
J30マキシマに続いて、FFラージセダンを取り上げることにします。
初代ディアマンテが兄弟車でありまして、あちらは当時、一世を風靡した存在である一方、こちらはかなりの少数派となるのですが、あえてこちらということで。
単純に自分的にはこちらの方が好きというのが大きいですが、コンセプトに忠実なのは実はこちらかもしれないという話は後述。
今回もマキシマの時と同様、月刊自家用車誌1990年10月号の車種別総合研究、(ただしディアマンテの回)からの引用(以下、引用部分は
太字で記載)で補足することにします。ちなみに設計者インタビューで対応されているのは、乗用車開発本部 プロジェクト エンジニア 井村二郎氏となります。
カタログは、登場当時の1990年10月発行となります。
ディアマンテに5ヵ月遅れる形で登場したのが、このSIGMAでした。
ファスト・ミディアム・クラスは、ディアマンテが掲げたフレーズですが、そこに「新セダン」と加えた形です。
井村氏は、以下の3点を具体的なコンセプトの違いとされています。
・新しい感覚でつくったワイドボディによるスタイリング
・心理的にゆとりをもった空間
・ワイドトレッドを前提とした世界に通用する剛性感のある新しい走り。
三菱自動車の最盛期を象徴する一台という意味でも「きっと忘れられないクルマになる。」というフレーズに偽りはありませんでした。
SIGMAがディアマンテよりも登場が遅れたのは、輸出が主力のため、1991年モデルに合わせたという事情と推測しています。
ハードトップのディアマンテ、セダンのSIGMAという構成については、
「最近、皆さんは、セルシオ、インフィニティが出てきたんで、このクラスも4ドアセダンだよとよくおっしゃられるんだけれども、じゃ5年前、7年前、4ドアセダンなんて10%いかないんですものね。主力は4ドアハードトップにいかざるを得ない。だから同じようなことをある意味ではやってきたんだけれども・・・
三菱がホントに真面目に国内であのクラスのシェアを取りたいと頑張るんだから、誰が僕の立場に替わろうが、4ドアセダン一本でいくんだなんて言えなくて、国内は4ドアハードトップメインで展開して、それのバリエーションとして4ドアセダンをつくって、それを世界に出す、というのは当然のことなんじゃないかというふうに思いますけどね。」
と話されています。
中心グレードとなる25V-SEのエクステリア
ディアマンテとのエクステリア上の相違点は、ドアサッシの有無以外にも角目4灯のヘッドランプ、独立形状のフロントグリル、(2WDのみ採用の)エアロディッシュタイプのアルミホイール、6ライトキャビン等があります。
そのいずれも、ギャランのイメージが重なります。ギャランは三菱久々のヒット作で快進撃の狼煙となったクルマでしたから、そちらからの引用も納得できるものがありました。
ディアマンテはやや自己主張の強いディテール処理から、BMWとの近似性を指摘する声が少なからずありましたが、輸出が主力となるSIGMAの方は一転して大人しいディテール処理となります。この辺りの関係性は、HCルーチェに共通するものがありますね。
25V-SEのインパネ
従来型に位置するギャランシグマのインテリアが、広さを強調するデザインを採用したところ、質感の点で苦戦したことへの反省もあってか、一転してパウダースラッシュを多用したラウンディッシュな形状となっています。
カップホルダーを上段に位置させる一方で、空調やオーディオのパネルが下方に追いやられています。操作性の点では疑問のつくレイアウトですが、雰囲気重視ということなのでしょう。その結果得られたデザインは、質感共に現在では求め得られない領域ですね。
25V-SEのインテリア
こちらも先代の反省から、たっぷりとしたサイズのシートを与えることで、空間の広々感よりも居住性の快適さを求めたように映ります。
もっとも、リヤシートはホイールハウスの影響も少ない上に、座面形状はほぼフラットでサイド部の削りも最小限ですから、FFならではの空間効率の高さを窺い知ることは可能です。
シート生地は、たしか25V系のみディアマンテと異なるものだったと記憶していますが、そのいずれもが、モケットを主体とした従来型高級車とは異なるざっくりとしたものでした。
当時は、目が慣れていないこともあって贅沢さに欠けるように映りましたが、今ではその雰囲気が魅力的に映ります。
この辺りも、「あのクルマとは違う」の反映だったのでしょうね。
25V、ここではその4WD版が掲載されています。
ディアマンテでは、このグレードが最多量販でした。(以下、25V-SE、25Eの順)
4WDは5本スポーク形状のアルミホイールとなって、2WDとの違いを主張します。一部を除けば2WDが主体のこのクラスに4WDを持ち込んだというのも新鮮でした。そのためもあってか、初期受注における4WDの比率は、21%と比較的高い数値が出ていました。
左頁は25E、右頁は20Eとなります。
廉価グレードの位置付けですが、その装備は当時のこのクラス水準で見ても十分以上でした。その割に20Eで200万円強、25Eでも230万円前後という価格ですから、かなりお買い得感がありました。特に25は他車が上級グレードばかりの中でしたから、尚更でしたね。
20Eの画像にあるMTは、この両グレードのみ選択可能でした。ただその販売比率は初期受注中約3%に過ぎませんでしたから、あくまでもATが主流でした。
上級グレードに位置する30R-Sです。4WDの方が掲載されています。
この後登場する30R-SEは受注生産車でしたから、事実上、3Lの主力グレードでした。
ディアマンテ登場時は30Rとして登場したのですが、登場直後に内装のパネル材を本木目から光沢木目調に落とす代わりに、ABSやTCLを標準化した30R-Sに変更されています。
30R-Sのインパネとエクステリア
基本形状は25V以下と共通ですが、パネル材、空調やオーディオの操作パネル、シート生地等の変更によって、だいぶゴージャスな印象が強くなります。
25や20系はライバル車がマークIIやローレルを想定していましたが、30系ではそれがクラウンやセドリックとなります。三菱はモデル数が少ないがための事情でもあるのですが、それに対応するための差別化でもありました。
その分、クラウンやセドリックと比較すると割安感はありました。シリーズ全体を通して、上手な所を突いたなぁというのが共通する印象ですね。
最上級グレードとなる30R-SE
画像の本革シートはオプションとなります。
フラグシップグレード的位置付けのため、電子技術テンコ盛りとなっています。4WDはMMCSと呼ばれていたマルチモニターが標準、2WDはMMCSが省かれる代わりに電子制御アクティブサスが標準でした。
SIGMAを象徴するものとして、「WIDE BODY」、「ACTIVE SAFETY」「PASSIVE SAFETY」の3つが掲げられています。
物品税の廃止と普通乗用車の自動車税の引き下げにより、俄かに注目を集めたワイドボディ。また90年代に入って直ぐにNHKの放映が発端となった安全性への指摘。そのどちらもが、ディアマンテ/SIGMAへの追い風となりました。
そういう意味では、正しく「時代の風に乗ったクルマ」と言えます。
もっとも、開発の時点では当然そんな未来は予測不可能ですから、その先見性は高く評価されるべきですね。
「ACTIVE SAFETY」では、ギャランが先に提唱した「ACTIVE FOUR」に加えて「ACTIVE TWO」が新たに提唱されています。
ACTIVE TWOの技術としては、こちらもギャランから流用のACTIVE ECSとTCLがその柱となります。
当時注目されたサイドドアビームは標準。リヤ3点式シートベルトの全車標準等、輸出考慮の車種らしく基本的な安全性の部分に手抜きはありませんでした。
半ば余談ですが、後年自動車解体でこのクルマを見かけた時、同年代・同級の他車と比較して、ボディの作りが良いなあと思ったものです。三菱らしい、真面目さがそこに表れていたということなのでしょうね。
左頁はメカニズムの紹介です。
2000と3000に加えて、その後のブームの発端となる2500の登場が目玉でした。
この点については、
「最近は価格帯イコール・エンジンの出力で決まっている面があると思う。周りにたくさんクルマがありますが、だいたい決まっているんですよ。
6気筒というのは、最初からマークIIクラスを開発するについては当然のことですが、そういう意味からして、2L、2.5L、3L。正直いって、2Lと3Lの開発が先に決まっていたけれども、2.5Lというのは・・・ふつう、2Lの上というのは2LのDOHCのターボ付きというのが相手のクルマですが、それに対して2L、3L、うちではその中間の2.5Lというような考え方。これは3ナンバーという枠を超えるということですから、当然、2.5L。ただ売値レンジ上、組むためにも2.5Lというものを開発したということです。」
と話されています。
ディアマンテの初期受注における排気量別の販売比率は、3000:35%、2500:55%。2000:10%という数字(さらに初期受注のため3000の数字が高めと言えます)ですから、あえて2500としたのは大英断と言えます。おそらく2500でなければ、ディアマンテ/SIGMAの売れ行きはもっと少なかったと想像しています。そしてそれは2500の市場に可能性を見出していたトヨタ共々、懐疑的だった日産とは明暗を分ける結果となったのです。
30R-SEのもう一つの目玉装備だった、MICSについても触れられています。
記憶したドライバーのポジションをキーレスエントリーで再生するのは世界初。さらに人間工学データに基づいた標準ポジション自動設定機能がもう一つの世界初。この辺りの電子技術は、当時の三菱のお家芸でしたね。
インテリアの各種装備、オプション、内外装色の設定等です。
ボディカラーは基本的にディアマンテと共通と思われます。
参考までにディアマンテの人気色は、1.カバリアグリーン、2.アーマーチャコールグレイ、3.ジャーマンディープグリーンの順でした。
ホワイトが売れていたライバル車に対して、ボディカラーも「あのクルマとは違う」色が選ばれていたと言えますね。
主要諸元表と主要装備一覧です。
ワイドボディが謳い文句でしたが、そのサイズは全長4,740mm、全幅1,775mm、全高1,435mmというものですから、現在視点ではそれほど大きいサイズとは言えません。それでも、小型車枠だった全長4,700mm、全幅1,700mmに縛られたボディを見慣れた目には、(特に横幅が)とても大きく映ったものです。
装備一覧では、同グレードでも2WDと4WDで微妙に設定が異なっていたのが、お判りいただけると思います。
当時の新車価格表です。
表面がディアマンテ、裏面がSIGMAという構成からして、販売店の力の入り具合は明確と言えます。
ちなみに両者(2500・3000、2000で分けています)の販売台数を月刊自家用車誌に掲載された自販連調査の新車販売台数から引用すると、
[ディアマンテ]
1991年:40,255+5,406台、1992年:23,358+3,401台、1993年:13,402+2,530台、1994年:12,258+6,373台
[シグマ]
1991年:2,903+2,213台、1992年:692+1,628台、1993年:309+1,859台、1994年:114+2,125台
となります。
エンジニアの読み通り、ハードトップのディアマンテに人気は集中して、セダンのSIGMAは台数が伸びませんでした。
その一方でディアマンテとは異なり後年に行くほど、2000主力で売れていたのが明確に表れています。その需要は主として法人にあり、1993年に追加されたエグゼクティブもその対応からですね。
以上、ディアマンテと組み合わせつつでSIGMAについて紹介してきました。
いつもなら、ここで考察に入るのですが、文中で引用した井村氏は、かなりの仕事人だったようで、
「4年間、すべての面でほんとに我が身を投げ打ちました。家庭も人生も何も投げ捨て・・・」
と語られています。そんな氏が一心になられたクルマ作り、それはとても大変だったことが文中のあちこちから、垣間見えますので、そちらをいくつか抜き出してみます。
ディアマンテ/SIGMAの誕生について語るには、先代のシグマハードトップまで遡る必要があります。シグマハードトップは、三菱として初めてマークII・ローレルクラスに名乗りを上げたクルマだったわけです。
ライバル車にはないFF機構を武器にしたのですが、残念ながら、ライバルの築いた牙城には遠く及ばずという結果に終わりました。
(あのクルマとは違うという点について、同時期のライバル車を冷徹に分析した後で・・・)
「残念ながら、(シグマは)トヨタ、日産さんにそうとう差を開けられた。そういう意味でマークII、ローレルと競合するクルマと。彼らに勝つクルマは何か。日産さんはそれに対してパッパと出してきた。それだけでも限定されすぎるんじゃないか。」
「マークII、ローレル、それが本当にこれからの世の中に時代性を持ったコンセプトなんですかということがわれわれの投げかけです。それがあのクルマとは違うということの基本にあります。」
「じゃ、何が違うかといったならば、ここ10年間、衣食住、すべての面で世の中変わってきたんですよ。ところが、残念ながらクルマだけはここ10年間、上級車、高級車が手法的には変わっていない。これは問題ですよ。だけど問題だと投げかける前に、小型車枠という制約がくるんだから、これは責めてもしょうがない。だけども三菱がリスクをおかして決心したときに、枠を超えてほんとに税制が変わらなかったら台数は500台かもしれなかった。けれども、そのゾーンに突っ込んだときに、あるいは逆にその2年前にこのクルマの開発をやるときに立てた目標が、彼らの価値観を変えてやるということで、それが違う。
その価値観は何かといったら、すべてにおいて上級車のクルマづくりというコンセプトの違いを言っております。」
井村氏の挑戦は、マークIIやローレルへの挑戦だけでなく既存の規制とか枠への挑戦でもあったのです。
だからこそ、マークII・ローレルから離れた提案だったセフィーロに対して、
「セフィーロは考え方が非常に近かったんですよね。だけど、できたものは少し軽かったなと。」
いう言われ方をされています。
氏には、セフィーロは思想にこそシンパシーを感じたものの、ローレルと多くのコンポーネンツを共用した兄弟車に留まった点に、自分の挑戦からすれば冒険が足りないと映ったのでしょうね。
このブログを起こすにあたって、この対談の部分を読み返してみたのですが、改めて興味深い箇所がその他にもいくつもありました。
「いちばん感動したのはジャガーです。アウトバーンではやはりベンツ、BMWなんだろうなと。ところが、あれ(ジャガー)、日本の高速道路を100kmとか120~130kmとかで走ると、素晴らしい操縦安定性というふうに思うんじゃないかと思うわけです。
(中略)ロールスピードが非常に遅くて、ロールが少なくて、ほんとにレーンチェンジをやってみると安定していますよね。あの直進性はさほどでもないし、動力性能もさほどでもないんだけれども。」
「(ディアマンテに)乗ってくれたお客さんには、表明だけじゃないよと。だけど、その喜びとかいうものは、持った喜び、あるいは買おうという人にとってみれば、乗っていただければ、さらに何か感ずるものがあるんじゃないかと。
ほんとに乗って、あるいは次の日乗って、次の日乗って、何か変わったメッセージというものがクルマから出てくるんじゃないかなと。それはなぜかといったら、クルマというのは運転する人の友達と思うからです。」
「どんな会社であろうと、クルマづくりというのは情熱が大事です。その情熱というのは、例えば100の力を120にする力がある。
若輩の私でありながら、そういう考えに共感してくれる仲間がどんどん増えていったということは、結果的に他車が今後、変わってくるであろうというクルマを1年間、2年間リードしていま出せたということです。」
自分的に、三菱のエンジニアには、あまり強い主張を持っていないという印象があったのですが、こうして読み返すと、やはりクルマ作りに対して情熱を持っていられたことが鮮明になりますね。
ディアマンテ/SIGMAが当たったのは、時代にマッチしたからというのが最大の理由だと今でも思いますが、マッチさせたのはエンジニアの信念がそこにあったからだと言い切れます。
トヨタ・日産が複数の車種を持つ市場に三菱は単一車種で斬り込まざるを得ませんでした。だからこそ、こういう形にならざるを得なかったというのはあるかもしれません。
しかしながら、従来の盟主だったマークIIやローレルに対して、本格的に挑戦しようという強い意志がなければ、マキシマのように輸出を主体として、3000のセダンのみという構成だったはずです。リスクを承知で勝負を仕掛けた、そこに基本構成はかなり近いマキシマとの大きな違いが存在します。
その勝負は、三菱に大きなアドバンテージを与えました。マークIIやローレルが3ナンバーボディを持つのは、ディアマンテ/SIGMA登場の2年後。思想・構成共に近い2代目セフィーロの登場は4年後となるのです。
その間、大成功となったことで、三菱のクルマ作りはこの後良くも悪くもディアマンテに近いものとなっていくのですが、その話は長くなりますので、今回は略とします。
現在もクルマの技術の進歩は認める一方で、違う意味で高級車に留まらず、あらゆるジャンルのコンセプトや手法が画一的になりつつあることを感じています。残念なのは、それに対して価値観を変えてやろうという挑戦をするクルマが登場しないことです。
結果はどうであれ、そんなクルマは市場や既存車種への刺激となりますし、第一見ている方までワクワクできます。そんな存在の登場を待ち望んで久しいのです。