
カクシカおじさんのページへいつもご訪問いただいています皆様、新年あけましておめでとうございます。
新年第一号のブログとなりますこのページ、新年の幕開けにふさわしく京都・東山慈照寺(とうざん じしょうじ)、通称銀閣寺を取り上げたいと思います。
ちなみにここのタイトル写真は銀沙灘から見た銀閣寺・観音堂を撮影したものです。
古都京都には観光地がたくさんありますが、見どころの一つに銀閣寺があげられると思います。
実際ここを訪れますと、平日にもかかわらずたくさんの観光客が絶えず入場してきます。本当に人が写っていない写真を撮るのが非常に難しかったです。人が途切れるのをだいぶん粘ってから撮影しました。なおここへの訪問日&写真撮影日は2011(平成23)年 12月 6日です。
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時は1482(文明14)年、学校の歴史の時間でも必ず登場してくる、11年もの長いあいだ戦乱が続いた応仁の乱(1467年・応仁元年~1477年・文明9年)がやっと終結してから5年後、1482年(文明14年)から後世に残る銀閣寺が作られ始めました。そして1489年(延徳元年)上棟されたので、このあとまもなく完成したようです。
で、この当時、うち続いた戦乱のため京都は丸焼けに近く?疲弊していたところなので、豪華な東山殿の建設は当然庶民の反感を買うことになります。
現在まで残っているのはわずかに観音堂(銀閣)と東求堂(とうぐどう)のみで、訪れますと案外とこじんまりとしていて、現在残されている規模ならとても大規模な造営とはいえませんが、建設当時はどうやらもっと広い面積とたくさんの大きな建物が建っていたとか。

(銀閣寺案内板)

(慈照寺 ご由緒板)

(東山慈照寺 総門)

(観音堂 : 北側より撮影)
この上の写真が慈照寺の中心的建物となる観音堂です。もちろん現在は中に入ることが出来なくなりましたが、銀閣寺の売店でも売られている、淡交社刊 「古寺巡礼 京都11 銀閣寺」 という本には、観音堂の中の写真が掲載されていまして、それを見ますと二階には観音様が祀られ、一階には小さいながらたくさんのお地蔵様が祀られています。
もちろん慈照寺という名のとおり、お寺ですから何がしかのご本尊が祭られているのですが、室町幕府の威勢、地に落ちつつあったとはいえ、いやだからこそ足利義政の人生のすべてをここにかけたのでしょう。

(観音堂および向月台)
でも「古寺巡礼 銀閣寺」の本の写真を見ますと、将軍の住まいにしては驚くほど質素で、室町幕府の絶頂期に足利義満が建立した、金箔貼りまくりのいかにも権力を誇示するかのような金閣寺とは違い、観音堂はもちろん初めから銀箔などは貼られていなかったし、中もビックリするほど素朴な造りです。
元来、ここはもともとは東山殿と呼ばれていて政治も兼ねていたようですが、
「銀閣」の名はどうやら江戸時代から使われ始めたようです。
また義政の遺言により彼の死後、
宗教的要素だけでなく文化的要素も大いにあった禅宗の宗派の一つである、
臨済宗の寺院へと改められて 「東山慈照寺(読み:とうざん じしょうじ)」 へとなるのです。
そして向月台と銀沙灘の横にある国宝 東求堂を過ぎると
展望台へいく道がありましてそこを登っていきます。
途中には分岐があり左手のほうへ入っていきますと お茶の井が。
お茶の井から元に戻り、
展望台の頂点へいきますと観音堂とともに京の街並みが見えます。

(展望所から見た銀閣=観音堂, トリミングにより拡大)
ここから見渡せる現代の街並みはとても殺風景な感じですが、
開発が進む前はとても趣きがあったのでしょうね。
そして展望所を降りると慈照寺のいちばんの見所である、
観音堂の手前にある錦鏡池の前から撮影した露出オーバーな写真が下写真です。

(観音堂 : 錦鏡池より撮影)
手前の池、名を錦鏡池(きんきょうち)といいますが、
この何の飾り気のない中での美しい緑色をした池と、観音堂と調和のとれた木々が美しいこと。
ただ一つ悔やまれるのは、この当時まだカメラ初心者だった私。
最初の看板を露出+1.3で撮影後、露出補正を戻すのを忘れまして、すべての写真がオーバー露出のまま撮影されてしまいました。ここに掲載するにあたり極力修正したものの、もう直せなかった写真ばかりでお恥ずかしい限りで、特にこの写真は全く直らず仕方なくそのまま掲載しております。
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元々この足利義政という将軍、将軍家の血を引いていたため家督を継いで室町幕府の八代将軍となるのですが、最初は政治にも真剣に取り組んだようです。
ただ六代将軍であった父の足利義教(よしのり)が強烈な強権政治をおこなったことで、播磨国の赤松満祐・教康親子に殺害された(1441年・嘉吉の乱)こともあり、その反動があったのか強い指導力を発揮することもなく、どうやら実務的・政治的能力はかなり乏しかったようで、どちらかといえば幼い時から得意だった文化的要素へと、次第にのめり込んでいくようになります。

(足利義政像,土佐光信画 東京国立博物館蔵 : ウィキペディアより)
しかももらった奥さん(正妻)というのが日野富子で、この正妻は義政とは全く正反対ともいえる性格だったようで、しかも実務能力にもかなり長けていたというから歴史は皮肉なものですが、政治的・家庭的にも孤立した中で東山文化を残すことだけに自分の人生を賭けたのでしょう。またはそういう天命だった将軍なのでしょう。
そのせいなのか、東山殿を造るときに妻側からの援助は一切なかったようです。
そしてこの足利義政がやり始めた、
京都の東山文化の中心的存在である東山殿 (義政の死後、遺言により寺へとなる) から、
禅宗との和合を図りながら東山御物が誕生して東山文化が育っていきました。
こちらの写真は現在も残る国宝 東求堂(とうぐどう)ですが、義政の居住地だったようで、
お隣の観音堂とともに戦乱による火災炎上からかろうじて免れ、今日まで残りました。

(国宝 東求堂)
その東求堂の中にある、和風建築の書斎の原型ともなった同仁斎(どうじんさい)

(同仁斎の中 : 筆者所持の絵葉書より)
雪舟の墨絵とかではありませんが、この同仁斎にしても一見非常に質素のように見える中にも味わい深いものがありますよね。金閣寺に象徴されるようなド派手さはここには全くないけれど、質素だからこそよりいっそう深く染み入るものがありますね。

(雪舟の天橋立図 所蔵:京都国立博物館)
そしてここから発祥していった、いぶし銀みたいなこの質素な中にある美意識という感覚が、これまでの日本人にはなかった新たな文化として育っていき、書院造りやら床の間といったような建物にも、日本人の魂の中にもちゃんと残っています。
日本文化の源流や建築様式は、大方この室町期にだいたいの骨格が出来上がり、江戸時代とかに再建された建物でも、この時期に確立したものが基礎となっているようです。
その質素の中の美、銀閣と最もお似合いといえるのがこの雪を頂いた銀閣寺です。
足利義満が建立した金閣寺が「陽」、または季節で言えば「初夏」か「夏」とすれば、
この真冬の雪景色が最も似合う、足利義政が建立した慈照寺は「陰」にあたりますね。

(雪景色の観音堂 : 2005.2.4撮影 ウィキペディアより)

(雪景色の銀沙灘と観音堂 : 筆者所持の絵葉書より)
残念ながらこの雪をいただいた銀閣の写真は拝借なのですが、
色のない美しい穢れのない純白な雪をいただいても、素朴な銀閣とはよりいっそう調和がとれ、素朴だからこそより美しく感じます (これはあくまで私の主観です)。
現代でもよく使われています「奥ゆかしい」とか「幽玄の美」とか「渋い」といった、外国人にはなかなか理解できにくい日本文化独特ともいえる要素の発祥元がここだと思えば、政治的には最悪の評価に近い足利義政も、後世に残した文化的業績は大いに評価されてもいいのではないでしょうか。
もちろん足利義政自身は、そんなことを意識して東山文化を残したわけではないと思いますが、この使命を果たすためにきっと生まれてきて、暗殺された父の後を継いだ兄の足利の七代目の将軍はわずか10歳の若さで若死にし、文化的素質が大いにあった弟の義政が八代将軍となって室町幕府の跡継ぎとなったのでしょう。
【関連情報URL】には、当フォトギャラリーに銀閣寺関連の写真を2連投で掲載しています。
【2013.8.9 追記】
なお、ここに掲載した写真ですが、まだ本格的なカメラ(シグマ DP1x)を購入してまだ日が浅かったせいか、最初の案内板の写真を撮影後、カメラの露出補正を戻すのを忘れまして、このとき撮影した写真はすべて+1.3に露出補正したまま撮影してしまいました。しかも手振れが盛大なものもありますね。
今回RAW現像自体から再度やり直しまして、極力露出オーバーも可能な限り修正しましたが、修正しきれなかった写真は今のところそのまま掲載しています。また後日ここを訪ねたときには写真を撮り直して差し替えたいと思います。
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【2018.10.10 追記】
もう一昨年前になりますが、2017(H29).1.16の月曜日、前日の15日に天気予報を見ているとどうやら翌日16日の京都市内は雪が降りそうだということで、しかもうまい具合に仕事休みだったので、15日の夜半から知人を連れて京都まで繰り出すことに。
そして朝9時の開門と同時に、雪景色の銀沙灘や向月台から見える観音堂を速攻で撮影しました。もちろん同じことを考えている人も当然いますので、寒~い早朝から幾人ものカメラマンが殺到しておりました。
撮影時のお空は曇り空で青空ではありませんでしたが、
何年か越しにやっと雪景色の銀閣寺境内を、手持ちの3台のカメラを駆使して撮影いたしました。

(2017.1.16 雪化粧した銀閣寺境内と観音堂)

こちらの屋根に積もった雪の厚みからすると10cm近くの積雪だったようです。
それから観音堂の裏山に登って展望所から撮影。
毎度のことながら、シグマのカメラのホワイトバランスが不安定で、しかも暗部に弱いフォビオンの撮像素子、撮影日は天気が悪くて被写体自体が暗いといったこともあり、1枚の写真の中でさえ雪の色がかなり変色しておりバラバラな色彩ですが、これはご愛嬌で。
展望所から降りますと、錦鏡池(きんきょうち)という池の前に出ますが、
ここで雪景色の観音堂を1枚。

(観音堂 : 錦鏡池より撮影)
何故かうれしくもこの時だけ少しばかりお空が晴れまして、被写体が暗いなかでも背景に青空が入った雪景色の観音堂を無事撮影することができました。
本当は雪景色の銀閣寺編のブログを新たに作ろうとしたのですが、いたずらにブログ数を増やすよりも、過去のブログに追記したほうが良いと思い、2012年のお正月にアップしたこのブログに追加掲載いたしました。
【 番 外 編 】
銀閣寺の撮影を終えた後、余興で金閣寺(北山鹿苑寺)にも行ってみようということになり、金閣寺に直行。こちらは地味な銀閣寺とは違って珍しい雪景色の金閣寺ということで、人が殺到して大変な混雑になっておりました。
ここに到着直後の10:45にまず撮影したのがこちらの写真。
また雪が降ってきて寒くてたまらなかったです。
こちらは広角28mmレンズのシグマ DP1メリルで撮影したもの。多少トリミングしていますが。
こちらの写真は異色のコンデジ、中望遠75mmレンズを採用している
シグマ DP3メリルで撮影した金閣寺。こちらはノートリミング写真です。
そして2016の初頭に廃版になるからと急遽導入した、超使いにくいシグマ SD1メリルの一眼レフカメラに、中古1万円で入手した古い SIGMA 70-300mm F4-5.6 DG OS レンズを装着して撮影した写真2枚です。

扁額(へんがく)? と屋根上の鳳凰(ほうおう)? を撮影してみました。
ここでの掲載写真は多少トリミングしておりますが。
それからまだ雪がやまないので、金閣寺をぐるっと1周してみました。
こちら掲載写真は、裏手から撮影した金閣寺。DP3メリルで撮影。
ぐるっと回っているうちに雪がやんだので、急いで元の撮影場所に。
DP3メリルで露出を変更しながら4~5枚撮影したなかの1枚。

それでも瓦や屋根上の雪がオーバ露出に近く、雪景色の撮影には神経を使います。
その後、平日ということもあり日中の割引の無い高速を使うのはやめて下道から帰ることにして、桂あたりの国道9号線沿いにある天下一品のお店で暖かいラーメンを食べてから、R372経由で京都府亀岡市 → 兵庫県の(丹波)篠山市に出てから帰宅しようということになったもののこれは失敗で、なんとR372の亀岡市内のわずかに残る、未改良区間のワキ谷付近の山越え区間が除雪されておらず、何日間も通行止めのままでした。
仕方ないので園部市街にまで出てから大回りし、トンネルが掘られて改良された県境の天引峠を通って兵庫県の篠山市内に入りました。
ところが、なんとここ篠山市内のR372区間も何日間も除雪されてなかったようで、走行により踏み固められた雪の路面はデコボコのうえ、左右のタイヤの中間部分の雪が全く除雪されず大きく盛り上がったままで、車高の低い(120mm)レヴォーグでは床下の遮蔽板に雪がすりまくって、車体が大きく揺れまくりでした。
この時は私が運転していたのですが、運転が大変でかえすがえすもその時の写真を撮っていなかったのが悔やまれましたが、VRXを履いていた4WDのレヴォーグでも悪戦苦闘するありさまで、前を走っていたトラックは車高が高いので雪にこすれずスイスイと走っていましたが、やはり雪道を走る車はある程度の車高があるほうが良いと、この時につくづく思いました。