梅雨明け以降の暑さは、正しく猛暑という言葉が相応しく。
室内から眺める木々の揺れで、風が吹いているのだなと期待して外に出てみると、吹いていたのは熱風とかですからね。
自車を運転していても、横から差し込む陽射しは暑く、そして時には痛いくらいで。これぐらいになると、運転席と助手席横にも透明断熱フィルムを貼りたいが頭に浮かびます。前車の経験から、貼れば効果は確実なのですが、反面デメリットも知るため、何とか我慢している次第。
アイドリングストップさえ止めてしまえば、エアコンは猛暑にも耐えられる能力を有する(聞くところによるとDENSO製らしく)というのが、せめてもの救い。
暑いだけで埋めてしまえそうな勢いですが、一応ブログらしく書こうかと。
色々浮かんだお題から、これにしようと決めたのがタイトルでありまして。タイトル自体、むりくり括った感がありますけれど。
1989年(平成元年)に行われた自動車関連税制の改革により、3ナンバーは一気に身近になったところですが、それ以前の昭和時代にも極少数ながら、今回取り上げる両車にも3ナンバーが存在していた時期があります。
今回はそんな話で書いてみます。
この辺りは、手持ちのカタログも揃っているのですけれど、発掘には時間を要するという理由で、掲載資料は楽をする方向で(笑)
先に登場したことに敬意を表して、今回はローレルから進めます。
〇2代目ローレル
1973年(昭和48年)10月に行われたマイナーチェンジにより、初の3ナンバー「2600SGL」が、セダンとハードトップの両方に追加されています。
セダンは2000SGXの画像ですが、2600もエンブレムの差異くらいで外観はほぼ同じ。70扁平のバイアスタイヤ、専用シート生地等が2600の特徴でした。
先に2600を追加していたセドリック/グロリアは、シングルカムながらもGXを使っていましたが、こちらはSGXではなくSGLが使われています。
この追加、聞くところによると、1974年(昭和49年)の施行が見込まれていた小型乗用車枠の拡大(2000以下→2600以下)を先取りしての動きだったようです。この時期、クラウン、セドリック/グロリアの2600が最上級グレードのみならず、廉価グレードにも設定拡大されていたのも同じ理由。セドリック/グロリアに至っては、1ナンバーライトバンまで追加していたくらいでありまして。
フェアレディZも従前の240に替わる260を2by2ボディで1973年のモーターショーに参考出品していますが、同年末に勃発したオイルショックにより、一気に省エネモードに突入。260は急遽輸出のみとされてしまいます。もちろん、小型乗用車枠の拡大も見送り。
ローレルも登場がもう少し後だったら、フェアレディZと同じ動きとなったであろうことが推測され、そういう意味では駆け込みで間に合ったという言い方が適当かもしれません。
2600SGLは、50年規制適合時に2800に拡大され、新たに2800SGLを名乗ることになります。
〇3代目ローレル
排ガス対策への対応により、少し時間を開けた1977年(昭和52年)1月にローレルはモデルチェンジされ、3代目となります。
もちろん2800SGLは継続設定。ボディ形状には、従前の4ドアセダンと2ドアハードトップに加え、新たに4ドアハードトップが追加されています。
外装画像は新たに追加された4ドアハードトップ、内装画像はセダン。
外装ではサイドモール、内装ではルースクッションシートが2800の特徴でした。
ルースクッションは、セドリック/グロリアが約半年後にマイナーチェンジした際に追加された新たな最上級、ブロアムでも採用されていますが、ローレルは一足早くの採用でした。
余談となりますが、この4ドアハードトップは、大都会パート3で登場し西部警察でも使われていたことを思い出します。番組中ではあまり激しい使われ方はされずできたものの、結局はベージュに再塗装され宮城ロケ編で壊されてしまったようです。まだまだ中古車としても商品価値があった時期でしたから、何とも勿体ないと思いつつで視聴していました。
話を本編に戻して。
3代目ローレルは1978年(昭和53年)11月にマイナーチェンジされ角目になったというのは、前回にも書いています。この時に2800は53年規制に適合。同時に発表されたセドリック/グロリアの一部変更では、2800は全車EGIに統一(それまでは、SGLがキャブ、ブロアムがEGI)されているものの、ローレルはグレード名称こそSGLから新たに加わったメダリストに変更されているものの、キャブのままとされています。
このマイナーチェンジでは、サイドモールが2000の6気筒にも装備されるようになったため、外観上の差異はエンブレム程度となりました。内装もグレード名こそ変わったものの、ほぼ従前の通り。メダリストが加わったことで、2000にもルースクッションを採用。こちらも差異がなくなったと思いきや、クッションのボタン止め数(という書き方でいいのかな?)を変えることで、2800の特別感を残しています。
ここでも余談。
前回のコメントでも話題になりましたが、4ドアハードトップ2800メダリストの画像には、このクラスでも珍しいライトグリーンが使われていました。このライトグリーン、モデル途中で設定廃止となったようで、前回ご紹介した末期のカタログでは、イメージカラーだったカッパーブラウンに差し替えられています。
余談さらに。
小学生の時、親しかった友人。お互いの家を行き来するくらいだったのですが、家で何乗っているのという話になりまして。友人の回答はローレル。うちはマークIIなんだ、なんて話になったのですが、よくよく聞いてみたら、当時最新型だったこの型。さらに2ドアハードトップの2800メダリストの5Fだと。その当時でも同じ仕様はあったのかいなと思えるくらいの希少仕様。実車は見ることができず、「珍しいね」で当時は話が収束したのですが、今でも鮮明に覚えている話の一つです。
〇4代目ローレル
ローレルは、今度は4年に満たない1980年(昭和55年)11月、4代目に進化しています。2800に限った話題としては、2ドアハードトップが廃止される一方、EGIへの進化とセダンの4独化(従前のセダンはリジッド)がありました。
先代比でかなりスッキリした内外装。外観は旧型同様エンブレム以外は2000と共通。インテリアではシートこそ2000メダリストと共通とされたものの、「ハイクオリティオーディオ」と名付けられたテクニクスのオーディオは2800のみ標準(2000はオプション)。また、ドライブコンピューターは2800のみのオプションとなります。
この時にはターボも追加されたものの、当初のグレード設定はセダンがSGL、ハードトップがSGXのみだったこともあって、メダリストでハイパワーを求めるとこの2800を選ばざるを得ませんでした。
しかし、登場後1年を経過した1981年(昭和56年)11月に小改良が行われると、前月に登場したマークIIグランデターボに呼応するかのようなターボメダリストが追加。これで、2800は完全な脇役に回ることになります。
今回取り上げた中で、ローレル2800HTの1982年の年間販売台数だけ確認できたのですが、なんと僅か38台!セダンはもっと少なかった筈ですから、そりゃ設定廃止にもなりますよね。
小改良で追加された2000ターボメダリスト。
ダークブルー&シルバーのツートンは、ローレルスピリットにも設定されてローレルのイメージカラーの役割を果たします。
翌1982年(昭和57年)9月のマイナーチェンジでは2800が設定から落とされ、平成の時代まで3ナンバーローレルはブランクとなります。
続いてはマークIIです。
〇3代目マークII
2代目の時点では、ローレルよりスカイラインを強く意識していたこともあり、マークIIのover2000は、輸出仕様のみに限られていました。
1976年(昭和51年)12月に登場した3代目では、待望の(?)2600が同じく新たに設定された最上級のグランデと共に登場しています。
ローレル同様、2000には燃料噴射装置付きの設定があったものの2600はキャブ仕様のみ。ローレルには設定のあったマニュアルの設定はなく、ATのみでした。
グランデ間の差異はエンブレムのみ。オプションはESC等、若干の違いがありましたが、装備もほぼ共通でした。
こちらは4ドアハードトップはなかったものの、セダンにも4独を採用。僅か1か月の違いで一新された3代目ローレルと激しい販売競争を繰り広げることになります。
翌年6月に追加された兄弟車チェイサーには、2600が設定されることはありませんでした。チェイサーと同時に2000EFIは53年規制に適合していますが、2600は51年規制のまま継続生産がされています。
2600の53年規制適合は、クラウンのマイナーチェンジと同時の1978年(昭和53年)2月。53年規制への適合に際して、キャブからEFIへ進化すると共に、クラウン譲りの4速ATが導入されることになります。触媒が酸化触媒から3元触媒に変更されている効果もあって、性能、燃費の両方が大幅に向上しています。
この変更、カタログは2600だけ画像差し替えで対応しています。
2000と異なり、EFIエンブレム等の追加はなかった筈で、51年規制との識別は、外観上は従前の”TTC-C”エンブレムの替わりにリヤガラスに貼られることになった「53年規制適合車」のステッカーのみ。内装ではO/Dスイッチのみが異なります。
ここで、機関系は変更を受けていることもあって、1978年9月のマイナーチェンジでは、内外装の変更のみが行われています。
クラウンは、1979年(昭和54年)のモデルチェンジの際に、日産の後を追うかの如く2600から2800への拡大が行われていますが、マークIIはセリカXXと同じく、2800への拡大は翌年送りとされています。
〇4代目マークII
3代目の時と同様、マークIIはローレルより一月早く、4代目に進化。
2ドアハードトップの替わりに4ドアハードトップが設定され、2600は2800に拡大されています。兄弟車チェイサーには、新たにグランデと同等の装備となるアバンテが設定されますが、相変わらず2000以上はマークIIのみでした。
この代では、フロントグリルのエンブレムから排気量が外され”grande”のみとなったため、外観上の差異はリヤのグレードエンブレム”2.8”のみ。
また、画像のグライコ付きコンポは、チェイサーではアバンテで選択可能だったものの、マークIIでは2800のみが選択可能でした。
クラウンよりも200kg以上軽いボディと2800の大トルク&4速ATの組合せは、地味な外観で侮ると足元を掬われかねない、俊足を持つに至ります。当時の雑誌にはAT車としてはソアラ2800GTに続くタイムが出ていましたし、SOHCということで特に街中ならむしろこちらの方が速いくらいだった筈とも。
完全に余談の域ですが、MS123Zでもこの車には中々追い付けなかったという武勇伝を後年聞いたことがあります。
マークIIもローレル同様、翌1981年にはグランデターボが追加。以降、元より多いとは言えなかった2800の販売はさらに減少していきます。1982年のマイナーチェンジでは、新たなる最上級ツインカム24が設定される替わりに、2800は国内仕様からは外れることになります。
新たに設定されたツインカム24
輸出では、5M-Eに替って5M-GEが搭載されることに。
2世代後のMX83では、5M-GEに替り7M-GEが搭載。これが国内に回帰するのは登場の翌年となる1989年。この間7年間は、5ナンバーのみで展開されることになります。
ここからは概況やら私感やらです。
70年代半ばから80年代初頭というのは、排ガス対策や省エネ対応に追われて、ハイパワーは二の次・三の次だった時代です。
ローレルのところで触れたとおり、このクラスに2600が設定されたのは、時期の幸いがあったと思っています。先ず間違いなく、ローレルへの導入がなければマークIIが後を追うこともなかったでしょう。
もう一つ、両車が地味なサルーン、ハードトップだったという幸いもありました。当時、2代目フェアレディZの280、スカイラインジャパンのターボ、共に当時の運輸省は暴走族への助長となるという理由で認可に難色を示したことが報じられています。反面、この両車の認可が滞ったという話は聞いた記憶がなく。
もっとも、新車当時こそ、主に中年以上がパーソナルカーとして購入されてはいたものの、オーナーの履歴が重なっていくと、段々やんちゃな方が買われるようになっていったという話もありますが(笑)
そんな2600、2800なのですけれど、今とは大いに異なり、小型乗用車(5ナンバー)と普通乗用車(3ナンバー)は歴然と差があった時代。税金や保険の関係で早々簡単には購入に至らない車ではありました。
消費税導入前の物品税は割増で、自動車税は2000の倍以上(自動車税の詳細な推移は
こちらに資料アリ)。自賠責と任意保険は車種別の差異がなく、5と3の違いのみで、もちろん3が割増。これだけでも相当な違いですが、その他に有料道路の代金が違うところもあり。
加えて、割高な維持費が敬遠されるという理由から、売却時の査定価格は新車時と逆転したマイナス査定。さらに実走燃費は2000とあまり違わずと言えども、ガソリンが今よりもはるかに割高な時代ともなれば、償却を経費で認められる層でもなければ、手を出そうとすら思えないのも当然ではあったのです。
クラウン、セドリック/グロリアの3ナンバーは、それでも時折見かけることがありましたが、ローレル、マークIIの3ナンバーはバンパー等の一目でわかる差異もなくて、街中・中古車店の展示、共に滅多に見かけない車だったように記憶しています。
3ナンバーは、平成初期の税制改正により急に人気を集めるようになり、中古車価格も強気に転じているのですけれど、その時代には今回ご紹介したクルマたちは、大半が償却が終わっていました。税制改正がもう少し早かったら、また違う展開もあったのでしょうけれども。
それだけに、今も残るこれらのクルマたちは、本当に希少な存在だと言えます。言い方はどうかかもしれませんけれど、苦難の時代を乗り越えた存在であることは間違いないのです。
最後にまたまた余談です。
当時の3ナンバーって、今の輸入車の登録と同じような傾向があって、元々少ない台数もその大半が大都市に集まっていました。
記憶確実なのは、1991年春。
その当時、埼玉の北部に住んでいまして。埼玉は1975年4月に大宮と熊谷に分かれているのですけれど、熊谷の5ナンバーは55・56に続き57が終了間際。一方の3ナンバーは33の”さ”に続いて”す”がようやく終了という具合でした。税制改正が行われて2年経過した時点でも、これだけの台数差があったのです。
そこから約1年後には、33も”た”の5000番台となっていましたから、一気に3ナンバーが増えたとも言えるのですけれど。今では笑っちゃう話ですが、自分で3ナンバーを買った時には、ちょっと誇らしくではあったのです。同時代に、3ナンバーが好調に売れたのもきっと同じような理由だった筈でありまして。
今や3ナンバーと5ナンバーの台数が逆転して幾年月ですから、隔世の感は拭えません。
以上、駆け足気味にご紹介してきました。
低グレードを取り上げることが多かった中、最上級グレードの特集はいかがだったでしょうか。この辺りは、取り上げられることも少ないでしょうから、何かしらのお役に立てれば嬉しく思います。
画像の引用
3代目マークII前期:トヨタ75周年サイトより(閲覧にはAdobe Flashが必要)
3代目マークII以外の画像:FavCars.comより