• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

まるしのブログ一覧

2025年05月21日 イイね!

N響がくる ・・・からの、クララとヨハネス

N響がくる ・・・からの、クララとヨハネスつづきです。



1853年、ヨーゼフ・ヨアヒムの紹介でデュッセルドルフのシューマン夫妻のもとにヨハネス・ブラームスがやって来ました。

ヨアヒムは当代一流のバイオリニスト。12歳にしてライプツィヒ音楽院に入学しメンデルスゾーンに師事。師が亡くなったのち17歳からはゲヴァントハウス管弦楽団に所属してこの頃からシューマン夫妻やブラームスと親密な関係になっていました。



当時ロベルト43歳、クララ34歳、ヨハネスは20歳の若者でした。


ロベルトの前でピアノソナタ1番を演奏し、ヨハネスの才能に驚嘆したロベルトはすぐにクララを呼びに行き「クララ、まだ聴いたことの無い素晴らしい音楽を聴かせてあげるよ」と賞賛したそうです。

すぐに音楽評論にヨハネスを絶賛する記事を載せました。これ以降、ブラームスは偉大な作曲家として認知されていきます。

ヨハネスもシューマン夫妻を心から敬愛し、これ以降家族のような親密さを築いていきます。





しかしロベルトの幻聴は日に日に悪化し、精神状態は極限に達していました。
1854年2月とうとう悲劇が起こりました。
激しい幻聴に襲われたロベルトは、ライン川で投身自殺を図ったのです。
漁師が目撃していたため何とか救出されましたが、精神病院に収容されました。当時末子を妊娠中だったクララには自殺未遂の事実は隠されました。

ロベルトが廃人のようになってしまったため、子供たちを養うためクララは演奏旅行に忙殺されました。留守の間、子供達の面倒を見たのはヨハネスでした。
ヨハネスはクララ一家の引っ越し先のアパルトマンに部屋を借り、ほぼ同居のような状態で公私にわたり支援し続けました。



1856年7月29日、ロベルトは46歳の生涯を閉じました。クララがロベルトと2年振りに会ったのは臨終の前日でした。
ボンにあるシューマンの墓

ロベルトの最後の言葉は・・・”Meine... Ich kenne...”でした。

クララの日記に記されています。
Nur Einmal verstand ich "meine", gewiß wollte er "Clara" sagen, denn er sah mich freundlich dabei an, dann noch einmal "ich kenne"--"Dich" wahrscheinlich.
「私の・・・(クララ)、(君だと)分かっているよ・・・」とクララは解釈しています。

この最後の言葉が、後世のスキャンダル?のネタにされます。が、その話はもう少し先で。



多くの子供たちを残してロベルトは旅立ってしまい、クララは心身共に厳しい状況となりました。
しかし、夫妻の知人、友人が彼女を支えまました。
バイオリストのヨーゼフ・ヨアヒム、フェリックス・メンデルスゾーンの弟パウル、フェリックスと親密でクララとも仲の良かったオペラ歌手のジェニー・リンド、そしてヨハネス。





クララとヨハネスは恋愛関係にあったのではないかと、よく取り沙汰されます。
実際、1855年頃(ロベルトが精神病院に収容されている時)、ヨハネスはクララに熱烈なラブレターを何度も書き送っています。

「死ぬほど貴女を愛していますと、文字に書くのではなく、今日、僕自身の口から貴女に申し上げるのを神が許し給わんことを!」
「貴女を思い、貴女の手紙を読み返し、貴女の写真を眺める以外に、何も手につきません。いったい僕をどうなさったのでしょうか?」

もうぞっこんですね😅
それに対しクララは・・・



つづく<(_ _;)>





参考HP
Wikipedia:ロベルト・シューマン、クララ・シューマン、ヨハネス・ブラームス
Robert Schumannの生涯
良好な男女関係を築く方法 〜シューマンの妻クララの場合〜
ニューノーマル後の趣味ピアノ日記 〜クララ・シューマンを支えた男性たち〜
クララ・シューマンの生涯と感動
ブラームスとクララ・シューマンは恋愛関係にあったのか
”恋する作曲家”ブラームスのロマンティシズム
Posted at 2025/05/21 23:07:39 | コメント(0) | トラックバック(0) | ミュージック・アート | 日記
2025年05月12日 イイね!

N響が来る ・・・からの ブラームス来訪

N響が来る ・・・からの ブラームス来訪つづきです。
クルマには関係ないので、興味ない方はスルーお願いします。



タイトル写真はロベルト・シューマン40歳のころ。なんか暗い😅

1840年クララとの熱愛を成就させたロベルトですが、次第に精神を病んでいきます。
ロベルトの兄弟もみな短命で、病を得やすい体質だったのかも知れません。



新婚当初は絶好調で、歌曲、室内楽、交響曲など相次いで完成させます、が張り切りすぎたのか?1842年には過労で倒れます。

1843年、メンデルスゾーンが創設したライプツィヒ音楽院に教授として招聘され、このことをきっかけにヴィークと和解しました。これで精神的にも安定したかと思われましたが・・・

1844年、クララのロシア演奏旅行に5ヶ月間同伴して帰国後から、幻聴、不眠、振戦、高所恐怖症、先端恐怖症などに悩まされ、特に幻聴はひどく作曲もままならない状態になりました。



ロベルトは作曲家・音楽評論家としてそれなりに実績を上げていました。音楽評論で紹介したメンデルスゾーンやショパンはセレブになりました。
しかしロベルト自身の収入は上がらず、子だくさんの家計はクララのコンサートに頼る部分が多かったのです。

ロベルトの病気については後世多くの研究者が議論しています。
当時一般的な疾患だった梅毒(進行した神経梅毒)、あるいはその治療に用いられた水銀中毒、双極性障害(いわゆる躁鬱病)などの可能性が上げられていますが、当時のカルテが失われており結論に至っていません。



35歳のとき転地療養のためドレスデンに引っ越し、一時は安定したかと思われましたが、
1847年若くしてメンデルスゾーンが他界。盟友と言える存在だっただけにかなりショックだったようです。

1850年には熱烈に支持していたショパンも亡くなり、同世代の才能を相次いで失いました。


これ以降、ロベルトの精神状態は悪化の一途を辿ります。



1850年友人の推薦でデュッセルドルフの音楽監督に就任しますが、精神的症状から楽団員とのトラブル、演奏会での奇行など相次ぎ、ロベルトは孤立していきます。
このような状況下でも数多くの作品を作曲しているのがすごいというか、天才と○○は紙一重というか😨



そんな中、1853年に運命的な出会いがありました。
ヨハネス・ブラームスがシューマン夫妻の元を訪れたのです。
←若い頃のブラームス、めちゃイケメン!

ブラームスというと、音楽室にある肖像は→
同一人物とは思えない😅



つづく?<(_ _;)>





参考HP
Wikipedia:ロベルト・シューマン、クララ・シューマン、ヨハネス・ブラームス
Robert Schumannの生涯
良好な男女関係を築く方法 〜シューマンの妻クララの場合〜
ニューノーマル後の趣味ピアノ日記 〜クララ・シューマンを支えた男性たち〜
Posted at 2025/05/12 19:01:04 | コメント(1) | トラックバック(0) | ミュージック・アート | 日記
2025年05月07日 イイね!

N響が来る からの、シューマンとクララ2

N響が来る からの、シューマンとクララ2つづきです。クルマとは全く関係の無い話題なので、興味ない方はスルーして下さい😅



ピアノの師・ヴィークの怒りを買ったロベルトとクララの交際。

ロベルトはヴィークと街で出会えば罵詈雑言を浴びせられ、周囲にはあることないこと悪評を流されるというひどい扱い。
クララは転居させられ、単独外出禁止という軟禁状態。

あまりの父の仕打ちに一時はロベルトと別れる事を承諾したりもしたようです。



しかし父の監視をくぐり抜け、ふたりは連絡を取っていたようです。
1837年、ついにロベルトとクララは秘密裡に婚約しました。
まだ未成年だったクララが結婚するには父親の同意が必要。意を決してロベルトはヴィークと直談判に及びましたが、当然の如く物別れに😭

ヴィークはクララとロベルトを会わせまいという意図もあったのか、度々演奏ツアーに出かけるようになりました。
この時期、ロベルトは「ピアノソナタ」「子供の情景」「クライスレリアーナ」等の名曲を次々と作曲しています。クララとの愛に燃える心情が込められているようです。
クララも演奏会でロベルトの曲を演奏して応えました。



1839年、ついにロベルトとクララはヴィークに対し結婚を認めるよう、ロベルトへの誹謗中傷を止めるよう裁判所に訴えました。
裁判では、ヴィークの辛辣な行動があからさまに😅

1840年、裁判所はふたりに勝訴の判決、ようやく結婚式を挙げました。ロベルトは30歳、クララは21歳の誕生日の前日でした。



5年もの苦難を乗り越え、ようやく結ばれました。めでたしめでたし。



・・・とはならない😨
ふたりの結婚生活はなかなかにハードでした。
タイトル画像は1847年(シューマン37歳)頃の肖像画。表情が暗いような気がします。

理由の一つ、子だくさん。

熱愛を貫き結婚したふたり、次々と子供が生まれます。
1841年から1854年にかけて、なんと8人、4男4女😅
長男エミールこそ1歳で夭折したものの7人は成人しました。クララは毎年のように妊娠出産、子育ては大変だったでしょう。

新婚当時、ロベルトは音楽家・評論家として徐々に存在感を増していたものの稼ぎは充分ではなく、家計は19世紀最高のピアニストの一人と評価されていた、クララのコンサートに頼っていました。
ロベルトは子煩悩で「子供は何人でも欲しい」タイプでしたが、クララは日記の中で「子供は3、4人で十分」と書いています。相当しんどかったようです😅

当時のコンサートは自分の作品の演奏会、というかたちが多かったようです。クララも自身で作曲もして、その出来映えはリストも賞賛するほどでしたが、当時は”職業婦人” ”女性の作曲家”が認められる社会風土ではありませんでした(メンデルスゾーンの姉・ファニーも同様の境遇)。
クララはシューマンやメンデルスゾーンの作品を演奏し世に広めました。演奏者と作曲者は別、という現代のコンサートの原型を定着させました。





もう一つの理由、ロベルトの病気
元々内向的な性格のロベルトでしたが、新婚当初は奥様の方が遥かに有名人
クララの演奏旅行に同伴すると”ピアニストの夫”と粗略に扱われました。日記では強がっていたもののかなり傷付いたようです。
そういうストレスもあったのか、徐々に精神を病んでいきました。



さらにつづく?<(_ _;)>





参考HP
Wikipedia:ロベルト・シューマン、クララ・シューマン
Robert Schumannの生涯
クララ&ロベルト・シューマン、時代を先行く夫婦像
ニューノーマル後の趣味ピアノ日記 〜クララ・シューマンを支えた男性たち〜
Posted at 2025/05/07 13:36:28 | コメント(2) | トラックバック(0) | ミュージック・アート | 日記
2025年04月28日 イイね!

N響が来る からの、シューマンとクララ

N響が来る からの、シューマンとクララ先日何気にテレビを見てたら、
”NHK交響楽団のコンサートが広島で開催されます”との宣伝を目にしました。

早速検索してみると、7/21(祝)に上野学園ホール(旧郵便貯金会館)でN響コンサートがある事が分かりました。

演目はブラームスの交響曲第1番と、シューマンのピアノ協奏曲です。

シューマンのピアノ協奏曲はまだ当ブログで紹介してはいませんが、CDは持っています。どちらも有名曲ですね。
N響の地方公演はメジャーな曲目が選択されるのかな。

早速チケットをゲットしました。楽しみです。



それにしても、ブラームスとシューマン、この取り合わせには思わず唸ってしまいます。
シューマンと妻クララ、ブラームスとの間にはクラシックファンには有名なドラマがあるのです。

WikiやWeb、ChatGPTで調べた事を元手に、知ったか記事を書いてみます。
コピペな内容ですが生温かい目で見て下さい。興味ない方はスルーお願いします<(_ _;)>





ロベルト・シューマン(1810-56)29歳ごろ

ドイツのロマン派作曲家。のちにブラームスと出会うころ、彼はドイツ音楽界の重鎮と言える存在でした。



裕福な家庭に生まれたロベルトは、父親が音楽教育に熱心だったこともあり幼少の頃より音楽の才能を発揮します。ピアノの腕前は天才的で、10歳の頃には作曲も始めていました。
しかし16歳の時に父が死亡します。母は息子をちゃんとした職業に就かせたいと考え、18歳から法科大学に進学させました。

しかしロベルトは音楽の道も諦められず、当時ドイツで最も有名なピアノ教師であったフリードリヒ・ヴィークに師事しました。
そのヴィークの次女が後の妻となるクララ(1819-96)です。
😍ウツクシイ

出会った時彼女はまだ9歳。ヴィークによるスパルタ教育もありこの年ピアニストとしてデビューした天才少女で、12歳の頃にはヨーロッパ各地を演奏旅行するほどになります。



1830(20歳)年に天才バイオリニスト・パガニーニの演奏を聴き、音楽への想いが決定的になったロベルトは母親に手紙でその意志を告げます。この頃はヴィークの家に住み込みで指導を受けていました。
母はヴィークに息子の才能について意見を求めました。ヴィークは「無理矢理法律家にすることは愚かなこと」と回答し、母親も音楽家になることを認めました。

ヴィークはピアノの師であると同時に、音楽家シューマンを生み出した恩人でもあるのですね。
一方でかなり厳しい指導だったため、もう指導を受けるのを止めたいとも思っていたようです。
↓フリードリヒ・ヴィーク 確かに厳しそう😅




1831(21歳)年、ロベルトは練習のしすぎ?で右手を壊してしまい、ヴィークの家を出ました。
これ以降、ピアニストの道を諦め、作曲と音楽評論の投稿に力を入れるようになります。同年代のショパンを天才が登場したと紹介したり、ゲヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者に就任したメンデルスゾーンを絶賛したりしました。

1835年、ロベルト25歳の時、クララは16歳でゲヴァントハウスでの演奏会を成功させ、この頃から二人は恋仲になったようです。



それに気付いたかつての師・ヴィークが激怒😨
彼にしてみれば、「せっかく目を掛けてやったのに挫折したうえ、これからピアニストとして飛躍しようとする娘をかっさらうつもりか」ということでしょう。

まあ気持ちは分からないでもない😅

ヴィークはロベルトを出禁にする一方、娘を引っ越しさせ一人での外出禁止、手紙の検閲、ついには偽の恋人を仕立てるなど、ありとあらゆる手を使って二人を引き離そうとします。
ついに二人は・・・😨



つづく<(_ _;)>
Posted at 2025/04/29 22:42:57 | コメント(0) | トラックバック(0) | ミュージック・アート | 日記
2025年01月13日 イイね!

生はいいなぁ

生はいいなぁこうみえて私、クラシック音楽も好きなんです。





と言っても、メロディが気に入ったり、番組で取り上げられたりした有名な曲をスポットでCD購入しているミーハーファンです(^_^;)



今日は広島交響楽団ニューイヤーコンサートへ行ってきました。

会場は広島文化学園HBGホール(広島文化交流会館)、15時開演です。




本日の演目は
J. シュトラウスⅡワルツ「春の声」
ウィーナーワルツの代名詞、シュトラウス2世の鉄板有名曲です。


いかにも新春気分が盛り上がります。





S.ラフマニノフピアノ協奏曲2番。ピアノには日本の有名ピアニスト、小山実稚恵さんを迎えてます。


これも定番人気曲、当ブログでも過去紹介しています。
小山氏のピアノは流麗で素晴らしい。ただ、やや小編成のオケ側の音圧がちょっと足りない印象でした。





P.チャイコフスキー交響曲第5番
有名な第6番〈悲愴〉の陰に隠れていますが個人的に大好きな曲。これも過去紹介してますが・・・



んん?なんか見たようなプログラム
と思ったら、2年前のN響コンサートで、同じ演目を聴いていました。ピアニストも小山氏😅

フルオーケストラの迫力はいいですねぇ。特に第4楽章のクライマックスはアガる。


広響、すばらしい😍





2年前とほぼ同じ演目とは言え、アンコールがあるのはライブならではの特典です。
小山氏のアンコールは、超々定番曲、ショパンのノクターン第2番


この曲はオタクなまるしがクラシックにも興味が向くきっかけを与えてくれました。

昭和57年放映の「魔法のプリンセス・ミンキーモモ」第36話(大いなる遺産)。作画監督わたなべひろし、脚本金春智子の最高傑作回。

詳細は割愛しますが、この回にBGMとして使われたのがショパンのノクターン第2番。もう涙腺が緩む名作です。



フルオケのアンコールは、同じくチャイコフスキーの「くるみ割り人形」より花のワルツ。これも説明の必要の無い有名曲です。


こういうのを体感出来るのも、生のコンサートならではですね。
ワルツで始まり、ワルツで締め。新春に相応しいコンサートでした。





やっぱり生はイイなぁ(*´д`*)ハァハァ
Posted at 2025/01/13 22:26:36 | コメント(0) | トラックバック(0) | ミュージック・アート | 日記

プロフィール

「MEGALiFe再び http://cvw.jp/b/346614/48628942/
何シテル?   09/01 22:24
私はいわゆるスーパーカー世代です。「サーキットの狼」「赤いペガサス」でロータスへのあこがれを刷り込まれ、いつかはロータス...と夢見て、ようやく07年6月、エリ...

ハイタッチ!drive

みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/9 >>

  123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930    

リンク・クリップ

温かいスダチ蕎麦 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2022/05/02 23:32:16
F1 Grand Prix in JAPAN(小林克也風で) 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2021/08/17 11:39:38
白化したプラ部品のお手当 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2020/04/26 07:05:03

愛車一覧

ロータス エリーゼ ロータス エリーゼ
2007年、ようやくロータスエリーゼのオーナーとなりました。通勤に、ドライブに、日常の足 ...
輸入車その他 ベスビー PSA1 輸入車その他 ベスビー PSA1
2019年4月、電動アシスト自転車、e-bikeを購入しました。前後サス付き、街乗り用で ...
輸入車その他 イントレピッド 輸入車その他 イントレピッド
ビレルTIAと3年お付き合いの後、乗り換えました。今度はフルサイズのレーシングカートです ...
スズキ GF-250S スズキ GF-250S
4輪免許は大学1年の夏休み(18歳)に取りましたが、卒業後の研修時期に中型自動二輪の免許 ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation