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埴方ひかりのブログ一覧

2020年09月27日 イイね!

「奇跡の作戦」第一水雷戦隊旗艦 阿武隈

「奇跡の作戦」
キスカ島撤退作戦

普通に考えて成功見込みが薄く、失敗すれば今まで築き上げてきた社会的地位や名誉も失うが、成功すれば多くの人が救われる大博打に近いが、誰かがやらねばならない仕事をやれと言われたら、どうしますか?
恐らく現代日本人の9割は断るでしょう。
残念ながら、私なら初めは渋るかもしれないが最終的には「誰かがやらねばならないなら私がやる」と引き受けると思います。
何故なら私は現代日本人である前に「大和魂」を持つ「武士」だからです。

大東亜戦争において、1942年6月のミッドウェー海戦での大惨敗で戦局が一気に傾き、それまで拡大していた戦線をどんどん下げざるを得なくなり、各地で撤退作戦が行われていた1943年、北方の米領アリューシャン諸島ではミッドウェー作戦と同時進行していたアッツ島攻略作戦が失敗して進駐軍はアメリカ軍が上陸したことによる戦闘で全滅。そのすぐ南東の小島であるキスカ島に駐留していた日本軍守備隊6000名は孤立無援の状態となり、全滅は時間の問題となっていました。
その守備隊を無事に本土に帰還させるのが、

キスカ島撤退作戦

でした。後にアメリカ側からは「奇跡の作戦」と呼ばれました。
第一期作戦は、潜水艦を主力としたものでしたが、厳重なアメリカの哨戒網を突破できず、潜水艦3隻を喪失して大失敗。

第二期作戦は水雷戦隊を主力とし、その作戦概要として、この時期のアリューシャン諸島には濃霧が発生して視界不良になる現象になるのを利用して、濃霧に紛れて艦隊を派遣し、連合軍に見つかることなく速やかに守備隊を回収して撤退するというものであるが、連合軍に見つかれば作戦は失敗。場合によっては艦隊もろとも守備隊も全滅というリスクを抱えた、三国志の「赤壁の戦い」を思い起こさせる大博打だったのです。

作戦の意義や結果の有用性などを考慮してもあまりにもリスキーすぎるために、多くの将校がこの作戦の参加ましてや指揮を渋りました。
そこで指名されたのが、「髭の木村」こと木村昌福です。

詳しい内容はこちら⇒キスカ島撤退作戦

1度目の出撃は7月7日に第一水雷戦隊は泊地の幌筵を出撃するも、キスカ島に近づくにつれて霧が晴れていったために作戦遂行が困難となり、7月15日には燃料の問題もあり、ビスマルク海海戦での経験から木村昌福は帰還命令を出します。かの名セリフです。

帰ろう。帰ればまた来られるからな

2度目の出撃は7月22日、途中濃霧の中、出撃艦隊内において、駆逐艦初霜と若葉と長波、軽巡阿武隈と海防艦国後が衝突事故を起こし、若葉が落伍する羽目になるも、作戦部隊がキスカ島に到着する少し前に、哨戒中のアメリカ艦隊がレーダーの誤反応で小島を日本艦隊と誤認して艦砲射撃で弾薬を1000発以上も浪費して引き揚げてしまったことも幸いして無事にキスカ島に到着。
6000人の守備隊は僅か55分という短時間で回収されたのでした。
帰路途上でアメリカ艦隊に発見されるも、出撃前に艦隊がアメリカ艦に偽装していたために友軍艦隊と誤認されて事なきを得、無傷で守備隊を帰還させることが出来たのです。
その後、キスカ島に上陸したアメリカ軍が戦った相手はたった3匹の犬だけで、守備隊がいるものと思い込んで警戒を強めすぎたために同士討ちが多発するという副次的戦果も生まれました。

この奇跡の作戦における主力である第一水雷戦隊旗艦が、

長良型軽巡洋艦 阿武隈


です。
1920年3月16日進水、浦賀船渠生まれのうお座。
艦歴の詳細は今回はウィキペディア先生にお任せするので、上のリンクからどうぞ。
阿武隈は建造当初は長良型姉妹の1艦として、他の姉妹に準じた設計でしたが、1930年に軽巡北上への追突事故を起こして艦首を損傷。その修理の時にそれまでスプーンバウだった艦首を、軽巡那珂と同じくダブルカーブドバウに変更され、長良型姉妹における阿武隈の特徴となりました。
なお、キスカ島撤退作戦後は幾度か対空兵装強化工事が行われ、最終的に長姉である長良の最終時に似た兵装となりました。

今回制作したのは、阿武隈 1943年(キスカ島撤退作戦)となります。
キットはタミヤの1/700で、真珠湾攻撃時のものであるため、いくつか手直ししての制作となり、制作期間は7日間ほど、制作時間は12時間ほどでした。
今回も完全版として仕上げました。

艦首側から

浦賀船渠生まれであることから、船体色は横須賀海軍工廠グレイを選択。
キットでは艦橋前部には保式13mm4連装機銃を装着する指示でしたが、1942年5月に九三式13mm連想機銃に換装しているため、史実に準じて連装機銃としました。
艦首付近には旗竿と空中線支柱を増設。

艦尾側から

ちょっと見にくいですが、一応「あぶくま」の艦名表記を自筆しました。
ちなみに、私が人生で初めて出会った戦闘艦が、海上自衛隊護衛艦「あぶくま」と「じんつう」です。
艦尾付近に空中線支柱を増設。

右舷側から

空中線は、箱絵を参考にしました。また、艦橋後部の露台やマストの露台の手すりには白いシートが張られていたため、その部分を白く塗りつぶしています。
また、キスカ島撤退作戦時には、アメリカ巡洋艦に誤認させるために、第二煙突を白く塗りつぶして濃霧の中では2本煙突に見えるように偽装していたため、第2煙突を白一色にしました。

左舷側から

加えて、左舷の廊下には再現されていなかった支柱を箱絵を参考に10本立てました。
水上機は、九四式水上偵察機としました。

制作済みの姉妹艦、長良、五十鈴と並べてみました。
五十鈴の記事の時にも書きましたが、帝国海軍軽巡洋艦としては、個々で特徴のある姉妹です。

手前から、阿武隈、五十鈴、長良。
長良と五十鈴は最終時であるため、阿武隈と大きく異なります。
艦橋の形状と、後部上甲板の形状がそれぞれ違います。長良と五十鈴が右舷側に廊下があるのに対し、阿武隈は左舷側に廊下があります。また、長良と五十鈴の後部上甲板がグレイなのに対し、阿武隈は甲板色になっています。これが史実通りなのかキットの仕様なのかは不明です。
空中線の配置と本数、更にはマストの形状もやはり違ってますね。
長良も追々空中線を張るつもりです。


不可能を可能にする創意工夫と決断力、そして「やる」と決めたら何が何でも「やり遂げる」という気概を持つことの大事さを学ばせてくれるキスカ島撤退作戦、その旗艦となった阿武隈は間違いなく功労艦です。
チャンスというのは自分の手でつかむものであり、奇跡というのは自分で起こすもの、何をするにも自分という主体性―誰かがやるのじゃなく、自分がやるという意識を持って事に当たることが大事、それを教えてくれるのが、木村昌福であり、阿武隈なのです。
Posted at 2020/09/28 05:58:47 | コメント(0) | トラックバック(0) | 模型 | 趣味
2020年09月12日 イイね!

第二次世界大戦中最も多くのバトルスターを獲得したMVP駆逐艦 USS オバノン

先日の記事は、実は今作への伏線でした。

大日本帝国海軍の陽炎型駆逐艦8番艦 雪風は、「奇跡の駆逐艦」と呼ばれ、一人と戦死者を出さなかった幸運めでたい武勲艦として世に知られていますが、大英帝国王立海軍には、「ラッキー・ジャーヴィス」の愛称を持つJ級駆逐艦 ジャーヴィスもまた一人の戦死者も出さなかった幸運の武勲艦であり、アメリカ海軍には、フレッチャー級駆逐艦

DD-450 USS オバノン
alt
(戦艦少女Rより。ジャガイモを抱えているのは後述の逸話から)

も同じく一人の戦死者、そして負傷者も出さなかった武勲艦です。自身は損傷したにも拘らず、です。
alt
(ウィキペディアよりパブリックドメイン。1943年ごろのオバノン。)
愛称は「ラッキー・O(オー)」。オーちゃんってことですが、間違ってもオバノンからノンを取ってちゃん付けしてはいけません、絶対ですよ。この愛称がついたのには、オバノンのつづりがO'Bannonであるからです。その名の由来となったのがアメリカ海兵隊讃歌でその名前が出てくるプレスリー・オバノンです。

1942年3月14日進水のうお座。
オバノンは雪風やジャーヴィスと同じく数々の海戦を戦い抜き、サボ島沖海戦と第三次ソロモン海戦では勝利を収めています。第二次ベララベラ海戦では駆逐艦夕雲を駆逐艦シャバリア、駆逐艦セルフリッジと共に撃沈するも、シャバリアとセルフリッジに夕雲が一矢報いる形で放った魚雷が命中、セルフリッジは艦首をもがれ、シャバリアは機関部に命中して航行不能(海戦後雷撃処分、実質的に夕雲との相討ち)となります。近づきすぎたオバノンがシャバリアに追突して損傷をしました。これが生涯で一番大きな損傷となりました。
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(シャバリアとの追突事故で損傷したオバノン 写真右 夕雲の酸素魚雷で艦橋から先を失ったセルフリッジ。ウィキペディアよりパブリックドメイン)
また、戦後は1945年9月2日の降伏調印式に戦艦ミズーリの直衛艦として姉妹艦のニコラステイラーと共に行動しました。
これは、because of their valorous fight up the long road from the South Pacific to the very end.という、ウィリアム・F・ハルゼー司令官の言葉によるものでした。
なお、他にも姉妹艦のカッシングも調印式こそいなかったものの、同年8月27日から占領任務に従事しました。
その後は、朝鮮戦争、ベトナム戦争を経て1970年1月30日、ニコラスと共に退役。生涯バトルスター獲得数ではニコラスに譲ったものの、1つの戦争で最も多くのバトルスターを獲得したのは間違いなく今でもオバノンなのです。


興味深い話があります。それは、
戦中のオバノンの艦長の名前が、

ドナルド・マクドナルド

日本人なら誰しも聞き覚えのある名前でしょう。
そうです、ファーストフード店のマクドナルドホールディングスのマスコットキャラクターも、ドナルド・マクドナルドですが全く関係はなく、よくよく調べてみると、ファーストフード店の方のドナルドは、英語での原名は「ロナルド・マクドナルド」であり、レーガン元大統領と同名なのです。
マクドナルドと言えばハンバーガーですが、マックフライポテトも主力メニューですよね。
そして、なんとオバノンにもジャガイモにまつわる逸話があるのです。
それが、潜水艦呂号三十四潜水艦を撃沈したときの話です。

ウィキペディアより抜粋。
--------------------
1943年4月5日午前2時18分、第21駆逐戦隊の僚艦ストロングと共に夜間の沿岸砲撃任務から帰投中だったオバノンは、ラッセル諸島付近で日本の潜水艦呂号第三十四潜水艦が浮上しているのを9,350ヤード(約8,550m)の距離からレーダーで発見、急速に距離を詰めて午前2時30分に体当たりを試みた。しかし衝突する直前、艦長ドナルド・マクドナルド少佐らオバノンの士官たちは呂三十四を機雷敷設艦と誤認して衝突を避けるため急転舵を命じた。この行動の結果、オバノンは呂三十四の真横に並ぶことになった。

この時、呂三十四の乗員が甲板上の8cm高角砲で攻撃を行おうとしているのを確認したが、阻止しようにも近すぎて主砲は使用できず、またオバノンの乗員たちは接近戦を想定しておらず小火器を持っていなかった。そのため、やむなくオバノンの乗員は何かしら彼らに抵抗する道具を探し、近くの保存容器に入っていたジャガイモを掴むと呂三十四に投げつけたとされる。そして、呂三十四の乗員は投げつけられたジャガイモを手榴弾と誤認し、慌てて投げ捨てながらオバノンから船体を離した。
(中略)
オバノンは射撃可能な距離に離れた呂三十四を約1,000ヤード(約914m)から5インチ砲で射撃して少なくとも1発を命中させ司令塔に損傷を与えた。呂三十四はなおも潜航したため、オバノンは爆雷8発を投下した。この攻撃の後に呂三十四が艦尾から沈んでいくのが見え、翌朝には厚い油膜が広がっていた。これが呂三十四の最期であったとみられている。
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そう、ジャガイモで日本の潜水艦を沈めたアメリカ駆逐艦としてその名を残しました。そのため、「ポテト・パージ」というあだ名も付いています。
一応マクドナルド艦長は事実ではないと否定していますが、今日でも信じられている伝説となったのです。

さらに、ドナルドと言えば、トランプ大統領も同じ名前ですね。
また、ディズニーのドナルド・ダックは水兵服を着たキャラクターですね。
全く関係がないとはいえ、何かしら因果を感じるところがあります。


太平洋戦争の歴史は、U.S.S.オバノンの物語を伝えずして記すことは不可能である。再三再四、オバノンと彼女の勇敢な妹たちは敵を追い返すように求められた。彼女らは私を決して失望させなかった。— ウィリアム・F・ハルゼー元帥、ジェームズ・D・ホラン著『Action Tonight』序文より



キットは、ピットロード製の姉妹艦キャラハンをベースとしました。
なお、7月に更新した姉妹艦のクラクストンも再度更新しました。
7月に更新したクラクストンの右舷側

今回更新した箇所

舷側エリコン20mm機銃の位置を実艦のものに変更し、防弾壁をキャラハンのものに変更しました。

今回更新した右舷側全体


そして、本題のオバノンです。制作期間は1週間、1日2時間程度で合計12時間ほどかかりました。
1943年時の仕様としました。これには資料がしっかりあるためで、こちらをもとに制作しました。キャラハンはフレッチャー級後期型なので、前期型のオバノンを作るには大きめの加工が必要でした。特に艦中央部の対空機銃台です。

初期のフレッチャー級にはないものなので思い切って切り落としたところ、艦中央部が大きくなくなりました。
そして、作り直した艦中央部がこちら


艦首側から

艦体色はメジャー21迷彩色であるネイビーブルー一色です。
艦橋前面両側にはエリコン20mm単装機銃を装備。
前部マストも写真に基づいて改造しています。

艦尾側から

見えづらいですが艦尾には「o'bannon」のデカールを貼りつけています。

右舷正横から

クラクストンから切り取った防弾壁を実艦と同じく両舷の爆雷のすぐ前に設置。そこにエリコン20mm機銃を両舷に2挺ずつ配置。
空中線はクラクストンを基本としていますが、実艦写真と照合していくつか追加しています。
軍艦旗は通常時の艦尾旗竿ではなく、大戦時最も多くのバトルスターを獲得した武勲艦ということで第2煙突後方に掲げた戦闘旗としました。


アメリカ海軍史有数の武勲艦であるにもかかわらず、Yahoo!などで「オバノン 駆逐艦」で画像検索しても、模型の写真は全然見つからないので、「ないものは作ってしまえ」精神で制作したのが今作です。

USSオバノン、この機会にぜひ覚えてあげてくださいね。
Posted at 2020/09/12 21:48:11 | コメント(0) | トラックバック(0) | 模型 | 趣味
2020年08月30日 イイね!

ミッドウェー海戦の戦犯 空母赤城 更新

人は失敗を繰り返す生き物である。

何事も経験だと主張する人が恐らく世の大多数の人ですが、
私のものの見方では、それはあくまでその経験から何を学んだか、何を身に着けたかがはっきりしていればこそです。
逆に言えば、何も学ばなければ、何も身につかねばその経験は無意味無価値、時間と労力、費用の無駄です。
更に言えば、しなくても学べる経験はしない方がいいのです。
例えば、盗みとか人殺しとか、麻薬とかですよ。経験しなくても「人として悪いことだ」ってわかるでしょ。

特に我が国日本の歴史なんて、とてもとても「何事も経験だ」なんて口が裂けても言えません。言えないはずなのにそれを主張したがる人間ばかりが権力を持つから万年不景気、万年先進国一頭の悪い国民(現代日本人の平均IQは確か94。100で初めて人並み。)なのです。世の乱れは人心の乱れです、今一度襟を正すことが大事なんじゃないですかね。

我が国の歴史を学ぶと、必ず言いたくなることがあります。
それは、

何度同じ失敗をすれば学ぶんだ!!

特に悪しき習慣である、官僚主義や年功序列主義は害悪。
ぶっちゃけ日本が戦争に負けた一番の原因はこれです。
名将山口多聞が第一機動部隊を率いていれば、恐らく歴史は変わっていたことでしょう。黒島が参謀でなければさらにもっといい結果になっていたでしょう。

慢心してはダメ、索敵や戦線を大事にしないと!

はい、今回このセリフの主を更新しました。
一つの作戦が成功するということは、見方を変えれば相手にその対策法を教えたのと同じことです。
同じ失敗を繰り返すということは、相手にそれが苦手だと教えたようなものです。
これがわからないなら戦略を語ってはダメです。
そしてさらに言えば、愚者は戦略を重んじ、賢者は兵站を重んじます。
私は自分で賢者とは思ってませんが、兵站を最も重視します。それが、索敵や戦線を大事にしないとっていう意味です。ちなみに、戦争に限らず、会社経営やビジネス、人事においても全く同じことが言えます。索敵や戦線を別の言い方に替えれば、ですが。


わざわざバカに倣う必要などありますか。現代日本人はどんなバカげた基準でもそれが大多数の意見ならそれに従うことが常識なのですが、私にはそういう概念はとっくの昔に捨てました。たとえ極少数、あるいは私一人だけの意見でもそれが正しいと信じたならそれに従う。人の話を聞かないのではなく、バカの話は聞かない、自分より賢い人間の意見にしか耳を傾けない、それだけです。

これが間違った考えだというなら、
そんなだから日本は戦争に負けたのだ
そんなだから日本はバブル崩壊以来万年不景気なんだ
そんなだから今の日本は道徳が乱れまくってるんだよ
って言ってやります。


前述のセリフの主は先日の地震で棚から落下し、床にたたきつけられて上部構造物が破損。修繕中に再度不注意で床に落としてしまい、今度は上部構造物が大破、再利用不能になった部品がいくつも出ました。
そのため、今週はその修繕作業と再利用不能部品の自作に追われ、艦船模型の新作を見送りました。

その艦船とは、水雷屋としては優秀な司令官だが航空戦はズブの素人なのに悪しき年功序列と官僚制度の慣例のために機動部隊の司令長官にされたミッドウェー海戦の大戦犯、南雲忠一座乗の第一機動部隊、第一航空戦隊旗艦

空母 赤城


です。うちの鎮守府じゃ空母としては二軍落ちした(通常では翔鶴、瑞鶴、大鳳がスタメン、飛龍、蒼龍、アークロイヤルが代打要員)とはいえ、使えば大活躍してくれる

そりゃ負けるわ、ミッドウェーで戦った相手はあの航空戦においては歴史的名将フランク・J・フレッチャーにスプルーアンスが指揮官、その艦隊旗艦は米国最強空母エンタープライズですから、無知な南雲に慢心と楽観主義の黒島参謀では、赤城が10隻いても勝てなかったでしょう。

それだけじゃなく、ミッドウェー海戦において、対艦戦闘はからっきしで脆弱な空母を前面に出したのがとんでもない愚策でした。榛名や霧島だけでも赤城達の前に出ていれば・・・。実際榛名と霧島が機転を利かせて飛龍が反撃するときにその掩護に回ったおかげで、結果として沈んだものの飛龍の反撃が空母ヨークタウン撃破と一矢報いることになったのです。

そして、赤城の失敗はこれが初めてではないのです。
セイロン沖海戦でも、

十分な索敵や警戒をせず、まんまと敵艦載機に背後からの奇襲を許してあわや被弾という事態に。

そして真珠湾攻撃でも、中途半端な作戦計画に出鱈目な索敵で本来の最重要目標である敵空母の撃沈に失敗、そもそも真珠湾作戦自体本来の目的である早期講和にちっともつながるものではなく、日本に敗北フラグをしっかり立てました。


赤城自体は優秀な空母なのです。間違いなく加賀と並んで当時最強の空母でした、スペックだけなら。
見方を変えれば、中枢の人間次第ではでかいだけの浮かぶガラクタ、爆弾を落としやすいただの的になるのです。そしてそれはミッドウェー海戦の戦犯艦という不名誉につながったのです。
日中戦争においては、加賀と並び中華民国軍本体を完膚なきまでに叩き伏せる(日清戦争でも大惨敗したように、中華民国1国だけでは全く歯が立っていなかった)手引きをし、襲い掛かってくる中国機を、赤城にとってはまるでカトンボ、七面鳥同然で悉く叩き落とすなど、まさにチートだったのです。

キットはタミヤのウォーターラインシリーズ初期の赤城です。
それを500円で購入したので、完成度はお察し。
なので、所々作り直しました。
特に参考にしたのが、
映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六」
です。
艦橋周りは映画内の赤城のものを参考に作り直してます。
alt
空中線支柱をはじめ、旗竿、艦橋後ろのラッタルや双眼鏡台も追加。
対空機銃も新しいものに交換しています。

艦首側から




艦尾側から

コチラも空中線を追加。甲板後部下のデリックのクレーン部分にも追加。


右舷正横から

翔鶴や大鳳、エンタープライズにレキシントンなどから比較するとダサい空母ですが、彼女らが特別かっこいいだけで普通に船として見た場合は十分かっこいい部類ですね。モデルとクラスで3番目にかわいい子を比べるのは酷ってもんです。

先日の記事では、嫌いな帝国海軍艦ワースト4にランクインしていましたが、史実があまりにも残念過ぎるがための酷評です。
その割にはしっかり模型で制作している、まぁそういうことですわ。
ちなみに、赤城の艦歴についての詳細はウィキペディア先生にお任せするとして、元々は天城型巡洋戦艦で、レキシントンやサラトガなどと同じく改造されて空母になったという経緯があります。
丁度空母黎明期で様々な試行錯誤から生まれたために、所々無理が生じたのもある意味致し方がなかったけど、それでも世界最強クラスの空母に変わりはなったのです。


余談ですが、艦隊これくしょん2020梅雨&夏イベントが終了しましたが、先日の記事からは大した収穫もなく、唯一新規でお迎えできたのが

駆逐艦フレッチャーです。
可愛いんだけど、ていうかフレッチャー級は好きだけど、違う子が欲しかったです。
まぁお迎えしたからには可愛がってあげますけどね。
Posted at 2020/08/30 21:50:52 | コメント(0) | トラックバック(0) | 模型 | 趣味
2020年08月14日 イイね!

【終戦記念特別企画】謎の爆沈を遂げたビッグセブンの1隻 戦艦陸奥

完成しました。
戦艦ですが、いつもの暫定完成ではなく完全体です。
ここまで費やした期間は1週間ほど、かかった時間は30時間ほどです。
ようやく大日本帝国海軍で実在した超弩級戦艦が揃いました。
姉妹艦の長門と人気を二分した世界のビッグセブンの1隻、

戦艦陸奥

です。たいていの人は読めると思いますが、無教養な人向けにその読みのヒントを上げます。
青森のリンゴです。そして青森の旧国名。たま~にいるんですよ、これが読めない人。
艦隊これくしょんで、初めてお迎えした戦艦が陸奥でした。
世界のビッグセブンと銘打っていますが、残り5隻のコロラド級戦艦3隻とネルソン級戦艦2隻の主砲は16インチ(約40.6cm)であり、長門と陸奥の主砲は41cm砲で厳密には16インチではなく、少なくともワシントン軍縮条約段階では世界最強火力の主砲を備えた姉妹だったのです。
「長門と陸奥は日本の誇り」といういろはがるたが作られるほど日本国内ではよく知られる存在で、日本で最も国民に愛された2隻だったのです。今でも恐らくこの2隻の人気は不動でしょう。

1920年5月31日、横須賀海軍工廠生まれ。双子座。

戦前では世界的にも脅威の戦艦であり、大日本帝国は長門と陸奥の詳細をひた隠しにしたがることもあって大英帝国がしつこくちょっかいをかけてきたのに対して陸奥が出撃して追い払うこともあったそうです。
大東亜戦争勃発以後は、サウスダコタ級やノースカロライナ級など、高速で16インチ砲を備えた新鋭戦艦が次々と誕生しているので陳腐化はしましたが、それでも第一級の強さは健在であるものの資源に乏しかったため、「現存艦隊主義」によって前線に出ることを渋られました。
一応、真珠湾攻撃には参加、その後ミッドウェー海戦(但し後方待機)、第二次ソロモン海戦(但し対空戦闘のみ)、しかも陸奥自身の戦果はほぼゼロという有様でした。スペック上の戦闘力は艦隊旗艦としては十分なものでしたが、長門と陸奥を時代遅れにしたのが、その速力でした。当時軒並み27knot以上が当たり前なのが世界の主力艦であり、長門は一応25knot(レイテ沖海戦で27knotを出した説あり)、陸奥も25knotがやっとと、機動部隊に追随するには鈍足だったのです。
それを言うなら、ネルソン級、クイーンエリザベス級、コロラド級などもそうなのですが、一応彼女らはそれなりに活躍し戦果を挙げています。つまり、陸奥が残念な子だったのではなく、軍令部が石頭過ぎたのでした。ま、今の我が国の政治家連中と一緒だったってことです。

1943年6月8日、陸奥は丁度柱島泊地でくすぶっていました。
12時15分ごろ、突然第3砲塔及び第4砲塔付近から煙と共に大爆発を起こし、艦体は真っ二つに割れて前部が沈没。後部も夕方に沈没しました。
傍らには戦艦扶桑が停泊していて、一部始終を目撃したため、「ムツ バクチンス」と緊急信を送っています。
乗員1474人のうち、助かったのは353人だけで、犠牲者のほとんどが爆死という悲惨な事故となりました。
爆沈の原因は諸説ありますが、未だに明らかになっていません。
ただ言えることは、帝国海軍の国民的象徴の片割れが謎の爆沈を遂げたこと、戦後陸奥は引き上げられ、それが「陸奥鉄」と呼ばれる復興資材となって、戦後の日本の復興に大いに役立ったということです。


そして、鉄というものは何度もリサイクルされるものであるので、あなたの使っている鉄製品、ひょっとしたら元を正せば陸奥の体かもしれません。


模型は6月に再版された青島文化教材社製のフルハルモデルです。
しかし残念なことに、その設計はかなり古く、再現度は今一つであり、今日のフジミ模型に見劣りするものです。しかしそこは私、史実の写真と照合して細部をフルスクラッチしました。

(ウィキペディアより、パブリックドメイン。1926年頃の陸奥)


再現されていない後部檣の細部を伸ばしランナーなどで合わせながらの自作の様子。白い無塗装部分が自作しているところです。


第2、第3砲塔頂部の空中線支柱も自作しました。
艦橋頂部も自作部品で史実に基づいた再現としています。


煙突横両舷から艦載艇を吊っているデリックも自作です。
更には、対空機銃台の支柱も自作して取り付けました。

ご覧の通り、空中線は写真と箱絵を参考に独自考証による追加を含めて張っています。


そりゃ時間かかるわ・・・。


ま、終戦記念特別企画だし、それくらい力を入れても罰は当たらないでしょう。
結局終戦記念日に合わせて軍艦を作ろうっていうのは、戦争で死んでいった人、船、飛行機、戦車たちなどへの弔いの意味も含むのですから。

さて、全体像です。

艦首側から

今回、金属製砲身を入れたので、あえて塗装せずに素材の色のままとしました。
立派な、堂々たる姿ですね。
艦体色はクレオスの軍艦色(2)横須賀海軍工廠標準色でも良かったのですが、タミヤの横須賀海軍工廠グレイにしました。

艦尾側から

艦載機は九五式水偵2機と、零式水上観測機1機としました。構造上三座水偵だと3機も載らないので恐らく当時の偵察の主力だった零式水上偵察機は載せなかったでしょう。

右舷側から

美しい艦影ですね。そしてこの空中線の数よ。めっちゃ大変でした。
艦尾を見てもそうですが、まだまだ英国式の設計だったことがよくわかります。
あまりよく知らない人が見ると、大改装後の金剛型と区別がつかないでしょう。
ま、今時の多くの日本国民に、カムリにトヨタマークの代わりにベンツマークを付けて「これ、ベンツ」と言っても疑いもしないだろうと同じ理屈です。カムリもベンツもその形を正しく頭の中で思い浮かべられる人がそんなにいないからです。そして、カムリがベンツのEクラスに負けず劣らずです。どっちがいいかと言われたら私なら迷わずカムリです。


こちらが以前制作したフジミ製の長門。

長門との大きな違いが艦首部で、陸奥の方が鋭角になっています。更には後部檣の形状も若干違います。今回後部檣の細部を自作したのはこの違いを出したかったのです。長門の時も、開戦時仕様からレイテ沖海戦仕様に改造するのにかなり苦労しました。


ちなみに、陸奥の主砲は大和ミュージアムに展示されています。
私も一度は訪れたいところですね。

既に100隻を超えて、国産戦艦も揃いましたが、まだあと20隻くらいは制作予定です。
Posted at 2020/08/15 01:14:55 | コメント(1) | トラックバック(0) | 模型 | 趣味
2020年08月03日 イイね!

バブル期に生まれた高級パーソナルクーペ Z30系ソアラ

8月になりました。暑いです。熱中症対策も当然ながら、日焼け対策にも余念なしです。日焼け即熱中症になるので日焼けできないのです。
一番暑い時期に再就職が決まるなんて、ある意味吉兆かもしれません。

今でこそ万年冬の時代ですが、かつてはアツい時期がありました。

私に言わせれば、
愚者は、貧すれば鈍する
天才は、貧すれば夢を見る

はっきり言うとね、お金があるなら欲しいものなんてないでしょ。
お金がないから欲しいもののために汗水垂らして働いてお金を得るのです。
1980年代から90年代にかけては、夢のあるクルマがあふれて、そのクルマが欲しいがために一所懸命働いた人が多かったのです。
その中でも特にハイソカーブームで名を馳せたクルマの1つが、

トヨタ ソアラ

ですね。レクサス・LCのご先祖です。
ユーカリの葉を好み、オーストラリアに棲息するグータラ珍獣ではありません(それはコアラ)
中日ドラゴンズのマスコットでもありません(それはドアラ)
某アニメキャラでもありません(それはリアラ)

ソアラ(soarer)とは、最上級グライダーを指し、動詞のsoarとは「舞い上がる」「飛翔する」と言う意味で、一度きりの人生、高みを目指せという捉え方でいいと思います。ちなみに、「2番じゃダメですか」っていうのは、1番を目指して頑張ったけど、惜しくも頂上決戦で敗れた人への気休めです。2番目指しちゃ初戦敗退フラグです。

かつての「クラウンクーペ」に続くモデルとして新たに名前を与えられ、折しものハイソカーブームに乗って伝説的なブレイクを果たした初代Z10系、その勢いのまま代替わりした2代目のZ20系にやはり注目が集まりますが、私の推しは、国内では絶大な不人気を誇った3代目のZ30系です。2代目までは正直「クラウンクーペ」でしかなかったのですが、3代目は北米を意識したレクサスの高級パーソナルクーペ(レクサス・SC)という新たな立ち位置になったので、革新だったのです。ジャガー・XKアストンマーティン・DBBMW・6シリーズなどと肩を並べるものであり、紳士のための上品なクーペなのです。そのため、動性能はもちろん優雅で豪華な内外装を与えられました。
搭載されるエンジンは、マークⅡ3姉妹のトゥアラーVにも搭載される2.5L直6ツインターボの1JZ-GTE、スープラやアリストにも搭載される3L直6の2JZ-GE、セルシオやマジェスタにも搭載される4LV8の1UZ-GEで、最もスポーティーでハイパフォーマンスを誇ったのが2.5GTーTです。

不人気だった理由は明確です。当時火が付きつつあるRVブームでクーペ人気に陰りが出だした頃であると同時に、固定概念や同調圧力大好きな現代日本国民にとってはソアラはこうであるべきというある種の強迫観念を悉く覆した日本車離れした外観でしょう。一言で言うと、バブル景気で浮かれた下品な盆暗金持ちが所有するには、あまりにも優雅で気高すぎるキャラクターだったのです。

だが、それがいい!!

私が推す理由です。

今回たまたま安く売られていたCLANNADの痛車が手に入りました。
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ノーマルで買うより安かったため(なんと、1200円)の選択で、ステッカーは丸々残ってます。欲しい人いれば差し上げます。
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ごらんの通り、前期型ですね。

制作は、4日に分けて大体10時間ほどです。
特にこだわったのが車体色です。塗装で非常に手間暇がかかりました。

前側から
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お上品な顔立ちです。どうも常識的な日本人の美的感覚ではグリルレスフェイスの優雅さが理解できないようで、今時のクルマなんてトヨタ・86などの例外を除いて無意味に巨大なラジエターグリルでオラついた下品な顔が大多数で気持ち悪いです。今時の常識人はブス専なんですかね?
きれいな顔立ちとはこういうのを言うのです。
そういえば似たような顔をして不人気だったものに、ホンダ CR-Xデルソルがありましたね。
あれもいろいろ残念なクルマでした。かわいい顔してたのに。
それこそ欧米市場をメインターゲットにすれば結構売れたことでしょうに。
今時の日本メーカーが日本市場を軽視するのも理解できる気がします。ぶっちゃけ程度が低いとなめられてるんですよ、今の日本国民は。己を顧みず何をしても文句ばっかり垂れるし、流行ばかりで本質を求めようとしないから。

車体色は、名付けるなら「ディープレッドマイカ」ですね。
マルーンを下地に、マイカレッドで塗装して深みのある発色にしました。
こういう調色の仕方はアメリカのMTVのクルマ改造番組「Pimp My Ride」を参考にしています。
その上は勿論クリアで押さえています。
実車でこの近似色があったと思います。
エアインテークのフィンはブラックアウト処理をして中期型っぽくしています。
純正フロントスポイラーを装着。

後ろ側から
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日本人受けの悪い垂れ尻です。同じ垂れ尻でもポルシェだけは不動の人気です。この理不尽さよ。まぁ名ばかりで実を取らず、日本車は欧州車より格下だというのが日本の常識人の見立てですから、このリアビューの優雅さがわかる人こそ本当のクルマ好き、正常な美的感覚ですよ。
アストンマーティンも垂れ気味だし、Z33以降のフェアレディZも垂れ尻です。

説明書の指示は前期型のコンビネーションランプでしたが、中期型の配置にしました。多少ずれてると思いますが、対応するモールドがなかったためそうなっただけです。
垂れ尻推しっぽく書いた割には純正リアスポイラーを装着してアクセントをつけてます。個人的にはダックテールの方が好みです。
トヨタマークがついてないのですが、撮影後に気づいて貼り付けてます。
まぁなくても問題ないかと思ってそのまま出しました。

右正横から
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深みのあるレッドマイカというのがよくわかると思います。
更には角度によって色の深みが変わるように見えます。
特にサイドステップやリアバンパーですね。
優雅で気品溢れる佇まいです。なんとなくリアサイドガラスやCピラー辺りがS14型シルビアっぽいですが。

右前俯瞰視点から
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この角度もいいですね。こうすると、反射の加減で明るいレッドマイカっぽく見えます。
ですが、ルーフやドア周りはやはり深みのあるレッドマイカ。
内装色は、シートや布地がタミヤのバフ、ウッド調パネルがクレオスのレッドブラウン、ダッシュボードやドア内装上部、バックパネルがタミヤの茶色と、クラウンを意識した色遣いとしました。

やっぱりこういうクルマをそばに置くと前向きな気持ちになります。
また、こういうクルマを欲するからこそ、人生が前向きになるのです。
だから一所懸命働けます。
貧すれば夢を見るってそういうことです。
私も無欲だとよく言われますが、クルマのことに関しては人一倍貪欲です。
だから同じ仕事でも人一倍プロ意識を持って働いてます。

明るく上昇気味だった日本をより明るくした初代、2代目ソアラに対し、時代の逆風と荒波に飲まれながらも誇りを捨てず革新を目指した3代目ソアラは間違いなく名車です。
Posted at 2020/08/03 21:12:34 | コメント(1) | トラックバック(0) | 模型 | クルマ
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