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カクシカおじさん(プレミオおじさん)のブログ一覧

2012年11月07日 イイね!

江戸時代初期から現代までずっと残る、岩国の錦帯橋へ行きました

江戸時代初期から現代までずっと残る、岩国の錦帯橋へ行きました  
 最近なにかとニュースに登場している山口県岩国市。

 これは岩国米軍基地に、日本で初めて悪評高いオスプレイが来たことでニュースに取り上げられたのですが、元々岩国市には 「錦帯橋」 という、オスプレイではなく良い意味で全国的に有名な橋がございます。




        《プロローグ》
 私がこの錦帯橋(きんたいきょう)に興味を持ったのはつい最近のことで、それまでは単に観光名所ぐらいの感覚しかありませんでした。

 その錦帯橋に興味を持つきっかけとなったのが、

    ここより4つ前のブログ 「2012年 夏の旅行/その⑬ 静岡島田の蓬莱橋へ行く」
       → https://minkara.carview.co.jp/userid/1144014/blog/27873846/
の作成中で、

そのブログを作成中に江戸時代の橋梁技術について調べていくうちに、江戸期に架けられた大きな橋のなかで、唯一? この橋のみが現在まで残っている、ということを知ったからです。


 その静岡県蓬莱橋には2012(H24).8.23(木)に実際行き、この足で渡ってきました。 


       


       (静岡県島田市にある蓬莱橋より3枚 : 2012.8.23 筆者撮影)



 江戸時代によく言われた言葉に
    「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」 というのがありました。

 先ほども触れましたように江戸時代の265年もの間、アホの一つ覚えではありませんが戦国時代が終わり泰平の世になっても、保守的な江戸幕府は富士川や大井川や天竜川などの大きな川には一切架橋を認めませんでした。

 よって旅人は江戸の初期には自ら渡るか川越人足に頼っていましたが、そのうち自らでは自由に渡れなくなり、「勝手渡り」という抜け道はあったようですが基本的には自力での渡河は禁止となり、川越制度により川越えにもお金が取られるようになりました。


 しかも川越人足は幕府の下級役人であったようで、江戸末期頃には川越人足はなんと1000人以上の大所帯となったこともあり、人足制度を廃止して渡船にもせずにずっと人足制度を続けていて、東海道の旅人を苦しめていました。川越は命がけの仕事とはいえ今で言う利権と一緒ですね。

 (歌川国久作 東海道川尽 大井川の図 : 国立図書館デジタル化資料より筆者合成)



 このような理由と架橋の技術的問題から、江戸時代にはずっと大井川には橋がかけられず、やっと明治の世になってこの蓬莱橋(ほうらいばし)が架けられました。1879年の明治12年のことです。

 江戸時代にはもちろん重機などはなくて現代のように機械力に頼ることは出来なかったけれど、どうやら「震込」…ゆりこみ、という、橋脚となる丸太の上に重しを載せて、揺すりながら川の中へ橋脚を立てて行ったとか。


    詳しくはこちらの本で記載されていました。

(大井川に橋がなかった理由 : 松村博著・創元社 2001年刊)
                         (錦帯橋物語 : 伊藤正一著・叢文社 2004年刊)

 簡単に言えば江戸期の橋の橋脚の建て方は、ちょうど鉛筆削りで芯の先端を尖らせた鉛筆を粘土の中へ垂直に押し込んでいくような感じでしょうか。素晴らしいお城の石垣の建築技術に対し、こちらは非常に幼稚なやり方ですね。


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 そんな江戸時代の一般的な架橋技術に対し、真っ向から果敢に挑戦した人がいました(藩がありました)。毛利元就からの分家にあたる吉川(きっかわ)家の三代目の岩国藩主(毛利方から見れば岩国領主)になる吉川広嘉と大工の児玉九郎右衛門です。

 ごく小さな岩国城が不便な山の頂点にちょこんと建てられたのかはいささか不思議でもありますが、これは関ヶ原での戦いの敗戦よるところが大いにあるのでしょう。

 そして毛利家は豊臣方の石田三成派、それに対して吉川家は徳川家康派に組し毛利家の安泰を図ろうとした複雑な事情?によるのでしょうか、万が一幕府方に攻められた時のことを考え川と山を利用した天然の守りの城にしたのだと思えます。


(1957・昭和32年に復元された岩国城 : ウィキペディアより)

 ともあれ吉川広家がこの岩国領に移封された後、この山城の「岩国城」と麓に平時の居館となる「土居」とが築かれたようです。その7年後に岩国城は一国一城の令により、本家の毛利家から藩として認められていなかったため、幕府からは何も言われなかったのに岩国領の岩国城は廃城となりました。

 だが岩国城や土居と城下町との間には錦川(にしきがわ)という、大井川ほどではないけれど川幅200mの大きな川が横たわっており、当然この川にも橋が架けられたようですが江戸初期の架橋技術、これでは当然大きな水害が来るとその度に流失していたようです。



 そこで吉川家の三代目の岩国領主(毛利本家から見れば、藩主でなく家臣ということで岩国領主と言うらしい)となる吉川広嘉(きっかわ ひろよし)は、歴代藩主の悲願だった洪水で流されない橋を架けることに着手します。
 そしてこのプロジェクトの責任者に選ばれたのが大工の児玉九郎右衛門で、彼は独創的なアイディアと優れた技術でもって領主の期待に十分応えました。

 吉川広嘉や児玉九郎右衛門は洪水に流されない橋の構造をいろいろ調査していましたが、ちょうど明の帰化した禅僧である独立(どくりゅう)から、杭州の西湖の六石橋には島づたいに架けられた6連のアーチ橋があることを知りました。

 これにヒントを得て、連続したアーチ橋を架ければ洪水に流されないであろうとの基本構想を得、当然ですが錦川の中洲には島がないので、アーチ間の橋げたには強固な石垣とする設計とし、これで洪水に耐えられるのではないかということで、木橋を設計・建設し始めます。


            (葛飾北斎が描いた錦帯橋 : ウィキペディアより)


 その錦帯橋の見本となった、杭州の西湖にかかる六石橋のアーチ橋の写真は入手できなかったのでここでの掲載は見送りましたが、吉川広嘉と大工の児玉九郎右衛門とその人々が作り上げた錦帯橋は、1673年(延宝元年)9月30日に5連のアーチ橋の形状で完成しました。

 もちろんこの当時にはまだ写真はないので、葛飾北斎の浮世絵を代わりに掲載しました。
 葛飾北斎の浮世絵がどこまで真実の錦帯橋を表現しているのか不明ですが、石の橋脚は円形になっています。しかし初代の錦帯橋の完成から1年もしない翌年の1674年(延宝2年)5月28日、梅雨時の大雨により橋は流失してしまったようです。


 そこでその錦帯橋の流失原因を追究し、すぐさま石の橋脚の周囲をさらに石で敷き詰めて現代でいう洗掘(せんくつ)、つまり橋脚の周囲が濁流で削り取られないような対策をしまして、さらに石の橋脚自体も先端を尖らせた形にして?極力洪水が滑らかに流れるよう工夫しました。


(石の橋脚の根元にさらに石を敷き詰めている錦帯橋 : 2010.7.24撮影 ウィキより)


 この改良が功を奏し、その後は昭和期の1950(昭和25)年まで276年間も流失することなく、木製のアーチ部分は時とともに腐食するので、定期的に架け替え工事が行われて現代までその優美な姿を保つことになります。

 しかもアーチ部分の架け替えの技術が途絶えぬようにと、50年ほどの寿命よりも前にアーチ部分は20年に1回程度、両脇の桁橋は40年程度の割合で架け替えられていたらしく、その資料もきちんと残されているらしくて技術は途絶えることなく後世に伝わっていきました(ウィキペディアやその他資料より)。

 なお一説には、太平洋戦争中は橋の管理が十分でなかったことと、前年の1949年頃に米軍が岩国基地を拡張するために、この錦帯橋のすぐそばの上流側から大量の土砂を採取したため、流れが急になってしまい、276年間も流失しなかった錦帯橋が初めて流されたのだとか。

    これの詳しいサイトは 帯橋流出写真の紹介というサイト
         → http://www32.atpages.jp/sa1702toru/19500913hasiryusyutu.html
    日本文化を全く理解しない米軍の行動はいつの世もはた迷惑な話ですよね。


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 先の大井川の蓬莱橋のブログでも触れましたが、庶民の苦しみをよそに贅沢三昧だった大奥をぶっつぶして、その予算を使えば錦帯橋の5倍の規模になるが大井川にもこのような橋は架けられたことでしょう。

 毛利家岩国領(実質岩国藩といえるが)は、藩の規模が小さかったのでまとまりやすくやりやすかったのだろうが、このように藩主の熱き思いと稀に見る優れた大工の児玉九郎右衛門がいたからこそ、江戸初期に架けられ補修しながらも何百年と命脈を保った、世界に誇れる錦帯橋が現代の世でも残っているのでしょう。


     (周防岩国領の第三代目領主 吉川広嘉:ウィキペディアより)


 それに対し巨大な官僚機構の江戸幕府と世情に疎い将軍や老中の連中らは、庶民の苦しみは分からず艱難多い大井川に橋を架けるよりも、大奥の権力を恐れ無事勤め上げて家の名誉を守る…ということが専らの江戸の武士・官僚連中の目標だったのでしょう。

  これは現代の政治家や官僚たちもなんら変わらない
  事なかれ主義の悪弊です。ムラ社会の弊害でしょうか。


 そういう意味では江戸時代は、
 世の中が発展せず停滞していた時代の見本のような歴史ですが、

 こんな世の中は100年ぐらいでとっとと終わって、
   明治維新のような時代に転換していれば、
   日本はどれだけ発展していたか計り知れませんね。



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 それでは、世界に誇れる(と私が思っている)錦帯橋の写真をダイジェストで。

 なお今回の撮影写真は、2012.10.28のJR貨物会社のイベントの空き時間を利用しての訪問だったため27日と28日の両日にまたがり、しかも午後やら夕方やら日没後に撮影した写真が混ざり、景色や背景が統一されておらずバラバラなのは、ご愛嬌で。


  まずは錦帯橋を下流側から撮影。
  橋の長さは全長193mもあり広角のカメラでも200mくらい引き下がって撮影です。


       


  右手に見えるこげ茶色の箱の中には、夜間ライトアップ用の投光器が入っています。
  ふたは黄色のプラ板なので黄色の光が夜間発光されます。その写真は最後に掲載。




  今度は200mちょい上流側に回って現代の橋、錦城橋上から撮影です。

  上写真は私が撮影した10/27の夕刻近くのものですが見栄えが良くなかったので、
  再度翌日の午後にも行きましたが、今度は西日が水面に反射して最悪の結果に。

  よって、ウィキペディアに投稿された綺麗な写真も合わせて掲載しました(下写真)。




 次に錦帯橋の要となる橋脚の部分をご紹介していきます。
 江戸時代の橋はかなりの橋で丸太の橋脚が使われたのに対し、ここでは築城技術をふんだんに使用しての?石造りの頑丈な橋脚です。

  しかも錦帯橋の完成後、
  翌年の洪水で橋が流失したので橋脚の周囲をさらに広範囲に石を敷き詰めて補強をし、
  これにより洪水にも耐える橋となりました。





       

       




       



 そして大工の児玉九郎右衛門の能力が大いに発揮されたと思える錦帯橋のアーチ部分を撮影。
 鉄道の電車に使われている架線のカテナリーにそっくりな形状です。

  まずは中央の大きな長さ35.1mもある木製の3連アーチのほうから。


       

  アーチの真下からも撮影





  次に土手と橋とをつなぐ両脇の桁橋構造の反橋の真下部分を撮影。
  この部分は江戸時代の一般的な橋梁の、木材による橋げた構造ですね。



  そして、この木製なら世界に類を見ないほど巨大らしい3連アーチの構造は、
  建築用語?では「カテナリー構造」と言うらしく、
  鉄道の電気の集電用の電線=架線は“カテナリー架線”という形状ですし、
  「カテナリー曲線」で検索すると、ウィキペディアに下写真の構造物が。

  これはセントルイスにあるゲートウェイ・アーチの写真だそうですよ。

 つり橋もカテナリー構造に近いそうで、
   これは構造物が重力に対し安定する構造の一種だそうです。
 これを江戸時代に採用し設計・活用した大工の児玉九郎右衛門さん、すごいの一言につきます。
   もっと評価されるべきでしょう。


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  それでは、その錦帯橋を歩いていきます。



  対岸にもありますが、この料金所にて
  錦帯橋往復券大人300円(子供150円)を支払って渡っていきます。

       
         江戸時代にはこの橋用の用材も植林されていたとか。
         50年ぶりに2004年に古図面にならってすべて架け替えられたそうです。




       






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 時間が多少あったので錦帯橋の対岸をしばし散策です。
 ロープウェイに乗って山頂まで行く時間は今回はなかったですが。

 対岸には元岩国藩の氏神ともいえる吉香神社がありましたが、現在は移設されたのを機に公園として整備され、桜の名所として吉香公園(きっこうこうえん)の名で知られているようです。


                    (吉香公園の案内図)


  桜の名所で有名らしい吉香公園の様子です。


  公園内にある江戸時代の武家 香川氏の武家屋敷の門。
  当時の雰囲気を今に伝えているそうです。


       


  公園のそばにある茶屋と休憩用の大傘と人力車。





         公園内の大きな杉も
       





 そして錦帯橋の対岸側のすぐのところにアイスクリーム屋が。
 10月末なので暑くはなかったが、おいしそうなので食べてみることに。

 しかしメニューを見てビックリ。これだけあればいったいどれを選んでよいのやら。
   結局、このお店の一番のお勧めらしい1番目の「こだわりバニラ」にしました。
 ちなみに個人的に撮影した写真なので店員さんの顔はガウスで隠しました。


       
         しかし120種類!のアイスクリームとは


  私の食べるソフトクリームにカメラのピントを合わせた写真
  少し溶けて形が崩れています


  こちらはお店の看板にカメラのピントを合わせた写真

  宮本武蔵から名前を取ったのか「むさし」というお店で、珍百景で放送されたとか。
  ちなみに向かい側のお店の名は「小次郎商店」というのだそうな。

  このお店の店頭TVにはこの時の放送が流されていましたが、
  ユーチューブで動画を探してみたけれどなかったので、リンクを貼りました。
    こちらです→ tv asahi 地デジ5ch 珍百景No.176
    → http://www.tv-asahi.co.jp/nanikore/contents_pre/collection/090128.html


 ソフトクリームを食べ終えて錦帯橋を渡って戻るときには日没に近い16:45ぐらいでしたが、
 まだ河原の有料駐車場にはこんなにいっぱいの車やバスが(撮影は10/28日のほう)。 




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 2012.10.27(土)にここを訪れたときには宮島散策の後だったのでもう夕暮れに近く、
 河原の有料駐車場でしばらく休んでいました。

 そうするうちに日没となりあたりは真っ暗に。すると錦帯橋がライトアップされていたので
 いつものコンデジDP1xでの、ISO100設定で露出時間1秒にて記念撮影です。

 まずはライトアップ用の投光機を夕方に撮影。暗くなってからの撮影のためノイズが。



 2012.10.27 18:22頃に撮影。黄色にライトアップされた錦帯橋です。
 どうやら山頂の岩国城もライトアップされているようです。


 こちらは私のお遊びで作成した写真で、上の元写真に
 シグマのRAW現像ソフトSPPのカラーパレットで電球色のライトアップのような現像に。



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  これで錦帯橋のブログは終了です。

  次回のブログは、この広島へ行った本来の目的である
  第19回 JR貨物フェスティバル 広島車両所公開イベントをアップする予定です。

↓関連情報URLは、岩国観光.comをご案内しています。
Posted at 2012/11/07 23:49:11 | コメント(1) | トラックバック(0) | 建造物・構造物 | 旅行/地域
2012年11月03日 イイね!

平清盛が篤く信仰した、厳島神社の参詣

平清盛が篤く信仰した、厳島神社の参詣
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
   
   沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
   
 驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
    
    猛き人もついに滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。


        《プロローグ》
 この一文、桓武平氏が全盛を迎えてのち、源氏に追われて徐々に没落していくさまを詠んだ平家物語のあまりにも有名な冒頭部分ですね。

 冒頭のタイトル写真(この写真はウィキペディア)の、瀬戸内の海に浮かぶ朱塗りの厳島神社の鳥居は全国的によく知られていると思いますが、そう、この日本三景のひとつに数えられている安芸の宮島にあります厳島神社、平氏には非常に縁の深い神社でございます。



 もともと厳島(宮島)は、島内の最高峰「弥山(みせん)」を中心とした古代からの霊場があったところなので、そのため島内に人が住むのは恐れ多いこととして昔は誰も人は住んでいませんでした。俗に言う「ご神体山」です。


      (厳島・宮島の弥山 : 2012.10.27 宮島フェリー内より筆者撮影)

       
        (海の上に浮かぶ厳島神社の大鳥居 : 2014.11.5 宮島フェリー内より筆者撮影)


 そして推古元年(593年)に、ここ厳島神社が創建されましたが、推古元年っていえば以前の法隆寺参詣のブログでも触れましたが、女帝であった推古(すいこ)天皇がちょうど即位した年にあたり、その補佐役の聖徳太子が摂政となって手腕を振るい始めたのと合わせたように、ここ厳島神社は創建されたようです。


 そして厳島神社のご祭神は、もともと九州の玄界灘に面して建てられている宗像(むなかた)大社の三女神で、市杵島姫命(いちきしま ひめ の みこと)、田心姫命(たごりひめ の みこと)、湍津姫命(たぎつひめ の みこと)です。俗に言う弁財天女ですね。

 そして弁財天は水気を好まれることから、発祥の宗像大社にしても、三大弁天である厳島・竹生島・江ノ島弁天も、弁財天をお祭りするところは水辺の傍ということになっています。


            (九州玄界灘に浮かぶ周囲4kmの孤島 沖ノ島)

 そういえば弁財天の元にあたる宗像大社奥宮は、日本海にある玄界灘沖合い49kmに浮かぶ周囲4kmの小島のような沖ノ島にある沖津宮です。こちらは現在も女人禁制のご神体山として、神職以外は年に一度の大祭しか上陸が許されないことになっています。


   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 その厳島神社が創建されてから時を経ること約500年、
 冒頭にも記した平家物語によると、当時国司(安芸守)だった若い頃の平清盛が高野山の大塔の修理をしていたところ、夢枕に一人の僧が立ちはだかり 「厳島の宮を造営すれば、必ずや位階を極めるであろう」 との霊告があったため、
 それからの清盛、この厳島の神社を何十回も参詣してたくさんのお経を納経したり、前代未聞とも思われる海の上に大規模な社殿を1168年(仁安3年)に造営することになります。


     (厳島を大変篤く信仰した平清盛 像)


 海の上に社殿を造営した理由については科学的にはいろいろ言われていますが、それはあくまで現代人の見方で、ひと昔前までは厳島は山自体が神のおわすところ、つまりご神体山だから恐れ多いということで、その手前の海の上から山を遥拝する形にしたのだと思います。

 それがあの有名な海に浮かぶ大鳥居が建てられた理由でもあるのでしょう。



                  (熊野本宮大社 旧社殿の絵図)

 蟻(あり)の熊野詣というけれど清盛もよく参拝した熊野本宮大社は、明治22年の大水害までは上の絵図のように大斎原(おおゆのはら)という川の中洲に大きな社殿がありましたが、こちらはごく普通の神社の形態です。


 それだけ信仰に篤かった平家と平清盛でしたが、やはりといいますか権力を手にした者には当然の成りゆきなのか、もしくは人間の性が出てきたのか、霊夢のごとく厳島神社を再建し篤く信仰したおかげで一時は大出世したのだけれども、

 冒頭の平家物語の最初の一文の 「…盛者必衰の理をあらわす。驕れる者久しからず…」 との文言のとおり、平清盛の晩年と死後、急速に平家は没落していくことになります。

                  (平家物語絵巻 壇ノ浦の合戦の巻)

 そしてその結果はもう良く知られているところですが、
 ひとつ言えることは中国大陸では元が出てきて強大な国となり、いずれ日本が元寇で二度も攻められることになるのですが、この貴族化していった平家の政権なら、この外敵の攻撃を退けることはできなかったであろう、ということですね。



 この絵詞はモンゴル・元が、
  日本(倭国)に攻めてきたときの模様を描いた物の一つのようですが、

             (蒙古襲来絵詞 1293年頃 : 竹崎季長による)

 質実剛健な北条氏の執権政治による鎌倉幕府と北条時宗というすぐれた執権により、当時このまれに見る外敵の攻撃を無事退けることができました。ただしその後、北条高時という情けない執権が出現することにより鎌倉幕府は滅んでいくことになります。


 そう考えれば「厳島」というところ、持ち上げるだけ持ち上げておいて、そこで奢れてしまうと平家がたどった運命のように容赦なく人を裁く、といった「厳島=厳しい島」という文字の要素を持った神社なのかと思います。
 現代の世でも同じですが、いつの世でも変わらない 「驕れる者久しからず」 を、私たち後世の人間にも平家の興亡の歴史を通してここの神様が教えているのでしょう。


   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 長い前置きはこれで終わりにしまして、
 ここからはその独特な厳島神社の様子をご紹介していきたいと思います。


   宮島へ行くフェリーを降り桟橋から堤防を覗くと潮の跡が。
   温暖な瀬戸内地区ですが、それでもこれだけの潮の満ち引きがあります。

   JR西日本 宮島航路の宮島桟橋側から撮影。 2012.10.27 13:05撮影


    宮島へ上陸するといたるところに鹿が。


       


     宮島の鹿は奈良公園の鹿に比べておとなしくて、のんびりしています。
 
 奈良公園では鹿せんべいを観光客が購入して与えるせいか、鹿が物乞いするけれど、   
    宮島では 「鹿にエサを与えないように」 と注意書きが書かれているせいか、
    鹿もほとんど物乞いはしないですね。



   そしてここの目玉の厳島神社のほうへ向かって歩いてゆきます。 
   日本三景の碑がありました。



 安芸の宮島、丹後の天橋立、陸奥の松島(陸前松島)、これが日本三景として名高いですが、
      海上に建立された独特な神社の厳島神社、
      不思議な地形をした天橋立、
      たくさんの島が林立している松島、  
 開発が進む前の日本では、とても風光明媚だったんでしょうね。

          (丹後にある天橋立 : 2011.1.8撮影 ウィキペディア)


                 (陸奥の松島 : ウィキペディアより)





                      (宮島の案内図)


                     (厳島神社の説明文)



  ここからがどうやら厳島神社の参道となるようです。
  昔はこの島には人が住まなかったので、人工的なものは一切なかったのでしょう。






       



   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


    厳島神社へ向かって歩いていくと、
    この神社の象徴とも言うべき朱色の大鳥居が見えてきました。



    今日のこの時間は引潮、ちょっとだけ足元がぬかるんでいますが、
    着替えもあることなので気にせず大鳥居に接近していきます。



    海の上に浮かぶ鳥居は趣があっていいけれど、
    せっかくの引潮時に来たので大鳥居のふもとまで行きました。


       


    今度は北側(海側)に回り込んで撮影。


       

    真下から撮影。高さは16mだそうです。





    厳島神社では、鳥居の扁額(へんがく)が両方に付いています。



ここ厳島神社が出している書籍コードのない専用本によりますと、
大鳥居の扁額は、有栖川熾仁(たるひと)親王の御染筆だと記載されていました。
ちなみに扁額の大きさは、たて273cm、横183cmと大きなものです。

神社の入口にあたる海側の鳥居の扁額には 「嚴嶋神社」 と書かれていました。

       
     ご神体山側にあたる社殿側の鳥居の扁額には 「伊都岐島神社」 と書かれていました。
     マイカメラのDP1xは望遠が効かない単焦点カメラなので、トリミングで大幅拡大しました。



 鳥居の表裏の両方とも扁額があり、しかも表記が違っているというのは珍しいですね。
 清盛の時代に「嚴嶋神社」と表記するようになったとのことですが、
 神道では字が違えばお働きが違うと聞きますので、なにか深い意味があるのでしょうか。

  大鳥居の根元部分も撮影しました。
  満潮になればここに2mぐらいの海水が押し寄せるのでしょうね。



         (海の水をたたえた厳島神社の大鳥居 : ウィキペディアより)


 ちなみにこの大鳥居は八代目にあたり、明治維新から間もない頃の1875年(明治8年)に再建されたそうです。ということはもうかれこれ130年以上、こうして海水の満ち引きのなかにたたずんでいるのですね。

 鳥居の高さは16mで、棟の長さは24m、主柱の根元の直径は3.64mもあるようです。ちなみに重さは前途の本には書かれていませんでした。


   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 大鳥居をしばし見た後は、平安時代の様式?で建てられていると思えるような、回廊がたくさんある寝殿造りの厳島神社の社殿へと向かいます。


    まず遠方から見た社殿です。
    大鳥居の真下まで行けてそれはそれで良かったものの、
 やはり海の水をたたえていない厳島神社はちと趣きが少し不足気味な感じです。



 社殿入口の手前です。この時期は大変な数の人出のようです。
 そして今日は早朝の8時ごろが満潮で、訪れた14時ごろが最も潮が引いていたみたいでした。




       




 神社の中の回廊へと進みます。
 昔の参拝者は船で大鳥居を越えて、直接厳島神社へと来たのでしょうか?



回廊は幅3.3m、柱間は2.4mで、柱間は板が八枚張ってあるとの事(厳島の本より)。


       


 こちらの写真は、厳島神社の摂社第一の客神社?を撮影したみたいです。
 暗くてノイジーな写真になっちぁいましたが、天忍穂耳命ほかが祀られているようです。



    そしてまた回廊へと出ます。



    左手には鏡の池が見えました 。
    最初の写真が回廊側からみた写真。次のは神社の裏手から撮影した写真です。





    回廊から外を見るも砂地ばかりで、少しさみしいですね。


       



    そして厳島神社の本殿へと出ました。
    最初にご由緒を撮影、その次に本殿内部を撮影しました。

   厳島神社の創建は推古元年といいますから、女帝推古天皇の時代、
   つまり日本の礎(いしづえ)を築いた聖徳太子の頃ですね。



 この撮影のすぐ後に新郎新婦がお入りになり、神前結婚式がおこなわれていました。
 そのせいで左右には白布をかぶせたテーブルが。

 そしてここでお祈りをし、おみくじを引いてから社務所で本2冊(後述の写真)を買いました。



    そしてここを出るとまた回廊が。まるで迷路のようです。


           回廊の途中には長橋が。
       



    ようやく出口に来ました。




 今回10年ぶりぐらいに訪れた厳島神社でしたので、非常にゆっくりと回ってきました。
 そして厳島神社で買い求めた2冊の本の表紙部分です。自宅のスキャナーで読み取りました。


 厳島神社、全盛期の平家一族がたくさんのお経を納めたようです。俗に言う“平家納経”です。
 平家納経は数ある納経の中でも特に有名みたいですね。


 聖徳太子から始まった神仏習合の時代がずっと江戸末期まで続くのですが、よってお寺でなく神社にも願文や御礼としてお経を納めたわけですが、平家納経の場合は単に写経して納めたというより、芸術品としての品格を備えたものだったようです。
 また清盛自身は、代筆でなく自らの直筆で経文を書いてここへ納めていたみたいですよ。

 そして右側の本は書籍コードがないので市販されていないと思われ、発行が厳島神社となっていますので、ここ神社でのみ販売されている本のようでした。


   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


  これで「平清盛が篤く信仰した、厳島神社の参詣」は終了です。
  ここへの道中記は宮島連絡線も含めてフォトギャラリーにアップしました。

  次回のブログは、ここからごく近い山口県岩国市にある錦帯橋を、
  次々回ブログは、JR貨物フェスティバル 広島車両所公開イベントをアップする予定です。


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Posted at 2012/11/03 01:33:00 | コメント(2) | トラックバック(0) | 神社仏閣 参詣 | 旅行/地域

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「我がコンテ号、325327kmにて初めてCVTオイルパンを開封(写真)。

CVTは3~4万kmでのフルード交換ぐらいしかメンテはしてませんでしたが、左端の円形のマグネットにヘドロがこびりついている以外はきれいでした。

当然、新品のストレーナ・マグネット・ガスケットへと交換。」
何シテル?   10/26 21:55
カクシカおじさんです。 ニックネームの由来は、我が愛馬コンテカスタムRSの別称、ダイハツの『カクカクシカジカ』と現在の年齢がおじさんになっているところから...
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