先に「醤油の話あれこれ」を書いた。
それまで醤油にどんな種類があるとかそもそも醤油をどうしてつくっているのかも知らず醤油に関してはただ漫然とした消費者であった。しかし調べながら醤油のことを書いているうちに大量生産している醤油工業製品のような醤油もあるなかで自分なりのテーマをもって醤油づくりに取り組んでいる特長のある醤油メーカーのあることに気がついた。
日本酒も醤油と同じ醸造業界だがこちらも大量生産、大量販売型ではなく地元の米や水をうまく使って個性的な酒づくりをしている蔵元も少なくない。
前に日本酒では奈良県御所の造り酒屋「油長酒造」の「風の森」という日本酒の話を書いた。
この蔵元の酒はすべてが純米、無濾過、無加水、火入れなしの生原酒である。
ということは醸造過程での酵母など発酵の状態が生きたまま製品に残ってるため炭酸ガスが入ったままになっている。それを温度管理することで製品として提供しているのだが、うっかり瓶を振ったりいきなり開栓すると炭酸ガスで蓋がポーンと飛んでしまうことがある。
それだけにしゅわっとした炭酸ガスの混じった呑口がなんともいえず爽やかで実にうまい酒であった。
日本酒でこんなにいい酒があるのならば、醤油でも奈良県においしい醤油があるのではないか。
そこで情報収集の参考にしたのが 「職人醤油」という醤油専門の通販サイトである。
ここでは全国の個性的で優良な醤油づくりをしてるメーカーを集めて詳しく取材して紹介している。
もちろんこのサイトで気に入った醤油を購入することもできる。
「職人醤油」を見ていくうちに奈良市の「北京終」(きたきょうばて)という場所に「井上本店」という醤油メーカーのあることがわかった。この醤油屋さんは「イゲタ醤油」という銘柄で知られており創業は江戸時代末期の醤油蔵である。

「井上本店」の店舗部分の概観。この奥に広大なレンガ造りの醤油工場がある。
「職人醤油」には次のような「井上本店」社長の吉川修氏に取材した記事が載っていた。
「先代の井上平祐さんが残された下記の文章。これが井上本店が守る部分だと吉川社長は言います。醤油は単なる旨味調味料ではない・・・(中略)・・・元来、醸造は微生物が自らの生命をまっとうするために作り出す貴重な生命物質を利用させて頂くという先祖の遺産です。(京阪ジャーナル社発行 月間AGORA より)
「自分たちが食べて美味しいと感じるものを造ること。そして、国産の原料を使うこと。」この考えを基に日々改良を積み重ねています。「先代は亡くなる間際まで醤油や機械のことを心配していました。一人でいろいろ試行錯誤して種をまいておいてくれたのです。その一つ一つのことを、昔からこうだったからとそのまま踏襲するのではなくて、科学の目を持って見直し検証しているのが今の段階なんです。」
またほかの醤油紹介通販サイトにも井上本店の紹介が出ている。
たくさんのサイトで井上本店は紹介されているが井上本店の醤油づくりの特徴をよく伝えている二つの記事を紹介してみる。
「井上本店」●奈良市
「自然の調和が生み出したコクと天然の香り 」
『五徳味噌』でもおなじみ! 5代目の故・井上平祐氏が試行錯誤の末たどり着いた“昔ながらの天然醸造醤油”。国内産丸大豆・小麦、天日塩を使用、自然気候で2年という長期間醸造、蔵付き野生酵母が自由に活躍するよう開放タンクで仕込んだ吟醸ものだ。」
(「日本の味 地醤油にこだわりの蔵巡り」)
★奈良の天然醸造醤油 「イゲタ醤油」
奈良県奈良市北京終町57
井上本店は、江戸時代末期の創業。
もともと製氷業を営んでいた工場を買取り、現在の場所に移り、今に至ります。
大正時代に建てられた、レンガ造りの趣ある建物で、味わいのある醤油と味噌を造っています。
井上本店の醤油は「イゲタ醤油」として知られ国内産の丸大豆と小麦粉にこだわり添加物は非使用。
醸造は天然酵母による天然醸造。
最低でも1年半、通常は2~3年の醗酵・熟成を経て製品化されています。
こだわりの原材料を使い、しっかりと熟成させて仕上がった醤油は、しっかりした旨みとコクがあり、伸びも良く、少量でもしっかり味付けでき、素材の良さを引き出してくれます。
(「登酒店」(天理市)通販サイト)

井上本店のレンガづくりの醤油製造工場。大正時代に建てられたレンガ造りの蔵の中は温度変化がゆるやかで、醤油や味噌の発酵・熟成に適している。もともとは製氷会社の工場、倉庫であった。
そこで全国的に猛暑となった7月10日の昼下がりならまちから歩いて「井上本店」に伺った。
午後一時ころのことだった。店頭が醤油製品の販売所となっている。接客に出てこられた店員の方にお願いしてみた。
「できれば蔵を見学させていただけませんか?」
「えっつ、今からですか?」
応対の女性が驚いた声と戸惑った表情を見せた。
「はい」
「あのう見学はいつでもできる限りしていただくのですがだいたい電話で事前にご予約していただくようにしてますので・・・・・」
「ああそうなんですかですよねえ」
「あいにく今日はこの後・・・・見学の予約が入ってまして・・・・でも少しお待ちください」
いきなり来て大事な蔵を見せてくれなんて言うのはたしかに非常識だろうなと諦めていた。
すると女性が戻ってきて
「社長に話をしまして、恐縮ですがほんの短時間ならご案内しますということです。次の予定が入ってしまっているもので申し訳ありません」
ほんと、こちらのほうが誠に申し訳ない。
でもこういう機会は滅多にないので非礼をお詫びしながらお言葉に甘えて急いで店先から奥にある工場のほうへ入らせてもらった。
そこにはにこにこした笑顔の吉川修社長が待っていてくださった。

先代が遺した「自分たちがおいしいと思うものを造ること。国産の原料を使うこと」という思いを基に、六代目当主の吉川修社長が昔ながらの天然醸造の醤油と味噌を造っている。写真は工場の入り口付近。レンガの倉庫内には出荷前の製品などがおかれている。

工場の内部、大豆を大量に回転しながら蒸気で蒸すタンクのような機械。NK缶という。砕いた小麦を炒り麹菌を混ぜ、蒸しあがった大豆に混ぜ醤油の元となる麹をつくる。すべて国産丸大豆、国産小麦を使用している。
写真で見た通り蔵は時代ものの赤いレンガ壁であった。
そこから社長の案内で醤油製造工程に沿って二階にも上がり醤油のもろみを熟成している蔵の中までガラス越しに見学させていただいた。どこからか醤油のいい香りが漂ってくる。
また工場の一部に教室のような黒板のある部屋があった。
机や椅子もあり50人くらいは余裕で入れそうだ。ここは見学者が多い場合の説明に使われているようだ。醤油づくりについての日本醤油協会制作の「全国しょうゆ工場見学ガイド」という小冊子をはじめ各種パンフレットもいただいた。
「~見学ガイド」を見ると奈良県ではこの井上本店のほか、御所市森脇の「片上醤油」、桜井市大福の「大門醤油製造場」の三軒の醤油蔵が掲載されていた。

もろみを熟成させている四角い槽がいくつもある。左下にもろみの表面がよく見える。原料の小麦と丸大豆は100%国産、塩はオーストラリア産天日塩。醸造を早める酵母添加を行わず、蔵付き酵母をはじめとする天然の有用菌の力でもろみを醸している。加温速醸も一切せず、四季の寒暖にもろみを委ねる昔ながらの天然醸造で醤油をつくるのが井上本店の流儀である。
見学の道々、吉川社長はぶしつけな質問にもいやな顔をしないで丁寧に答えていただきたいへんに勉強になった。
「ふつうは本醸造でも半年で醤油を完成させ販売している醤油会社もあります。それをこちらでは通常で二年、濃厚醤油などものによって三年も熟成させておられますよね。商売的には速くつくり早く売りたいというのがまあ普通に考えることだろうと・・・・それだけ熟成にこだわられるのは・・・・」
聞いてからしまった!と思ったがもう遅い。
これには困ったような表情で
「たしかに本醸造では半年、一年で完成します。それももちろん完成した醤油です」
と前置きした上で
「うちではすべて二年熟成をしてます。そのほうが醤油としての味わい風味こく香りなど違いがあります。なぜそうなるのか理由には正直なところわからない部分があります。醤油づくりをやっていますとね、まだ未知の部分があるんですよ。醸造には人知の及ばない世界がまだまだあるんですね」と。
なるほど吉川社長は日々この「人知の及ばない世界」と向き合い目に見えぬミクロの世界と対話をしながら醤油づくりに挑んでいるのだ。
そのために熟成させる醤油のもろみを貯蔵する大きな仕込み槽の数も通常の醤油蔵の二倍以上も設置されている。二年熟成、三年熟成というが本気でやる気にならない限りできることではないし続けられることではない。
そういう人に向かって「速く醤油を作って早く売ったほうが儲かるのに何を熟成の手間隙やお金をかけて悠長なことをしているんですか」というような下衆な言葉をよくぞ発したものだ。
己はまことに愚か者であった。
一年かけてじっくりと完成させて十分においしい醤油をさらにもう一年熟成させる。それだけの時間をかけることでしか醸し出すことのできな味わい深い醤油の世界がある。そういう究極の醤油づくりが井上本店では実現しているのである。しかも見学もOKで基本となる原料も製造手順も公開している。そこに吉川社長の経験に裏付けられた自信と探究心とを垣間見る思いがした。
熟成という時間の醸し出す果実は天然自然の奇跡であり微生物のもたらしてくれる神秘の一滴なのだろう。奥深さの尽きない天然醸造の神秘へ日夜挑み続ける吉川社長はまさに熟成醤油の巨匠である。
見学のお礼を言いながらも
「突然押しかけて申し訳ありませんでした。」
と詫びると
「いえいえ、またぜひ予約していつでもおいでください。時間さえあればゆっくりとお話させていただきますのでね。お待ちしております」
と、にっこり、メガネの奥の目がやさしかった。
どこまでも醤油づくりへの情熱を秘めて親切で丁寧な吉川修社長であった。

井上本店の商品販売所。各種の醤油が並んでいる。大から小までサイズが多いので買いやすい。醤油、麺つゆのほかに「五徳味噌」「ぽんず醤油」などもある。パンフレットに「こだわりの天然長期醸造」と書いてあるがその通りである。

地元の小学生が蔵の見学に来たようだ。その感想文が大きな紙に書いて貼ってあった。

醤油の試飲をさせていただいた。左から濃口醤油、濃厚醤油、薄口醤油、めんつゆ、そうめんつゆ。
「つゆ」はストレートタイプで化学調味料を使わずかつお出汁などを丁寧にとって作成している。「薄口醤油」は色は薄くても塩分濃度が高い。試飲してみるとそれぞれの味の違いがよくわかる。
その後お店で醤油を買った。
なんと味見までさせていただいた。
醤油はすべて瓶詰めのため荷物が重くなるので比較的軽い360ml.の「濃口醤油」と三年熟成の「濃厚醤油」を買った。
戻った翌日濃口醤油をおろし蕎麦と練り物製品のつけ醤油に使ってみた。
これまでの醤油とは違って濃口醤油の名の通りに味の濃い醤油である。
少量でも味の深さ広がりが何倍も感じられた。見た目で言えばほかの醤油が皿にさらさらと流れて広がるのに対してイゲタ醤油は表面張力が強く盛り上がって力が漲っているように見えた。やはり何かが凝縮しているのであろう。よく新鮮な卵の卵黄がぷっくらと盛り上がっている映像を見ることがあるがあんな感じだった。濃口醤油で決してたまり醤油ではないにも関わらずである。
醤油の芳醇な香りが口の中で余韻となって広がる。旨い、うますぎる!たしかに旨い。
「イゲタ醤油」これは只者ではない。
しみじみ思う、奈良にはいい酒がありいい醤油がある。
関連情報URL 「職人醤油」