今日は3月11日。
特別な日ですから、昨年同様、少々鼻持ちならないことを書きたいと思います。
そして今年もまた、実は私には東日本大震災を哀しむ資格すらないのではないか・・・という前提のもとに書き続けます。
1.自由と平等について
私が小3の頃、夢中になって観ていたアメリカのSFテレビ映画がありました。
確か、土曜の午後8時からNET(現テレビ朝日)で放映されていたと記憶しているのですが、題名をアウター・リミッツといいます。
その中で「昆虫美人」という回があり、女王蜂が人間の姿になって現れ、昆虫学者を誘惑するというストーリーでした。
当然怖い話だったので印象に残りました。図鑑や辞典で蜂の生態も調べました。そうするうちに、蜂という生き物には、女王蜂・働き蜂・兵隊蜂という種類がいることがわかりました。
一方、我々人間世界には、ひたすら子どもを産み続けるといった女王人間が存在するわけでもなく、本能的能力に質的な差別がないという意味では平等なのかもしれません。
平等の重要性を説いたNO1の有名人は、何といっても福沢諭吉です。彼は、欧米の女性解放思想を我が国に紹介し、男性同様に女性にも教育を受ける権利があると主張しました。
欧米における近代思想の根っこといえば、18世紀末のフランス大革命抜きには語れないでしょう。勿論その理念は、自由・平等・友愛です。
けれどもある学者の説によれば、近代(Modern)という言葉は、ひな型や模型という意味の(Model)や、ファッションよりも高級をほのめかす流行(Mode)と同じ流れをくむものだといいます。
なるほど、友愛を民主に置き換えれば、「自由・平等・民主」は近代思想のひな型であり、ほんの200年余り続く流行とも言えるわけです。地球規模で考えれば、200年などは瞬く間でしょうから・・・。
ところで、いくつかの特定の地域は別として、大部分の国家が理念として標榜する「自由と平等」です。
しかし、果たしてこれらは真に存在するのでしょうか?
ひと口に自由といっても、その定義は千差万別だと思います。ある人は強制からの自由をイメージし、ある人は他人からの自由を思い浮かべるでしょう。ニュルブルクリンクを疾走するレーサーなら、物理的法則からの自由を何より求めるかもしれません。
いずれにせよ、自己行動を制限するものからの解放という点で共通しています。
一方、自由と責任は背中合わせであるとよく聞きます。自由意志と有責性・可罰性の関係は私ごときには到底理解し得ませんが、絶対的な自由(意志)というものが存在するかを考えるうえで、不謹慎ですがもし私がAという人をナイフで刺したら・・・という行為を検証してみたいと思います。
都合上、時系列を逆にします。私はAの心臓をめがけナイフで刺しました。これは、
➀右手の筋肉の収縮によるもの。
筋肉を収縮させるためには、
②大脳がインパルスの形で神経線維に指令する。
大脳が指令するためには、
③大脳がAを刺したいと思う状況になる。
大脳がAを刺したいと思う状況になるためには、
④大脳がその状況になるための原因になるできごとを記憶し思い出す。
といった一連の流れが考えられます。
絶対的な自由(意志)とは客観的な自由(意志)と同義語ですから、私の自由意志に客観性が認められるかがカギになります。
➀と②は客観性(因果性も)が認められそうですが、③と④についてはまさに私の心に潜む問題なので、あくまで主観ということになりそうです。
Aをナイフで刺すこと自体反社会的な行為ですから、③と④にあたるいわゆる動機を含めて自白し、なおかつ私が誰かに脅迫され、あるいはそそのかされて止むを得ず犯行に及んだのではないということが立証されれば、間違いなく私は刑務所行きになるでしょう。
繰り返しになりますが、③と④にあたる動機については、科学的で客観的な検証は不可能なので、私の自白(自由の意識の存在)が必要になるのだと思います。
生まれつき手足が不自由な私が自由と平等について云々するのも妙ですが、そのような些末なことはともかく、結論を言えば、絶対的な自由あるいは絶対的な平等というものは存在し得ない・・・という意見が現在の大勢のようです。
とは言え、我が国の憲法にも自由と平等については条文化されています。
結局、絶対的な自由も絶対的な平等も存在しないかわりに、ある基準を便宜的に設定し、あたかも自由と平等が存在するかのように考えた・・・という人間の知恵なのではないかと思います。
即ち、自由と平等という名のコンベンショナリズムです。
3月11日という特別な日に、なぜこんなわかりきったことをくどくどと書いているのかといえば、最近とみに自由と平等のバランスが崩れつつあると危惧しているからです。
2.原発のこと
チェルノブイリ以来史上最悪の原発事故となった福島第1原発事故以降、我が国では原発の継続使用に反対する意見が広がっています。一方、政府は一貫して、新規制に基づいて安全と判断された原発については稼働を再開する方針を明確にしているところです。
ところで、電力業界における今年の最大の注目点といえるのが、原子力発電所の再稼働の行方です。
福島第1原発は廃炉となり、その他の原発も運転を停止(定期検査入り)しました。原発の安全性を審査する制度や体制を根本的に見直すためです。
例外的に電力需給の厳しさなどを理由にした政治判断で、関西電力の大飯原発3・4号機が2012年7月~2013年9月に稼働しましたが、それ以外は停止が続いている状況です。
そのような中、原子力規制委員会は、新規制基準に基づく原発の安全性審査を2013年7月から開始しました。
これまで11の電力会社が14原発21基の審査を申請したそうです。
このうち再稼働一番手と目されているのが、九州電力の川内(SMで話題になった所管の大臣は国会でカワウチと読んじゃいましたが・・・)原発1・2号機です。設計変更の基本方針を示した設置変更許可申請が新規制基準に適合していると評価され、初めて事実上の合格証(審査書)を得ました。その後、立地自治体である薩摩川内市の議会と市長、鹿児島県の議会と県知事が同原発の再稼働に同意した模様です。
当然、審査や再稼働の妥当性に疑問の声も多いようです。
審査で焦点となったカルデラ噴火の影響に関して、日本火山学会の専門家は、巨大噴火の前兆把握が可能とする前提に立った規制委の審査を批判しているそうですし、原発30キロメートル圏内の自治体が策定する緊急時の避難計画は、いまだ多くの不備が指摘され、規制委の審査対象外であることも問題視されています。
その一方で、原発再稼働とともに今後の焦点となるのが、老朽原発の廃炉です。原発の運転期間は原則40年と定められたものの、規制委が認めれば、1回に限り最長20年延長できるそうです。廃炉か運転延長か・・・。その判断を迫られているのが、今年中に運転40年以上となる、高浜1・2号機、美浜1・2号機、玄海1号機、島根1号機、敦賀1号機の計7基です。
運転延長をするには、原子炉の欠陥の有無を電力会社自身が調べたうえで、運転開始から40年となる運転期間満了日の1年3か月前に規制委へ申請する必要があるそうです。
廃炉に関しては、運転40年を超える老朽原発とは別に、活断層調査の対象となっている原発の動向も注目されます。
特に日本原電の敦賀原発2号機については、原子炉建屋直下の断層を活断層と認定する報告書案を規制委の有識者会合がまとめていて、廃炉となる可能性が高いようです。日本原電側は「検証が不十分」として依然反発しているようですがが、結論には興味があるところです。
それにしても、昨年の4月に閣議決定されたエネルギー基本計画には大いに落胆させられました。
原発について、「燃料投入量に対するエネルギー出力が圧倒的に大きく、優れた安定供給性と効率性を有している」などと、利点を強調するだけで、将来の原発依存度や電源構成などの明示は一切見送られました。
こういういい加減な計画書は、通常の組織では通用しないとしたものですが、やはりスポンサーが大切なのでしょう。私の小さな脳ミソでは、そうとしか考えられないのです。
保坂和志氏は、その著書「考える練習」の中でこう書いています。
「人間が生きていくうえで、まずこれを除外して人間をやっていこうっていう選択肢があると思うんだよ。なぜ近親相姦がないかっていうと、その理由についていろんな説を考える人がいるわけだけど、逆に考えると、近親相姦を禁止して人間になったんだということもできる。だから、原発を使わずに生きるのが人間だっていうふうに、理想のほうを考えることの中心に置かないと、何を考えてもしょうがない。」
3月11日もあと10分足らずとなりました。
みんカラに相応しくない、独り善がりの駄文を最後までお読み頂き、心より感謝申し上げます。
Posted at 2015/03/11 23:56:40 | |
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