
♪もっと器用に
生きれたら 楽な暮らしもできたのに♪
というのは、増位山太志郎の新曲「白雪草」の2番の一節。
昨年の夏から
13年ぶりにカラオケを再開した小生は、J:COMの「歌謡ポップスチャンネル」に加入し、「時代劇専門チャンネル」の次に多く視聴しているのだが、この曲のこの一節を聴くたびに
「アレ・・・?」と考え込んでしまうのである。
文化庁が発表した2015年度「国語に関する世論調査」によれば、
ら抜き言葉を使用する人が多数派になったという。
どうでもいい話だが、保守派を自称する小生にとって、ら抜き言葉は
結構不愉快だ。
まぁ若者が使うのは仕方ないとしても、年配者が何のためらいもなく「見れる」や「食べれる」などを連発する姿に遭遇するにつけ、
暗澹たる気分になる。
1月13日付の毎日新聞『論点』のページでは、そのら抜き言葉を特集していた。
国語学者の金田一秀穂氏、劇作家の永井愛氏、フリーアナウンサーの梶原しげる氏がそれぞれの持論を展開。
金田一氏曰く、日本語は常に変化の過程にあり、正しい日本語について学者や文部科学省が指針を示すことなどできるはずがない。自然に任せて
「収まるところに収まる」としか言いようがないという。
一方永井氏は、
嫌いだが自分もついつい使ってしまう。ら抜き言葉よりも「させていただく」等の過剰敬語に、より嫌悪感を覚えるし、「強行採決など考えたこともない」などという言葉を聞くたびに、言葉の存在を侮辱されていると思うという。
また梶原氏は、ら抜き言葉は教養や知性を表す絶対的な尺度ではなくなり、
「その場に応じてうまく言葉を使えるかどうか」の限定的な指標になりつつあると指摘する。
ところで、永井・梶原両氏の主張には同意できる点もいくつかあるが、金田一氏の意見については率直にいって
唖然とした。
古い話で恐縮だが、小生が中学生の時、
可能動詞は五段活用からしか作れないと国語教師に教えてもらった。
すなわち、「見る」は
上一段活用だから「見れる」という表現は使えず、また「食べる」は
下一段活用だから「食べれる」とは言えないという決まりがあったはずである。
さらにいえば、「れる」は五段活用とサ行変格活用にのみ用いられ、
上一段活用・下一段活用・カ行変格活用は「られる」が必ず用いられることに決まっている。
金田一氏は、
「ら抜き言葉を語る時は五段活用の動詞にも『ら抜き』があった歴史や方言の存在に対する認識が必要だろう」
と主張していたが、そのことをもって「ら抜き言葉を擁護」するのは、さすがに無理があると思う。
もっと気になるのが、
「正しい日本語について学者や文部科学省が指針を示すことなどできるはずがない・・・」
というくだり。
確かに、国語学者が「正しい日本語なんて決められるはずがない」という前提には、言葉そのものに内在する本質として「正しさ」を見出すことや、比較検討することの困難さという意味での
方法論的な限界があるのだろう。
また、金田一氏ほどの有識者の発言は、時に
お上に利用され、権威としての規範の維持・形成に多大に寄与する・・・なんてことにもなりかねず、ゆえに価値判断の表明については極めて慎重でなければならない・・・という考え方もわかる。
しかし百歩譲って、正しい日本語を決めるのがそんなに難しいなら、せめて耳障りの良い日本語(★追記をご覧ください)を大切にしましょうと、
国語学者なら言ってほしいのだ。
耳障りの良い日本語(★)を守ることは、とりもなおさず
日本の文化を守ることだからである。
心が形を決めるのか、それとも形が心を決めるのか・・・。
勿論一概に言えないのは百も承知の上で、7:3の割合で後者の立場を採る小生は、やはりどうしても「ら抜き言葉」が使えないのだ。
さて、
世迷言の書き散らかしはこのくらいにして、6日の金曜日に野暮用で横浜に行ったついでに、珍しいものを見学してきたのでご報告。
途中、大黒でひと休み
野暮用は思いのほか早く済んだ
Audiみなとみらい店に急ぐ
トウチャコである。身障者用駐車場に止めさせて頂く(永井愛氏の嫌いな過剰敬語?)
試乗車だと思う
みなとみらい店は久しぶり。そういえば前回も野暮用の帰りだった
相変わらず下手な写真を撮っていると、営業の男性の方が
「2階に珍しいクルマがあるので、是非ご覧ください」という。
何でも
ファイナルファンタジーXVの主人公であるノクティス王子の愛車が、Audi R8をベースにした特別仕様車らしく、ゲームの中のいわば想像の産物を、
全世界1台限定で実車化したとのこと。それが置いてあるというのだ。
その名も「The Audi R8 Star of Lucis」。
Posted at 2017/01/16 23:09:31 | |
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