「奇跡の作戦」
キスカ島撤退作戦
普通に考えて成功見込みが薄く、失敗すれば今まで築き上げてきた社会的地位や名誉も失うが、成功すれば多くの人が救われる大博打に近いが、誰かがやらねばならない仕事をやれと言われたら、どうしますか?
恐らく現代日本人の9割は断るでしょう。
残念ながら、私なら初めは渋るかもしれないが最終的には「誰かがやらねばならないなら私がやる」と引き受けると思います。
何故なら私は現代日本人である前に「大和魂」を持つ「武士」だからです。
大東亜戦争において、1942年6月のミッドウェー海戦での大惨敗で戦局が一気に傾き、それまで拡大していた戦線をどんどん下げざるを得なくなり、各地で撤退作戦が行われていた1943年、北方の米領アリューシャン諸島ではミッドウェー作戦と同時進行していたアッツ島攻略作戦が失敗して進駐軍はアメリカ軍が上陸したことによる戦闘で全滅。そのすぐ南東の小島であるキスカ島に駐留していた日本軍守備隊6000名は孤立無援の状態となり、全滅は時間の問題となっていました。
その守備隊を無事に本土に帰還させるのが、
キスカ島撤退作戦
でした。後にアメリカ側からは「奇跡の作戦」と呼ばれました。
第一期作戦は、潜水艦を主力としたものでしたが、厳重なアメリカの哨戒網を突破できず、潜水艦3隻を喪失して大失敗。
第二期作戦は水雷戦隊を主力とし、その作戦概要として、この時期のアリューシャン諸島には濃霧が発生して視界不良になる現象になるのを利用して、濃霧に紛れて艦隊を派遣し、連合軍に見つかることなく速やかに守備隊を回収して撤退するというものであるが、連合軍に見つかれば作戦は失敗。場合によっては艦隊もろとも守備隊も全滅というリスクを抱えた、三国志の「赤壁の戦い」を思い起こさせる大博打だったのです。
作戦の意義や結果の有用性などを考慮してもあまりにもリスキーすぎるために、多くの将校がこの作戦の参加ましてや指揮を渋りました。
そこで指名されたのが、「髭の木村」こと
木村昌福です。
詳しい内容はこちら⇒
キスカ島撤退作戦
1度目の出撃は7月7日に第一水雷戦隊は泊地の幌筵を出撃するも、キスカ島に近づくにつれて霧が晴れていったために作戦遂行が困難となり、7月15日には燃料の問題もあり、ビスマルク海海戦での経験から木村昌福は帰還命令を出します。かの名セリフです。
「
帰ろう。帰ればまた来られるからな」
2度目の出撃は7月22日、途中濃霧の中、出撃艦隊内において、駆逐艦初霜と若葉と長波、軽巡阿武隈と海防艦国後が衝突事故を起こし、若葉が落伍する羽目になるも、作戦部隊がキスカ島に到着する少し前に、哨戒中のアメリカ艦隊がレーダーの誤反応で小島を日本艦隊と誤認して艦砲射撃で弾薬を1000発以上も浪費して引き揚げてしまったことも幸いして無事にキスカ島に到着。
6000人の守備隊は僅か55分という短時間で回収されたのでした。
帰路途上でアメリカ艦隊に発見されるも、出撃前に艦隊がアメリカ艦に偽装していたために友軍艦隊と誤認されて事なきを得、無傷で守備隊を帰還させることが出来たのです。
その後、キスカ島に上陸したアメリカ軍が戦った相手はたった3匹の犬だけで、守備隊がいるものと思い込んで警戒を強めすぎたために同士討ちが多発するという副次的戦果も生まれました。
この奇跡の作戦における主力である第一水雷戦隊旗艦が、
長良型軽巡洋艦 阿武隈
です。
1920年3月16日進水、浦賀船渠生まれのうお座。
艦歴の詳細は今回はウィキペディア先生にお任せするので、上のリンクからどうぞ。
阿武隈は建造当初は長良型姉妹の1艦として、他の姉妹に準じた設計でしたが、1930年に軽巡北上への追突事故を起こして艦首を損傷。その修理の時にそれまでスプーンバウだった艦首を、軽巡那珂と同じくダブルカーブドバウに変更され、長良型姉妹における阿武隈の特徴となりました。
なお、キスカ島撤退作戦後は幾度か対空兵装強化工事が行われ、最終的に長姉である長良の最終時に似た兵装となりました。
今回制作したのは、阿武隈 1943年(キスカ島撤退作戦)となります。
キットはタミヤの1/700で、真珠湾攻撃時のものであるため、いくつか手直ししての制作となり、制作期間は7日間ほど、制作時間は12時間ほどでした。
今回も完全版として仕上げました。
艦首側から

浦賀船渠生まれであることから、船体色は横須賀海軍工廠グレイを選択。
キットでは艦橋前部には保式13mm4連装機銃を装着する指示でしたが、1942年5月に九三式13mm連想機銃に換装しているため、史実に準じて連装機銃としました。
艦首付近には旗竿と空中線支柱を増設。
艦尾側から

ちょっと見にくいですが、一応「あぶくま」の艦名表記を自筆しました。
ちなみに、私が人生で初めて出会った戦闘艦が、海上自衛隊護衛艦「あぶくま」と「じんつう」です。
艦尾付近に空中線支柱を増設。
右舷側から

空中線は、箱絵を参考にしました。また、艦橋後部の露台やマストの露台の手すりには白いシートが張られていたため、その部分を白く塗りつぶしています。
また、キスカ島撤退作戦時には、アメリカ巡洋艦に誤認させるために、第二煙突を白く塗りつぶして濃霧の中では2本煙突に見えるように偽装していたため、第2煙突を白一色にしました。
左舷側から

加えて、左舷の廊下には再現されていなかった支柱を箱絵を参考に10本立てました。
水上機は、九四式水上偵察機としました。
制作済みの姉妹艦、長良、五十鈴と並べてみました。
五十鈴の記事の時にも書きましたが、帝国海軍軽巡洋艦としては、個々で特徴のある姉妹です。

手前から、阿武隈、五十鈴、長良。
長良と五十鈴は最終時であるため、阿武隈と大きく異なります。
艦橋の形状と、後部上甲板の形状がそれぞれ違います。長良と五十鈴が右舷側に廊下があるのに対し、阿武隈は左舷側に廊下があります。また、長良と五十鈴の後部上甲板がグレイなのに対し、阿武隈は甲板色になっています。これが史実通りなのかキットの仕様なのかは不明です。
空中線の配置と本数、更にはマストの形状もやはり違ってますね。
長良も追々空中線を張るつもりです。
不可能を可能にする創意工夫と決断力、そして「やる」と決めたら何が何でも「やり遂げる」という気概を持つことの大事さを学ばせてくれるキスカ島撤退作戦、その旗艦となった阿武隈は間違いなく功労艦です。
チャンスというのは自分の手でつかむものであり、奇跡というのは自分で起こすもの、何をするにも自分という主体性―誰かがやるのじゃなく、自分がやるという意識を持って事に当たることが大事、それを教えてくれるのが、木村昌福であり、阿武隈なのです。
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Posted at
2020/09/28 05:58:47