文章作成がやっとの状況に新たなお題を捻出できる余裕もなく、今年も昨年に続いてのネタをお送りすることにします。(昨年版は
こちら)
1年進んだことにより、1981年4月2日から1982年4月1日の期間に登場したクルマ達を取り上げてみます。
引用元の関係で、輸出仕様の画像が多く含まれていますが、可能な限り国内仕様に近いものを選んではいまして、雰囲気がつかめれば幸いです。
〇トヨタ

7月2日 セリカ(フルモデルチェンジ)
この年度はソアラに続いてのDOHC-6搭載が大いに話題を集めたセリカから始まっています。
初代は、このジャンルを開拓し大いに普及させた記念碑的存在でした。続く2代目は、斬新なデザインを求めてアメリカに設立したデザインスタジオCALTYの案を採用したところ、曲線基調のデザインが国内では受けず、後発の3代目シルビア(&ガゼール)に苦戦を強いられています。
デザイン案を国内に戻して、直線基調で再びの若者人気を狙ったのがこの3代目。2000GT以来のリトラクタブルライトを採用したXXは、好評で受け入れられますが、ライズアップライトを採用した4気筒は期待に反する結果に。
販売の主力となる北米においては、2代目の方がデザイン評価は高く、ブラックマスクへの変更を経て、FFへの転換を図る次世代では再び曲線基調へと振れることになります。

9月7日 カリーナ(フルモデルチェンジ)
1月26日 コロナ(フルモデルチェンジ)
スクープ記事では、共にFFへの変更が噂された2台でした。
前年のセリカ・カムリのみへのIRSの採用、2代目までは同時に変更されてきたセリカのモデルチェンジが初めて先行となったことが噂の根拠ともなり。
結局、セリカから少し遅れ、FRを継続しての登場となりました。
このセグメントは、910が登場して以降、ブルーバードが独走していて、多くの顧客を抱える販売店は、(特にコロナは)新型車の早期登場を熱望。その過程においてFRの堅持要望が強かったのだろうというのは推測。
カリーナは、新型車効果でブルーバードの連勝記録に挑んだものの、マークIIに続いて、僅かながら及ばず。連勝記録をV27で止める役目は、最大のライバルであるコロナが果たすことになります。
当時は、それまで別のシャシーだった両車がシャシー共用となったことが話題となりました。兄弟車ながらも割と異なっているように映ったものですが、こうして並べて見ると、血筋は争えずの感はありますね。
この世代、FF化までの過渡期の感は否めず、コロナが先行してFFに主力を移した後、カリーナも後を追うことになります。

3月24日 カムリ(フルモデルチェンジ)/ビスタ(新発表)
販売前年秋のモーターショーに、F-120の車名で5ドアが参考出品という過程を経ての発表でした。
先代のセリカ・カムリは、当初カローラ店に投入された後、僅かに遅れてビスタ店の設立と同時にビスタ店との併売となっていましたが、この代で兄弟車関係へと進化しています。
当初は両モデル共、4ドアの1800 5Fのみということで、生産が立ち上がった仕様を急遽投入した感が否めずでした。先代がカリーナの兄弟車だったことと合わせて車格設定が理解されず、(特に専門家筋の)評価は極めて高いながらも、販売に苦心する要因となっています。
前年度にマークII3兄弟、ソアラとアッパーミドルクラスを固めたトヨタは、この年度で一つ下のミドルクラスの陣容を一新しています。70年代末の時点では、ミドルクラス以上は日産が優勢、以下はトヨタが強いという力関係があり、このクラスの強化は課題ともなっていました。
ブルーバードの独走もあって、相当に力が入っていたことは見て取れますが、この後の動きからすると、過渡期特有の混乱や不整合が各所に散見できた感はありますね。
〇日産

6月19日 スタンザ/オースター/バイオレット(フルモデルチェンジ)
発表の席上で社長自ら「かなりの車種をFF化してゆく。このクルマはそのようなプロジェクトの第一弾。そして世界戦略車でもある。」と高らかに宣言し、正しく鳴り物入りで登場したのがこの3兄弟でした。
FF化に伴い、社運を賭けた級の投資をし、エンジン・サスペンション等殆どのコンポーネンツを一新。ボルト、ナット以外は全て新設計から生まれた新型車は、従来のイメージを刷新し、専門家筋の評価は極めて良好。ところが、一番肝心な販売が燦々たる結果となりました。
専門家が評価する車は売れないというジンクスは既に存在していましたが、ここまで真逆の結果は極めて稀であり、当の日産にとっても全くの想定外だったことも間違いなく。
販売不振の理由は、新し過ぎて理解されなかったことが第一。何より大きかったのは、車格の設定が新車価格も含めて、当時のベストセラーであるブルーバードに近付き過ぎたことでしょう。
特に同じ販売系列となるバイオレットでは致命的なミスであり、僅か1年で販売中止という結果となっています。この結果、この3兄弟だけに留まらず、日産本体、あるいは他社の販売戦略へも少なからぬ影響となりました。
出来の悪くない大いなる意欲作が販売戦略で失敗。日本車の有史に残る出来事だと思いますし、だからこそ嫌いになれないモデルなのです。
(スタンザFXのセールスマニュアルは
こちら)

8月18日 スカイライン(フルモデルチェンジ)
この時期で一番注目を集めたモデルチェンジだったと思います。
ローレルとの兄弟関係がより近くなる一方、それまでノーズの長さを変えていた4気筒と6気筒がロングノーズを共用することになり、賛否が分かれる話題となりました。
先行して4気筒のみとされていたブルーバードとの競合関係が緩和されたものの、この選択がスカイラインの分水嶺の一つとなった感はあり、判断も分かれるだろうと思うところです。
モデルチェンジから少し遅れて、久方ぶりの4バルブDOHCを搭載したRSが追加され、新たな柱となります。一方販売の中心だったGTは、新世代6気筒と4ATの投入が遅れたことを主な要因として、マークIIに追い付かれ、やがて逆転される結果に。長年のライバル、マークIIを3兄弟に増やし、ソアラやセリカも絡めてスカイライン一大包囲網を構築したトヨタが強かであり、スカイラインが翻弄されたとしても仕方なかったと言えますけれども。

10月13日 サニー(フルモデルチェンジ)
1月12日 ローレルスピリット(新発表)
FF化されたファミリアが人気急上昇となっていた時期に、カローラより先行してのFF化ということで注目されたモデルでした。
やはりFF化のインパクトは大きく、カローラの国内販売台数V70を阻止しています。以降はカローラの巻き返しにファミリアも加わっての販売合戦が繰り広げられることに。
4ドアが好調に売れたものの、2BOX人気に押されてクーペが国内では苦戦したのは想定外だった筈。結局2年後のマイナーチェンジでは、クーペに替わってハッチバックが新たに設定されることになります。
少し遅れて追加されたローレルスピリットは、モーター店向けのサニーというのが当初の想定。やがては増えてゆく差異も、当初は極一部に留まっていました。ボンネットとFフェンダーに追加されたエンブレムでもローレルとの繋がりを主張していたのだな、というのは今回並べての比較での発見でした。
トヨタとは逆に、コンパクト・ミドル・アッパーミドルと偏りなく登場させたのが日産でした。どれも意欲作なのですが、カリーナとコロナを兄弟関係にしてしまったトヨタと比べると、先に登場していたブルーバードやパルサーとの関係等、整理&再構築の点では後手となった感が強く。背景には鶴見と荻窪の確執があったことは疑いようがなく、後に開発体制は厚木に一元化されるものの、日産の財務体質を蝕む一因となっていきます。
〇三菱

1月22日 ランサー・フィオーレ(新発表)
従前は2BOXのみだったミラージュは、マイナーチェンジでミラージュIIに呼称を変更し、3BOXの4ドアセダンが追加されています。新たに兄弟車として投入された三菱店版ミラージュII4ドアがランサー・フィオーレでした。
ミラージュIIの3ドアには、このクラス初のターボが投入され人気を集める一方、4ドアにはMDと名付けられた可変気筒エンジンが一部グレードに設定され、当時の低燃費ブームに話題を投じています。
ランサーが2代目に変わる際、車格を少し上げ1600と1400を主体としたことに伴う空白地帯への補完という役割だったのだろうなとは。
この時期の三菱は、クライスラーとの提携関係に引き摺られ、新車の開発が遅れていた感がありました。ミラージュも登場から4年近くでのマイナーチェンジということで、ライバル車との関係は覆せず。ランサー・フィオーレは、2年足らずで2代目へと進化することになります。

2月22日 コルディア/トレディア(新発表)
コルディアもまた、前年秋のモーターショーに参考出品されています。
セレステの後継車を想定した三菱店向けのコルディアXG、ミラージュからの上級移行を想定したカープラザ店向けのコルディアXP、ランサーの後継を見据えつつ同格の新型FF車としてカープラザ店に投入されたトレディア。どれも、コンパクトとミドルの中間を狙っていた点も含めて、三菱なりの戦略はあったのだろうと思います。
しかしながら当時は、コンパクトクラスはカローラ・サニー・ファミリアが大乱戦。ミドルクラスはブルーバード・コロナ・カリーナが同様の戦いの真っ只中にありました。特に前者は、販売奨励金の投入に伴う大幅値引き、相当数の自社登録や業販卸によるノルマ消化とルール無用の様相を呈してもいて。
そんな乱戦は、巻き込まれなかった車の方が少ないくらいであり、どちらかと言えば地味系のニューネームが喰い込んでいける余地は殆どなかったことは間違いなく。
結果的に、こと国内においては、日産のT11 3兄弟と同等、あるいはそれ以上の燦々たる結果となってしまいます。しかしながら、後年追加された4WDの1800ターボが冠雪のラリーフィールドにおいて成績を残している点は、忘れずに書き残すことにします。
コロナとブルーバードの少し上、マークIIやスカイラインも見据えた位置に置いたギャランΣとΛが成功を収めて以降、三菱はトヨタと日産のラインナップの中間を狙う商品構成となっていました。少ない車種構成で二大大手と対峙する工夫でもあったのでしょう。
コルディア/トレディア以降、三菱は2社のラインナップの隙間ではなく、正面から対峙する車種構成へと修正が図られていきます。その点では三菱のターニングポイントとなった車種という見方はできるかと思います。
この時期は、フルラインターボが一つのキーワードでした。2000に続き1800を登場させていたターボは、ミラージュIIに1400、コルディア/トレディアに1600版が設定され、200cc刻みの構成を成立させています。折角のフルラインターボでしたが、近過ぎて使い分けに苦慮した感はあり。また、爆発的に盛り上がったターボブームもこの頃には峠を過ぎ、下り坂の局面に入っていました。その点、もう1年早ければまた違う結果だったかも、とは。
後年にはフルライン4WDやフルラインGDIがあり、同じ頃にはフルラインバンパーガードという揶揄もされた三菱。その端緒がフルラインターボですね。
〇マツダ

9月1日 コスモ(フルモデルチェンジ)
10月16日 ルーチェ(フルモデルチェンジ)
元々先代のコスモは、北米からの要望を背景に、2代目ルーチェをベースとした2ドアクーペという成り立ちでした。117クーペ程度しかなかったラグジュアリークーペへの参入。排ガス規制に伴い牙を抜かれた車が相次ぐ中、燃費を代償としたパワフルな走りもこのカテゴリでは例外的に受け入れられ、困窮を極めていたマツダが立て直すきっかけとなりました。
その後、コスモにはノッチバック&ランドゥトップに仕立てたLが追加され、ロングライフモデルとなる一方、ルーチェは追加車種としてのレガート名をサブネームとした過渡期を経て、正式に3代目となります。
結果的に2世代のシャシーが併存していた形であり、このクラスのラインナップの整理は課題の一つとなっていました。
この両車、2ヶ月弱の間に何故か五月雨式の登場であり、9月1日時点では2ドアのレシプロ版のみ登場。10月1日にレシプロのみのコスモ4ドアHTが追加された後、10月16日にコスモにもロータリーとサルーンが追加され、両車が出揃う形となっています。
それまでは全く別の車種として認知されていた両車を、マツダ店向けのルーチェ、マツダオート店向けのコスモという形で統合したのは明らかに失策であり、販売台数が伸び悩む理由ともなりました。
それまでの経緯からすると、コスモの2・4ドアHTとルーチェサルーンまではいいものの、コスモサルーンは蛇足だった感が拭えず。またルーチェにはもっとサルーンに近い別の4ドアHTが投入されていれば、結果は変わっていただろうと思わされたりします。
遅れて投入されたロータリーも、燃費を重視して、それまでの13Bに変わり12Aの設定。ターボブームでハイパワーに慣らされた市場では歓迎されなかった変更であり、これも後に追加される12Aターボや13Bが当初から設定されていれば、とは。
前年に投入されたファミリアが想定をも超える大成功を収めたマツダは、この両車でさらに波に乗ってと考えていたであろうことは容易に推測できます。期待に反する結果と書きつつも、マツダも想定していなかったであろうロングライフ商品となった点は書き添えたいところです。
この型のサルーンは、カスタムキャブと名前を変えて20年近くも売られ続けているのですから。
〇ホンダ

9月22日 アコード(フルモデルチェンジ)/ビガー(新発表)
コロナやブルーバートは少し異なる購買層の確保に成功したアコードもライバル車のFF化による競争の激化が予想される中、どう進化するのか興味を持たれた一台でした。
2代目は初代の熟成路線であり、ベルノ店の最上級車として兄弟車のビガーを加えての登場。ビガーが1800のみとされたのは、少し下に置かれたクイントへの配慮でしょうね。
国内においては、同級他車が次々FF化する中で、初代程の存在感を発揮できず、どちらかというとあまり目立たない存在となります。一方、北米では初代に続いて大人気となり、初の現地生産車ともなります。規格型の角目4灯を用いたビガーのフロントマスクは、輸出仕様の転用だったりしますね。

10月29日 シティ(新発表)
2代目シビック以降、保守的な新型車が続いたホンダが、久方ぶりに放った革新系ビックリ箱がシティでした。
若手で構成された開発陣が作ったモデルは、初代シビックを連想させる、安いからではなく好きだから選ぶのだと言えるクラスレス感にあふれていました。追い込まれていた状況からの開き直りに映る点も、両車の共通点。
全高1,460mmは今の基準では標準的な数値ですが、当時の小型乗用車としては驚きの高さであり、ステアリングやシート等もパッケージングに合わせる形で新たに起こされています。ミラの後追い的に書かれたこともありますが、その点は大きな違いであり。
市場人気は沸騰し、当時としては例外的な値引き殆ど無でも飛ぶように売れていきますが、反面一時的なブームとなってしまったのは想定外だったのかもしれません。この後ターボが登場すると、人気はそちらに移行した後、急速にしぼんでしまうことになります。
ここで構築されたパッケージングは、シビックシャトルでも活用されますが、当のシティは2代目で真逆のクラウチングスタイルに大変身。細く長く売るが理想的だったと思いますし、それが可能だった意欲作だったと思うのですけれども。
シティの爆発的ヒットが明らかなターニングポイントとなったホンダは、この後、2代目プレリュード、3代目シビックとヒット作を連発し、80年代の躍進に繋げていきます。
〇スバル

8月20日 レックス(フルモデルチェンジ)
アルト/フロンテが起爆剤となった新世代の軽自動車は、ミラ/クオーレを経て、この年レックス/レックスコンビが登場しています。
スズキに続いてのRRからFFへの転換となりますが、スバル360からの伝統的レイアウトからの変更という観点では、一大転機だったことも間違いなく。最後までRRを続けたサンバーとの決別点という見方もできますね。
ライバル車を研究した上での最新型は性能面での評価は高く、4ナンバーのコンビに設定された上級仕様は、他車にも影響を与えています。女性比率が急上昇していた軽自動車においては、ミラのようにスタイリングが人気を牽引するとはならなかった点が惜しまれ、その辺り、当時のスバルらしい一台と言えるかもしれません。
〇いすゞ

5月13日 ピアッツア(新発表)
10年以上も生産が続き、後継車の登場が急務だったのが117クーペ。
後継車は、1979年のモーターショーに「アッソ・ディ・フィオーリ」名で参考出品された後、市販版が新たな名称「ピアッツア」と名付けられ市場投入されています。
近年の研究において「アッソ・ディ・フィオーリ」と「ピアッツア」の関係は先行開発と市販版の関係ではなく、全く別物として時期をずらしつつの開発だったことが推測されていたりもしますね。
いすゞ期待の一作でしたが、販売はもちろん、人気も前評判程には盛り上がらずの結果となりました。
一つには、ベースとなったジェミニが既に末期状態で登場せざるを得なかったこと、もう一つには、117クーペの時代にはライバル車として思い浮かぶのは、2代目コスモぐらいで強いて言えばセリカXXが挙げられるくらいだった上級のラグジュアリークーペ市場に、レパードやソアラが参入したことが挙げられるかと思います。レパードやソアラと重なるピアッツアの価格設定は、スペックで比較となった時に不利であることが明白でした。他車には脇目も振らず、一目惚れでの購入以外は成立しにくい車種だったとも言えます。
この時期にはアスカの開発も隣で進行していた時期となりますが、ピアッツアのタイミングとは合わず、アスカはFFということもあって、ジェミニベースは当初からの方針でもあったのでしょうね。
今視点だと明らかな先進性が見て取れるデザインも、当時は識者が高く評価したくらいで一般的な人気とはならずでした。直線的なデザインの車が人気を集める中で、理解され辛い存在だったのだろうとは。
この数年後に、ピアッツアからの影響が感じられる3ドアクーペがいくつか登場。
登場から年月を経るほど、内外装の仕立てが再評価された感はあります。デザインだけで買う価値あり、という認識も後年の方が成立し易くなった気も。
〇ダイハツ

10月8日 シャルマン(フルモデルチェンジ)
モデルチェンジ時期が重なっていたカリーナとの新たな兄弟関係の構築、あるいは冗談半分で今度はカローラ30ベースと揶揄されたのがシャルマンの新型車。順当に(?)カローラの70系ベースで登場しています。
登場の背景に20と30の併存があり、各所に20の面影を残していた初代に対して、ほぼ70の印象を消した内外装を纏えたのは、デルタワイド(&タウンエース)、シャレード、ミラ/クオーレとヒットモデルを続けられていたのが大きな理由でしょうね。決して多くの台数とは言えないものの、廃止の選択を躊躇うくらいの事情も存在していたのでしょう。
このモデル自体は、当初クラスを超えた豪華仕様アルティアが話題となったものの、その後は埋没した感は否めません。70関連だと、後にカローラバンの生産を受託するようになるダイハツ。FRで残った利点を走りや廉価に生かせれば、また別の展開も可能だったかもとは思います。シャレードやミラがライバル車と争いつつで売れていましたから、シャルマンまで手が回らなかったと想像はできますね。
(シャルマンの思い出話は
こちら)
この時期の日本車の動きとしては、殆どの社の利益の源泉だった北米輸出が、現地メーカーや雇用への圧迫という理由で台数制限が導入され、大きな転機を迎えていました。ホンダを皮切りに現地生産の検討を始める一方、排ガス対策も一段落して、まだまだ成長していた国内市場に活路を見出すようになります。
この年に登場した新型車達は何れも、国内市場を戦い抜くために必要とされた駒だった訳です。兄弟車が数多く登場しているのも、各販売チャンネルに供給するためであり、総力戦の火蓋が切って落とされたという見方でいいかと思います。
この年度に登場した新型車達へ、あまり取り上げられない視点を意識しつつで書き加えた我流の解説。結構厳しい書き方をしているかもですけれど、後年に登場したモデルよりは明らかに国内市場を意識した成り立ちを愛おしく思いつつで書いていたりします。何より個人的には前回で取り上げた車たちよりも明らかに書きやすくもありまして。
私と同世代以上にとっては懐かしく、以下では情報と想像だけで知る年代かと思います。当時への橋渡しの一助として、ご笑覧いただけるとありがたく存じます。
【画像の出展】
・FavCars.com