1981年。FISA(国際自動車スポーツ連盟)は、1983年よりのラリー世界選手権を『グループB』に移行することを決定した。
『連続した12ヶ月間に20台の競技用車両を含む200台を生産すれば、20台の競技用エボリューションモデルを製作出来る』というグループBのレギュレーション。表向きでは、幅広いメーカーの参戦をうながすものであったが、実際には、それまで以上に高性能なラリー専用車の製作が可能となったのである。
結果。この、グループBカテゴリーにおいて、それまでの常識では考えられなかったようなマシンが、次々に登場することになった。世界中の自動車メーカーが、WRCに送り込んだマシンたちは、この規定を最大限利用し、市販車の領域を大きく踏み越えたものであった。
もはや、既存の市販車に改造を加えた程度のマシンでは勝てない。そんな状況の中、トヨタ、日産、三菱。これらWRCに参戦していた国産のメーカーたちも、このグループBの『モンスター』たちに対抗するべく、新型車両の開発に着手する。
『セリカ・ツインカムターボ』を以ってWRCに参戦していたトヨタは、WRC制覇の為のフェイズ2として、1983年。セリカに替わるWRCマシンの開発を決定する。
その名は、コードネーム『222D』。日本発にして初のミッドシップ4WDとなるはずだった、幻のクルマであった……
※画像は、イギリスのTTE(Toyota Team Europe)にてテストが行われた、第2次試作車の8号車『222D-8』です。ブラックのカラーリングは、ヨーロッパでテストが行われた車輛であることを示しています。(※日本国内でのテスト車輛はホワイト)
~グループBと222D~
極めてレギュレーションの緩やかなグループBにおいて華々しい活躍を遂げていたマシンと言えば、大馬力のエンジンをリアミッドシップに搭載した『ルノー5ターボ』や『ランチア・ラリー037』。そして、世界初のフルタイム4WDシステムを搭載し、圧倒的なまでの走行安定性と悪路走破性を誇る『アウディ・クワトロ』であった。
そして1984年には、プジョーが、ミッドシップレイアウトと4WDシステムの二つを併せ持つ究極のマシン・『プジョー205 ターボ16E1』をツール・ド・コルスより投入。ランチアやアウディを大きく突き離す、圧倒的なまでの性能を見せつけていた。
『ミッドシップレイアウト+ハイパワーターボエンジン+フルタイム4WDシステム』。この組み合わせが、WRCの主流となり、また頂点に君臨するであろうことは、誰の目に見ても明らかであった。
そんなグループBに勝利する為、トヨタがベース車輛として選定したのは、1984年6月に発売を控えていた、日本初のミッドシップ車『MR2』であった。
元々はFF車であったAE82型カローラをベースとして製作されたAW型MR2。それに、次世代のエンジンとして開発されていた2リッター・DOHCターボエンジン『3S-GT』をミッドシップレイアウトに搭載し、同時期に開発中であったセリカGT-FOURの4WDシステムを組み合わせたマシン。それが、222Dの構想であったとされている。
このことから、『222D』は『グループB仕様 MR2』。または『グループS仕様 MR2』と呼ばれることも多い。しかしながら、222Dの開発テストに立ち会い、後にトヨタ博物館広報グループ長となる松木秀夫氏は、こう語る。
『確かに形は似ていますが、厳密に言うとMR2はベース車両ではありません。名称も別のものにする予定だったんです。結局、名付けられず、『222D』のままでしたが』
さて、これをどう解釈すべきかについては意見の割れる所であろう。世間で度々言われるように、222Dは果たして『MR2』なのであろうか。
当時の日本にはミッドシップレイアウトの前例は無かった。ならば、ミッドシップの4WD車を製作するとしても、MR2をその基幹として参考にしつつ、研究、開発が行われたであろうことは想像に難くない。
ただ、少なくとも、ミッドシップ化したカローラを、『カローラ』とは呼ばなかったように、4WD化したMR2も、『MR2』と呼ばれなかったであろうことは確かなようである。
ともあれ、車輛の開発は日本のトヨタ開発企画室を中心に、エンジンはTRD、駆動系はアイシン製機、ボディはセントラル自動車とTRD。車輛試作はTRD。そしてテストはTTEが担当することとなった。
そして1984年。WRC車輛開発に対するトヨタ社内の凄まじい逆風を受けながらも、ついに『222D』の開発はスタートした。
~『222D』。第1次試作車~
セリカが社内の激しい非難にさらされながらも確かな戦績を挙げる中、222Dの開発は進み、翌年・1985年の春には7台の第1次試作車が完成した。
※この第1次試作車については、写真資料はいくつか残っているものの、現在も実車が残されているかは不明です。ただ、2007年にイギリスで行われたグッドウッドフェスティバルに展示され、実際に走行した車輛は、この第1次試作車のようです。
エンジンの3S-GTを横置きでミッドシップレイアウトに配置し、当時開発中であったST165セリカ GT-FOURの4WDシステムを、前後逆転させて搭載した第1次試作車。このマシンのスペックの詳細は不明だが、最大馬力は500ps。最大トルクは60kg/m前後にも及んだと言う。
5月にはヨーロッパのTTEへと輸送され、同年4月にセリカを駆り、サファリラリーで優勝を飾ったユハ・カンクネンのドライブによってシェイクダウンが行われることになった。
オランダのユーロサーキットを始め、スコットランドの森林コース、ノックヒルサーキット。果ては英国陸軍の悪路試験路まで。ターマック、グラベル双方で行われた走行試験において、多くの問題が浮き彫りとなった。
特にTTEから指摘されたのは、その整備性の問題であった。ミッションケースの脱着に始まり、クラッチの交換、プラグの交換、スロットル系等々、短時間で整備をこなさなければならないラリーマシンなのにも関わらず、222Dのサービス性は、極めて悪いものであった。
そして、もう一つの問題は、駆動系の弱さであった。
222Dのあまりの高出力にアルミ製のミッションケースが保たず、用意された5セット全てがテスト中に破損。なかには30分も保たずに壊れるものもあったと言う。
また、AW型MR2とさほど変わらない、短いホイールベースにトレッドの中でエンジンを横置きにしたことにより、重量配分や操縦性などの面にも問題が発生した。
これらは一重に、それまでトヨタに存在した設計思想、構造部品等を流用した結果であるとも言えた。エンジンが縦置きでなく横置きとなったのは、セリカやMR2を参考に、そして部品を流用することによってコストダウンを図るためでもあったが、その結果、ラリーカーとしては整備性が極めて悪いという致命的な欠陥を抱えることになってしまったのである。
実験結果を受けてトヨタは、222Dのさらなるパフォーマンスの向上を図る為、エンジンを縦置きに配置した第2次試作車の開発着手を決定したのである。
……しかし。とどまる所を知らずに高出力化、高度化していくラリーカーの開発競争。その熾烈に熾烈を極める戦いの中、徐々にグループBに暗雲が立ち込め始めていた――
(その3に続くはず・・・)
参考文献:
・「Racing on」2004年8月号/ニューズ出版
・「Racing on WRC 2001 VOL.3」/ニューズ出版
・「トヨタテクニカルレビュー」Vol.47/オーム社
・「ベストカー」号数不明(グループS仕様AWとMID4の記事について)/三推社
・「J's ネオ・ヒストリックArchives『TOYOTA MR2&MR-S』」/ネコ・パブリッシング
・「ハイパーレブ Vol.21 トヨタMR2」/ニューズ出版
・「ハイパーレブ Vol.50 トヨタMR2 No.2」/ニューズ出版
参考サイト:
・「ウィキペディア」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
・「TOYOTA MR2 CLUB JAPAN」
http://homepage3.nifty.com/midship/
・「MR2ちゃんねる」
http://mr2.jp/
・「ダイエーモータース」
http://www.daie-motors.com/
その他。MR2の歴史に関連する霧島のブログ:
・
備忘録 01 「SV-3」 ~トヨタ・プロトタイプMR2開発秘話~ その1
・
備忘録 02 「SV-3」 ~トヨタ・プロトタイプMR2開発秘話~ その2
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備忘録 03 「SV-3」 ~トヨタ・プロトタイプMR2開発秘話~ その3
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備忘録 04 「SV-3」 ~トヨタ・プロトタイプMR2開発秘話~ その4(最終回)
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備忘録 05 「SW20」 ~2代目MR2の登場~ その1
・
備忘録 06 「SW20」 ~2代目MR2の登場~ その2
・
備忘録 07 「SW20」 ~2代目MR2の登場~ その3
・
備忘録 08 「SW20」 ~2代目MR2の登場~ その4
・
備忘録 09 「SW20」 ~2代目MR2の登場~ その5
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備忘録 10 「SW20」 ~2代目MR2の登場~ その6(最終回)
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備忘録 11 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その1 ~はじめに~
・
備忘録 12 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その2 ~トヨタ・222D 第1回~
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おめでとう! MR2(SW20)発売20周年!!