「昨今の若者は」とか言い出すと年寄りの仲間入りだと言いますが、
気付けばワタクシももう34周年。
あと1年で "四捨五入40歳" 、立派なオサーンではないか…
それでもナンダカンダしてくると
それなりにナンヤカンヤ見えてくるものもあるわけで。
今の20代やそれ以下の若者達を見ていると、
やっぱり自分の時とは色々とギャップがありますね。
"悟り世代" なんて言われてる今の若手社会人世代。
悪名高きいわゆる "ゆとり教育" を経て、好景気を知らない世代ということで
「努力しても報われない」という意識が根底にあるのか
向上心・競争心・応用力が薄く、予定調和・事なかれ主義・指示待ち族、等と言われます。
(んまぁ、ワタクシの世代でも既にそういう傾向は始まっていましたが)
当然実際個人差はあると思います(し、その世代の中でもそういう印象とは無縁の人も居ます)が、
それほど世代の離れていないワタクシでも "全体的な傾向として" それは感じます。
ハイリスクな冒険はせず、
堅実なローリスクローリターン。
自分の自尊心が傷つく可能性のある衝突は避けて、
ゆるーい距離感で淡々と物事をやり過ごす。
ソツ無くムダ無く合理的、だが熱意や執着に欠ける。
他人を押しのけて前に出ようとはせず、横並び意識が強い。
誰かの後ろをついていくのは構わないが、自分が先頭を切るのは嫌。というか無理。don'tでなくcan't。
「やらなきゃできない、やってみないとわからない」ではなく「できることしかやらない」。
…というイメージです。
皆さまの職場にもそういうイメージの若手、おられませんか?
と言っても、これは別に、その世代の彼ら自身に問題があるということではなく、
そういう環境を作り出した国・政治の責任が重いと思う。
"考える力" がどんどん衰えている。
国そのものが寝たきりの脳死状態に向かっている。
正直、この国にもう未来は無い。ワタクシはそう思ってます。
後はもう、自分が生きている間に化石燃料車の市民権が奪われなければ御の字かな、と。
で。
この、"若者の競争心の低下" という現象。
いずれ社会的な大問題に発展するであろう事は想像に難く無いのですが。
今ワタクシが思うこの問題。
走り屋の世界にも言えると思うのです。
↓BGM
走り屋の世界って、言うまでも無く "勝負" の世界。
…という認識が今や崩れかかっているのかもしれない?
お山の走りって(特にワタクシの地元は)、
見知らぬ相手にもちょっかい出して追っかけバトルしたり、
構ってほしい相手が停まっていたらその前を何度もUターンして「遊んでアピール」したり、
相手のレベルがほぼ分からない状態でぶっつけバトルする事がほとんどなので、仕掛ける側も追われる側もプライド掛けてクソ根性で踏み込んで、ヒヤヒヤ危なっかしい限界走行を重ねて、時に事故ったりして、勝った負けたに一喜一憂して、あいつは遅いだ、どいつは速いだ、事故る奴は下手くそだとか、ちょっとホラも吹いたりして自分の弱みを誤魔化し、でも時に、悔しさすら出てこないほど完膚無きまでにブッチギられる圧倒的な存在に出会って自分の未熟を痛感したり、そうやって揉まれて鍛えられて速く強くなっていく。
皆、自分が速いと思ってる。口ではヘラヘラ言っていても。全く根拠の無い独りよがりであっても。
でも、皆、本当は、 "誰が一番速い" のか解っている。
誰もが、「いつか自分がその座に」と思って走っている。
また、「生き残った者が一番強い」という世界でもある。
速さは無くとも、ずっと走り続けている者はそれもまた "強者" 。
理由がどうあれ、降りる者は所詮そこまで、という。
そういうもんだと思っています。ワタクシは。
ワタクシ最近、明らかに、お山で "絡まれる" 事が減りました。
数年前までは結構、色んなクルマから追っかけられる事が多かったんですが、
ここ1〜2年、ほぼ無いです。
「あの紅いの速い」と認知されてしまった面もあるのでしょうけど、
つまりそこで、「速い人に挑んでいく」という姿勢が希薄な気がします。
「どうせ勝てないから追わない」というのか。
仲間内で仲良くツルんで走りはするけど、未知の相手と走るのは嫌とか。
まぁ…
夜のお山の世界は、実際の腕前・絶対的な実力よりも噂話や周囲から思われているイメージに左右される部分が大きい、曖昧な世界でもあるので
自分に負け評が付くのが嫌というのもわかる。
ワタクシ自身もそういう事を気にしていた時もありましたが。
ワタクシと一緒に走った事が無い人が「あの紅いの速い」と思うのは勝手ですが、
そういうのは自分の目で確かめてからの方が良いと思う。
そういう噂の実態を確かめて「なぁんだ、あいつ大したことねぇじゃん」と思うこともこの世界の一つの醍醐味だとも思う。
人伝てで聞いた話を鵜呑みにするのもイマドキ世代の特性かもしれませんね。
(そういう不確かな世界に居つつ、明確なモノサシで力試しをしたいと思うからサーキットに行く。ワタクシにとってサーキットとはそういう場所)
そもそも "走り屋" って何? という話。
人それぞれ思うところはあると思いますが、
ワタクシの個人的な感覚としては…
例えば。
サーキットを走りに行くこと。
料金を払ってコースインすれば、誰でも「私、サーキット走ってます」と言える。
一方、「私、○○山走ってます」というのはちょっと違う。
良くも悪くもそこは公道。夜景を観に来る人も居れば、通勤で通る人も居る。
その人たちは「○○山走ってます」とは言わないでしょう。
更に言えば、走り屋としての意味で「○○山走ってます」と言っていても、
そこに来て1往復だけ走って、後はエンジン切って仲間とダベって帰る、というようなタイプの人は
果たして "走り屋" なのか?
それはいわゆる「雰囲気組」ですよね。
それはそれで一つのスタイルだと思うけど、それが "走り屋" かというと、なんか違う感。
その時間にそういうクルマでそこに居れば "走り屋" だ、というような簡単な話では無いと思う。
でも、そういう雰囲気組であっても、その世界を知らない一般人からしたら立派な「走り屋」であり、
「夜の山道をギュワーって走ってるんでしょ?w」というアレw
(そういうライト層の方が、他人に "俺走り屋やねんアピール" をしたがる傾向にあると思うw)
(ワタクシの周りの人間は、わざわざ他人にそんなこと言いません)
最近はそういうライト層が多くなったなと感じる。
リスクを避けて、程よい非現実感で気分転換し、その場に参加している一体感を得られれば良い。なのかな。
時代だと言ってしまえばそれまでだけども。
それがそうなら、
寒い時代と思わんか。
こないだ、お盆にお山へ行った時のこと。
長期連休になると、常連が減り、見慣れない車が増えますが、
ワタクシがいつもの溜まり場に差し掛かると、そういう見慣れない車(銀のスバルターボ)がハザード出して停まってました。
パッと見ノーマルだけど、"走る人" な雰囲気が出てる。
ワタクシが横を通り過ぎると、スッと動き出して後ろにつく。
「お?走るのか?走って良いのか?(°∀°)」とワタクシもにわかに戦闘モードON。
(まぁ、ゆーても、215のアドレナリンですし、バトルするには万全ではないコンディション)
ワタクシ自身最近こういう展開がトントご無沙汰だったので俄然テンションUp。
右ウインカーを2回出して踏み込む。
コーナーひとつふたつ。
…おやおや、ピッタリ付いてくるじゃぁ あーりませんか。( ̄▽ ̄;)
これは楽しい。
未知の相手と突発バトルして、お互いのレベルが同じくらいだったら、めちゃ楽しい。
折り返し点で前後入れ替えて後ろから見る。
はっや… トラクションの掛け方が上手いわぁ…
でもあっちもタイヤのレベルは似たようなもんっぽいな…なんて。
同じレベルで走り合うと、言葉は一切交わしていないのに相手の事が結構分かる。
走りの価値観が近いなぁ、と。 "解ってる" 人だな、と。
その後、最初の場所に戻ってきて、ワタクシから話しかけに行ってみた。
50代のおっちゃん。
「若い時ここ走っとってな、最近はもうこういう休みの時にしか来んけど。クルマもファミリーカーやし」
「久しぶりに来たから誰か遊んで欲しくて、ずっとあそこで待ってて何台か追いかけてんけど、
誰も(ペースを)合わせて(踏んで)くれへんくてなぁ」
「ニイちゃん踏んでくれたから 『お?ええのん!?(°∀°)♪』て思ってな」
「いやぁ〜、やっぱ
競走はええね♪ 」
…そこですよ。
やっぱりそこが、大きな一要素ですよ。
手の内の分からない未知の相手と走り合う、緊張感、プレッシャー。
その相手と同じ呼吸で走れた時の、快感にも似た一体感。
濃密な空気を共有し理解し合えていると思える、充足感。
それは仲間内のなぁなぁ走りでは味わえない。
サーキットは、良くも悪くもタイムが全て。
走りの内容がメタメタだろうが、コンマ1でも速い方が上。
運転が丁寧で綺麗に走ってても、タイムが出てなかったらサーキットではビミョーな評価。
お山の走りは違います。
勝った負けたは、自分の中でわかる。
それは、外から見ていた人が感じた勝敗とは違う場合も有る。
前を走った自分の方が引き離したとしても、それはクルマの性能だけの事かもしれないし、それでチギッてもあまり嬉しくない。
後ろから見ていれば相手のレベルはよくわかる。ハッキリと。一瞬で。
その人がどれだけ自分のクルマと対話できているか。それが自分より "濃い" か "薄い" か。
だから、
走り合わないとわからない し、
走り合った相手の事は認められる 。
それがお山の走りだと思う。
それが走り屋という世界だと思う。
そういう感覚で走り合える相手が、ワタクシと同世代以上にしかほぼ居ないという現実。
ワタクシより若い世代でそこまで走り合える相手は非常に稀です。
速さのレベルの話ではなく、"本気で走る" その姿勢、その心意気が。
(前述のおっちゃんも同じ事を思っていたのでしょう。だから若いワタクシと走れて嬉しかったのだと)
ハングリーに挑んでいくという事は、結局は
"わかりたい" ということじゃないのかな。
相手の走りを、自分のレベルを、その世界を、その領域で何が見え感じられるのかを、なぜ走るのかを、
"わかりたい" と思えばその中に入っていくでしょう。
その世界の入り口には立ったのに、なんとなくの雰囲気だけ味わって降りていく人ばかりになっていくというのは
なんとも寂しく、勿体無いと思うのです。
「負けてたまるか」という原動力。
真剣勝負の清々しさ。
同じ感覚で繋がって走れる気持ちよさ。
わかりたいから走っている。
走る事でわかること、見えてくること。
そうして得たものが自分を深めてくれる。
走りが自分のプライドになる。
その文化すら廃れていくのかと思うと、
なんともこの国は寂しい。