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角鹿のブログ一覧

2021年01月13日 イイね!

吉野町のとんど

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穏やかな正月明けの冬日。珍しく晴れた夕方。吉野上空を西へ飛んでいく飛行機。方向的には関空か伊丹空港か。


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昨年にくらべて寒い日が多い。とくに風が強く暴風とも言える嵐が吹きまくった。


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夜の明けるのは遅い。東の空が赤らんで朝日がまもなく上る。


どこからか白鷺が飛んできて凍てついた川で魚が来るのを待っている。この場所にはいつもこの同じ白鷺がやってくる。

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白鷺が一羽佇む前を水鳥が群れて通っていく。


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枯れ木のようなしだれ桜の古木。

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豆大福を皿に載せたら何か顔のような・・・・・。

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反対がわに回してみたらこちらも別の顔が現れた。



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集落により吉野町のとんどはまちまちに行われる。1月10日、11日、また旧来の1月14日にするところもある。これは吉野川の桜橋の下の河原での上市地区のとんどの風景。1月11日。対岸の飯貝は前日の10日にやはり向かいの河原で行った。

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少子高齢化のせいで参加しているのはほとんどが高齢者ばかりで青年の姿も子供の顔もみあたらない。動物界を代表して柴犬が一匹参加してくれていたが火を見て驚いたのかキャンキャンキャイ~ンとl吠えに吠えて飼い主により退場を余儀なくされた。犬にとんどの火や竹の爆裂する音はあわないようだ。


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こちらは隣の地区のとんど。同じ吉野川の河原で距離を開けて行う。ここでは三密はないのだがやはり誰もマスクをしている。燃え上がる炎の背後に沈む日輪がまぶしい。

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トンドの竹の燃え尽きるのは割に早い。




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向こうのほうにも別の地区のトンドの火が見える。これでだいたい終わった。午後3時に点火し4時くらいにはほぼ終わっている。

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次の日、1月12日は一転して朝から雪が降った。


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牡丹雪は重そうに空から降りてくる。


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木工所の中は暖を取る薪ストーブを燃やしている。


Posted at 2021/01/13 14:35:51 | コメント(0) | トラックバック(0) | 吉野見物 | 日記
2021年01月11日 イイね!

皇国史観

「皇国史観」
 片山杜秀著 片山氏は慶應義塾大学教授で思想史家。
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 皇国とは何かという主題を語るのに著者は日本の歴史の中で天皇とはどんな存在であったのかという天皇をめぐる話題を学生へ講義する形で解説している。
 最初は水戸学から説き起こされている。
 水戸学は儒教思想に基づいた天皇論を追究した藩学である。
 簡単に言えば「尊皇」とは「天皇とは日本で一番偉い人である」という考え方である。徳川時代において日本で最高の権力者は誰が考えても全国の大名を配下に治めている征夷大将軍の徳川家である。だがそれは違うと水戸学では言う。水戸藩の儒学者たちは天下国家はそもそも誰のものかと自問自答を繰り返し一つの結論を得た。
 栄枯盛衰は世の習いであり権力を握る覇者は時に生まれ時に去っていく。まさに覇者の驕りは移ろい漂う権(かり)の力に過ぎない。だがよくよく考えて見るに日本には神武天皇に始まる日本の万世一系の天皇が存在している。その威光は厳然と連綿として継続しておりわが国の最高統治者としての地位を一度も奪われてはいない。 
  では徳川政権の征夷大将軍とは何か。この地位は天皇によって与えられたものではないか。つまり徳川家は天皇によって政治権力の執政を委託された覇道の頭目に過ぎないことになる。
  日本におけるほんとの最高実力者というのは覇者の徳川家ではなくて王道の天皇であるというのが水戸学の尊皇論の根本思想である。
  水戸藩の藩学として儒学の学風を創始したのは水戸藩第二代藩主の徳川光圀である。徳川光圀は若くして「史記」を学び紀年体の日本史編纂を思い立ったと言われる。
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水戸藩藩校の「弘道館」の広間に掲げられている「尊攘」の掛け軸。この二文字は水戸学の尊皇思想を象徴してあまりある。
 「弘道館」は史跡として水戸市に保存されている。

  徳川 光圀(とくがわ みつくに)は、常陸水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られる。 諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。(Wikipediaより引用)
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 徳川光圀は持論として南朝正統論者であった。
 元禄5年(1692)に南朝の後醍醐天皇の忠臣として名高い楠木正成公の墓碑を建立する。場所は現在の兵庫県神戸市の湊川神社境内である。現在ももちろん湊川神社の中に墓碑が在り献花、墓参する人が絶えない。
 その墓碑に光圀公は自ら「嗚呼忠臣楠子之墓」と揮毫している。この光圀の南朝正統論は後に明治維新における尊皇思想に繋がり明治政府は南北朝の両統並立時代の正統を南朝に決めることになるのだがそれはまだ先の話になる。
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「楠木正成墓所」 神戸市湊川神社境内

 正成公以下御一族等の墓所として、境内東南隅に位置します(国指定文化財史蹟)。

元禄五年(1692)に、権中納言徳川光圀公(ごんのちゅうなごんとくがわみつくにこう)(水戸黄門)は、家臣佐々介三郎宗淳(さっさすけさぶろうむねきよ)を、この地に遣(つか)わして碑石(ひせき)を建て、光圀公みずから表面の「嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)」の文字を書き、裏面には明(みん)の遺臣朱舜水(いしんしゅしゅんすい)の作った賛文(さんぶん)を、岡村元春(おかむらもとはる)に書かせて、これに刻ませました。

御墓所 ごぼしょ(史蹟 しせき・楠木正成墓碑 くすのきまさしげぼひ)
この墓碑の建立によって、正成公の御盛徳は大いに宣揚(せんよう)されるとともに、幕末勤王思想の発展を助け、明治維新への力強い精神的指導力となったのです。即ち幕末から維新にかけて、頼山陽(らいさんよう)・吉田松陰(よしだしょういん)・真木保臣(まきやすおみ)・三条実美(さんじょうさねとみ)・坂本龍馬(さかもとりょうま)・高杉晋作(たかすぎしんさく)・西郷隆盛(さいごうたかもり)・大久保利通(おおくぼとしみち)・木戸孝允(きどたかよし)・伊藤博文(いとうひろぶみ)等々は、みなこの墓前にぬかづいて至誠を誓い、国事に奔走したのです。

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楠木正成肖像 横山大観筆 湊川神社 所蔵

  水戸藩が藩学として採用したのは儒教思想である。徳川時代に幕府は仏教を重視しており神道や儒教は低くみられていた。水戸藩の儒教に裏打ちされた尊王思想は否定こそされないものの幕藩体制を支える枢軸思想ではなかった。
 水戸藩は御三家の一つでありながらも儒者を抱えて尊皇論を探求し続けた。
 その論証として第二代藩主徳川光圀の命令で1657年より歴代天皇の事績をまとめるべく歴史書「大日本史」の編纂に着手する。
 神武天皇以来の天皇について記された文献を全国津々浦々を回って借用または書写し日本における天皇の歴史文献の収集作業を開始したのである。
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おなじみの時代劇「水戸黄門」。水戸市の観光シンボルとなっている。

 このときの諸国をめぐり文献収集をしたというエピソードをもとに作られた時代劇がテレビや映画でおなじみの「水戸黄門」である。光圀公は実際には諸国漫遊はしなかったのだが助さん格さんすなわち佐々 宗淳(さっさ むねきよ。別名、佐々木助三郎)と渥美格之進は実在の人物で水戸藩の武士である。
じっさいに全国を回ったのは佐々木助三郎で出身は現在の奈良県宇陀市。15歳で京都で臨済宗の門に入るが後に儒学に傾倒、還俗して江戸に出て水戸藩へ仕官した。儒学を修し学識のある佐々 宗淳は光圀側近として全国をまわり大日本史編纂の資料収集に尽力した。閑話休題(あだしごとはさておきまして・・・・)
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大日本史とは水戸藩2代藩主・徳川光圀の命により編纂された歴史書となります。
1657年(明暦3年)に編纂作業が開始され、編纂が終結するのが1906年(明治39年)と、実に249年もの長きに渡り続いたのと多額の費用を要した日本の歴史の上で類まれだ大事業だった。


 「大日本史」編纂は江戸時代のはじめから延々と続けられ完成したのは実に1906年。日露戦争の終わったあとの明治39年だった。そのときあったのは茨城県であり水戸藩も江戸幕府も歴史の背後に消え去っていた。しかし大日本史編纂に心血を注いだ水戸藩の尊皇思想は日本をは作り変える起爆剤となったのである。外国船が次々に押し寄せ日本へ開国を迫る緊急事態が起きる。この一大事に日本は水戸学の尊王思想を国防最前線に掲げるのである。
 幕末に水戸藩の藩論であった尊王思想が国防論と合体する。
天皇は開国を迫る外国を排斥しようという攘夷論と合体したのである。外国に押されて開国をする幕府の弱腰姿勢に怒った武士は幕府に代わる統率者としての天皇に期待を寄せる。このように天皇中心にして外国侵略を防ごうという「尊皇攘夷」思想が生まれていった。
 
 幕末の尊皇攘夷論に始まりから明治維新の国家体制の要となった天皇の存在を解く上で著者は明治政府の天皇絶対論に言及する。もともと水戸学の尊皇論は儒教思想に基づくもので天皇の天皇たる資格は徳の有無によるもので人徳を欠く人物には天皇の資格がないこととなる。シナの皇帝が天の徳を失い天命尽きて交代する皇帝徳論理と同じである。
 しかし明治維新の日本はキリスト教徒である西欧の外圧、侵略という国際情勢の危機に対抗するため西欧のキリスト教の神に相当する絶対的な国家、国民の支柱を必要としていた。それは既存の神仏ではなく現人神である天皇しかなかった。
 日本は水戸学や国学の「天皇絶対」という尊皇思想を採用する。同時に天皇の地位を不動のものとする仕組みを作り上げた。なかでも中国の儒学に由来する天皇の有徳論を退けるという大胆なことを行っている。
 本来天皇の地位は天命であり徳の有無により地位を奪われる。そうなると徳のない天皇であれば交代をせざるを得なくなる。これでは日本の柱となるべき天皇の地位が不安定である。そこで徳の有無に関わらず天皇の地位は揺るぎないものと規定したのである。
 これにより明治政府は儒学思想による水戸学の天皇像の中から天の徳によって天皇存在を相対化する儒教的概念を切り取り捨て去ったのである。かなりの乱暴な荒療治であるが国家が外国に侵略破滅するか存続するかの緊急危機事態の一大事に悠長に天皇の徳の有無を斟酌している余裕は明治政府にはなかった。
 そして万世一系の天皇のおわします神国日本という強国理念を打ち立てその中心に絶対的主祭神としての天皇をいただく皇国史観を確立していったのである。
 このように日本の近代化の中で生み出されたのが日本の旗印として絶対的存在としての天皇であり神としての天皇がしらす国の日本という皇国史観であった。このように日本は天皇を中心とする国家となったのである。蛇足を承知で言えば日本が天皇をいただく皇国になったのは明治時代に日本が近代化していく過程のおいてそのような皇国史観が作られてからのことである。
 
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神武天皇の東征図

 日本という独自の国柄はどのようなものか。それは皇国史観としては天皇が国家国民を統治する日本の「国体」として定義される。ではそういう日本の国柄、国体はいつごろ出来上がったのか。そう考えればそんなに古い話ではない。
 まずこれまで述べてきた水戸学がまず日本独自の国柄という意味で天皇の皇国思想をもとに天皇統治の国こそ日本であるという国体観念を打ち立てた。
 万世一系の天皇が日本に君臨し、天皇の君徳が天壌無窮に四海を覆い、臣民も天皇の事業を協賛し、義は君臣であれども情は親子のごとく、忠孝一致によって国家の進運を扶持する。この国体観念は天皇が永久に統治権を総攬する日本独自の国柄という意味をもち不可侵のものとされた。
 つまりこのような「皇国史観」は明治維新後の日本の近代化の中で生まれたものなのである。
 西欧列強に対抗して日本が近代国家に変身するために富国強兵、殖産興業をめざす中で日本は日本国民を統合する最強の求心力を持つ存在としての天皇像を必要としたのである。明治政府は西欧列強の侵略を阻止し近代国家として国家を立ち上げていくために日本存続の切り札として天皇を国家の守護神として近代国家日本の旗印に掲げたのである。皇国日本はかくして生まれたのである。
 
 ここでそのあたりについて著者が本書の最初の頃に書いている文章を少し引用する。
  「ここで念を押しておきたいのは、この「皇国史観」にせよ、そのベースとなっているとされている「国家神道」にせよ、特に江戸時代にルーツが求められるとはいえ、あくまで近代の産物だということです。
  明治以降、近代西洋的価値観が覇権を握る世界で日本なりの近代を創出し生き残りを図ろうとしていく中で、この国が選んだ国家の枠組みがまさに「天皇を中心とした国家」でした。それを思想として理論づける役割を担ったのが、本書で取り上げる「皇国史観」だと考えます。」(本文より引用)
 
 この本ではほかに大日本帝国憲法、南北朝時代の天皇正閏(せいじゅん)問題、天皇機関説など興味深い話題についても広範な知識と独自の洞察が展開されている。南北朝で南朝と北朝とどちらが正当な朝廷なのかという議論は誰しも興味ある話だ。本書でもそのあたりは詳しい解説がある。
 現在の天皇は北朝系なのだが実は明治時代に決められた公式の南北朝時代の正統(しょうとう)は南朝となっている。
 明治維新は尊皇思想が基本である。過去に天皇を中心として日本の政治が確立されたことはないのかと歴史を振り返ればそこには建武の中興があるではないか。後醍醐天皇は北条執権の鎌倉幕府を滅ぼし建武の新政という天皇親政を実現した。これこそ明治政府の目指すご一新、王政復古の手本である。このような流れの中で明治天皇は北朝系ではあるが天皇親政時代を築いた南朝系の後醍醐天皇の存在がクローズアップされる。そして「神皇正統記」「太平記」「大日本史」など南朝イデオロギーが明治政府では過去の中から蘇り優位となる。
 同時に楠木正成も蘇ってくる。
 南朝の後醍醐天皇の楠木正成の忠臣物語は日本人の心を深くうつものがあった。天皇のために命をも捧げる楠公精神は圧倒的に国民の感情に受け入れられた。
 これに対して北朝系の天皇を担いだ足利尊氏は天皇に弓を引いた逆賊の敵役として不人気の極みとなった。勝者の足利尊氏よりも湊川で散った楠木正成に明治の国民は共感していった。もちろんこれは明治政府の皇民化教育の成果でもある。
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東京 皇居外苑に建立された楠木正成公の銅像

 明治政府は国家のために戦争へ国民を動員しなくてはならない。そのためには天皇のために命をも捨てる楠公精神こそ必要であった。南北朝については歴史学者の見解は両統並立がオーソドックスな判断だった。だが明治政府も帝国議会も国民感情も南朝の楠公精神一本槍である。結果として北朝系の天皇をいただき忠誠を尽くせと国民教育をしながら皇統の正統(しょうとう)は南朝とするという矛盾を孕みながら天皇の歴史は綴られていくのである。

 このように過去の皇統譜さえも時代の波に翻弄されて変わっていくというのが天皇という存在の大きさでもあり危うさでもあるのだ。逆に言えば昭和天皇が「新日本建設に関する詔書」(人間宣言)の冒頭で「朕は爾(なんじ)ら国民と共に在り、常に利害を同じうし休戚(きゅうせき)=喜びと悲しみ=を分(わか)たんと欲す」と書かれているように天皇と臣民とは一体の存在であるという認識こそが天皇国家の真骨頂なのである。
 北朝系の天皇が南朝忠臣に共感する国民と心を同じくするという矛盾が矛盾でない姿、理屈や分別を超えた渾然一体としたものがそこにはある。未分割の魂のかたまりのような共同幻想、黙契としか言いようのない一体感の世界がそこにはある。
 西田幾多郎は「絶対矛盾的自己同一」という言葉で二元対立のない同一世界を提示した。君臣一体とはこのような皇国観でありこれこそが日本の近代に生まれた国体のリアルであるのかもしれない。
 
 南北朝論争以外でも民俗学と天皇論として柳田國男と折口信夫が俎上にあげられている。なかでもユニークなのは折口信夫の「天皇霊」である。折口信夫は天皇は神の詞を伝達する器であり代替わりの際に新しい天皇に天皇霊がひっついて天皇は天子様としての威力が生まれると説いている。天皇霊というのは聞き慣れない言葉かもしれないが昔は人に霊がつくということは珍しいことではない。そこから天皇には天皇霊が憑くことによって天皇の霊力が備わるのだと折口信夫は考えたのである。そのヒントは新天皇の行う大嘗祭の儀式にあった。
 新たな天皇が行う大嘗宮正殿内にはなぜか寝具が持ち込まれる。
 この寝具に着目した折口信夫は昭和の大嘗祭の直後に大嘗宮正殿内の寝具は「日本書紀」にも書かれている高天原から降臨する瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)がくるまれた真床覆衾(まとこおふすま)であり寝具に籠もる儀式によって天皇霊が天皇に憑いたとする仮説を発表した。
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秘儀とされている大嘗祭の儀式。新天皇は素足で真菰の敷物の上を歩く。

●天皇の万世一系は「血筋」ではなく「天皇霊」という霊魂の継承である。

 昔は新天皇はお衾に入られて、鎮魂の歌、諸国の国ぶりの歌をお聞きになっている間に、「天皇霊」を受け入れることで、半睡半覚醒の神的眠りから醒めた時には、完全な天皇として「復活」し、「新天皇」が誕生しているわけです
新天皇は「大嘗祭」における「潔斎」「真床追衾」の秘儀によって、天皇は代替わりごとに太陽に象徴される祖先神の力を得て、生命力を更新して行きます。そして、それが全国民に分配され、国民の結束力、神霊の加護も更新されるのです。』
このように、折口氏は、天皇の権威をほかならぬ「万世一系」の「血筋」ではなく、「肉体を入れ替えて復活をとげる霊魂」という超越的存在の継承によって説明しようとしたのです。


 否定する向きもあるが現在の大嘗宮での実際が部外者に公開されることはない。いまもって秘中の秘の秘儀とされているため寝具がどのような意味を持つのか知る人はいない。
 折口信夫の仮説によれば天皇に憑いた天皇霊が天皇に肉化し天皇が受信した神の声が天皇の意志として日本の方向性を決めることになる。
 しかしこの論理だと一つ問題がある。天皇霊は必ず天皇に憑くという保証はどこにもない。飛躍するがそこらの田吾作にもし間違って天皇霊がひっつけば田吾作が天皇になる危険性も含んでいる。また霊能者が天皇霊が憑いたと言うことも考えられる。実際にそういう事例があったことが本のなかで紹介されている。
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 左は柳田国男 右が折口信夫

 この本では更に折口信夫について昭和天皇の人間宣言は大きなショックだったと書いている。たしかに天皇が天皇霊の憑く神の憑依だと直感した折口信夫にとって天皇自身に神話を否定された上にダメ押しの人間宣言までされてしまったのである。頼りの天皇に神の衣を脱ぎ捨てられては折口信夫も立つ瀬があるまい。
 天皇霊は人間宣言で破綻した。
 昭和天皇に見放された天皇霊はどこに行ってしまったのだろう。神としての天皇は昭和天皇が最後ということになる。
 その後は天皇の神格はなくなり人間天皇の時代が今日まで続いていることになる。
 そうなれば天皇の儀式も神としての祈りではなく人間天皇としての祈りの儀式に変わっていることになるだろう。そのあたりのことは民草の盆暗には理解を超えることで論及は不可能である。
 
 だが見方を変えればそうでもないのではないかと著者は軽口を言う。
 それはもしかしたらマッカーサーを依代として憑いたアメリカ霊であり引退させられた天皇霊に代わってアメリカ霊が戦後の日本を発展させたのかもしれないと著者は書いている。
 だったとしたらこれには少し追加の悪霊話を書かねばなるまい。
 日本領土の尖閣列島海域への領海侵犯を常態化させいるのが中国である。
いま悪霊的な独裁国家の中国共産党霊が日本列島に漂い始めている。
 アメリカでは大統領選挙をめぐり自由と民主主義の旗を掲げるトランプ大統領が選挙の不正を訴えているにも関わらずトランプ大統領を非難、罵倒するマスコミや極左勢力がアメリカ全土を席巻している。これはどういうことだろうか。
 アメリカ極左勢力と民主党バイデンとその仲間には独裁主義、全体主義の中共霊が取り付いておりアメリカの混乱はアメリカだけでなく同盟国の日本にとっても危険なシグナルである。
 
 さて天皇霊から話が脱線しているが締めくくりに入らないといけない。  
 この本を通して感じるのは「皇国史観」としての神国日本という概念や現人神としての絶対者としての天皇像がもともとあったわけではないということである。
 万世一系の天皇家という存在を日本は連綿として受け継いできた。
 天皇は日本の家元である。だが天皇が権力者として常に強権を発揮して日本を支配してきたかといえばそうではない。
 天皇は権威として君臨し政治向きは権力を持つ時々の覇者が間接統治という形態で日本を支配してきたと一般的に言われている。しかし実際のところは天皇が形はともあれ日本を実質的に統治してきたかといえばそうではないような気がする。天皇はさまざまな権力構造と向き合い折り合いをつけながら存在している。 天皇は武力を持って自衛しているわけではない。無手勝流のような強いようで脆く、脆いようで強い存在のように思える。
 そのときどきの政権を使って天皇が日本を支配してきたと見るのは実情にはあわない。江戸時代など徳川将軍家は天皇などむしろ余計者扱いと言えば言いすぎかもしれないが、実態はないがしろにされていたと思われる。天皇は幕府の決めた禁中並びに公家諸法度によって雁字搦めに縛らていた。天皇の権限はただ年号を選んで変えるというそれだけだったとも言われている。
 江戸時代を通して印象を受けるのは幕府によって押し付けられた無力な天皇像である。
 そんな天皇が明治維新とその後の近代化では打って変わって日本を代表する主権者として脚光を浴びていく。幕末から明治時代にかけて天皇の権威は天井知らずで高まっていき「日本は天皇を中心とした国家」であるという皇国史観による国体が確立されていった。
 
 極端に言えば天皇の存りかた、天皇像というものはそのときどきの政権や広義に言えば国民の総意が決めてきたとも言える。
 どのような天皇像が好ましいのかは天皇自身が決めることはなくこれまでは時々の政権や国民に委ねられてきた。その意味では皇国史観は固定的なものではなく神武天皇以来約2700年その時代の空気によって変わってきたと言っても過言ではない。とくに大きく変わってきたのが戦後だと著者は言う。
 
 その実例として本書の最後の章「平成から令和へ」には昭和天皇のいわゆる「人間宣言」を取り上げる。そして昭和天皇の天皇像として「いつも国民とともにある」という認識が天皇という存在の基盤なのだと示されたと書いている。さらに昭和天皇の意志を継いで天皇を譲位して退位された上皇は「天皇とは何かを自ら国民に問いかけた」とその意味の重さを指摘している。
 そして上皇の示された平成の天皇道とは「戦後民主主義、人間天皇、象徴天皇を三位一体のものとして体現する」ということになると指摘する。

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●昭和天皇の人間宣言●
「神道指令」の半月後の1946年1月1日に出された天皇の詔書「新日本建設に関する詔書」と呼び習わされている昭和天皇の言葉が官報号外で公表された。「神道指令」に盛り込めなかった天皇の神聖性の縮減を意図したものである。。1946(昭和21)年1月1日に発せられ、天皇の人間宣言といわれる。

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通称「人間宣言」と呼ばれている文書は 1946年1月1日に昭和天皇が発表した
「年頭、国運振興ノ詔書」通称「新日本建設に関する詔書」 赤線部分
■現代語訳
私とあなたたち臣民との間の絆は、いつもお互いの信頼と敬愛によって結ばれ
単なる神話と伝説とによって生まれたものではない。
天皇は現人神、日本国民は他より優れた民族で、
ひいては世界の支配者たるべく運命づけられたという架空の概念に基くものではない。

人間宣言については次のような見解もあることを知っておきたい。
 
 この新たな理念が日本国憲法の「象徴としての天皇」へ引き継がれていき、平成の天皇の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」(2016年)にも受け継がれる。いちおう「天皇の人間宣言」は一つの方向性を指し示したということは言える。しかし、「天皇の人間宣言」は天皇個人の意思表示にすぎず、法的拘束力のある文書ではない。人間宣言から1年以内に内容が固まっていく日本国憲法においても、天皇の神聖化に大きな問題があったということは、なお十分に明確になっていない。「象徴天皇」という規定は神聖天皇ではなく人々と「信頼と敬愛」の関係にある人間天皇という意味が含まれていると考えることもできるわけだが、それを確認することは戦後の日本国民にとっての課題として持ち越されたのだ。(島薗進 東京大学名誉教授、上智大学教授、宗教学者)

 ただ上皇の退位は実は重大な問題を孕んでいる。
 実は近代の天皇を支えてきた安定装置は「天皇は自分の意志で退位できない」「天皇は自分の後継者を指名できない」という二か条である。これは大日本帝国憲法を作った宰相の伊藤博文が天皇を護り近代日本を皇国として永続させるための金科玉条として定めたふたつの規定であった。
 その一つが上皇によって破られた。このことは天皇の存在に今後非常に重大な影響を与えることにもなりかねない。とは直接的に著者は書いてはいないがひとつ目が崩れたということは二番目が崩れるということも起こり得ると著者は警鐘を鳴らしている。
 それは女性天皇の問題であって愛子内親王の即位の可能性も出てくるのだがそのときの天皇の意志が問われかねないのである。本来なら天皇安定装置の二か条によりそういう生々しい問題は起きようはずがないのであるが・・・・。天皇の後継をめぐり現在は非常に不安定な状況が生まれている。
 
 日本は過去一度も王朝が変わったことのない「世界唯一の単一王朝国家」であり2700年という長きにわたって天皇を中心とした「皇国」であり続けている。こんな国はほかにはない。
 その歴史はまさに奇跡としか言いようがない。皇室の歴史は今上陛下まで125代、皇紀2681年の長きにわたり万世一系の天皇が存在している。単一王朝にして世界最古の歴史を持つ国家は地球上にただ日本だけである。

 

 現在の国連加盟国は196ヵ国ある。その中で最も国家として歴史の古い国はほかならぬ日本である。日本に次いで歴史の古い国はデンマークが約1000年、三番目はイギリスの約950年である。この二カ国よりも日本はさらに1000年以上も古くからある国なのだ。
 世界史を見ると日本よりも昔にできた国はある。だがそれらの古い国はすべて滅んでいる。 
 現存する国のなかで世界最古の国は「日本」である。もし子供に日本はどんな国なの?と聞かれたら世界一歴史の古い国だよと教えれば良い。中国4000年という謳い文句がある。これは中国は入れ替わり立ち替わり侵略王朝が興亡していった歴史であって現在の中華人民共和国や大韓民国は戦後に建国された歴史の浅い国だというのは常識である。

 日本は今後も皇国で有り続けることは間違いないだろう。その割に日本人には天皇とか皇国であるという認識、意識が薄いようだ。
 他の国の人から見れば日本は奇跡の国だと仰天するだろうが日本人は「へー、そうなのか」といった反応だろうと思う。
 いま秋篠宮家の長女の眞子様の結婚をめぐって何かと話題になっている。この際そういう話題をきっかけに天皇、皇室、皇国日本について関心を持ち歴史的な存在としての天皇について少し勉強してみるのもいいかもしれない。
 この図書はその意味で誰でも気軽に読める「天皇入門の書」としておすすめしたい。

 ★下の関連リンク。大嘗祭の儀式と折口信夫の天皇霊説についての詳しい解説があります。興味のある方はぜひご一読をお薦めします。

 ※新天皇に天皇霊をつける大嘗祭はマコモ祭り!(19/11/14)
以上
Posted at 2021/01/11 22:39:36 | コメント(0) | トラックバック(0) | 読後感想文 | 日記
2019年06月04日 イイね!

上田信行同志社女子大教授のゼミによるワークショップ研究会in吉野

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吉野町で開かれた同志社女子大学上田信行教授ゼミ主催によるイベント。
中央の黒い服が上田信行教授。2019年5月4日。 ●写真はクリックすると拡大します。以下の写真も同じです。


「地方創生」という言葉だけがいま亡霊のように日本列島をさ迷っている。
 「ああせい」「こうせい」「そうせい」と言われても地方は相変わらず「少子高齢化」という現実に為す術もなく地盤沈下していく一方である。
 ひとつ言えるのは定住者だけに限定した「少子高齢化」という固定概念からは新たな発想は生まれにくいかもしれない。
 いま話題になっている「ふるさと納税」という仕組みが画期的だったのは「定住者」という既成概念を破壊したことである。結果として納税の流動化が起こり赤字だらけの過疎の村に全国から寄付金が集まるという現象が起きている。
 地方行政が「定住者」という固定概念をいかに超えることができるのか。
 それが地方創生の一つのポイントだろう。
 人口減少や過疎化を嘆いていても何もはじまらない。
 観光客、通過人口、労働者人口、季節・夜間・性別・スポーツ・外国人人口、さらに詳細な趣味や嗜好などの個別要素などなど非定住人口を地域活性化にいかに取り込んでいくか。ありきたりだがそういう「発想」が問われているのだろう。
 ひとつだけはっきり言えることは山間部や過疎地域に若い定住者を呼ぶにはその大前提として情報インフラを整備しないと無理ということだ。空気もきれい水もきれい自然も多くて空き家も多い・・・・。それに加えてインターネットはじめ最新の情報通信システムが安価に提供できないと仕事世代の若者を呼ぶことは難しい。
 
 最近考えることはいわゆる過疎地域において「地域の平均年齢」とは何か?ということ。
 地域定住者の平均年齢だけは高くでもたとえば観光客が住民数の何倍、何十倍、何百倍も来るような地域は非定住者の年齢を加味すればまたその地域の別の顔が見えてくるのではないだろうか。
 過疎の村の活性化を考えるとき定住者の増加だけでなく流動人口、通過人口、季節人口など「非定住者人口」を増やすのは重要な視点であろう。
 たとえば人口3000人の村へ年間で30000人の観光客が来れば大雑把に人数だけは35000人の村と言えないだろうか。
 奈良県で言えば高松塚古墳やキトラ古墳など貴重な文化財で知られる明日香村がある。明日香村の人口は約5000人だ。だが年間でざっと70万人の観光客が来ている。これに着目して星野リゾートも数年後をめどに高級ホテルを建設する。
 人口減少の続く「少子高齢化」の村であっても明日香村が周辺町村と合併しない理由もそこらあたりにあるだろう。
 
 直接これまで述べた過疎地活性化とは関係ないのだが私の住んでいる地区で異色のイベントがあった。それは同志社女子大学の上田信行教授が開催したイベントである。
 今月5月4日(土曜日)吉野町で開かれた上田信行教授の上田ゼミの学生が企画し実行する「ワークショップ(研究会)イベント」(正式名称は失念)に参加した。参加というよりちょっと覗いてみたというほうが正確である。
 その様子を少し紹介してみたい。
 上田信行教授は「ワークショップ」という言葉がまだ一般に知られていなかった1990年代からワーショップを実践的に研究してきた人で現在は「同志社女子大学」(現代こども学科)の教授をされている。

 このイベントは「もし興味あればどなたでもおいでください」とビラが貼られており地元住民にも公開されている。上田ゼミ主催での吉野町でのイベントは毎年開催されているのだが参加するのは初めてである。


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 会場は吉野川の辺りに建っている建物である。コンクリートの打ちっぱなしという斬新なデザイン家屋。室内は吹き抜け風で天井が高く二階、三階部分が空中のロフト風で上下の区切り感がない構造となっていた。
 集まっていたのは上田教授のゼミ生はじめ学生、教育者、社会人、など関西が多いが中には東京から参加した人もいた。 

 吉野町は現在の公称人口は7000人ほど。少子高齢化が進んでおり町を歩いても人に出会うことは少ない。いても老人がほとんど。いまでは限界集落からワンランク昇格して消滅集落と呼ばれている。そんななかで若者が60人くらい結集して活気ムンムンだった。この日の吉野町の一日平均年齢は上田ゼミのおかげで少しだけ押し下がったことは確かだ。
 上田ゼミへ足を踏み入れ大勢の若者を見て最初に感じたのはそんなことである。
 
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あらかじめ製作されたイラスト入の映像による情報提供もスムーズに行われていた。

 この日のワークショップはゲストにプロのゴスペラー歌手を迎えていた。
 音楽と教育研究とコラボしたワークショップの研究会のようだ。最初に上田教授が自ら一階から三階まで参加者の間をかいくぐりながら「ここでは写真を見せながら自己紹介をしています」など会場全体を案内してくれた。恐縮至極。とにかく参加者の若さと活気が伝わってくる。

 いったん外へ出て敷地内から吉野川を眺め一息入れる。
 地元の御婦人がたも数名が参加していた。そこではなぜか上田教授を囲んでいきなり「井戸端会議」を始めている。これもまた日本の伝統的なワークショップの一つ?なのかもしれない。 
 
 やがて室内に全員が集合して上田ゼミの女子学生を中心にイベントが開催された。
 ゼミ生から最初に今日の研究内容の紹介があった。
 「今日はさまざまなテーマや意見ががあるけど一言に集約して「本気」でやろうと言うことです。」今回のイベントはゼミ生が終始参加し企画から実行まで担当しているようだ。
 単純明快な言葉に賛同の拍手が飛んだ。
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ゼミ生による研究発表風景。「本気」というキーワードがクローズアップされた。


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二階や階段にも参加者がいる。

 
 ついで日本語も堪能なゲストスピーカーとして「スティーブン マーフィー重松氏」(心理学者・スタンフォード大学)の話があった。一部英語も混じえながら「Sawbona(サウボーナ)」の歌と其の意味についての解説があった。
 スティーブン マーフィー重松氏のプロフィールを紹介する。
 心理学博士。スタンフォード大学の「ハートフルネス」というマインドフルネスにもとづく変容的教育プログラムの開発者。東西の智慧と科学を統合したプログラムを日米の組織向けにも開発している。ハーバード大学より心理学博士号を取得し、東京大学での教授職を経て、現職に至る。著作に『スタンフォード大学マインドフルネス教室』(2016)、From Mindfulness to Heartfulness: Transforming Self and Society with Compassion (2018), そしてスタンフォード式リーダーシップについての近著(2019)がある。
 
 
 「Sawbona(サウボーナ)」というのは南アフリカ共和国のズールー語で挨拶として使われている言葉である。「ズールー語」(Zulu、isiZulu)はもともとは現在のタンザニアに住んでいた「ズールー族」の言葉である。南アフリカ共和国では約1000万人のズールー族によって話されているという。
 南アフリカで挨拶のときに必ず使われる「サウボーナ」」(ズールー語)は「こんにちは」という挨拶語。この前の南アワールドカップでも「サウボーナ」」という挨拶が話題になった。
 
その意味を直訳すれば英語の「I see you」となる。
「サウ」は「わたしたち」そして「ボウナ」は「見ている」。
つまり「私たちは見ているよ」となる。
これが昔から連綿として使われているズールー民族の挨拶だという。

 これについて「スティーブン マーフィー重松氏」はこんな説明を付け加えてくれた。
 
 「I」も「you」も個人ではありません。
 「いつも自分の後ろには先祖がいて民族がいて・・・そういう背景の広がりをもつ」私という感覚です。
 「See」は「相手を尊敬」するという意味も持っています。
 
 それでは皆で「Sawbona(サウボーナ)」の挨拶をしましょう。
 ということで誰でもいいので向かい合って胸の前で両手を合わせて合掌し相手の目を少しだけでもいいので見つめあって「Sawbona(サウボーナ)」と言いましょう。
「Sawbona(サウボーナ)」というのは 「I see you」という意味です。
 言われたほうは「ンコーナ」(ここにいます)と答えましょう。
 「I am here」という意味です。
 
 「I see you」 
 「I am here」
 「サウボーナ」(見えています)「ンコーナ」(ここにいます)
   
 これは実際に南アフリカでは日常の挨拶の光景だという。では実践してみましょうと司会が促した。
 会場のあちこちでこの挨拶が行われた。
 私もそばにいた女子大生と挨拶をした。若い現役の女子学生と次々に間近に目を見合って 「I see you」 「I am here」などと言うのはなんとも気恥ずかしい。おそらく今後もこんなことは二度とはないだろう体験だった。
 そうこうしているうちにだんだん誰もが和気藹々となってきて「サウボーナ」の挨拶めぐりも盛りあがってきた。
 手を合わせ合掌しながらお互いに目をみつめて挨拶する。
 これは日本人には馴染み深いアジア系とくに仏教式の挨拶に感じられる。

 挨拶だけでなく次には歌が入った。
 「Sawbona(サウボーナ)」
 「I see you」
 あなたをみつめている・・・・・・・。
 
 独特の瞑想的な音楽にのって挨拶を繰り返しつつ「Sawbona(サウボーナ)」の歌を全員が大合唱した。
 参加者がだんだん気分的にも客席の後ろのほうから前へ出てきていつの間にか誰も彼も目に見えないステージの上に上がっていく感じがする。
 これが上田信行教授の提案している即興的かつ体感的ワークショップの一つなのかもしれない。
 
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平安時代の念仏僧。空也上人像。

 それにしてもこの 「Sawbona(サウボーナ)」という挨拶は非常に哲学的ではないか。
 
 「I see you」 「I am here」
 「あなたが見えています」「私はここにいます」
 
 お互いの相手の中に何を見ているのか。
 この会話はまるで禅問答のようにも思える。
 私の解釈ではそれは「相手の存在価値」ではないだろうかと感じた。
 相手が「あなたが見えているよ」というのは相手の存在価値をありのままに丸ごと認めての存在承認だろう。
 そう言われた自分は相手がありのままの自分をすべて受け入れてくれたことを自覚する。
 まさに無限抱擁と言ってもいい。そこには孤絶も孤独もない。
 これを相互に言いあうのである。
 
 まるで巷で神と仏が出会ったときにこんな会話を交わすのではなかろうか。深い意味がここにはある。人間のなかに神また仏という至高の存在を見出して相手への深い尊敬の念を表す。それがこの挨拶なのではないだろうか。
 そう、この挨拶を交わすとき人は相互に神と仏になるのだ。
 崇高にしてかけがえのない存在になることができるのだ。

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 「I see you」 と花に言えば 「I am here」と答えてくれるかも。
 見るもよし 見ざるもよし されど 我は咲くなり

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「I see you」  「I am here」 音楽の世界もこういうメッセージのやりとりなんだろうな


 これが仏教と縁のないアフリカ南部のズールー人の挨拶であることに驚く。広大無辺の荒野とか砂漠というものは人をおのずと哲学者に変えていくものなのだろうか。
 体験してみてわかったのだが日本人ならばすんなりとこの言葉は理解できるだろう。
 相手が誰かは知らないけれども自分も相手もその背後には先祖がいる。その先祖をずっと遡っていけば民族や国境を越えて人類の発祥にまでたどりつく。
 さらに其の先は地球の誕生であり宇宙の始まりであり・・・・。もはやそこまで行けば目の前の相手は「命」でありその源の宇宙そのものである。
 
 我即宇宙 宇宙即我 
 
 今日初めて会った相手さえも同じ生命体から分かれたもう一つの自分そのものである。
 永遠の彼方から近づいて出会い挨拶を交わしてまた永遠に去っていく。
 
  この「私」はあらゆる関係性から断絶された「私が」の「我」ではない。
  「I see you」
  「I am here」
  この挨拶は存在しないものを「ある」と錯覚している自我からの発信ではない。
  相互の関係性を確認する言葉のやりとりではないだろうか。
   
  サウボーナの言葉と歌により宇宙的存在としての我を瞑想的に感じる体験をすることができたようだ。

  
                                              
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ゴスペラーの歌手(向かって右)を紹介する上田信行教授。



  
  「Sawbona(サウボーナ)」に続いてゴスペラー歌手の登場である。
  この次に歌うのは「翼をください」という歌である。歌ったことはないが聞いたことはなんとなくある。でも会場の若い人々はよく知っている歌のようだ。プロの唱導のもとで全員が歌う「翼をください」。
  だんだん会場はロックコンサー会場のように。ロックフェスに参加したことはないけどそんな感じ。地元の主婦も私のようなおっさんも仲間いりしてこの日一番の大盛り上がりの一時となった。

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「一遍聖絵」。一遍の布教に人々が押し寄せえいる。

 いま 私の願いごとが
  かなうならば翼がほしい
  
  この背中に 鳥のように
  白い翼 つけてください
  
   ・・・・・・・
   
  この大空に翼を広げ
  飛んでいきたいよ
  
  悲しみのない 自由な空へ
  翼はためかせ 行きたい    
 
 会場は歌とあわせて躍動する人たちの熱気で一つの渦巻きになっていった。
 「人をプレイフルにする空間」をワークショップの体験で提案されている上田教授の気持ちが伝わってくるようなイベントだった。
 上田教授はコンサートの前に「憧れの人とかプロフェショナルといっしょに同じ作業をすることで自分もそういうレベルになれたかもという疑似体験をすることができる」と話していた。
 この日は参加していたゴスペラーのプロ歌手の人たちと一緒に「翼をください」を全員が熱唱した。こういう体験は参加者にとってはじめての経験だったことだろう。
 疑似成功体験を持つことでワンステップの向上心につながる。
 これも上田メソッドのワークショップの方法論なのかもしれない。わかったようなことを書いていますがこのあたりは私の生半可な理解でありたぶん正確ではないかと思われます。そのくらいに読み流していただければ幸いです。
 
上田ゼミの研究会場は誰もが一体になって歌い踊るロック会場のようになった。
その中で私の脳内には不意にと「一遍は中世の極楽ロックの大スターだった」というフレーズが浮かんだ。
 日本にも中世には日本式「ロックフェスティバル」というものは存在していた。
 念仏信者による欣求浄土を願って唱名しながら踊りまくる。
 それが「踊り念仏」である。
 
 「踊り念仏」といえば一遍が創始したと言われている。
 鎌倉時代末期に登場した念仏聖が一遍である。一遍はその生涯を遊行しての念仏の布教に費し阿弥陀仏による浄土往生を説いた。一遍が布教の中で生み出したのが「踊り念仏」である。
 その生涯を描いた絵巻物である「一遍聖絵」には一遍の行く先々で南無阿彌陀佛の名号を唱えながら集団で踊りはじめ乱舞し熱狂する人々の姿が克明に描かれている。
 
  それよりも早く平安時代の空也が「踊り念仏」をしたのではないかとも言われている。
  空也も一遍も共通するのは寺院に籠もった高僧ではない。遊行して念仏を広めた生涯を布教の旅で過ごし路傍の民草を教化し続けた「巷の聖者」「捨聖」である。寺も持たず家も持たず家族も持たず・・・・すべてを捨てて一身を信じるところの阿弥陀仏への信仰に捧げながら路傍に生きる人々のために自身の宗教的情熱を費し路傍に死んでいった。それが聖というものの生き方である。そこには仏教というものの理解を「捨ててこそ」という生涯の実践で示した信仰者の姿がある。
  日本において浄土思想を集大成しこの世とあの世を区分し地獄と極楽の違いを如実に示したのは「往生要集」を著した平安時代中期天台僧・「源信」(恵心僧都)である。
  源信よりも少し早く空也上人は独自に念仏の功徳を唱えた。
  空也は遊行聖の一人であり「念仏聖」「阿弥陀聖」また主に京都で布教したため「市聖」などと呼ばれていた。
  私が思うには空也は「踊り念仏」の開祖ではないだろか。
  「踊り念仏」で知られる「時宗」開祖の一遍に空也が影響を与えたのは確かだろう。空也上人の像が残されているが口から六体の仏像(阿弥陀仏)を吐き出している独特の姿をしている。これは南無阿弥陀仏の六字名号を意味する阿弥陀仏だと言われている。
  
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川の上につくられたステージで「踊り念仏」が行われている。


  私は空也上人の像を見たが胸の前に小型の鉦を吊るしており手には鉦を叩く専用の棒を持っている。通俗なことを言えばこの姿はちんどん屋に似ている。おそらく空也は鉦を叩きながら「南無阿弥陀仏・・・・なんまんだぶつ・・・・」と唱えつつ踊ったものだろうと想像する。法然や親鸞は立派な袈裟をつけた衣装を身にまとっている。求道者としての世界は重なるものがあろうが空也や一遍のような「聖」(ひじり)の生き方とは残された肖像の外見から見てもやや違う。
  集まった衆生もその空也の姿に念仏を唱和しつつ踊りの輪が広がったものだろう。 
  平安時代の空也に始まった「念仏聖」の系譜は大雑把に言えば高野山の念仏聖すなわ高野聖に受け継がれた。そして鎌倉時代に一遍という念仏聖の一大スターを生み出す。「踊り念仏」で一世を風靡した一遍は平安時代に始まり日本の中世に沸き起り巷を席巻した浄土信仰の一つの集約的な到達点である。
 「一遍聖絵」(いっぺんひじりえ)を仔細に見ていくと大勢の人々が一遍の行く先々に集まって「踊り念仏」に参加しあるいは見入っている。
 
  現代のコンサートやロックフェスティバルの熱狂は多くの参加者を巻き込んで会場をどよめかしている。
  たぶん一遍という念仏聖の大スターを迎えた信者たちもこんな風に熱狂して踊ったのだろう。
  一遍は高野山にも入り念仏聖として活動している。高野山は平安時代に空海が真言密教の修学道場として開山した。その後高野山は弥勒浄土であるという高野山の浄土信仰として広まるのだがそれだけではなかった。高野山の谷別所などに念仏僧が隠遁しはじめる。
平安時代中期になると阿弥陀信仰が高野山に広まりやがて高野山阿弥陀信仰の一大拠点となっていく。念仏を布教する高野聖によって高野山は極楽浄土を願う人々の阿弥陀信仰の浄土となる。いわば現世における阿弥陀浄土が高野山であるという高野聖の勧進を伴った布教によって高野浄土の人気が全国的に沸騰し納骨埋葬が相次ぎやがて奥の院は卒塔婆の林立する日本の総菩提所になっていく。高野山はいまは真言宗一色だが中世には念仏のメッカであった。
  一遍の影響もあり高野山には「時宗」念仏が大流行して真言密教は金剛峯寺や根本大塔を中心とする真言の学侶によって修学される一方で奥の院を中心とする菩提所は阿弥陀信仰に席巻されていく。
  一遍が去った後でも高野山では盛んに「踊り念仏」が行われている。
  高野山はまさに「極楽ロック」「念仏ロック」の聖地となっていくのだ。
 
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「踊り念仏」の拡大図。表情から体の動きまで仔細に描かれている。
 
  一遍は身分は最下層の私度僧でありいわば乞食坊主の「聖」であるがその影響力は半端ない。
  源信、法然、親鸞などの念仏思想の進化を踏まえ念仏思想の究極に到達している。それは南無阿弥陀仏という六字名号には絶大な力があって南無阿弥陀仏を一遍(一度、一回)唱えるだけで悟りが証される」という教義を説いた。「一遍」名前もそこに由来するのだろう。

  さらに「信不信を問わず」すなわち阿弥陀仏を信じていなくても関係なく南無阿弥陀仏と唱名するものは極楽浄土へ行くことができると説いた。仏の本願力は絶対であるがゆえに信じるものはもとより信じない者にまで及ぶと一遍は説いた。 この大確信をもとに一遍は「踊り念仏」と「賦算(ふさん)=南無阿弥陀仏の御札を配る行為)とであまねく衆生を極楽浄土へと導いた。阿弥陀仏への帰依の確信は法然も親鸞も超越しているのではないだろうか。
 
  一遍は信者の「時衆」を率いて遊行(ゆぎょう)を続けた。一遍聖絵を見れば一遍の訪れる先の路傍には誰からも相手にされない賤民(穢多・非人)さらに顔に包帯を巻いた癩病患者、両手に下駄を履くいざりなどの病者などもひしめき合うように集まっている。みな一遍に救いを求めて集まっているのである。
  「踊り念仏」は絶対他力を信じる人々からの阿弥陀仏への感謝の心の発露である。
  いささか一遍と踊り念仏の講釈が長くなった。
  「翼をください」の大合唱の輪のなかで私の脳内は中世へワープして一遍の「極楽浄土・念仏ロック」の世界をさ迷っていた。
  
  この大空に翼を広げ
  飛んでいきたいよ
  
  悲しみのない 自由な空へ
  翼はためかせ 行きたい 
  
  大音響と歌声と若者たちのウエイブ。ときに手を突き上げて飛び跳ねる。
  ゴスペラーズのプロの唱導により皆の歌声がうねりとなり会場は一体化していった。
  
  もしこの場に一遍がいたならば・・・・・。
  私の脳内の妄想の世界での一遍の言葉を再生すればこんなふうになるだろう。
  
  翼がほしい 白い翼つけてください・・・・・
  カモンベイビー ナムアミダブツ  いつでもどこでもなんでも ナムアミダブツ
  
  その願い 一遍 叶えてしんぜよう
  ラッパー 一遍 教えてあげる 
  
  (注・悪乗りはやめよう。・・・・私のココロの声)
  
  阿弥陀仏様はすでにその願いを聞き届けておられる
  飛んでいきなされ どこまでも もうすでにあなたたちの背中には 極楽浄土へ羽ばたいて行ける
  南無阿弥陀仏の 翼がついているのだから 
  
  阿弥陀仏のあらゆる衆生を救うという本願を信じなさい 
  その歓喜の気持を込めて さあいっしょに  
  南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 いっしょに歌いなされ 踊りなされ
  
  一遍の叩く鉦の音が「翼をください」の大合唱に重なっていく。
    
  ミニロックフェス状態の輪の中でそんな妄想に突き動かされていた。
  若者たちの「翼をください」の熱唱はうなりながらなお続いていた。
                          おわり 


●「Party of the Future 2019に参加して」
URLのリンク。↓ 

このイベントに参加された松下 慶太氏(実践女子大学人間社会学部・准教授。)によって当日の様子がレポートされていたのでリンクさせていただいた。あわせてご覧いただければ当日の雰囲気がよりおわかりいただけるかと思います。
Posted at 2019/06/04 20:44:13 | コメント(0) | トラックバック(0) | 身辺雑記 | 日記
2019年05月17日 イイね!

外国人観光客であふれかえる京都。

昨年の12月半ばに久しぶりに京都を歩いてきました。
特にテーマもなくそのときに京都で撮影したとりとめのない写真を載せてみます。この日は二条城、八坂神社、清水寺、清水三年坂美術館、霊山歴史館などを見物しました。

最近はスマホで写真を撮影することがほとんどです。スマホのカメラは非常に性能がいいので専用のカメラを普段は持ち歩きません。
しかもスマホは手軽に撮影できるのでいつのまにか膨大な画像が貯まってしまいます。
そこでときどきパソコンに画像を移動させてスマホ画像を消去しています。

昨年も暮になって撮りためた画像をパソコンに取り込んでおりました。その途中何かのことで机の前を離れしばらくして戻ってくるとすでにスマホからパソコンへの大量の画像の移動が終了しておりました。
ああもう終わったんだなと思ったのが失敗のもとでした。

何の気もなく移転したと思い込みスマホ画像を全部消去しました。
その瞬間?????不安がよぎりました。もしかしてパソコンへほんとうに全部の画像が移動したのか?スマホ画像を消去する前にそこを一度確認すべきではなかったのか?この不安が残念なことに的中しました。
あわててスマホから画像を移動していたパソコンの画像ホルダーを点検すると・・・・。ごく一部が移動された時点でなぜか途切れて終了していました。
なぜかはわからないのですがおそらく全体の20%から30%くらいも移動しない時点で移動が停止していました。
よくこいう場合には劇画などでは「ガーン!」といった絵がありますけどそんな感じでしたね。(笑)

パソコンを使っておられる人ならおそらく誰もが経験されていると思いますが苦労して書いてきたテキスト原稿などが何かの拍子に一瞬で全部消えてしまった事があると思います。そのときの徒労感は筆舌に尽くしがたいものがあります。
ただ原稿なら記憶や下書きをもとに時間をけてでも再現できる可能性があります。だが消去した画像は二度と取り直しが効きません。

どうしようかなあ・・・・。しばらく呆然としていました。
ややあって「もしかしたら消去画像を再現できるアプリがあるんじゃないのか?」と思いつきました。
するとあるじゃありませんか。で時間かけて再現を試みたのですがそれでも全部は再現できませんでした。大雑把に再現できたのは全体の30%くらいだったような気がします。もっと少なかった気がします。

ほんとうはこんな話を書くつもりはなかったのですけど。(笑)
だんだん悔しさが募ってきて前置きがだんだん長くなってしましました。その結果これが本文みたいに長編になりました。

そこで京都見物の再現画像をいくつか紹介します。
清水寺ですがもう外国人でごった返し満員電車状態になった清水坂の様子を見てほしかったのですが一枚も再現できておりません。
前を歩く着物姿のお嬢さん・・・本来はチャイナドレスの似合うはずの中国人。
歩きながら着物姿の中国人女性がスマホを撮影していました。
みると自分の着物姿を自撮りしながら歩いているんですね。もう夢中で。
よほど着物姿の自分が気にいったようです。ときどき腰を捻って体の後ろも撮影しています。これは帯を映しているんですね。着物は前も後も「好看!」(ビューティフル)なんですね。

夥しい着物姿はみな中国人でした。また優雅な着物姿の中年女性も金髪の西洋人であったり渋い着物姿の男性がいかにもアジア人であったり。
和装外国人コンテストin清水坂!!!ってな状態でございました。

その画像がここに一枚もないのは一瞬にして消去してしまった「さふいふ」事情なのでございます。
この京都の外人観光客の多さは関西の方なら「ああああ、よくわかる」と言っていただけると思いますがほんとに京都も奈良も大阪もそんな感じの昨今です。
ここらで際限ないので画像の部へ移りましょう。


着物姿で記念撮影している中国人団体客。


着付けは専門家がしているので外国人が着ても美しく着飾っています。


清水寺ではおみくじが各種取り揃っています。











八坂神社。



日本の修学旅行の生徒も。ここも圧倒的に外国人なかでも中国人が多い。


下のリンクは「清水三年坂美術館」です。三年坂は清水坂とつながっている枝坂の一つで清水寺のあとに坂を下って立ち寄りました。精巧な日本の明治時代の金属加工工芸品などが展示されておりました。超絶技巧とよく言われますが驚くべき出来栄えです。こういう美術館に入っているのは日本人だけでした。おかげでゆっくりと見物できました。

Posted at 2019/05/17 15:16:13 | コメント(2) | トラックバック(0) | 京都見物 | 日記
2019年03月27日 イイね!

新元号は何になるのか。

「平成」が終わりまもなく新しい御世となる。
振り返ると大災害が頻発した日本史上でも稀なたいへんな時代だった。次代はなんとか平穏な世の中になってほしいと願う人がほとんどだろう。
先日奈良県と京都府との境にある「イオン」・高の原店に行った。この店は店内を歩いていると奈良と京都との境目があってこっちは奈良、こっちは京都というなかなか珍しい店だ。
そのため南都銀行があると思えば少し行くと京都銀行がある。
イオンモールのある場所は京都府の住所で言えば木津川市である。奈良側は奈良市右京だ。
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エスカレータを上がった二階のメインストリートの中頃に奈良県と京都府の境界線がある。

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奈良側は鹿の絵が京都府側には抹茶と団子の絵がある。真ん中の茶色の線が県境である。

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反対から見ると奈良は柿、京都は橋の欄干の擬宝珠が描かれている。この建物は駐車場を含め全階で境界線が明示されている。ちなみにゴミの分別処理なども奈良と京都はそれぞれの行政基準によって行われているということだ。

ところでこの木津川市は昔からの地名として「南山城」と呼ばれている。
これは「なんさんじょう」でもないし「なんざんじょう」でもない。何か城の名前かと勘違いするかもしれないが城ではなく「みなみ やましろ」と読む。
一般に「京都府」の中で京都市から南半分くらいの律令国家の一つを「山城国」と呼ぶ。
「山城国」の南部なので木津川のことは「南山城」と呼ぶのだろう。京都市以南を山城国とすれば木津川は南部にある。
京都府の南半分は律令国家の時代には「山城国」と言われた。

「やましろ」は、古くは「山代」と記され、7世紀に「山背国」という表記で国が建てられた。この名称は、平城京から見て「奈良山のうしろ」にあたる地域であることから来ていると云われている。( 山口恵一郎 『日本地名辞典 市町村編』 東京堂出版

 つまり京都は都である奈良の平城京から見れば北の方角に山となっている奈良山の向こうにある土地であるから「山の背の国」つまり「やましろ」国だという意味である。実際に近鉄線の大和西大寺駅から京都方向に行くといきなり山となり行けども行けども山の間を通り高の原駅に着いてもまだ前方にはまだまだ高原が広がっている。これが奈良山(平城山)である。

山城国は平城京に近く古くから文化が開け高麗、秦氏など渡来系の人が住んだ。平城京にもっとも近い木津川には高麗寺跡もある。大雑把に言えば京都は平城京に近い木津川から北の現在の京都市へ向かって徐々に開けていったのではないだろうか。木津川には平安時代の本堂と三重塔のある浄瑠璃寺がある。国宝の9体の阿弥陀如来像が昔のままの暗い本堂の中で静かに黄金色に輝いている。木津川には聖武天皇が一時期恭仁京を置いて都としたこともあり南山城という地域はいわば平城京の奥座敷あるいは隠れ里のようなイメージがある。

前置きがとても長くなったのだがともかくこのイオンモール高の原店に行った時下の画像のように新元号の予測がイベントとして掲示されていた。どんな新元号が予測されていたのか画像をごらんいただきたい。

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「安」の字が多いようだ。

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やはり「安」が人気だが「岡比」というのはどう読むのだろうか?「安世」はまさに国民の願いだろう。
そういう世の中であってほしい。
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「加善」というのは国民に善行を促すようなイメージで共感する。いかなる元号になろうとも日本は加善の国であり加善の国民でありたいものだ。

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「安寧」はありそうでなさそうな感じ。「和心」もいいですね。「和」も人気だけど「昭和」があるのでどうか。意表をついて「平木」・・・?

このなかに新元号があるかないか。楽しみに4月1日の発表の日を待ちたい。
Posted at 2019/03/27 14:41:30 | コメント(3) | トラックバック(0) | 民情雑話 | その他

プロフィール

「外国人の「外国免許切替(外免切替)」制度をめぐり短期滞在者がホテルの住所で日本の免許を取得することについて、ホテル滞在による「支障は把握していない」とする初の答弁書を閣議決定した。それで良いということだ。
日本保守党の竹上裕子衆院議員の質問主意書に25日付で答えた。無責任だろ。」
何シテル?   05/18 14:14
 趣味は囲碁、将棋、麻雀、釣り、旅行、俳句、木工、漆絵、尺八など。 奈良、京都、大阪、和歌山の神社仏閣の参拝。多すぎて回りきれません。  奈良では東大寺の大...
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