




日本経営管理教育協会が見る中国 第529回 ――坂本晃
◆南満州鉄道の誕生
1868年(明治元年)の明治維新から、1945年(昭和20年)第2次世界大戦の終戦まで、150年間は江戸時代からの士農工商という遺伝子を継承し、「富国強兵」に代表される日本国の政策は、欧米の植民地支配を見習う形で、工業中心で産業革命により経済を成長させると同時に、軍国主義の時代であった。
1894年7月(明治27年)には日清戦争、清国と朝鮮を巡って戦争、8カ月後に日本は勝利し、当時のお金で、約3億円の賠償金と遼東半島と、台湾を日本のものにすることになった。
1904年2月(明治37年)には、日露戦争、当時ロシアが中国東北部を占領し、日本の遼東半島の権益を侵されたのに対抗して開戦、日本海海戦に勝利するなどして、1年半後には終戦し、旅順・大連の租借権、満鉄の基本路線になる長春~大連間などの鉄道経営権、南樺太を日本領にするなどの成果を得た。
1906年(明治39年)にこの鉄道経営権を母体に、日本の国策会社として南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立、鉄道事業を開始した。主な路線である長春~大連間は、ロシアの手ですでに1903年(明治36年)敷設されていた。
1910年(明治43年)には、日韓併合条約により、朝鮮半島を日本の領土にすることに成功した。
◆満州国建国から第2次世界大戦へ
1914年(大正3年)に、第1次世界大戦が欧州で起こり、日本も参戦、工業を中心に空前の好景気をもたらした。
1929年(昭和4年)には世界大恐慌が起こり、世界で多数の失業者が路頭に迷った。日本もその影響を大きく受けた。
1931年(昭和6年)9月18日には、瀋陽郊外の柳条湖事件から満州事変へ、翌1932年(昭和7年)には、満州国を建国、実質的な役割は満鉄が受け持った。満州は五族協和を旗印に、日本人にとっては優雅な生活と、やりがいのある仕事を進められた。
満鉄の子会社、撫順炭鉱や昭和製鉄所(現在の鞍山製鋼)の経営、長春、瀋陽、大連などの都市計画が飛躍的に進められた。これらの従業員の日本人社宅は、水洗トイレやペチカ、地域暖房も一部では導入され、日本人の小中学校も当初は、満鉄の実質的経営で開校された。
1937年(昭和12年)7月7日に起きた、北京郊外の盧溝橋事件から日中戦争となり、日本が中国の主要部を制覇、汪兆銘による南京政府が機能した1940~1945年の間には、1941年(昭和16年)12月8日に、第2次世界大戦で主にアメリカに対して開戦している。
1942年(昭和17年)11月号、日本の鉄道省編纂時刻表の地図によると中国は、「華北」と「華南」という表現で、北京、上海周辺の鉄道の旅客列車の時刻が掲載されている。当時は日本の領土であった朝鮮を経由して、東京から下関、関釜連絡船を経由し、釜山から満鉄線も経由して北京までの急行列車が2本、「大陸」「興亜」のニックネームで毎日運行されていた。
満鉄が誇ったアジア号特別急行列車は、1934年(昭和9年)11月1日に運行を開始し、後に大連09.00発~ハルピン22.51着で往復運行されている。蒸気機関車が牽引し、最高時速130km、完全空調設備の客車、ロシア人のウエイトレスも、勤務していた食堂車などを連結、各等の客車、密閉式の1等展望車が自慢であった。戦争の激化に伴い1943年(昭和18年)2月28日で運行を停止した。
1945年(昭和20年)8月15日に、日本はポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏した。その直前の8月9日、ソ連は満州に侵攻を開始、関東軍の主力は南方へ移動済みで、満州での戦闘は極めて局地的だった。
終戦当時の、満鉄は空襲などの被害もなく、無傷でソ連軍の大部分は満鉄を活用して、大連へ侵攻したと推測される。
1945年(昭和20年)9月22日には、中国側の組織「中国長春鉄路」に、満鉄の業務は引き継がれ、満鉄は消滅した。しばらく間は、元満鉄の従業員が運営した。満鉄の日本人従業員は徐々に引き揚げた。その後現在の中国国鉄に吸収され、2018年(平成30年)現在の満鉄路線はそのまま中国国鉄が運営、日本でいう新幹線、高速鉄道は全国に建設され、旅客の移動の多くはそちらを利用し、在来線は貨物輸送が主流と推測される。(写真は、満鉄が誇ったアジア号の機関車=1981年撮影。提供:日本経営管理教育協会) サーチナ 2018-08-22 10:32
Posted at 2018/08/27 08:24:23 | |
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