旗掲揚場面演奏歌を制作しているが、いずれも認知度は低いか無いに等しいのが実情である。

兵庫県は長年にわたり「未制定」とするのが通説であったが、実際は1947年(昭和22年)に「兵庫県民歌」が制定されていたことが神戸新聞社の取材で明らかになった。県は2014年(平成26年)までこの県民歌の存在を否定し続けていたが、廃止の事実は確認されていない。

旧外地の州歌
「旧外地の自治体歌」も参照
旧外地のうち台湾では、台北州・台中州・台南州など一部の州が内地(日本本土)の県民歌に相当する州歌を制定していた。朝鮮の13道および関東州では道歌・州歌の制定は確認されていない。
 
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E9%81%93%E5%BA%9C%E7%9C%8C%E6%B0%91%E6%AD%8C
 (Wikipediaより 県民歌の項目です ↑)
 あなたの県の県民歌ご存知ですか?


 さて和歌山県といえば私は佐藤春夫をまっさきに思い出す。詩人として知られているがいまの人は彼の詩を読まれたことがあるのだろうか。「秋刀魚の歌」はいかにも和歌山生まれの彼らしい詩だ。私は初めて和歌山を列車で旅したとき駅のホームで「さんま寿司」を買って食べた。一匹の脂ののったサンマを甘酢で締めた絶品だった。和歌山には、こんなおいしい寿司があるのかと思った。
 佐藤春夫の「秋刀魚の歌」は実は哀しい詩だ。
 
 
さんま、さんま、
さんま苦いか塩つぱいか。
そが上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。
あはれ
げにそは問はまほしくをかし。

 この詩の最後の、この箇所を読むと、なぜか、何度読んでも泣けてくる。

 ご存知の方には言わずもがなだが、佐藤春夫は谷崎潤一郎との間に一人の女性をめぐる派手な確執があった。谷崎潤一郎と冷たい仲になった奥さん。谷崎の友人の佐藤春夫はその奥さんを哀れに思っていたのだがいつしか奥さんと佐藤春夫が恋仲になっていった。そのころ、谷崎は奥さんの実の妹が気に入って「なら佐藤君、おれの女房をあんたに譲るわ」という話になった。そのまますんなり行けば、まあ、そうある話ではないけれども波風立たずに済んだのだが・・・・・。その顛末はややこしいので以下のリンクでごらんください。
 
 
谷崎潤一郎は奥さんを譲渡する、しないで友人ともめる/『文豪どうかしてる逸話集』⑤
https://ddnavi.com/serial/575920/a/2/

 最後は佐藤春夫記念館の話。
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 新宮に旅したとき、速玉大社を参拝した。その境内の一角か、隣接地に佐藤春夫記念館という洋館があった。おお、我が敬愛する大詩人の記念館がこんな場所にひっそりとあるとは。さっそく見学させていただいた。二階もあって狭い階段を上り下りした。一階には佐藤春夫の吹き込んだレコードがあって彼の自作の詩を肉声で聞くことができる。
たしか、この「秋刀魚の歌」のレコードもあったように思う。 
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 またこの記念館には新宮に関する資料も展示されていた。
 かつて新宮には大規模な浮島遊郭があって、その経済規模は新宮市の予算よりも大きかったとか書いた古い新聞記事も展示されていた。詳細はおぼえていないけど、そんな記事を読んで昔の新宮の賑わいが凄まじいものだったことがわかった。やはり、熊野川を筏で下ってくる奈良、和歌山の木材の集散地としての繁栄が新宮を発展させたのだろうと思う。
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 新宮(浮島遊廓跡地)現在の浮島の森の北側

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新宮 浮島遊郭全景の 絵葉書写真

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 http://kokontouzai.jp/archives/3568
 

秋刀魚の歌           佐藤 春夫


あはれ
秋風よ
情こころあらば伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉ゆふげに ひとり
さんまを食くらひて
思ひにふける と。

さんま、さんま
そが上に青き蜜柑みかんの酸すをしたたらせて
さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。
そのならひをあやしみなつかしみて女は
いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。
あはれ、人に捨てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の児は
小さき箸をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸はらをくれむと言ふにあらずや。

あはれ
秋風よ
汝なれこそは見つらめ
世のつねならぬかの団欒まどゐを。
いかに
秋風よ
いとせめて
証あかしせよ かの一ときの団欒まどゐゆめに非ずと。

あはれ
秋風よ
情あらば伝へてよ、
夫を失はざりし妻と
父を失はざりし幼児とに伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて
涙をながす と。

さんま、さんま、
さんま苦いか塩つぱいか。
そが上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。
あはれ
げにそは問はまほしくをかし。
(大正十年十月)


佐藤春夫 青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/001763/files/56872_58817.html


●特別付録●
(昔の雑誌に、よく、特別付録なんてついてましたね)

コメントをいただいて、そういえば、「運動会の歌』をブログに書いたなと思い出しました。これも、和歌山県の歌、なので、ご紹介します。ご笑覧ください。



和歌山限定だったなんて…初耳でした!
「待ちに待ちたる運動会」
https://minkara.carview.co.jp/userid/573300/blog/36409625/


和歌山県限定の「運動会の歌」
https://minkara.carview.co.jp/userid/2337428/blog/36654403/
Posted at 2023/01/23 12:19:40 | コメント(1) | トラックバック(0) | 四方山話。 | 日記

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「外国人の「外国免許切替(外免切替)」制度をめぐり短期滞在者がホテルの住所で日本の免許を取得することについて、ホテル滞在による「支障は把握していない」とする初の答弁書を閣議決定した。それで良いということだ。
日本保守党の竹上裕子衆院議員の質問主意書に25日付で答えた。無責任だろ。」
何シテル?   05/18 14:14
 趣味は囲碁、将棋、麻雀、釣り、旅行、俳句、木工、漆絵、尺八など。 奈良、京都、大阪、和歌山の神社仏閣の参拝。多すぎて回りきれません。  奈良では東大寺の大...
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