2013年04月26日
「MR2の系譜」 AW編 第06回 ~MR2の誕生、そして~
1983年10月28日、晴海の東京国際見本市会場にて、第25回東京モーターショーが開催される。
出品車両は945台と過去最大であり、この数字は、今なお東京モーターショーの歴史の中でも最高ランクの第三位に位置する数でもあった。120万人を超える大盛況の中、一際、大きな注目を集める車両があった。
その名は「SV-3」。長らく開発が噂され、泥沼のスクープが合戦の渦中にあったトヨタのミッドシップスポーツカーが初めて公式の場に姿を現した瞬間であった……
ホワイトとグレーのツートンカラーにイエローのライン。スピードメーターにはデジタルを、タコメーターにはアナログを採用したインストゥルメンタルパネル。スーパーカーの象徴とも言えるリトラクタブルヘッドライト。ルーフのウィンドウを取り外せばオープンとなるTバールーフ。そして、何よりもエンジンがリアミッドシップに収められたその躯体は、大変な熱気を以て迎えられたと言う。
SVとは「Sporty Vehicle」、あるいは「Sports Vehicle」の略称と言われている。SVのコードを冠するモーターショーのコンセプトカーは、それまでにも二台存在し、SV-1は後の初代セリカのリフトバックモデル。SV-2はA60型セリカXXとして発売されていた。
SV-3が、日本初のミッドシップカーとして市販されるであろうことは誰の目にも明らかであった。
~背中には、ふたりを酔わせるハートがある~
東京モーターショーでの反響も受け、トヨタはSV-3の市販化へと動く。そして、その車は、『MR2』という名称を与えられ、遂に量産化が開始されることとなる。MR2とは、『Midship Runabout 2sheeter』という造語の略であり、「小型で軽快に走るミッドシップの2シーター」という意味であった。
MR2第1号車ラインオフの式典の際、MR2開発の発端となった『従来の発想では考えられないようなコンセプトの車輛がトヨタにはあってもよいのではないか』というスピーチを行った豊田英二前社長もセントラル自動車に足を運び、自らテープカットを行ったという。

※セントラル自動車にて、MR2の第一号車ラインオフ式典の様子。
トヨタの社長がラインオフ式典に訪れるのは極めて異例のことであり、その時の英二の笑顔は忘れられないと吉田は語る。
……そして1984年(昭和59年)6月8日。東京は赤坂のラフォーレミュージアム赤坂にて、MR2の発表会が開催され、 MR2は遂に世界に姿を現した。

従来、自動車の新車発表会とは、メーカーの本社ビルや都内の一流ホテルなどの格式の高い会場を借りて行われるの通例であった。だが、ラフォーレミュージアムはファッションショーなどの比較的カジュアルなイベントが行われることの多い場所だった。
「MR2という全く新しいジャンルクルマの発表において、照明や音響などの設備も豊富で、様々な演出も可能なラフォーレを用いて、斬新な雰囲気にしたかった」。そう、広報担当者は語る。
MR2を覆うベールに当てられたスポットライト。BGMと共にベールが引き上げられ、ドライアイスの白煙が薄れてゆき、MR2が報道関係者の前に肢体を露わにする。このような発表会は、新車発表としては、極めて異例のことであったという。

全長3925mm、全幅1665mm、全高1250mm、ホイールベース2320mm。最低地上高140mm。車両重量940kg。グレードは『Gリミテッド』『G』『S』の3種類。『Gリミテッド』と『G』には『AW11』。廉価グレードで、SOHCユニットの3A-Uを搭載した『S』には『AW10』の型式名が与えられた。
緑色と金色に染め分けられた、シャーウッドトーニングと呼ばれるボディカラー。前年に発表されたスポーティFRクーペであるAE86型スプリンタートレノ/カローラレビンよりも、さらにコンパクトなボディサイズ。
コンセプトカー・SV-3からは、デジタルメーターの廃止やウィングの形状の小変更。Tバールーフの廃止の変わりにムーンルーフと呼ばれるサンルーフが設定されるなど、細かな変更点はあったものの、その姿はほとんどSV-3とは変わらなかった。

ミッドシップレイアウトに収められるのは、エンジン横置き型のFF用ユニットとして開発された4A-GELU。電子燃料噴射装置を備えた自然吸気直列4気筒DOHCは、最高出力130馬力、最大トルクは15.2kgを搾り出し、その非常に軽快な吹けあがりとは裏腹に、驚くほどの厚い低速トルクを生み出してくれる。これが、日本初のミッドシップとなるMR2の全容であった。
MR2は、ミッドシップというスポーツカーの理想とされるレイアウトを採用したクルマであった。だが、絶対的な速さや走行性能を、ひたすら追求したスポーツカーでなかったのも事実。「MR2」とはあくまでシティ・ランナバウト、即ち「軽快にキビキビ走る楽しいクルマ」と言うコンセプトが込められた名前であり、実際にトヨタがMR2のことを「スポーツカー」と公に呼ぶことは決してなかった。かつてのトヨタ2000GT以降、トヨタが堂々と公式に「スポーツカー」を名乗ることを許すマシンは1993年のA80型スープラ、その次には2012年のZN6型86を待つことになる……
……MR2が発売された数年後、吉田は再びアメリカに渡る。かつて自身が居を構え、MR2の構想を練った西海岸のロサンゼルス。そこで吉田は、ある光景を目にすることとなる。
吉田の前にシルバーのMR2がやって来た。運転席から降りてきたのは、現地の若い青年。青年はMR2を路肩に停めると、そのまま目の前の店へと入っていった。
それを見た吉田は、手にしたカメラで思わずシャッターを切った。

独特の若者文化の花開いた南カリフォルニア、「ここの若者たちにクルマを買ってもらうとしたら、どんなクルマが良いのだろうか」。それが、MR2の原点であり、全ての始まりであった。それから10年以上が経った今、かつて自身が思い描いた通りの光景が、まさに目の前に繰り広げられている――
「感慨深かった」。吉田はそう述懐する。
~カー・オブ・ザイヤーの受賞~
♪「Le Train de Paris」/Sapho(邦題:「パリ・エキスプレス」のリミックスバージョン)
AW型MR2は、日本国内だけで4万826台、海外を含めると10万台を超える売り上げを達成する。もちろん量産車としては決して「大成功」とは呼べない数字ではあるかもしれないが、かつてこれほどまでの人気を博したミッドシップは世界中どこを探しても存在しなかった。
そしてMR2の売り上げ特徴として、女性ユーザーの比率の高さが際立った。メインマーケットとなる北米ではオーナーの50%が、英国ではなんと60%ものオーナーが女性となったのである。これぞ、MR2の開発陣営が徹底的に研究を行った、静粛性や居住性、快適性などが評価され、操縦性についてもマイルドなものではあるが「誰が初めて乗っても違和感なく運転できる」というトヨタが最も大切にしてきた哲学が「新時代のパーソナルクーペの、あるべき姿」として支持されたことに他ならなかった。

※MR2の宣伝ポスター。モデルはMR2のCMソングを歌うフランス人シンガーのSapho(サッフォー)。
日本初となるミッドシップ・MR2。そのあり方には賛否両論があったが、誰もがMR2に深く注目し、そして大きな話題となったことは疑いようがなかった。
そしてMR2が発売された年の1984年の第5回カー・オブ・ザ・イヤー。当然のことながらMR2もノミネートの対象となる。評点においては、辛口で知られる自動車評論家・徳大寺有恒が、自身の評点において最高となる8点を入れたという。徳大寺はMR2について別の場所で、後に主査となった有馬和俊に対して「刺激的な部分が欠落している、ちょっと魅力が足りない」ともコメントしている一方での、この評点。「これからのトヨタ」に対して、いかに期待を寄せていたかが見て取れる。
また、選考員の中には「重量が重い。重くなるほど補強しているにも関わらず、ボディ剛性が不足している。そしてそれがハンドリングに影響している。だからMR2に3点以上は、どうしても与えられない」と述べて、DOHC16バルブのシビックに9点を投じた者もいた。(まあ……「ボディ剛性」って言ってる時点で、誰のことか言わなくても分かるよねえ……)
だが、「あの」トヨタが。「石橋を叩いた上に渡らない」「冒険しない」「面白みがない」「家電製品ばかり作る」等々、実態は別として「極めて保守的」というイメージばかりが先行してしまっていたトヨタが、このようなクルマを国産メーカーの中で先駆けたことが、最もMR2が評価された理由であることに間違いはなかった。
そして、選考員の一人であり、ベストカーガイド(現ベストカー)の創刊に尽力した正岡貞雄は、MR2に次のようなコメントを贈っている。
「MR2は、いま、一番楽しいクルマ」
昨年の夏の終わり、ぼくはMR2で関西に出張していた。仕事も一段落して、真っ直ぐ東京に戻るのも能がないので、かねてより心惹かれていた河内長野に行くことにした。それは雨の日曜日であった。
阪神高速、堺線で堺に出、光明寺池を経由して河内長野にある観心寺に着いたのは午後1時だったろうか。観心寺には、動乱の鎌倉末期に足利尊氏を散々悩ませた武将、楠正成が祀ってある。つまり、この寺から山路を東にのぼると、金剛山、千早城に出るわけで、ぼくはそのワインディングロードを愉しみにきたわけだ。
観心寺から渓谷にそって千早城にむかう途中、小綺麗な喫茶店があった。そこで休息をとったあと、ぼくは千早城から水越峠を経て、葛城へ出た。
葛城のいくつかの古い社を訪ねたあと、ふいと座席をみると財布やライセンスを入れた革の小さなバッグがない!
さあ大変だ。これでは東京に帰れない。心を鎮めて、どこで失くしたかを考えてみた。ふっと河内長野の白い喫茶店が想い浮かんだ。
それからは、もうMR2を飛ばしに飛ばした。ご存じかと思うが、葛城から水越峠越えは古代から有名な難所である。そこを、MR2はミドシップの特性を生かして、ひらりひらりとコーナーをこなしてくれたのである。
これだ! クルマ本来のもつスポーツ性とは……。パワーが足りないとか、ミドシップ本来の姿は、こんな妥協の産物であってはならないという意見もあるが、逸る心を乗せてこんなにファン・トゥ・ドライブできるクルマが、いま、ほかにあるだろうか!? ぼくがMR2に最高点を与えた理由は、そこにある。で、幸い、ぼくのバッグは、予想通り、喫茶店のかわゆい娘さんが保管してくれていた。
――かくして、MR2は見事にカーオブザイヤーを受賞することとなる。
~MR2の系譜、そして歴史の始まり~
MR2は翌1985年、北米において「'85 MOTOR TREND IMPORT CAR OF THE YEAR」を受賞。日米において二つのカーオブザイヤーを受賞することとなる。
♪「Globe Night」/Sapho(邦題:「コッチキテTongiht」のリミックスバージョン)
1985年1月には、特別仕様車である「ホワイトランナー」を発売、同1985年6月3日、発売から一年を経たMR2は小マイナーチェンジを敢行する。マイナーチェンジとは言えど、バンパーやリアスポイラー、サイドマッドガードなど、それまで未塗装のブラックのままであったパーツを、ボディと同色化。さらに、「スパークルウェーブトーニング」や「ニューシャーウッドトーニング」などの新規カラーが与えられる。
さらに1985年8月23日「Gスポーツパッケージ」と呼ばれるモデルが追加。これはGグレードをベースに、標準では設定されていなかったリアスタビライザーを追加。サスペンションを強化し、タイヤはポテンザRE71に設定。サイドマッドガードや7wayシートを採用するなど、よりスポーツ性を高めたモデルであった。
1986年1月には、Gスポーツパッケージをベースとして特別仕様車「ブラックリミテッド」が限定販売される。
……MR2のデビューを見届けた吉田はやがて定年を迎え、トヨタ自動車を退職する。
だが、MR2の歴史は終わらない。この先もMR2は、幾度も幾度もマイナーチェンジとモデルチェンジを重ね、その身を変えてゆくことになる。
さらなるパワーを与えられたスーパーチャージドAW11。グループBの悲劇。「危険なクルマ」として世界中を震撼させることになるSW20。GT選手権の栄光。アンチパワー・ライトウェイトへの原点回帰・ZZW30、そしてハイブリッドへ――
販売期間23年に渡るトヨタ・ミッドシップヒストリーは、今まさに始まったばかりだった……
(第7回へ)
※注:
※誠に勝手ながら、文中は敬称略とさせて頂いております。
参考文献:
省略します。第一回を参照のこと。
関連項目:
・「MR2の系譜」 AW編 第01回 ~主査・吉田明夫~
・「MR2の系譜」 AW編 第02回 ~プロトタイプMR2 “730B”~
・「MR2の系譜」 AW編 第03回 ~MR2のシャシー・駆動系~
・「MR2の系譜」 AW編 第04回 ~MR2のボディ・エクステリア・インテリア~
・「MR2の系譜」 AW編 第05回 ~MR2を巡るスクープ合戦~
スペシャルサンクス:
・アルティマ♪ 様(資料提供)
・しょっぺた様(車輌協力)
・正岡貞雄 様
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MR2の系譜 AW編 | 日記
Posted at
2013/04/26 11:39:02
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