
yahooニュースに次のような記事がありました。
今日は七夕 その由来とは
この記事ではなぜ「七夕」を「たなばた」と読むのか分かりませんので、補足させていただきます。
勿論、七夕自体の起こりは旧暦ですので現在とは1ヶ月以上合いませんが。
9世紀末から10世紀頭にかけて作られた「伊勢物語」には次のような内容の段があります。
惟喬の親王とそのお供の右の馬の頭(在原業平)らは、水無瀬離宮に桜を愛でるために訪れました。
鷹狩りの名目だったのですが、狩りは熱心にやらず、専らお酒を飲み、和歌を詠むことを楽しみに訪れているのです。
良い酒飲み場を探していると、天の河という所に着きました。
そこで業平が詠むことには
狩り暮らしたなばたつめに宿からむ 天の河原に我は来にけり
(一日中狩りをしてもう日も暮れてしまったので、織姫に宿を借りましょう。
折角、天の河原に我々はいるのだから)
それへの紀有常の返し
一年にひとたび来ます君待てば 宿かす人もあらじとぞ思ふ
(一年に一回だけいらっしゃる夫を待っているので、宿は貸してくれないでしょう)
ここから分かることは、平安時代初期には、織姫と牽牛夫婦のラブロマンスが完全に周知の事実となっているということです。
「万葉集」にも七夕に関する歌は収められているし、日本最古の歴史書である「古事記」にも七夕に関わる叙述があります。
元々、中国での「乞巧奠(きこうでん)」と呼ばれる、女性が針仕事の上達を祈る儀式が七夕の起こりです。
「源氏物語」にも乞巧奠の儀式の描写があります。
織姫と牽牛の話も元は中国の昔話で、機織りという共通項から、乞巧奠と昔話が結び付いたのではないかと考えられています。
乞巧奠自体は7月7日と決められていた訳ではないのですが、陽の数が重なり、節句に相応しいということで7月7日に定まったようです。
なぜ「七夕」と書いて「たなばた」と読ませるのかは、上記の内容から理由が分かります。
「棚機(たなばた)」と呼ばれる機織り機を使って先祖に捧げる衣を縫い上げる禊の儀式と乞巧奠が融合していったからです。
この融合した儀式は、7月7日の夕方を取って「七夕(しちせき)」と呼ばれていたのですが、「棚機」を当て、「たなばた」と慣用的に呼ぶようになりました。
ではなぜ短冊に願いを書くようになったのでしょうか。
笹に五色の短冊を飾る風習は日本独自のものです。
五色は五行説(中国の自然哲学。万物は木・火・土・金・水の五つの元素から成り立つと考える思想)に因る緑・紅・黄・白・黒です。
先述のように、針仕事の上達を願うのが七夕の起こりですから、短冊に技能上達の願いを書いたのでしょう。
それが、徐々に針仕事の上達とは無関係な個人の願いを書くようになっていったのです。
織姫と牽牛はカササギが天の川に橋を架けてくれるから会うことができます。
「かささぎの渡せる橋(によって会いに来ました)」というのは古来から様々な和歌に詠まれており、昔の風流人たちも二人の伝説を好んでいたのが分かります。
七夕に雨が降ると天の川を渡れず二人は会えませんので、織姫と牽牛が涙雨(催涙雨(さいるいう)と呼ぶ)を流します。
それはそれで風情がありますね。
因みに7月6日に降る雨は洗車雨(せんしゃう)と呼びます。
織姫に会うために彦星が牛車を洗っているために降るのだとか。
デートの前に車を洗うなんて、今と変わらないですね。
Posted at 2019/07/07 21:12:33 | |
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