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角鹿のブログ一覧

2015年12月18日 イイね!

「閑話雑記」(かわさき)より再録おもしろ話。③最終回。

  「飲水に悩んだ川崎と二ケ領用水」

   多摩川の流れに接していながら意外なことに川崎は長い間飲水に不自由していたのです。
   大師や田島地区ではなんとか飲める井戸水が汲めたのですが旧川崎町の井戸は組み上げてもしばらく置くと真っ赤なさびが出る状態でした。
   「川崎市水道史」によれば大正4年の水質検査では六〇〇余りの井戸の内五百数十までが飲水としては不適当で残りの井戸も「濾せばなんとか飲める」程度だったようです。
  
   多摩川の水も海水が交じるために飲料には適さず結局頼りになるのは「二ヶ領用水」(にかりょうようすい)ただひとつでした。この用水から水を汲んでは荷車に乗せ各家庭の水瓶に配達する「水屋」という商売があって水屋が人々の命を支えていたのです。江戸時代から町営水道が完成する大正一〇年まで水屋は川崎の名物でした。
   ただ水屋が運んだ「二ヶ領用水」というのは農業用水でした。
  
   市内北西部から今の川崎駅前あたりまではるばると流れてきた「二ヶ領用水」の水を汲み上げてはこれを売り歩く「水屋」という商売が川崎名物と言われた時代だったのです。
   このように井戸の水質が悪いのに加えて農業用水を飲水にするとあっては伝染病にかかる者が一年中絶えなかったのも無理のないことです。中でも腸チフスは川崎の風土病のように思われていてそのころ腸チフスにかからない者は川崎っ子ではないなどとあまり自慢にもならないことが言われていたのでした。
  
   大正五年ごろ川崎の工場で働く労働者の多くは東京や横浜方面から電車で通勤せざるをえませんでした。
   あまりに急激に増加した労働者人口に川崎の住宅事情がついていけなかったというのがその原因ですがどうもそればかりではなかったという話もあります。いくらでも金を出して川崎に住宅を都合できた高級サラリーマンでさえわざわざ川崎を嫌って遠くから電車通勤していた例が多いからです。
  
   嫌われた原因は当時の川崎にまだ水道がなかったことにあります。
   海に近すぎるせいか井戸を掘っても飲むに適した水は得られず用水堀だけが頼りの町だったのです。
   「フナやメダカじゃあるまいし用水堀の水が飲めるか」
   そう言われてもしかたのないようなそのころの川崎でした。
   大正五年当時でさえ川崎にはまだ水道がなく用水堀の水だけが人々の生活を支えていたのです。
  
   中原地区の宮内で多摩川の伏流水をとり戸手の浄水場まで送ってそこから旧川崎町に配水をしようという計画がもちあがったのが大正五年のこと。そして大正十年には悲願の水道がついに完成。これが川崎における本格的な水道のスタートでした。
   旧川崎町に水道の引かれる以前の大正九年の統計では赤痢、腸チフスなどの伝染病患者は年間一五九人の多さに達していました。それが水道施設後の大正一二年になるとわずか二四人に減っているのです。水に悩まされていた川崎の事情がいかにもよく現れている記録です。
   (以上 「閑話雑記」よりの抜粋)
 

       川崎市の位置。東京都と横浜市の間にある。東京都との境界が多摩川である。

東京湾の海に面した工業地帯の川崎区の拡大図。工場や倉庫などが立ち並び日本の昭和の高度成長を支えた。多くの労働者が働いた町である。

   
   「閑話雑記」には水道についての話が多く掲載されている。
   ここに紹介した「飲水に悩んだ川崎」はいくつかの話を併せて多少の手直しをしたものである。
   農業用水の「二ヶ領用水」を飲水に使うしかなかった時代の苦労話がさまざまに語られている。
   飲料には不敵なのだがもともとこの「二ヶ領用水」こそが川崎市の背骨なのである。
   「閑話雑記」にも「「二ヶ領用水」」についての話が実に15回も連載されておりいかにこの人工の用水が川崎にとって重要な存在であったかがわかる。
   川崎市を貫くこの二ヶ領用水はは多摩川を水源として主要部分の全長は32キロメートルにおよぶ。
   川崎市というのは大雑把に言えば、上流の川崎市多摩区(上河原堰・宿河原堰)から下流の川崎市幸区まで「二ヶ領用水」を取り囲むように形成された細長い地形の地域である。
    この用水は神奈川県でもっとも古い人工の運河水路であり一四年かけて江戸時代初期に作られたものだ。
    「多摩川は洪水のたびに流路を変え、しばしば農民を悩ませていた。治水と農業用水の確保を目的として、江戸に入府した徳川家康の命により、代官の小泉次大夫吉次が二ヶ領用水の開削を指揮し、1611年(慶長16年)に完成した。」((Wikipediaより抜粋)
  昭和19年10月市電が開通。44年3月廃止。川崎駅前(川崎区/昭和42年頃/市民ミュージアム所蔵)














「わが街・かわさき」
「川崎映画街で・映画看板と靴磨きのお婆さん。」
川崎区小川町付近 1956年6月10日
小串嘉男さんの撮影。















わが街・かわさき
「サンドイッチマン」
川崎区川崎駅前 1954年1月1日
小串嘉男さんの撮影。
近くにあるストリップ劇場の宣伝であろうか。















わが街・かわさき
「宝くじ当選番号を見る人」
川崎区小美屋デパート前 1954年1月1日
小串嘉男さんの撮影。



昭和14年に閉園した向ケ丘遊園。右上には豆電車に替わって導入されたモノレールが(多摩区/昭和42年/市民ミュージアム所蔵)


    現在では下流の港湾沿岸を中心に工業地帯になっている川崎市だが江戸時代は多摩川に沿って貧しい農家が点在するさびれた村の連なりだった。
    「崎」というのはもともと「細長い土地」という意味である。川崎というのは川のそばに細長く続く土地という意味であろう。じっさい多摩川にそって川崎市はうなぎのような形をしていると言われる。
    江戸時代に現在の川崎市にあたる村々は多摩川の氾濫に悩まされた。せっかく開墾した痩せ地も多摩川の水が溢れればたちまち泥流に押し流されてしまう。この暴れ川を制御するにはまず氾濫する多摩川の縁に水量が増えても大丈夫なように堤防を築かないといけない。そして堤防の内側には農業用の水路を多摩川から引き込まないといけない。
    この大土木事業を指揮したのは地元に赴任してきた徳川幕府の代官である小泉次太夫である。
    小泉次太夫は大堤防を築き洪水を防ぐとともに、その内側に人工の水路である「二ヶ領用水」路を穿ったのである。この工事は慶長2年の測量からはじまり14年後の慶長16年に竣工した。
    こうして川崎の農民は悲願だった安定した農作地を手に入れたのである。この用水路にそって農地開拓は進み海辺の干拓地までも農地に変えていくことができたのである。

   歌川広重、川崎、六郷渡船の図。
       樹木の茂る画面上部が川崎。右手遠方に富士が見える。
       渡っている川は多摩川。江戸日本橋から東海道53次の最初の宿場は「品川」であり、二番目がこの六郷の渡しを渡った「川崎宿」であった。画面では近そうだが実際はもっと広い。ちょうど毎年箱根駅伝で一区区間の最後の勝負どころが多摩川を渡る「六郷橋」だが江戸時代の六郷の渡しもほぼ同じ辺を舟で渡ったのである。

     「武州六郷渡船図」明治元年。 魁斎芳年画

明治天皇の東賀東幸は慶応4年(明治元年・1868年)の秋に行われた。一行総勢2800人は9月下旬に京都を発ち、川崎宿には10月12日に到着した。兵庫本陣で昼食をとった後、六郷川(多摩川)に特設された船橋を渡り、当日は品川宿へ泊まり、翌13日に東京城へ入った。この六郷川を渡った様子を魁斎芳年が浮世絵として残している。 多摩川に川崎側から江戸の六郷川岸までズラッと船を浮かべその上に板を敷いて架設の橋としたものである。画面の上が川崎。錦の御旗を掲げてトコトンヤレトンヤレナ・・・と隊列を組んで渡り江戸城へと向かったのであろう。


    だがこの貴重な用水路「二ヶ領用水」は村々への給水は複雑多岐にわたる水路で行われた。その利用をめぐって農民の間に争いを生むことにもなった。とくに渇水の時期には農民の難儀は筆舌に尽くしがたいものがあり水争いが過激化し紛争も度重なった。用水下流の農家はなんども代官所へ水を回してくれるように嘆願書を出したという記録も残っている。
    そうした水争いの中で最も大きな事件が文政4年に起こった。
    この話を「閑話雑記」より引用してみよう。
   
    今から150年ほど昔の文政4年この年は春から雨らしい雨が降らずこのままでは首をくくることになると用水下流の農民は代官に宛てて必死の嘆願書を出しなんとか水の割当を増やすことに成功したのでした。
    しかしいくら待っても肝心の水が来なかったのです。調べたところ用水の差配を行っている溝の口の村名主の鈴木七右衛門が久地の分水地点で川崎堀口に筵をかけてそのぶんの水を自分の田に流していることがわかったのです。
    堪忍袋の緒が切れた農民は七月六日真夏の太陽が照りつける中を手に手に鎌、鋤、鍬、槍、鉄砲まで持ちだして溝の口に殺到、その数なんと1万数千人と伝えられています。
    鈴木七右衛門の屋敷をめちゃくちゃに打ち壊してしまうという時の幕府をびっくりさせた大騒動でした。
    これがニヶ領用水の長い歴史のなかでも最も大きな事件と言われる「幕末の溝の口水騒動」です。
   










現在の「二ヶ領用水」。春は桜の名所として大勢の花見客で賑わう。


         二ヶ領用水・船島鉄橋を走る205系1200番台電車
          (2006年3月29日撮影、宿河原駅 - 登戸駅間)


  農業用水であると同時に「二ヶ領用水」はまた周辺に生きる人々の飲水でもあった。   
    大正一〇年に旧川崎町へ水道が引かれるまでは川崎市は水質の悪い井戸かこの二ヶ領用水の農業用水を飲料水につかうほかない状況だった。そのころの川崎市はまだ市に水道を引く経済力がなかった。
    そのために病気も蔓延した。
   「川崎町では1921年(大正10年)6月に待望の水道が敷設された。それ以前は二ヶ領用水の水を生活用水として使用していた。そのため1886年(明治19年)のコレラ流行時には、川崎町で患者60人のうち40人が死亡、大師河原村で53人のうち43人が死亡、橘樹郡内では338人の患者が発生、そのうち254人が死亡していた。市の合併話はこの水道敷設から現実味を帯び、大正11年には大師河原村と御幸村への給水が開始されたことをきっかけに、3町村は合併、1924年(大正13年)に川崎市となった。」(Wikipediaより抜粋)
  
   大正時代、水道をつくろうという話がきっかけになり近隣の市町村が合併して川崎市が生まれたのだ。
江戸時代には農業用水の「二ヶ領用水」で恩恵を受けてまとまり、近代においては水道架設においてひとつの市として生まれ変わった川崎市。
   いずれも結束の絆は奇しくも「水」である。そして水はまた争いの元ともなり病気の元にもなった。
   京浜工業地帯の一部になってからはニヶ領用水は農業用水ではなく川崎工業地帯の工場の工業用水へと利用先が変わり川崎市の発展へ寄与してきたが反対に農地は減っていった。
   川崎に暮らす人々は昔から農業用水そして飲料水、工業用水と「二ヶ領用水」を通して多摩川の水を利用することで生きてきたのだ。
   いまも川崎市を流れる「二ヶ領用水」はこの地で生きてきた人々の喜びも悲しみも苦しみもまた希望も夢も、それらすべての姿や時代の移ろいを水面に浮かべつつ今日も川崎の空の下を静かに流れているのである。
  
 川崎区と千葉県木更津市を約15分で結ぶ東京湾
           アクアライン。  (写真提供:NEXCO東日本)





◯関連情報URL◯

「二ヶ領せせらぎ館」

関連情報URL : http://www.seseragikan.com/
Posted at 2015/12/18 13:37:59 | コメント(3) | トラックバック(0) | 四方山話。 | 日記
2015年12月16日 イイね!

「閑話雑記(かわさき)」より再録おもしろ話②

前回は川崎市加瀬の「白山古墳」のそばで発見された「秋草文壺」についての話だった。
この「白山古墳」を発掘したのは慶応大学だったが実はもう一つのエピソードがある。それが今回の「1500年前の杉の実」という話である。

「1500年前の杉の実」

「白山古墳」(幸区南加瀬)発掘の副産物ともいうべきもののひとつに「杉のたね」があります。
棺を覆っていた粘土の中から見つかったのもです。「ひょっとして発芽するのでは・・・」発掘にあたった慶応大学の研究室に持ち込まれいろいろな努力がすすめられました。
そしてついに発芽。実に1500年という長い眠りから覚めて小さな芽を出したのです。
いまから40数年前のことでした。
このニュースは世界中に報道され人々はあらためて生命の神秘に目を見はったのです。
英国の王立植物園からぜひわけてほしいと申し出があるなど当時学界の話題をさらったこの杉の苗は戦争の始める頃には数メートルの高さに成長しました。
しかし終戦後、日吉の慶応校舎を接収した進駐軍はブルトーザーを使って容赦なく校庭を地ならしし貴重な杉もこのときに根こそぎ葬られてしまったのです。



 「閑話雑記」の話は以上である。1500年も前の杉が蘇ったにも関わらず残念なことをしたものである。当時はそういう学術的にも貴重なものも保存なぞ到底できない占領下のどさくさだったのだろう。日吉キャンパスの接収にしてもいきなり武装した進駐軍がGHQの紙切れ一枚持ってきて「日本人は即出て行け」というような乱暴なものだったようだ。

 以下はこの話にまつわる余談でである。
 実は慶応大学日吉キャンパスは戦争末期に海軍の施設がたくさんおかれたのである。最初は情報収集を行う軍令部第三部が入ってきた。だが太平洋戦争の戦局が悪化し、1944年9月29日連合艦隊司令部が旗艦である「大淀」から慶應義塾日吉キャンパスに移ってきた。
  そして終戦まで日吉キャンパスは連合艦隊の司令部になったのである。
   10月の「台湾沖航空戦」「レイテ沖海戦」の作戦命令、翌年45年4月6日の戦艦「大和」の出撃命令などはこの慶応大学日吉キャンパスの連合艦隊司令部から発せられたのである。

 空襲に備えて校舎の地下には堅固な地下壕の司令部も掘削されていた。

   戦後は日本を占領した進駐軍が日吉キャンパスを接収。敷地にはカマボコ型の兵舎がつくられ連合軍兵士の宿舎となった。この兵舎整備の作業のなかで白山古墳で発見された杉の実から蘇った杉も消滅したのである。

          地下壕の入り口。

       地下壕の司令部。

 
  http://www.jiji.com/jc/movie?p=mov446-movie03
   「慶応大学日吉キャンパス」
   戦時中に「連合艦隊司令部地下壕」が置かれた。地下壕見学の動画あり。  


 
 ◯関連情報URL◯
   「多摩の史跡を歩く」川崎市幸区 加瀬台古墳群
 

Posted at 2015/12/16 19:21:11 | コメント(1) | トラックバック(0) | 四方山話。 | 日記
2015年12月15日 イイね!

「閑話雑記(かわさき)」より再録おもしろ話①

かなり前のことになるがヤフーオークションで古書出品を眺めていた時、川崎市が発行した文庫本があるのが目に入った。タイトルが「閑話雑記」と書いて「かわさき」と読ませるダジャレめいた題の小冊子だった。中味はわからなかったがなんとなく興味を覚えて落札し送ってもらった。発行者は川崎市市民局広報部広報課となっており昭和52年3月に発行されている。さらに昭和53年、54年と三回も増刷発行されているのも驚きだ。よほど人気があったのだろう。読んでみるとたしかに面白い話がたくさん載っている。そこでこの小冊子の中から何回かにわけて興味深そうな話をここに再録し紹介してみたい。










「5円の国宝」

   古墳の研究史に大きな一ページを加えた加瀬の白山古墳発掘。その発掘調査が終わってしばらくたった昭和17年4月白山古墳の地主・仁藤市太郎さんから一つのニュースが慶応大学に伝えられたのです。道路の拡張工事をしていたところ、古墳の後円部近くから壺が出てきたという知らせでした。
  さっそく調べた結果、古墳とは関係なく、12世紀頃埋められた骨壷だということになったのですが、近所の人が気味悪がっていたこともあり。中にあった人骨は慶応大学が供養料5円を出して近くの寺に葬り、壺は大学が引き取ったのです。
   この壺こそ、現在東京の国立博物館に展示され、世界的にも有名な「秋草文壺」なのです。国立博物館の説明書きには「国宝 秋草文壺 慶応大学所蔵」とあります。わずか5円の供養料と引き換えにこの壺は川崎を離れたのでした。




2009 01/30


福澤門下の美術品コレクション

秋草文壺 国宝 【作品番号7-139】
7139 【慶應義塾所蔵】

作品番号7-139 秋草文壺 国宝
 平安時代 12世紀 慶應義塾所蔵
昭和28年に陶磁部門での国宝指定第一号の日本陶磁を代表する名品の一つ。昭和17年日吉キャンパス東方約600mの台地の裾で発見され、一帯の考古学調査を進めていた慶應義塾の所蔵となった。


     
◯関連情報URL◯
   「慶應義塾」
   [慶應義塾豆百科] No.84 国宝・秋草文壺
   
   ここには秋草文壺の詳しい解説が乗っているが、「閑話雑記」にあるような発見の経緯はいっさい説明されていない。見る人によっては慶応義塾大学が発掘したものと勘違いするかもしれない。
   おそらくこの壺を見た慶応大学の研究者は12世紀ころの壺だと正確に鑑定しておりただならぬ壺であると壺の価値は十分に認識していたことだろう。慶応大学は5円の供養料と引き換えにこの壺を手に入れたのである。
   ただ詳しい経緯を知らないのであまりうがった憶測や差し出がましい解釈は差し控えたい。
   ただこうも思うのである。
   「この壺はひょっとしたら非常に価値のあるものかもしれない。発掘された土地も発見したのも仁藤さんなので私どもが優先的に研究させていただきますがもし価値あるものだった場合は所有者である仁藤さんにお返ししますのでひとまず預からせてください」
  もしこうした対応を慶応大学が取っていれば「秋草文壺」は仁藤家の家宝あるいは川崎市の誇るすばらしい文化財となったことだろう。なにしろ国宝認定されるほどの名品なのである。
  なぜ突然慶応大学が出てくるかと言えば「白山古墳(しろやまこふん)」を発掘したのが慶応大学であったからだ。この古墳は4世紀後半のもので全長87メートル、前方後円墳である。
  壺を発見した仁藤市太郎さんは古墳との関連あるものかもしれないと、所有地の白山古墳発掘で顔見知りだった慶応大学の研究者にまず連絡を入れたのであろう。
   
  大阪や奈良など機内には古墳はたくさんあるがもちろん関東地方にも古墳はたくさんある。
  ただこの古墳から発掘された埋葬品のなかに、京都府椿井大塚山古墳と同じ鋳型で造られた三角縁神獣鏡出土があるのが珍しい点だ。
  もしかすると白山古墳の埋葬者が近畿と関連があるのではいだろうかと推測されている。
Posted at 2015/12/15 19:04:05 | コメント(2) | トラックバック(0) | 四方山話。 | 日記
2015年12月08日 イイね!

晩秋の吉野。欅の巨木のある散歩道。



川べりにある欅(けやき)の大木。枯れ葉も強風でみな散り落ちて脳神経を思わせる無数の枝ばかりが寒空に震えている。





奈良県から和歌山県を流れ下る「よしの川」というのは河川法による正式の名称ではなくいわゆる通称の呼び名である。正式には「紀の川」という。
「紀の川」は奈良県の大台ヶ原を源流とし、紀伊山地を北西へと流れ、高見川と合流後西へと曲がり、中央構造線の南側に沿って、竜門山地金剛山和泉山脈を北に見ながら西流し、和歌山市紀伊水道に注いでいる。
奈良県の大和盆地は古来水が乏しく農業用水が著しく不足していた。そこで江戸時代より吉野川の水をなんとか大和盆地に分水したいという念願を持っていたが和歌山県としても奈良県以上に水不足という現実を踏まえて紀の川の水は一滴たりとも分水はさせない、と頑強に拒否。さらば三重県の名張川の水を大和盆地へ引こうと画策したが水利権を持つ京都がやはり水不足を理由に奈良の意向を拒絶。水争いは自国領民の命に直結するだけに絶対に譲れないものなのだ。
 奈良県は地形上の理由で県内を滔々と音立てて流れる吉野川の水を一滴足りとも使うことができなかった。大台ケ原も吉野川もみな奈良県にあるにもかかわらず其の水を和歌山県に供給し続けるだけの奈良県民の悔しさは想像してあ余りある。
 この奈良県民の悲願ともいうべき吉野川分水計画が実現するのは実に戦後のことになる。



夕日を浴びて赤く染まる川べりの大ケヤキ。いまは枯れ枝だけであるが少し前まではおびただしい落ち葉を降らせていた。下の川沿いの小径は枯れ葉が幾重にも積み重なり風に落ち葉が舞っていた。この欅の大木の変化を眺めつつ近隣の人々は四季の移ろいを日常の景観として感じて暮らしているのである。川べりに暮らす吉野の人々にとって川も樹木も空も家族同然に欠かせない親しい存在である。



  この日は風が強く、雲の流れもとても速かった。













やがて雲が黒くなり雨が降るような気配となった。
空模様がめまぐるしく変わる。







鉄塔のある山。北に向かうこの山の向こうに桜井、宇陀、飛鳥がある。さらに真北へ行けば橿原があり、平城京のあった奈良の都がある。吉野は山の中だが意識としては飛鳥も橿原も奈良もそう遠い存在ではない。吉野には縄文、弥生時代の「宮滝遺跡」があり古代からここに人が住んでいたことが証明されている。さらに天智天皇崩御の際に弟の大海人皇子(後の天武天皇)が宮滝や其の奥の吉野に後の持統天皇になる鸕野讃良皇女 (うののさららのひめみこ) とともに隠棲して決起の時を待ったのは有名な話である。

 明日香、奈良時代の遺跡も宮滝遺跡に存在しておりここが天武(てんむ)・持統(じとう)朝を中心とする吉野宮、吉野離宮の推定地とされている。宮滝遺跡には離宮と思われる敷石遺構がみつかっており長年にわたって宮滝を発掘調査している橿原考古学研究所も宮滝が離宮跡とみなして間違いないという見解を出している。

 明日香に近い藤原京は天武天皇亡きあと夫であった天武天皇の遺志をついで持統天皇が初めて造営した条里制にのっとった本格的な都である。一人になった持統天皇は亡き天武天皇との思い出の地である吉野の聖地でもある宮滝の離宮へ度々参詣した。その行幸の回数は実に31回にのぼる。藤原京から稲渕、栢森集落をたどる飛鳥川を遡って谷川の道をたどり芋峠を超えて吉野への道を往復したのであろうか。
 奈良の都は平城京と言われるがその前には飛鳥の都がありさらにその奥には吉野がある。いわば山岳から飛鳥川、大和川にそってしだいに平野部へと広がっていく奈良の都の扇の要こそが吉野であり天武、持統の両天皇の有縁の地である宮滝なのかもしれない。




昔はここに「桜の渡し」という渡し船のあった場所。いまは「桜橋」という橋があり「平宗」という柿の葉寿司の老舗本店が橋の袂に店舗を構えている。向かいの山は妹山といい川の此方側にある脊山と対になっている。「妹背山女庭訓」という人形浄瑠璃、歌舞伎の外題の舞台になった場所である。







雲がわいてきて横に長い滝のように見えた。



◯関連情報URL◯
「まちかど逍遥」
「吉野川分水」
琵琶湖疎水や中島大水道にも負けない偉大な吉野川分水、奈良県人はもっと誇ろう!
Posted at 2015/12/08 13:22:52 | コメント(6) | トラックバック(0) | 身辺雑記 | 日記
2015年12月03日 イイね!

北海道の帆立貝。


箱いっぱいの北海道の帆立貝。


北海道美瑛にいる友人が帆立貝を送ってくれた。
冷蔵なので生きたままの帆立貝である。
専用の金ヘラもついているのでこれで貝柱を切って食べなさいということのようだ。
殻付きの帆立貝は珍しい。
やはり刺し身で食べたほうがいいのだろうか。
焼いたほうがいのか。
酒を買うべきか。
ワインのほうがいいのか。

おかげで北の味覚を味わうことができる。
おお美瑛の友よありがとう。


いまごろ北海道は深い雪に埋もれている。
この美瑛の友人は大規模な農場を経営しているが冬は農業はできない。
除雪車に乗って除雪作業をしていると言っていた。
美瑛の農業は傾斜地で広大なので大型の農機がないと仕事にならない。
しかも傾斜地でバランスを自在にとれる特殊な農機は一台で数千万円もするものもある。
農機だけで総額で一億円を超える農家もざらにあるらしい。
しかもこういう農機はすべてが農業先進国のヨーロッパからの輸入品である。
TPPで今後北海道の農業はどうなるのだろうか。

はじめて美瑛に行った時。友人は美瑛の各地を案内してくれた。隣の富良野にも一緒に行った。

一時は美瑛の景色がいろんなコマーシャルに使われていた。
「あれがマイルドセブンの丘だよ」
「ここが○○の撮影をした場所だ」
などと美しい光景を見て歩いた。
ちなみに見渡すかぎりの畑のなかになぜ突然一列の並木がある。
美瑛の写真ではよく見かける光景だ。
これは想像だが昔から日本にある「際面木」であろうと思っている。
つまり隣の土地との境界の目印に植えておく木のことだ。

美瑛を写した写真家の前田真三の写真を飾った「拓真館」も観光名所になっていた。
ここは観光バスも止まる美瑛の観光名所である。
「いまこの近くで焼きとうもろこしを売っているんだ」
と自分の店舗というか販売屋台で自家製の甘いとうもろこしをご馳走してくれた。

美瑛の風景の特徴は幾つもの丘陵地帯の景観である。
農地としてはどこまでも平坦な土地のほうがいいはずだが美瑛はどこもかしこも丘陵である。
こういう丘陵の耕作地が最初からあったわけではない。
元々は原生林の山だった。
実に美瑛の土地は昔は農地などまったくない樹林帯、つまり原生林に覆われた山だったのだ。
そこを明治になってから入った北海道開拓民が血のにじむ思いで開拓していったのである。
明治の開拓民たちは極寒に耐えながら原生林の山を農地に変えていった。
その作業がどれほど辛く絶望的なものであったのか。まさに他移動開拓使は現代人の想像を絶する過酷なものであった。

しかも北海道は冬は豪雪、極寒の不毛の地である。
ノコギリ、マサカリ、鋤といった乏しい道具で、原生林の太い木を一本また一本と切り倒しその深い根を掘り起こしていったのである。
また原生林の山には獣のような熊笹との闘いもあった。
歩くたびに刃のように全身を傷つける密生する熊笹の群生。いつ終わるともわからない原始の山野が開拓民の行く手を幾重にも阻んだ。

住む家も自分たちで作るしかなかった。
隙間から吹雪の入る掘っ立て小屋で体を寄せあって暖を取った。
畳もなく地面に筵を敷いて雑魚寝だった。薄い布団の上には吹き込む雪が厚く積もり、朝起きれば飲水は凍っていた。
野生の熊に襲われたという悲劇もあった。

こうした先人の激闘の積み重ねがあって北海道と今日の美瑛がある。
北海道開拓民の歴史は想像を絶する血と涙と屍累々のすさまじいものである。
私は美瑛の役場や図書館でそうした記録を見た。
また戦後は昭和30年代に旭川にある陸上自衛隊基地の演習場選定をめぐり、美瑛と富良野で誘致合戦が勃発。訓練場を誘致するかどうかで、美瑛や富良野は賛成派反対派が激突した。
美瑛は反対派が多数となり結局、陸上自衛隊演習場は富良野にできた。
陸上自衛隊駐屯地から上富良野演習場へ行く町道はアスファルトではなくコンクリートである。
戦車が通ることも想定しているからだ。
北海道には野生の動物や鳥も多い。
初めての美瑛への旅の途中できたきつねを見た。
車道のわきにいたのだがかなり痩せていた。
届いた帆立貝を見ながら美瑛のことをとりとめもなく思い出した。


★関連情報URL★

 みんカラのブロガーのかたで美瑛のすばらしい写真を掲載されてます。
 北海道紀行など多くの写真がありますのでリンクさせていただきました。

 「photo*drive*cafe>>>diary.」
 

Posted at 2015/12/03 22:26:45 | コメント(3) | トラックバック(0) | 身辺雑記 | 日記

プロフィール

「外国人の「外国免許切替(外免切替)」制度をめぐり短期滞在者がホテルの住所で日本の免許を取得することについて、ホテル滞在による「支障は把握していない」とする初の答弁書を閣議決定した。それで良いということだ。
日本保守党の竹上裕子衆院議員の質問主意書に25日付で答えた。無責任だろ。」
何シテル?   05/18 14:14
 趣味は囲碁、将棋、麻雀、釣り、旅行、俳句、木工、漆絵、尺八など。 奈良、京都、大阪、和歌山の神社仏閣の参拝。多すぎて回りきれません。  奈良では東大寺の大...
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