
「苦労しただろう…」
「おめーも…いいヤクザ(真の極道)に なったな!」
毎度で御座いまするぞなもし😊
いよいよ 意味深なエピソードになるんですが その話をする前に…
まだ 若く喧嘩気質が消え去っていない頃=「石塚組」在籍時 抗争をやめられず←伏線です😊
ブイブイいわしていた頃の石井隆匡氏の
生涯でも宮本広志氏に負けないくらいの兄弟分を得るまでの一面を もう少し…
戦後 在日中国人で 徒党を組んでボスとして 東京向島で幅をきかせていて 横浜愚連隊四天王と衝突した際 一歩も引かず挑んで行った人物がいたんですが…名は
「趙春樹(ショウ シュンジュ)」
あの 狂犬以上の猛者(モサ)=街で荒れ狂う狼(スカーフェイス)という表現が相応しい「モロッコの辰」とも互角に渡り合い
何度か争い合ったのちに意気投合し合う仲になっていって その後は日本国粋会に入っている人物…
日本での経歴としては少ししか分かってませんが…(ネットや書籍にはこの趙春樹氏の記録が殆どない
“趙は 中国の河北省 天津市の生まれ(昭和3年)で 戦時中(14歳の時)に 少年兵として 中国の軍隊に入っている”
”昭和19年8月 日本軍の捕虜となり 山形県酒田市に連行され強制労働をさせられた(収容所には約600人の中国人がいた)”
“終戦後(昭和20年8月15日) 解放され その後 中国の迎えを五人ほどで待つが“
追悼の意を込めて:当時 原爆で亡くなっていった広島と長崎の方々と その後 被爆し生きながらも苦しんでいた方々へ…只々 「無念」と…
”とある事件に巻き込まれ (中国の)引き上げ船に乗り遅れ 帰国を断念し 東京向島で中国人グループを率いる愚連隊の頭領となっていった“
”そして のちに箱屋一家の四代目を継承していた”
“昭和23年 御殿場の賭博小屋で揉め事が起こり モロッコの辰こと出口辰夫氏が趙春樹氏を連れてその賭博小屋に行った”
“賭博小屋には稲川角二氏と(のちに 手柄を立て 長期の服役をすることになる稲川氏の若い衆)長谷川春治(のちの碑文谷一家九代目) と 森田祥生(のちの森田一家初代)がいて
出口辰夫氏は稲川角二氏に趙春樹氏を紹介している”
のだが
中国人と知った 稲川氏は 趙春樹氏に対し 労う思いで
「苦労しただろう…」
と 一言…
この言葉が のちの趙春樹氏の人生を決定づけることになるんですが
これがまた なんの縁なのか「仏のみぞ知る次元」←今後の伏線です😊
なのですが その後「意味のある縁」の如く
石井隆匡氏との出会いがあるんですよね
これが 昭和30年頃に起きた 俗に言う「趙春樹の抗争事件」なのですが
その際に石塚義八郎氏のNo.2であった石井隆匡氏が真っ先に加勢し 石井隆匡氏と趙春樹氏の絆が生まれた…
これは 記録にはないので憶測になるのですが 石井氏的には組織が違っていても 石塚組から稲川氏の組織に移行するまで…水面下では
石井隆匡氏と趙春樹氏には それこそ「肝胆相照らす間柄になっていく」繋がりが続いていたと推測される
そんなやりとりがあるので…
注記:以下は 趙春樹氏が円満に日本国粋会を脱会し その後 真っ先に石井隆匡氏に会いに行ってのシーンです(が…石井隆匡氏役の奥田瑛二氏のヘッタクソなセリフを少し(本来の石井隆匡氏なら こういう風に会話をしてただろうなって感じで)編集しての流れです
石井氏を訪れた趙氏がいう「兄弟に 真っ先に報告しないといけないと思ってな!」
石井氏が驚いて聞く「兄弟…急に来てどうしたんだよ?」
趙氏が言う「脱会してきたよ!会長と話しがついたんだ!」
石井氏が驚いて言う「え?…それじゃあ…正式にかい?」
趙氏が返事する「何も言わなくても…会長は…分かってくれたよ」
石井氏が喜んで言う「(頷き感嘆の表情で)流石…独眼竜のマサと云われてるお方だよな!」
趙氏が言う「兄弟…ありがとう…こうやって踏ん切りをつけることが出来たのも…兄弟のお陰だよ!」
石井氏が返事する「何を言ってるんだよ😊 礼を言わなきゃいけねーのは こっちの方だよ…」
石井氏が続けて言う「じゃあ 早速 オヤジに報告しなきゃいけねーな…」
趙氏が制するように言う「いや…直ぐにっていうわけにはいかねーよ 兄弟… 兄弟の気持ちに
応えられる日は 近いうち必ず来ると思う…」
「…だから こうやって ケジメをつけてきたんだ!」
石井氏が返す「…その通りだ…兄弟の言う通りだ…すまなかったな…でも 嬉しいよ!」
趙氏が言う「兄弟…(頭を垂れて)ありがとう!」
石井氏が涙ぐんで言う「それにしても 兄弟とはもう 20年になるよな… 俺が石塚親分のところで若い衆としてやってた頃からだもんな…」
趙氏が言う「ああ…石塚の親分と箱屋の(中略)横須賀と向島を行ったり来たりしたなあ…」
石井氏が思い出して笑いながら言う「あの頃の兄弟は血の気が多かったからな…いつだったか(中略)銃をぶっ放したことがあったよな!」
趙氏が苦笑いしながら言う「ああ…あったあった…」
少し間をおいて(我にかえって)石井氏が言う「 色々あったけど…漸く オレたちは 真の兄弟になれるんだよな…」
「オレたちが 兄弟と呼び合うようになったのは…」
「あの…競輪場での(中略)…」
思い出して趙氏が言う「ああ…あの時は 兄弟が いの一番に加勢してくれた…懐かしいな!」
「兄弟…オレは兄弟と会えて…果報者だと感謝してるんだ…」
石井氏が言う「オレだって 同じだよ!」
趙氏が言う「少々 遠回りしたが……これで やっと兄弟と同じ ファミリーになれるんだな!」
涙ぐんで石井氏が返事する「ああ!……兄弟…ありがとよ!」
こうして 趙春樹氏は のちに 稲川氏の側近クラスとして 石井氏とタッグを組んで 生涯を「稲川会」で全うしようと決意する←この時点では 帰国せず日本(の稲川会)に骨を埋める決意をしてるんだよな…でも 最後は 故郷に帰ってしまうんだよな😢
稲川会に入ってからも のちに オヤジ(稲川聖城氏)に見込まれ オヤジは二代目にと真っ先に選ぶのが彼(趙春樹氏)だったのである
そして 趙春樹氏は 当時 石井隆匡氏が(二度目の)服役(約5年)の際 稲川会の(代わりの)理事長を務め上げ
その後も 石井氏が稲川会第二代目会長に就任後も 会長代行として石井氏を支え続け
最終的には
稲川会最高顧問として 役目を果たし 総裁の許可を得て脱会し帰国している…とか…
Part Ⅷに続きます
いつも長々と お付き合い頂き感謝ですm(_ _)m
どうもありがとうございます😊
あとがき:タイトルのPhotoは 石井隆匡氏の青年の頃のものです(書籍の中の写真をお借りしました🙇♂️