いやー、参りました。
今回は表紙の写真を見ただけで、一発ノックアウト状態でしたからね・・・。
シェル&ダンロップカラーの‘88年ルマン参戦マシンが表紙を飾るRacing onの最新号は、待望の
「ポルシェ962C特集」です。
いわずもがなポルシェ956/962Cは、FIAがグループC規定を導入した’82年から伝統のル・マン24時間レースで6連覇を達成したのをはじめとして、日米欧の同カテゴリーにおいて「耐久王者」の名を欲しいままにした名車です。
今回の特集では、1985年から本格投入された962Cについて、これまで製作された全てのシャシーNo.を詳細に紐解きながら、その偉大な足跡を振り返るという、グループCファンには堪らない内容(^o^)。
実はこの私も、ポルシェ962Cには忘れ難い思い出があります。
その出会いは1989年の10月だというから、今から24年も前の昔ばなし(大汗)。
秋の冷たい雨が降りしきる中、初めてのレース観戦に訪れた富士スピードウェイで、このモンスターマシンは私を待ち受けていました。
開催されていたのは、’89全日本スポーツプロトタイプカー選手権(JSPC)第5戦の「インターチャレンヂFUJI1000kmレース」。
グループC/IMSA-GTP規定のレース専用マシンが1000km先のゴールを目指し、300キロ超のスピードで5時間以上、ダイナミックな富士の旧コースを走り続けるという、迫力溢れる耐久レースでした。
当時はバブル絶頂期にまっしぐらの時代で、スタート前のダミーグリッドの賑やかさや、サーキット全体を取り巻く華やいだ雰囲気は、今なお強烈に脳裏に焼き付いています。
色とりどりのスポンサーカラーをまとった参戦マシンは裕に20台を超え、コース上はチーム関係者やキャンギャル、観客らで埋め尽くされ、路面がよく見えないほどでしたね。
もちろん、私の一番のお目当ては、4ローターREを搭載する2台の
「チャージ・マツダ767B」。
1989年のル・マン24時間レース、予選で速さを見せたトヨタ/ニッサン勢が決勝レースでは次々にトラブルに見舞われ脱落していく中、ヒタヒタと順位を上げ続けた3台のロータリー勢が総合7位・9位・12位で全車完走し、IMSA-GTPクラスを1-2-3で制覇。
日本のTV中継では、国産勢唯一の生き残りとなったレース途中から、俄然マツダが大きな注目を浴びることになりましたが、最後までその期待を裏切ることがなかったステディで力強い走り。
その勇姿をぜひこの目で確かめてみたかったんですよね・・・。
結局のところ私はそこで、思わず目を奪わてしまう派手なCHARGEカラーと、耳をつんざく強烈なロータリーサウンドが織り成す圧倒的な存在感に、マツダならではの個性・主張を認めることとなり、それ以降、マツダという自動車メーカーとロータリーエンジンに強く傾倒していくことになったのは、過去にも何度か吐露してきた通りです(^_^;)。
ただ、私が富士のグランドスタンドで一瞬にして心を奪われた4ローターサウンドの「比類なき個性」も、その瞬間、富士の裾野に響く数多くの「別の」エンジンサウンドが立派に存在していたからこそ、あらためてその違いを明確に感じ取ることができたわけです。
高周波のREサウンドとは明らかに一線を画し、お腹の底に響くように野太いターボサウンドを発しながら、次々に目の前を駆け抜けて行ったライバルマシンたち。
紛れもなくその筆頭格が、上位から中団あたりまでのグリッドをくまなく埋め尽くしていた、多彩なプライベートポルシェ勢だったのです。
元はといえば、同じカスタマー向け仕様の962Cながら、ボディワークやシャシーのモディファイや、エンジンのチューニングレベルはチームによって千差万別。その上、各メインスポンサー色に染められた個性的なマシンカラーリングも相俟って、962Cのバラエティの豊かさは見る者を全く飽きさせませんでした。
そんな私が当時、肌で感じ取っていたグループCレースの世界とは・・・
1989年の時点ですでにワークス活動は休止状態にあったものの、それに代わるセミワークス格の有力プライベーターを筆頭に、多くのプライベートポルシェが各国のグループCレースに大挙して参戦。シリーズの根幹を成す不動の存在となっていたそのポルシェの胸を借りる格好で、ジャガーやメルセデス、トヨタ、ニッサンといった新興ワークス勢が少数精鋭で挑んでいるという、戦いの構図でした。
一大勢力を形成したポルシェ勢の存在なくしては、グループCカテゴリーの隆盛はおろか、その存続すら危なかったはずだし、それはとりもなおさず、ポルシェという自動車メーカーが戦闘力の高いレーシングカーをプライベーター向けに数多くリリースし、必要なパーツ供給を忘れなかったからこそ、実現したわけです。
とりわけ、JSPCでポルシェを擁するプライベートチームはどこも高いエンジニアリング能力を有していて、NOVAチームなどは”東洋のポルシェワークス”と呼ばれていたほどの実力チーム。
結局のところ、私がグループCレースに開眼した1989年、速さに勝る国産ワークス勢を向こうに回しJSPC王座を手にしたのは、”クニさん”こと高橋国光選手が駆るADVANポルシェだったのですから、極東の地でポルシェ962Cが見せた”意地”と”底力”は大変印象的でした。
ルーツとなる956の登場から10年近く経過していながら、未だに衰えぬ強さを備えていたからこそ、新興ワークス勢の実力を測る恰好の「ものさし」と成ったわけだし、いつしかそれが「踏み台」と変わっていったんですよね・・・。
ポルシェはグループCの偉大なるスタンダード。
そんな思いがあっただけに、翌々年の1991年5月、JSPC・富士1000kmレースで我らがマツダ787Bがポルシェ962C相手に見せた力強い戦いぶりは、私にとって忘れられない思い出となっています。
NOVAチームがニッサンにマシンスイッチするなど、一時期に比べるとすっかり勢力が衰えたポルシェ勢。その中で最速マシンの地位を保っていたトラストチームの日石ポルシェに対し、このレースがシェイクダウンレースとなった787B-002号車が互角に渡り合い、224周レースの最後の最後まで、同一周回で激しい4位争いを見せたのです。
これは正直、私にとって大きなサプライズであり、と同時に、この上なく勇気付けられる出来事でした。
(その翌月、この787B-002号車がフランスでまさかの偉業を成し遂げることになります)
前身の956と併せて一時代を築き、王者の名を欲しいままにした後、晩年には超えるべき"壁"としてライバル勢に立ちはだかり、そして、敗れていったポルシェ962C。
その偉大な功績はいつまでも衰えることなく、その雄姿はグループCファンの心の中にずっと生き続けることでしょうね。