最初はCOOLSに付いて触れますが、私・☆アル君と同様COOLSに憧れ、人生のバイブルとなり影響を受けた方も少なくはないでしょう。
舘ひろしと岩城滉一の出会いからバイクの話題で意気投合し、バイクチーム「COOLS」が東京原宿に於いて1974年12月13日に結成され、舘ひろしをリーダーに岩城滉一をサブリーダーに、および岩城の学生時代からの友人であった佐藤秀光らがメンバーでした。
チーム結成当時の人数は21人で、メンバー全員リーゼント・黒の革ジャンパー・黒または青のジーンズ・黒のオートバイで統一されました。
「黒」というカラーに拘ったのは、舘が学生時代にラグビー部の主将をしていて、ラグビーNZ代表「オールブラックス」が好きだったからです。
私・☆アル君の黒好きなのは,COOLSの影響でしょうネ。
表参道の神宮前交差点近くにあった原宿レオンという多くのクリエイターが出入りするカフェが溜り場で、店の前に黒いオートバイを数台並べている様は大きいな注目を集め、当時の原宿は芸能関係者やクリエイターなど、時代の先端を行く人たちが集まる場所で、まだカラフルな色合いが多かった時代に於いては黒一色のファッションが目立っていました。
とにかく、
格好良いと云うワードはCOOLSの為にあったのでしょう。
女性ファッション誌などのモデルを務めたりし、素人なのに近県からファンが集まるようになったり、原宿文化の走り掛けとなったのも事実です。
大きくブレイクしたのは、1975年4月13日に矢沢永吉率いる「キャロル」の解散コンサートで親衛隊を務め、この活動によりCOOLSは一躍脚光を浴びました。
又、キャロル解散コンサートの打ち上げでは、ジョニー大倉がステージで歌っている時に飛び入りでジェームス藤木がギターで佐藤がドラムスで舘がボーカルで加わってライブを披露し、業界関係者が驚きキングレコードがプロデビューの話を持ち掛け、ロックンロールバンド「COOLS」が誕生します。

当初、舘ひろしはバンド結成については否定的であったが、キングレコードの熱心な若手社員に説得され、「チームのメンバーを食べさせていくため」として、バンド結成を決意します。
キャロル解散後の1975年9月、舘がバイクチームの中から選抜した楽器経験者の7名と、チームの中でベースを弾ける人間がいなかったことからジェームス藤木が舘に紹介した大久保喜市の計8名で、ロックンロールバンド「クールス(COOLS)」としてシングル「紫のハイウェイ」、アルバム『クールスの世界 黒のロックン・ロール』でデビューします。
その際、岩城滉一は参加しておらず、そのまま俳優となり、岩城が参加しなかった理由は既に東映と俳優として契約交わしていたからです。
キャロルが初期のビートルズを手本とした8ビートのブリティッシュ・ロックンロールだとすれば、COOLSは4ビートのアメリカン・ロックンロールであり、舘が手本に考えていたのはアメリカン・ロックンロールバンドのシャ・ナ・ナであり、それは舘・水口・村山の三人ボーカルにも表れています。
キングレコードから『黒のロックンロール』『ロックンロール・エンジェルス』『東京直撃』『ハローグッドバイ』の4枚のアルバムを出す。
また『暴力教室』『男組~少年刑務所』などの映画にも出演した(但し、『暴力教室』にはメンバー全員出演しているが『男組~少年刑務所』には後述の理由で、水口とジェームスは出演を拒否している)。
その後1977年4月にリーダーの舘が脱退する。

【クールスのベスト・アルバム 決定版!】
クールス「COOLSの名曲をバランスよく集めたベスト・アルバム 全20曲」
舘が脱退した後、佐藤秀光が二代目リーダーとして、永年(1997~2025年)でCOOLSを牽引しました。

デビュー前から一貫してハーレーに跨り、トライク、カスタムハーレーのビルダーとしても名高く、カスタムショップ「CHOPPER」のオーナーでもある。
また、ハーレーバイカーをメインとした日本最大規模ハーレー&ツーリングイベント“WANTED BIKER TOURING”の主催者です。

永きに渡りCOOLSを継続され、その栄光の反面で多大なる苦労もありながら、本年・2025年はCOOLSにとって節目になる50周年の記念すべき年です。
佐藤さんは3年前に肺がんを患い、その後に間質性肺炎を発症する中、50周年で「ツアーを夢見てリハビリを頑張っていたのですが、力尽きてしまいました」と説明ありました。
最期は最愛の妻と娘が見守る中、旅立った御様子です。
私的に佐藤秀光さんとは何度か御会いしており、初めましては高校の修学旅行で原宿の秀光さんの御店「チョッパー」で、又はライブハウスとかバイク等のイベント会場でした。
だから、COOLSオリジナルメンバーで最初に話したの佐藤さんで、その後は御店「チョッパー」に連絡したり、全然偉ぶる感じじゃなく気さくで温かい人です。
「R&R・ファッション・バイク」は、思春期だった頃にこれら三種の神器の影響を強く受けたのがCOOLSであり、その価値観は変わらずです。
天国に行かれても、イカした格好良いロックンローラーの佐藤秀光さんでいて下さい。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
追伸ながら、4月1日(火)の告別式は欠席させて頂きます。
通夜、葬儀は家族と親近者だけで行うそうですが、COOLSのメンバーはきっと参列すると思います。
舘さんとピッピさんは微妙ながら、でも岩城さんは大学の時の同級生だから参加されるでしょう。
COOLSのオリジナルメンバー内のいざこざやトラブル話が聞こえて来る事もあったけど、往年のファンとしてはいつかオリジナルメンバー皆での復活や演奏を期待してましたが、叶わない夢になっちゃいました。
COOLSオリジナルメンバーで佐藤秀光さんより早く亡くなったのはマチャミこと玉川雅巳さん、2017年12月15日の出来事であり64歳の若さで永眠されました。
マチャミの死により、舘さんや岩城さんらの「わだかり」が解消されております。
そして、初期のオリジナルCOOLSメンバーである、この二人(舘さんと岩城さん)は未だ現役を貫き御活躍されており、これからも御元気に過ごして頂きたいです。

あの当時、全国の不良の憧れは紛れもなくCOOLSだったし、良い意味でも悪い意味でも個性的過ぎるメンバーばかりだった。
原宿を拠店に黒い軍団として革ジャンにリーゼント、そしてハーレーダビッドソン、こんなに格好良いバイクチームはないです。
COOLSに憧れCOOLSと共に駆け抜けた青春時代、バイクに跨り死と隣り合わせながら何怖いものなど無かった、あの頃にタイムスリップし古き良き時代に酔いしれたい想いです。
佐藤秀光さんが亡くなった翌々日、愛機・B7嬢に乗込みアルピナの走りでCOOLSの曲を聴きながらドライブする、当時の青春時代が思い出されます。
ALPINAのある生活に於いて、COOLSの存在・影響力は大きいです。
COOLSは最高!