
父のクルマ、私のクルマ共に最初の販売元は「東京トヨペット」が大半を占めていたりします。
この東京トヨペット、日産に東京地区の有力ディーラーを先に押さえられてしまったため、メーカー自らが乗り出して設立したとのこと。そんな出自もあって80年代末までは取り扱い車種も他県とは異なっていました。
現在は、東京の一販売店に留まる部分が多くなりましたが(それでもクラウンの販売比率で8割強を占めたり、ハイブリッド車累計販売台数10万台を達成する等販売力は未だ健在)、私の中の東京トヨペットというと70年代中期から90年代初頭にかけての最強販売会社のイメージがどうしても強かったりします。
今回は、棚から出てきたその少し前の総合カタログを引用しようと思います。
出版は、2代目マークII登場直後、今から42年前の昭和47年(1972年)2月となります。
2015/4/29 画像を全て更新しました。
それでは早速ご紹介

東京の特殊性とそれに対する取り組みが書かれています。
今に続く「部品まる替えシステム」はこの時期が走り。車の寿命が短く代替も早かった時代のため、下取りの有利さも書かれています。
現在は高速に乗るのは日常的な出来事ですが、当時はハイウェイ・チェックが奨励されていました。さらに渋谷と葛飾の2箇所には、特別にカーケアセンターが設置されていました。

「ときにはお嬢さまとお茶などもイイものです。帝国ホテルに横付けしてください。」クラウンハードトップ
最上のホテルということで(?)帝国ホテルが登場。
キャッチコピーである、”男ざかり”のプレイカー、登場当初のキャッチコピー”エレガンツ”が謳われています。

「こんどの連休はどちらへ?ちょっと京都まで・・・。思いきり脚を伸ばしてください。」クラウン・セダン・シリーズ
マイナーチェンジ時のCMを先取りしたかのようなコピー。この時点では東名・名神の両高速道路が全通済。
先代は、セドリック・グロリアを寄せ付けない強さを誇っていましたが、この代になって初めて苦戦。東京は法人需要も多いため、なおさら。オーナーカーとして見れば前衛的でイイスタイルだと思うのですけれどね。。。

「さっそく横浜元町でニューファッションをねだられます。それだけはご覚悟ください。」NewマークII・ハードトップ・シリーズ
登場早々の新型=ニューファッションですね。この時点では
第三京浜道路のみ開通済み。
旧型は、前年に登場したブルーバードUに販売で苦戦したため期待の新型。抜群の人気車だったスカイラインGTにも対抗すべく6気筒Lシリーズも初登場しています。

「今夜のディナーは六本木? それとも赤坂? 趣味のよさがにじみ出ます。」NewマークII・セダン・シリーズ
ディナーで挙げられている2箇所は当然再開発前の時代。
こちらもブルーバードU&スカイラインへの対抗心がありあり。初年度は新車効果もあって販売も好調だったのですが・・・

「おいしかったヮ 御殿場のドライブインのあのコーヒー。さあ、ひとっ走りしてください。」コロナ・ハードトップ・シリーズ
カップル想定に見えますが、実は販売ターゲットはニューファミリー。前述のとおり、東名は既に全通済み。
昭和45年夏に追加されたモデルですが、販売は想定に及ばず劣勢。このため、前年に大幅マイナーチェンジを実施する際、特に1600HTを重点グレードとし、大衆車クラスに対抗できる価格で同クラスには設定のないハードトップはいかが? という販売戦略を立てています。

「信州のおばあちゃん、きっとびっくりしてよ。ボクがあんまり大きくなったんで。」コロナ・セダン・シリーズ
この時期の
中央自動車道は、調布・河口湖間のみ開通。
関越自動車道はようやく練馬・川越間が開通したばかり。このため信州までの旅路は相当に大変だったはずです(笑)
HT同様に前年マイナーチェンジを実施していますが、元々のシャシーは先代アローラインからの継続。エンジンも1600はT型ではなく商用車共通のR型のため時流に取り残されつつありました。HTとは異なり1900の設定もなく、主な想定ユーザーは大人しいファミリーユースとフリートユース。

「さっきまで青山にいたの。きれいな空気が吸いたいなッっていったら、連れて来られちゃった。」カリーナ・シリーズ
都内では光化学スモッグの発生が日常化しつつあった頃。早速の対策として、燃料の無鉛化が始まります。
他県ではトヨタ店の扱いですが、80年代までは東京トヨペットの取り扱い。この時点では初期型となります。HT登場までは、廉価で販売中のコロナとの売り分けに苦心していて販売台数も伸びませんでした。コロナとは趣味のちょっと違うセダンだったのですが、今一つ理解されない感がありましたね。

「ねぇ、近頃のケンちゃん オシャレになったと思わない・・・!? スマートに稼ぎまくってください。」ハイエース・シリーズ
この時点ではバンシリーズにスライドドアが標準になったくらいの初期型。
初代は、トラックベースのキャブバンと乗用車ベースのライトバンの間隙を縫うようにして登場。これまで無かったタイプということでヒットします。ハイエースの成功を受けて、日産は対抗馬キャラバンの登場を急ぐこととなります。

「明朝は一番で沼津行きですか。今夜は一杯ひっかけて、ぐっすりおやすみください。」トヨエース・シリーズ
翌朝一番ということを考えると今では使えないコピーの可能性高し(笑)
12年続いた先代の成功の後を受けて、前年に3代目が登場。最後のセミキャブオーバーとなります。この時点では1350と1600のガソリンのみ。

「こんどの日曜日は印旛沼、スズラン商店街の釣り大会。頑張ってください。」 ワゴン・シリーズ
当時のワゴンは、セダンではなくバンの一種の扱いでありました。
ちなみに東京トヨペットは、マークIIバンの取り扱いは無くワゴンのみでした。
当時の
東関東自動車道は、新空港自動車道として宮野木JCT・富里間が開通済み。
「BOAC201便でミスター・ハクスレー到着。羽田までお出迎えください。」センチュリー
一般向けは高級車でもクラウンまでで、センチュリーは特別需要の扱いのため最後尾に掲載。
成田空港開業前ですから、行き先は当然羽田空港。羽田空港の需要が容量に対して切迫しつつあった頃です。
最後に裏表紙をご紹介。
営業所名の一覧等が掲載されています。矢印マークは現行のディーラーステッカー以前にも描かれていました。
興味のある方は当時の営業所一覧と
現在の営業所一覧を比較してみてくださいませ。一部は
レクサスディーラー開設時に転用された店舗もあります。
この後、クラウンシリーズは5代目で復権、並行して5代目コロナ、3代目マークIIと取り扱い車種が人気を集めることで販売台数は増加の一途を辿ることとなるのですが、それはもう少し後の話。
昭和47年の資料は他にも発掘されているので、しばらくこの話を続けてみます。
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カタログ話(雑談編) | クルマ
Posted at
2014/11/16 19:53:35