
今回は掲題の通り、呟きというか独り言というか^^;。
(ハイ、実は買い物待ちの暇潰しです 笑)
私は日々、街中で様々なクルマと出会い、その走る姿や佇む姿を眺めていると、いつの間にか、1台1台のクルマのそれぞれの境遇に思いを巡らしていることがあります。それは普段の使用のされ方だったり、保管やメンテのされ方だったり、果てはオーナーや家族との関係性だったり。
結果、微笑ましく思えてくるケースもあれば、逆に可哀想に思えてくるケースもあります^^;。
ま、基本的に他人の所有車なので、余計なお世話以外の何物でもないのですが、ついそんなところまで考えが及んでしまうのは、きっと
私が大のクルマ好きであるからだと思っています。そう、ついついクルマ側の立場になって感情移入してしまうのですね^^;。
そこで
私がクルマ好きになった経緯を振り返ってみると・・・
たぶん、幼い頃に動くものに興味を持つところから始まって、親から買い与えられたミニカーやプラモデルを通じてクルマに親近感を抱くようになり、やがて自家用車を乗りこなす父の姿に憧れて・・・と、ごく普通に想像できる、ありふれたパターンです。ただ、そんな絶妙なタイミングで、かのスーパーカーブームが到来したのは、やはり運命的だったのかもしれません。ここで妙な化学反応が起き、少年の眼差しが先鋭化してしまったのですから(笑)。
こうして小学生時代、洋の東西を問わずクルマの名前には滅法詳しくなるのですが、そこから先、私は国産の旧車へと傾倒していき、最新のクルマや自動車技術は積極的な興味の対象とはなりませんでした。レースさえも全く蚊帳の外で。
ただその代わり、クルマのある生活や暮らしに対する漠然とした強い憧れが着実に形成されていき、自動車全般への関心を繋ぎ止める原動力となっていたような気がします。
時は流れ、私が運転免許を取得できる年齢となり、クルマと接する場所が助手席から運転席に替わったことで、またひとつ大きな節目を迎えます。
ここではまず、自らの意志や操作によって高度で複雑な機械を御すという底知れぬ楽しみや喜びを味わったことが、果てしなく大きな転機だったといえます。
さらにその上で、時に自らの趣味や嗜好を表現するキャンバスにもなり、時に行動半径を無限に広げてくれる便利な手足にもなり、また時に、誰にも邪魔されず物思いに耽ったり気分を晴らしたりする私的な空間にもなるという変幻自在さに完全に魅了されたのです。
こうして、子供の頃からずっと興味を抱いてきた自動車が、様々な魅力をプラスした掛け替えのない存在へと一気に昇華したわけですね(^^)。
あ、そうそう。
私にとってのジドウシャは「自ら(自在に)動かす」クルマであって、今後も含めて「自ら(勝手に)動く」クルマでないことは、声を大にして主張したいところ(笑)。
そして現在です。
訳あって偶々私はマツダという自動車メーカーに惚れ込んだために、自ずと周りをマツダ車で固める状況が生まれ、結果として、マツダバッチが付く愛車たちに日頃から愛情を注いでいるわけですが、クルマに対する愛着や情熱そのものは、これまで話してきた通り、別にマツダ車に限定して沸き出す類のものではありません。
仮に(いや、万一か?)家族や親が他メーカー車を所有していても、きっと私は分け隔てなく愛情を注ぎ、現在と変わらず日々こまめなメンテを施していたことでしょう。
つまり、クルマと一緒に過ごす充実した時間を自分や家族が心から楽しみ、マイカーの周囲に笑顔が絶えないゴキゲンな日常こそが、私が生活の中で自然に追い求める理想の光景なのです。そして、それは今思えば、子供の頃に無意識に刻み込まれた憧れの姿だったのです。面倒な洗車が苦にならないのも、安くない維持費を殊更重荷と感じないのも、思考の源泉がここにあるからですね。
などと、一端の自己分析をしたところで・・・
ふと現実に戻れば、
ここは平日のスーパーの屋上駐車場。
大切なマイカーに並々ならぬ愛情やアツい視線を注ぐオーナーさんや、そうした日常が一発で目に浮かぶような幸せなクルマに遭遇する確率は・・・極めて低いと言わざるを得ません(笑)。
でも
だからこそ逆に、偶にキラキラと輝きを放つクルマを見つけると余計に嬉しくなるし、同じようなクルマ好きの視点で見た時、私のマイカーは常に輝く存在であり続けなければと、ひとり秘かに思いを新たにするのでした(^^)。
Posted at 2020/07/02 22:09:52 | |
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