
今夏一番の、小さいけれど大きな決断。
生まれて初めて手にした
出光の給油カード。
8月末の郵送申込みでやっと昨日、自宅に届きました。
徳山市が新興の工業都市として存在感を放っていた昭和の高度経済成長期。その臨海部に作られた石油化学コンビナート群の中核企業のひとつが出光興産でした。
出光の徳山製油所が操業したのは1957年。
幼少の頃、石油化学工場の爆発事故で徳山の夜空がオレンジ色に染まった光景は今でもハッキリ覚えているし、私が関東に住んでいた就職活動期には、千葉の工場に施設見学に行ったことも。そうそう、栄光のマツダ787Bのボディカウルには"IDEMITSU"のロゴ(オイル)が誇らしげに貼ってありますよね。
このように、昔から出光とは決して無縁でないばかりか、むしろ近い存在であったはずの私ですが、少なくとも約30年間のカーライフの中では、特段の意識を向けることなく過ごしてきたのです。
いつしか平成の大合併で周南市へと名前が変わり、時代の流れとともに街が徐々に寂れていく中、老朽化していた徳山製油所が合理化の一環で原油精製を終了したのが2014年。他の国内拠点から調達するなどの方法で、出光が周辺の化学系企業への石油製品や原料の供給継続を表明した時も
「ま、当面はそうせざるを得ないだろうけど、一体いつまで続けるのか・・・」
と、私は極めて冷徹に眺めていました。
そんな私がここへきて突然、出光佐三氏の書籍を読み漁り、急速に出光への親近感を強めるきっかけとなったのは・・・
例の『海賊と呼ばれた男』の本や映画
ではなくて、今夏に偶々、地元のケーブルTV局が制作したある歴史番組を視聴したことでした。
昭和時代の徳山市の歩みを振り返るその番組で、臨海部の埋立地に進出した"出光さん"が、善き企業市民として、環境面や文化面も含めて街の発展のために多大な貢献をしたことを、元市長の方が力強く証言されていたのです。
そもそもは、かつて徳山にあった海軍燃料廠の巨大地下タンクの面倒な廃油処理を出光が請け負ったのが縁の始まりだったとか。
この瞬間、私は徳山への強い愛着を自負していた自らの不明を心から恥じました。
先述した原油精製撤退後に行った周辺の化学企業への対応も「やむを得ずの措置」というよりも「出光だからこその措置」と思える気がしてきたのです。
もちろん、個性際立つ佐三店主の独自の経営哲学も、今や時代とともに変化を余儀なくされつつあることや、私一人の消費活動ごときが何ら大勢に影響を与えない(笑)ことは、十分理解しています。昨今の創業家と経営陣とのゴタゴタも知らないわけではありません。
でも、これまで徳山の出身者としてこの企業に十分な感謝の思いを向けてこなかった非礼へのせめてもの罪滅ぼしとして、今からでも応援をし始めよう、そう秘かに決意したのです。
とはいえ、馴染みの⚫ネオスGSとの関係もすぐには解消したくないので、当面は私のメインカーたちだけ移行させますけどね^^;。
Posted at 2019/09/20 08:30:23 | |
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隠れ家のある街