開発最高責任者 | 商品本部 平井俊彦氏(61年入社) ロードスターの生みの親 |
量産企画・設計 | 商品本部 下久禰朗氏(71年入社) スズキとの連絡役などのなんでも調整役 |
量産企画・設計 | 商品本部 企画設計部 冨田幸臣氏(71年入社) サスペンション、ウインドー関係担当 |
量産計画推進 | 第一車両設計部・車両開発推進グループ 川口隆蔵氏(70年入社) |
生産企画 | 生産企画部 野村宏氏(63年入社) |
実研企画 | 車両実験研究部・実研企画 木下新朗氏(68年入社) |
テストドライバー | 篠倉弘幸氏 AZ-1担当前はファミリアを担当 |
プラインニングマネージャー | 株式会社M2 市川 功氏(65年入社) 初期オリジナルデザイン担当 |
チーフデザイナー | デザイン本部・第一デザイン部 大黒雄二郎氏(69年入社) デザイン統括 |
デザイナー | デザイン本部・第一デザイン部 浅野政則氏(69年入社) AZ-1のオーディオ・アルミホイールなどの用品、デザイン全般のフォロー役 |
デザイナー | デザイン本部・第一デザイン部 デザインスタジオグループ 武沢寛氏(82年入社) AZ-550 Type-Bデザイナー |
デザイナー | マツダR&Dセンター横浜デザイン本部・第二デザイン部・デザインスタジオグループ 山口亨氏(79年入社) AZ-1の量産に入るためのインテリアのフォロー担当 |
デザインプロモーター | デザイン本部・デザイン推進グループ 山吉敏昭氏(72年入社) |
1920年 | 1月 | マツダ株式会社(東洋コルク工業株式会社)として設立(T.7261) |
1920年 | 3月 | スズキ株式会社(鈴木式織機株式会社)として設立(T.7269) |
1936年 | 5月 | 自動車製造事業法制定 |
1939年 | 9月 | 第二次世界大戦開戦 |
1945年 | 8月 | 第二次世界大戦終結 |
1949年 | 7月 | 軽自動車の規格が制定 長さ2.80m×幅1.00m×高さ2.00m 4サイクル車は300cc 2サイクル車は200cc |
1952年 | 12月 | 日本オートサンダル自動車株式会社、オートサンダル号発売 |
1955年 | 10月 | スズキ、スズライト発売 |
1960年 | 4月 | マツダ、R360クーペ発売 |
1963年 | 5月 | 第一回日本グランプリ(鈴鹿サーキット) |
1964年 | 10月 | 東京オリンピック開催(第18回夏季オリンピック) |
1970年 | 12月 | アメリカで大気汚染防止法の改定(マスキー法) |
1973年 | 12月 | 世界で最初にマスキー法をクリアしたCVCC シビック発売 |
1976年 | 1月 | 軽自動車の規格改定 長さ3.20m×幅1.40m×高さ2.00m 排気量:550cc |
1979年 | 11月 | マツダ、フォードと資本提携。フォードの持ち株は24.5% |
1985年 | 7月26日 | 軽のパーソナルカーをテーマとするニューコンセプトスタディ |
1986年 | 3月20日 | 宇品テストコースにてFL500見取試乗 |
1986年 | 5月29日 | シャーシレイアウトの検討が始まる 1/5モデルから1/1樹脂モデル(MX-04)開発 ※1987年第27回東京モーターショーのショーカーとは同名だが別物 |
1986年 | 9月 | ランニングプロトタイプ(研究番号No.W140)製作開始 |
1986年 | 12月 | バブル景気の始まり |
1987年 | 4月 | 中嶋悟のフォーミュラ1への参戦 |
1987年 | 4月 | ランニングプロトタイプ(W140)完成 |
1987年 | 5月 | ランニングプロトタイプ(W140)を引き渡され評価開始 |
1988年 | 1月 | 東京モーターショー出品決定。AZ550デザインの開始(1/1クレイモデル) |
1988年 | 8月11日 | AZ550お披露目。ここからAZ-1に分岐。量産車として居住性改善指示 |
1988年 | 9月19日 | スズキ自動車との初会合(AZ-1) |
1988年 | 9月24日 | キャビン周り変更で全高20mmアップ(AZ-1) |
1988年 | 10月12日 | AZ550完成 |
1989年 | 1月 | AZ550TMS用展示車制作開始 |
1989年 | 2月 | H&W社へ制作を依頼(AZ-1) |
1989年 | 2月14日 | 新軽自動車枠へ対応決定(AZ-1) |
1989年 | 10月 | 第28回東京モーターショーAZ550SPORTS出品 ABCの3のタイプが作られた(提案段階ではもう1案あった) 月産500台の限定生産の量産モデルを意識した作り マツダはType-Aを担当 キャロルの開発が並行して進んでいた為、AZ-1の開発の余裕がなく、イギリスのH&W社に製作を依頼 当初はダイハツ・ミラのエンジンを載せていた テストはイギリスのミルブルック(Millbrook Proving Ground)の自動車性能試験場で行われた。 ドイツのニュルブルクリンクで行われたという情報は誤りです。(テストドライバーの篠倉弘幸氏がA10にてスピーチされたと言われていますが、自己紹介時のランティスでニュルを走った話と混同したか、もしくは聴衆側がミルブルックをニュルブルクと聞き間違えたのが独り歩きしたようです。) サスペンションセッティングは曲がりを重視し、直進安定性を犠牲にしたのは意図的なもの リトラクタブルヘッドランプを廃止したのは責任者の平井氏 リアランプがポーターのものと互換があるのはデザイン時点で使用していた為だが、作り直しの時に取り付け穴の変更が出来ない時期に来ていたのでそのまま合わせて作った サスペンションはスズキ製だが、取り付け位置はスズキ指定ではなくマツダ独自のチューニング 外人デザイナーのデザインしたプロトタイプは乗り込めないという問題からガルウイングドアを採用 スズキとの接点は横浜 |
1989年 | 12月 | 平井主査着任 |
1989年 | 12月5日 | 固定ヘッドライト検討指示 |
1990年 | 1月 | 軽自動車の規格改定 長さ3.30m×幅1.40m×高さ2.00m 排気量:660cc |
1990年 | 5月16日 | デザイン承認 |
1991年 | 2月 | ~5月 バブル崩壊 |
1992年 | 10月 | AZ-1 製造開始 月販目標は800台 キャッチコピーは「未体験ハンドリング マシン」 運輸省からの物言いでスポーツカーとは呼べずにマイクロスポーツと呼ぶことに |
1993年 | 1月 | CARA 発売開始 キャッチコピーは「スズキの新作が常識を越えてやってきた」 AZ-1との違いは スズキのエンブレムへの変更 寒冷地特別仕様車の設定がない オプションでのABSやフェンダーミラーが未設定 後部エンジンフードのロゴ 注意書き等のステッカー類が少ない フロントバンパービルトインのフォグランプ標準化 フォグランプ用スイッチが付いている プライマリーキーしかない マフラーの太鼓隠しのデザインが異なる |
1993年 | 1月 | AZ-1 Type-L発売 |
1993年 | 6月 | AZ-1 生産終了 総出荷台数4409台 |
1994年 | 2月 | AZ-1 MAZDASPEED Version発売 |
1994年 | 7月 | AZ-1 M2・1015発売 |
1995年 | 10月 | AZ-1 販売終了(販売台数:1992年1454台・1993年1543台・1994年753台・1995年108台 生産台数:4407台)市場の第一号:PG6SA-100024 |
1995年 | 12月 | CARA 販売終了(販売台数:1993年189台・1994年297台・1995年46台・1996年1台) |
Lindbergh カテゴリ:クルマ情報関連 2008/01/21 23:55:36 |
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Car Magazine カテゴリ:クルマ情報関連 2008/01/21 23:50:43 |
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BBC - Top Gear カテゴリ:クルマ情報関連 2008/01/21 23:44:29 |
はいまく号 (スズキ キャラ) 初年度検査:1995年3月(平成7年式) 2000年8月購入 車体番号 PG6SS-1 ... |