GWを挟んで、中々ブログに手が回らずでいます。
そんな時にはまたまた軽い話ということで。
少し前に取り上げた昔の写真は、ブログ主が予想した以上に好評でしたので、父の愛車遍歴というフィルターにより選外としたものをいくつか敗者復活させてみることにしました。
今回は車以外も含まれますが、懐かしい画像つながりということで、大目に見ていただければ幸いです。

前回、初代ハイゼットと誤った紹介をしてしまった祖父のマツダB360。
1年前の1973年に撮影されたもののようです。
詳細は不明ですが、ドアに文字入れがされていますので、農作業用に中古車を求めたものと推測。逆算すると10年程度の経過となるようですが、既に錆は各所に回っていますね。
左は恐らく同じB360で、こちらはバンタイプ。フェローの前車だとすると、フェローにはあまり長く乗らなかったことになります。
祖父は、生涯軽4輪免許のままで過ごしましたが、田舎の限られた範囲で使う分には不自由は感じなかったのだろうなと。

前回、初代マークIIを紹介する際にトリミングした右半分となります。
ワゴンと判別に迷ったのですが、ガラスガードバーとタイヤからバンのようです。記憶が確かなら中期だったような。
とても親しくしていたお隣さんの奥様方のご両親は当時名古屋にお住まいで、その地を訪ねた際の撮影。そのご両親が使われていた車となります。

当時はベビーブームの真っ只中ということで、ご近所のお子様たちは皆同世代でした。
右端の210サニーのバンは、お隣さんのお勤め先の社用車。週末等、よくこうして乗って帰られては自家用兼用にもなっていました。それなら自車は不要ということで、この少し前に初代カローラから代替された3代目カローラを手放されています。
ここの社用車には間もなく550に拡大されたサンバーバンが追加。乗って帰られるのもそちらが主となり、私の中に忘れられない原体験を残すことになります。
父の入退院、さらに明けてからの交替制泊勤務の時期と重なっていて、ここの社用車には、随分お世話になっています。

母の通勤距離が長くなったことで、自転車に替り求めたのが、このパッソーラ。
長きに渡って、母の足代わりを勤め上げた功労者的存在。
初期のセルモーターを敬遠してキック式からの選抜でしたが、最後までエンジンは一発始動。故障知らずで、調子も大変良好。母のお気に入りでもありました。
10年を機にJOG SPORTへ代替されましたが、こちらは技術の進化に伴う高性能に喜んだのも束の間、諸事情で短期間の使用に留まってしまい。
早くに亡くなった母の想い出の一台ですね。
ここからは鉄分が主となります。鉄方面はあまり詳しくないため、wiki等に頼りつつの記載です。
撮影は全て1983年(昭和58年)5月(恐らく29日)の同一日となります。

先ずは、熊谷駅で撮影したと記憶する、秩父鉄道500系。
当時の秩父鉄道はまだ自社モノの500系が主力でした。既に東武東上線は8000形が主力で、78系も5000系への更新が進んでいた時期ですから、それらと比べた時にはかなり古く感じたのも事実。
撮影した時にはそれほど意識しなかったものの、その後の秩父鉄道の車両の推移からすると、貴重な一コマだったのだなと、やや遠い目線になります。

この日の主目的は、この東武熊谷線。
間もなく廃止されるということで、最後に乗車しようという目的でした。
最終日でこそないものの最後の週末ということで、廃止を惜しむファンが押し寄せ、ホームも気動車も首都圏の通勤ラッシュ以上の大混雑。車内で「普段これだけ乗っていれば、廃止にならずに済んだのに」という会話を聞いたことを思い出します。

当日の妻沼駅の様子。
1閉塞のローカル線ということもありますが、軌道内立入も含めて、規制等は一切なし。それでも近年の様に撮影マナー云々が問題となることもなく。変わったのは、マナーか時代か、これ以上は不問といたしましょう。

妻沼で途絶えてしまった線路の末端部分にて。
当初の計画通り、利根川を越えて小泉線まで繋がっていれば、歴史は少し異なっていたのかもしれません。1975年の航空写真では利根川に橋脚の姿が確認できますので、時代の巡り合わせ次第では、だったのですけれど。
今は変わってしまった風景でもありますね。

「杉戸機関区妻沼派出所」と書かれた建物の入口にて。
中は立ち入れたのかも含めて、記憶は完全に失われていますが、車両整備が行われていたのでしょうね。
左側は関係者の車両と思われる810ブルーバード。初期型のG6かな?

この日は熊谷線に留まらず、熊谷から高崎線で高崎へ移動して上信電鉄に乗換。途中の西山名駅で折り返しています。
画像はここまで乗ってきて、下仁田に向かう上信電鉄1000形を見送るところ。(到着と勘違いして駅の特定に時間を要しています(笑))
1000系は塗装こそ変更されたものの未だ現役のようですし、ストリートビューからすると風景もあまり変わっていないようです。
線路脇に駐車している車両は、210サニーのセダンと30カローラのハードトップで、時代考証の手掛かりとなりますね。共に市場からは急速に姿を消しつつあった時分ですが、地方ではまだ現役だったことが判ります。

この日は最後に高崎駅で八高線を撮影。
まだ八高線は全線非電化だった時代で、キハ35系が主力でもありました。旅客以上に貨物が多かったと記憶しています。貨物の長い編成は、結構な見物ではありました。
といったところでいかがでしょうか。
前回もそうなのですが、当時はあまり意識しなかった撮影が今になると一際懐かしく感じられます。画像から呼び起こされる記憶もあったりしまして。
そういう意味では、ブログとして取り上げるのも少しは意味があるのかなと思ったりします。
そして、車関連の枚数の少なさを少々嘆いてもいます。今になって撮影しておけばよかったなと思うものも少なからずあり。当時の自分にとっては、当たり前の日常の風景に過ぎない物でも、今見返すと感慨深くかつ様々な発見があっただろうなと思うのです。
今からでも残せるものは惜しまずで残そう、そんな思いを新たにした回でありました。