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2011年01月18日 イイね!

備忘録 22 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 Ex ~三菱・スタリオン4WDラリー 第3回(最終回)~

備忘録 22 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 Ex ~三菱・スタリオン4WDラリー 第3回(最終回)~ 1980年代。三菱自動車は、ランサーターボEXに代わるWRCマシンの投入を計画していた。

ベースとなったのは、三菱のフラッグシップである“スタリオン”。そのスタリオンを4WD化し、370馬力のターボエンジンをフロントミッドにマウント。駆動系として、機械式LSDに、前後トルク配分を制御するビスカスカップリングを組み合わせてセンターデフを配置。

T1、T2。R1、R2。4台の試作車を以て実験と開発が進められ、WRCにおけるフルタイム4WDの先駆けであるアウディ・クワトロをも上回るコーナリング性能を発揮するまでになっていた。

市販化に向けて、開発と広報活動が着々と進められていた……のだが。


~計画の中止と、WRC出場~

1984年5月。スタリオン4WDラリーの開発に黄信号が灯る。三菱社内で長らく燻っていた疑問や反発が一気に浮上したのである。

『開発コストがあまりにも膨れ上がっていないか』『量産型は市販車として満足のいく仕上がりなのか』『果たしてこのマシンでWRCに勝つことができるのか』……

――そして、6月21日。スタリオン4WDラリーがグループB出場の為の、ホモロゲーション取得用市販車生産計画中止が正式に決定された。それはつまり、スタリオン4WDラリーの市販化中止と、WRCへの参戦計画の白紙化ということでもあった。

しかし、試作車によるテストは継続され、そしてまたエンジニア達は、スタリオン4WDラリーの性能と実力を確かめられずにはいられなかった。


1984年8月。南フランスで開催されたミルピステ・ラリー。そこにスタリオン4WDラリー“R1”を持ちこみ、実戦の場で走行させたのである。

下は、スタリオン4WDラリーがミルピステを走行した貴重な映像である。




ホモロゲーション取得を必要としないエクスペリメンタルクラス。ラッセ=ランピのドライブによりスタリオン4WDラリー“R1”は見事完走。クラス優勝を果たした。

ミルピステで発生したトラブルは、日本国内で実験開発が行われていた“R2”を用いて解析がなされる。

同年11月にも、イギリスのウェールズで行われたRACラリーの特別枠・プロトタイプクラスに出場。全車走行を終えた後の。しかも第3レグのみという特殊な条件ではあったが、ランピのドライブにてR1の走行が披露された。

そして、翌1985年6月のマレーシアラリーへもR1は出場するが、結果はリタイヤ。これを最後に、スタリオン4WDラリーは、大衆の前からその姿を消した――


~廃棄処分~

マレーシアラリーの4ヶ月後。1985年10月17日、日本。スタリオン4WDラリー“R2”の廃棄処分作業が行われた……。

R2は、4台の試作車両の中でも。最も長く日本の三菱岡崎研究所のファクトリーと実験施設で過ごしてきた車輛であった。

スタリオン4WDラリーのコンセプト立案段階から開発に至るまで。常にその中核にあった山本祥二技師は、上司から『お前が最後の骨を見て来い』と言われ、R2廃棄作業に立ち会っていた。

強力な圧縮機に挟まれ、徐々に姿を変えてゆくR2。山本技師は『ブチャッと潰れた』とメモに記したと言う。他のクルマとは潰れ方が違うような気もしたが、気のせいかもしれないもと思ったと言う。

そして最後の最後。鉄塊と化した車体から『ボッ』と小さな炎が立ち上がった。

もちろん、燃料や油脂類は全て抜き取られ、消火剤をかけながら作業は行われていた。そして、これまでの廃棄作業で炎が出たことなどは無かった。

『なんだか、生き物の体から魂が抜け出たみたいで怖かった』

その炎を見て山本技師は、背筋が冷たくなるのを感じたと言う――


……スタリオン4WDラリーが駆けるはずだったグループB。その中止が決定されたのは、その半年後のことだった。


グループB中止決定後の1986年9月。香港-北京ラリーにT1とT2の2台が出場した。ラッキーストライクカラーと555カラーに身を纏ったスタリオン4WDラリーは総合2位を獲得。1987年9月の同ラリーにも参戦し、総合9位を獲得した。

これを以て、スタリオン4WDラリーの全モータースポーツは終了した。

既にプロジェクトチームも撤収作業を開始しており、メンバーも次なる課題と開発への挑戦を開始していた。

ある者は4バルブDOHCターボエンジンの開発を。、ある者は新たな4WDシステムの開発に取り組んでいた。山本技師も、スタリオンプロジェクトの精算をしながら、次なるラリーカーの構想を練り始めていた。

最後に残された3台のスタリオン4WDラリーがどうなったのか。実はあまりよく分かっていない。

詳しい資料も残っておらず、記憶している者も少なくなった。また、スタリオン4WDラリーは開発途中。幾度も幾度も改造と改装が行われており、現存しているマシンが、どのような経歴を持つどの試作車であるのかすら、曖昧となっている。

現在、3台のスタリオン4WDラリーは、イギリスと日本に分散され、永い眠りについている。しかし、4台だけでは無く、20台量産されたという説もあり、今現在、世界に何台のスタリオン4WDラリーが現存しているのか、それすらも正確なことは不明である。

スタリオン4WDラリーの開発に携わり、それから後も三菱のラリーカー開発を担った稲垣秋介技師はこう語る。

『私は過去は振り返らない。終わったことはすぐに忘れてしまう。だからスタリオンのことは、もうあまり記憶にない。目は常に未来を見ていますから』


~スタリオン4WDラリーの遺したモノ~

1992年。三菱は一台のマシンを世に送り出す。その名は、ランサーエボリューション。

2リッターの4ドアセダンという、“普通車”のパッケージでありながらもランエボは、その卓越した電子制御4WDシステムと、直4ハイパワーターボエンジンを以てラリーを。そしてサーキットを席巻。公道最速の戦闘機と畏怖の声を以て呼ばれることになる。

1996年には、トミー=マキネンのドライブするランエボが、WRCメイクスチャンピオンを獲得。三菱の悲願を達成する。

ランエボはその後も快進撃を続け、4年連続メイクスチャンピオンを。98年にはマニュファクチャラーズチャンピオンを獲得する。

その兄弟車であるミラージュも国内ラリーにて目覚ましい活躍を遂げ、『ラリーの三菱』の黄金時代が再び到来した。

ランエボの心臓となった4G63エンジン。後に2リッターながらも280psの大馬力を絞り出すことになるこの名機を開発した伊藤博技師もまた、スタリオン4WDラリーのエンジン開発に携わった人物であった。

スタリオン4WDラリーを開発したことにより三菱は、4WDシステム、エンジン、車体解析、材料などに関する技術的なノウハウが一気に蓄積された。数億円程度のコストが掛かったと言うが、現在これらの技術を外から買えば、10億円にもなると言う。

『WRCでの結果こそ残せなかったが、我々技術者が得たものは非常に大きかった。あのプロジェクトは結果的に素晴らしい技術研究の場となった。あのプロジェクトがあったからこそ、その後WRCで栄光を掴むことが出来たのであるし、ランサーエボリューションなどの名車が生まれたのです』

21世紀に入った後。山本技師は、こう力説している。そして、それを否定する者などいないであろう。


三菱のフラッグシップであり、グループA、グループNで活躍したスタリオンは、1990年に生産中止。その血統は、新たなフラッグシップ・GTOへと受け継がれる。

かつて無し得なかったスタリオン+ハイパワーターボエンジン+フルタイム4WDシステム。

GTOは、280馬力を発揮するツインターボエンジンにフルタイム4WD機構を兼ね揃えた、まさにスタリオン4WDラリーが目指したパッケージングを実現して登場した。

そしてGTOは、その強大なトルクを武器に、もはやスカイラインGT-Rのワンメイクスレースと化していたN1耐久レースに参戦。GT-Rを追い回すことのできる唯一のマシンとして、密かに恐れられた。


スタリオン4WDラリー。市販化を目前としながらも、遂には世界を獲ることを許されなかった悲劇のマシン。

しかして。その血脈は今なお、スリーダイヤモンドと共に引き継がれているのである。


(備忘録『「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 Ex ~三菱・スタリオン4WDラリー~』はこれで終わりです。お読み下さった方、コメントを下さった方、色々と貴重な情報を教えて下さった方。本当にありがとうございました)



参考文献:

・『Racing on』 No.381 2004年8月号/ニューズ出版


参考サイト:

・「ウィキペディア」
http://ja.wikipedia.org/wiki/


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備忘録 13 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その3 ~トヨタ・222D 第2回~
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2011年01月09日 イイね!

備忘録 21 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 Ex ~三菱・スタリオン4WDラリー 第2回~

備忘録 21 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 Ex ~三菱・スタリオン4WDラリー 第2回~ 1970年代。WRCの黎明期において、その高い技術力を世界に見せつけた三菱自動車。

しかし1981年。4年のブランクを経てWRCに復帰した三菱は、最新鋭の4WDシステムの前に苦戦を強いられることとなった。

そして三菱は、ランサーEXターボに代わる、グループB制覇に向けた新型ラリーマシン開発に着手する。

新たなWRCマシンとして選ばれたのは、翌1982年に発売を控えていた“スタリオン”であった――


~スタリオン4WDラリーの開発~

『ハイパワーターボ プラス 4WD。この条件に非ずんばラリーカーに非ず』

アウディ・クワトロの登場によってそんな風潮がWRCを席巻する中、三菱自動車は、FRであったスタリオンに4WDシステムを搭載した、“スタリオン4WDラリー”の開発を決定する。

スタリオン4WDラリー自体の開発は、1982年後半から図面が引かれることになるのであるが、それに先駆ける1982年5月から、エンジンの先行開発が始まっていた。

ベースとなったエンジンは、既にランサーターボで実績のあった“シリウス4G63”。

2バルブSOHCのまま、ボアとストロークを2mmずつ拡大し、排気量を2140cc拡大。ランサーよりも大きなターボチャージャーとインタークーラーを組み合わせる――。

『当時はもの凄い量のテストを繰り返した。ありとあらゆることをベンチで試し、そして実車で逐一検証した。お金も時間もたっぷりかかったが、得られるものも非常に多かった。あれほど内容の濃い開発実験を行う事は今の時代では無理だろう』

と、開発陣の一人は語った。

最終的に出力は370馬力と、ランサーターボに比べて30%向上。400馬力を目標としていたが、とにかくパワーに耐えかねて、壊れなかった所が無かったぐらいにありとあらゆる部分が壊れたと言う。

……そんな中。やがて、スタリオン4WDラリーの試作車も完成した。


~4台の試作車両~

1983年。量産を前提とした試作車両4台が製作される。

2月に完成した“T1”、4月には“T2”。 7月には“R1”。そして、壮絶な最期を迎えることとなる“R2”の4台である。

Tはテスト、Rはラリーの意。R1はラリーアートヨーロッパに送られてテストが。R2は日本国内でのテストが行われた。

重量は、T2の車両重量は空車時で1144kg、前輪荷重は約600kg。R1は1072kgの前後重量配分は55:45と、いずれもややフロントヘビーとなっている。

これが開発陣の意とした所であり、燃料を入れて人が乗った状態で50:50を目指したのであると言う。加速時にフロントが浮き気味になる為、若干鼻先が重い方が良いという考えがその裏にあり、ミッドシップ案も存在したものの、この理由によって廃案となった。

4WDの機構に関しては、ラリーアートヨーロッパからは『舗装路ではRWDが有利』とのことでパートタイム式を推す声があったが、結局はフルタイム式を採用。

4WD特有であり、最大の弱点であるアンダーステア対策として、スタリオンには様々な工夫が凝らされた。アウディ・クワトロは直結式のフルタイム4WDであったが、スタリオンは機械式LSDに、前後トルク配分を制御するビスカスカップリングを組み合わせてセンターデフを配置。

結果、1983年10月にヨーロッパで行われた比較実験では、アウディ・クワトロ以上のコーナリング性能を発揮するなど、高い性能を示した。

ただ、直線ではアウディ・クワトロに遅れをとるなど、まだまだ改善の余地もあったが、同じく1983年10月の東京モーターショーにも、エンジンを可変バルブ式のシリウスダッシュエンジンに換装したスタリオン4WDラリーが出展されるなど、実戦と市販化に向けてさらなる開発が進められていった。

1984年には、ロワアームの軽量化やフロントサスペンションやデフキャリアのアルミ化など、さらなる軽量化が図られる。

ホモロゲーション取得の準備や、ヨーロッパの輸入業者への市販最終型の披露。国内でも高知県のくろしお博で展示が行われ、また一説では市販カタログまでもが準備されたと言われていた。

84年5月には、新たな4WDシステムの実験も行われ、実戦投入と市販化に向けた開発は順調に進んで……いた。


(その3に続く……)

参考文献:

・『Racing on』 No.381 2004年8月号/ニューズ出版


参考サイト:

・「ウィキペディア」
http://ja.wikipedia.org/wiki/


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2011年01月05日 イイね!

備忘録 20 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 Ex ~三菱・スタリオン4WDラリー 第1回~

備忘録 20 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 Ex ~三菱・スタリオン4WDラリー 第1回~ 公道最速の市販車を決定するWRC(World Rally Championship)。かつて、そのWRCに『グループB』と呼ばれるカテゴリーが存在した。

1982年より本格開始されたグループB。『連続した12ヶ月間に20台の競技用車両を含む200台を生産すれば、20台の競技用エボリューションモデルを製作出来る』というレギュレーションは、表向きこそ、幅広いメーカーの参戦をうながすものであったが、実際には、レースに特化したマシンの開発を可能とするものであり、事実、多くの超高性能ラリーカーが出現することとなった。

『プジョー205 ターボ16E1』、『フォード RS200』、『ランチア デルタS4』……。500馬力を超えるパワーを絞り出すハイパワーターボエンジンをミッドシップレイアウトに搭載し、フルタイム4WDシステムを以て地を駆ける。

F1マシンをも凌ぐ加速力を発揮するグループBのラリーカー。そんな常識外れのモンスター達が割拠したその時代。日本の自動車メーカー達もこのグループBにて勝利を収めるべく“決戦兵器”の開発に着手していた。

日産の“シルビア”240RS、サニー1200ピックアップ。
唯一無二のロータリーラリー=マツダRX-7と、“雪の女王”と呼ばれたBFMR型ファミリア。
サファリラリーで3連勝を果たしたトヨタ・セリカツインカムターボ、
そして幻のミッドシップ4WD・グループB仕様MR2=“222D”……

しかし、それらの中には、結局は日の目を浴びることのなかったマシンも存在する。今やラリーを語る上では欠かすことのできない三菱自動車。その三菱が開発した『スタリオン4WD』というマシンが存在した。

このクルマもまた、市販化目前にまで到達しながらも、遂には実戦の場で戦う事を許されなかった悲劇のマシンであった……


~三菱とWRC~

1973年から始まったWCR(当時の名称)。三菱自動車は1973年のWCR開始時から参戦していた、日本でも最も古いラリーの歴史を持つメーカーでもあった。

三菱自動車の誇るランサー1600GSRは、デビュー戦でもあるサザンクロスラリーでは1位から4位までを独占。翌74年のサファリラリーでは、初出場にして初優勝を飾ると言う、まさに名門中の名門であった。

三菱・ランサー1600GSRの写真↓




そんな輝かしい戦歴を残した三菱自動車は1977年の参戦を以て、一時ラリーからの撤退を決定する。三菱が再びWRCに復帰するのは4年後のことであった。

迎えた1981年。時はグループ4の全盛期。三菱はランサーEX2000ターボ、通称“ランタボ”にてWRCへの復帰を果たす。

しかしながら、三菱とランサーの前に、一台のマシンが立ちはだかった。

1981年1月より、アウディが投入したアウディ・クワトロである。まだ4WDという駆動方式が稀であったその時代。世界初のフルタイム式4WDにセンターデフを内蔵する『クワトロ・システム』を実装したアウディ・クワトロは、瞬く間にラリーの世界を席巻する。

その圧倒的なまでの走破力とトラクション性能の前に、当時のラリーの名門であったランチアやルノーですらもが瞬く間に散って行った。『もはや4WD出なければ勝てない』。そんな風潮がラリー界に広まる中、4年のブランクを以て登場したFRの三菱・ランサーが敵うはずもなかった。


1981年10月31日。苦戦するランサーEXターボに代わる三菱の新型ラリーマシン開発と、そのコンセプトの議論が開始された。


ベースマシンはスタリオンか、コルディアか――
エンジンは2バルブか4バルブか――
エンジンの搭載位置は――
駆動方式は――


何度も何度も繰り返された討論の末、ベース車輛となったのは、1982年に発売を控えていたスタリオンであった。

スタリオンは、1970年に発売されたギャランGTOと、そしてその後継であるギャランΛ(ラムダ)/エテルナΛの血筋を引き、三菱の新たなフラッグシップとして期待されるFR3ドアハッチバッククーペであった。

スタリオンに4WDシステムを搭載し、ハイパワーターボを以てWRCを制する。これが、三菱の計画した新WRCマシン像であった。


……後に伝説となる『グループB』の導入が決定され、血と汗と泥に塗れた死闘の日々が繰り広げられる前夜。

昭和56年。やがて訪れる悲劇の数々も知らず、スタリオン4WDの開発は始まったのである――



(第2回に続く……てか、やっぱり1回じゃ終わらなかったorz)


参考文献:

・『Racing on』 No.381 2004年8月号/ニューズ出版


参考サイト:

・「ウィキペディア」
http://ja.wikipedia.org/wiki/


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2010年09月30日 イイね!

備忘録 19 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その9 ~日産・MID4 第4回(終)~

備忘録 19 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その9 ~日産・MID4 第4回(終)~ ミッドシップレイアウト+フルタイム4WDシステム。

日本では例の少ないこの組み合わせに挑戦した「日産・MID4」。MID4はあくまでも、「技術の日産」と、その復興。そして、次世代の技術の開発と、時代を担う若手の育成を目的とした、あくまでも「コンセプトカー」であり、「テストカー」に過ぎなかった。

しかしながら、1985年。衆目の前に発表されたMID4は、その完成度の高さから、市販化を強く希望され、期待されるようになった。

はじめは「あくまでもコンセプトカー」として市販化は行わない方針で開発を行っていた日産自動車も、その声に押されるかのようにMID4の市販化と量産化への道を模索し始めたのだった。

~MID4-Ⅱの開発~

1985年のフランクフルト・モーターショー。そして追浜で行われた試乗会。それらでの評判を受けて、日産はMID4の量産化・市販化に向けて、新たな開発を開始した。

1985年9月のMID4発売直後。シャシー設計部に在籍していた中安美貴は、MID4開発主管を務めていた桜井眞一郎から呼び出され、量産化を前提としたMID4の開発を打診される。中安技師はそれを引き受け、次なるMID4の開発がスタートすることとなった。それが後に「MID4-Ⅱ」と呼ばれるクルマであった。

桜井技師は、「スポーツカーにするつもりは無い。どんな人が乗っても、どんな腕前でも。何も努力しなくてもプロと同じぐらい上手に速く走れてしまう、腕の振るいようの無いクルマ」をコンセプトとしてMID4の開発を進めていた。

しかし、中安技師の中には、これとは全く違った思いと考えがあった。

「プロゴルファーのクラブをアマチュアが使いこなせないように、スポーツカーも使い手によって性能を発揮するクルマであるべきで、万人向けにする必要は無いのではないか。と言って、クルマの挙動を全て電子制御させるのも面白くない。高速直進時の外乱などに対しても反応出来るドライバーの為のクルマ。MID4-Ⅱはそういうスポーツカーにしたかった」

※これは、桜井技師の思い描いたMID4とは全くコンセプトを真逆にするものでした。桜井技師の考えるコンセプトは、トヨタの「スポーツカー」のコンセプトと通じるものが大いにあります。

トヨタのMR2やスープラは、敢えて可能な限りマニアックな操縦性を排し、スポーツ志向に振り切らないその姿勢について、批判を受けることも度々あります。

果たして、桜井技師と中安技師。どちらの考えが正解であったのか、そして間違いであったのかは、今となってはわかりません……


ドライブフィールの手本となったのはランボルギーニ・ミウラ。「乗り心地は良くないのに運転しやすい」「240~250km/hでも安心して走れるリアルスポーツカー」。そんな「スポーツカー」を目指し、MID4-Ⅱの開発は始まったのである。

MID4-Ⅱには300psのパワーが必須条件。こう考えた中安技師は、中央研究所の門を叩き、VG30DEをベースとしたターボエンジンの開発を取り付ける。

そして、出力の増強に伴い、トランスミッションはブルーバード・マキシマ用のものから、31型フェアレディZ用のものに変更。それに合わせて、エンジンはⅠの横置きから縦置きへと変更されることとなった。

サスペンションは、当初は4輪ダブルウィッシュボーンを計画していたが、中央研究所からの提案により、後輪にマルチリンク式を採用。

操舵システムには「クルマの動きを予測してコンマ何秒か前にステアする」という、通常のHICASとは違うシステムが搭載予定であった。このシステムについて中安技師は「素晴らしかった。この主のクルマは過渡特性が非常に重要なのですが、乱暴に車線変更してもピタリと決まる」と、大いに評価していた。

しかし、中安技師はこのMID4-Ⅱが試作に入る前に吉原工場へと異動となり、その後はレース部門出身の野口隆彌技師が受け継ぐことになった。

~MID4-Ⅱの登場~

1987年の東京モーターショーにて、MID4-Ⅱは華々しくデビューを飾る。そのMID4-Ⅱの主要還元は、下記のようなものであった。カッコ内は「MID4-Ⅰ」の数値。


全長×全幅×全高:4,300mm×1,860mm×1,200mm (←4,150mm×1,770mm×1,200mm)
ホイールベース:2,540mm (←2,435mm)
ホイールトレッド前/後:1,545mm×1,550mm (←1,470mm×1,540mm)
重量:1,400kg (←1,230kg)
重量配分 前/後:40/60

エンジン:VG30DET TE-C型(縦置き) (←VG30E型(横置き))
エンジン形式:水冷式 60度V6 ツインターボ+空冷インタークーラー (←水冷式 60度V6 自然吸気)

排気量:2960cc
ボア×ストローク:87mm×83mm
圧縮比:8.5:1 (←10:1)
燃料供給:電子制御燃料噴射

最大出力:330ps(6800rpm) (←230ps(6000rpm))
最大トルク:39.0kg/m(3200rpm) (←28.5kg/m(4000rpm))

冷却系:サイドマウント式ラジエーター (←フロントマウント式ラジエーター)

ステアリング:ラック&ピニオン式 パワーステアリング搭載 HICAS
変速機:5速MT(フェアレディZ用) (←5速MT(ブルーバード・マキシマ用))
クラッチ:ツインディスク (←シングルディスク)
駆動方式:フルタイム4WD(ファーガソン式センターデフ搭載)

サスペンション(フロント):ダブルウィッシュボーン (←独立マクファーソン・ストラット)
サスペンション(リア):マルチリンク (←独立超ワイドスペース・ダイアゴナルAアーム)
ブレーキ:前後ベンチレーテッド・ディスク+サーボABS (←ABS無し)
タイヤ:前235/55ZR16 後255/50ZR16 (前後205/60VR15)


大幅に拡幅されたボディとホイールベース・トレッド。構造はⅠと同じくスチールとアルミ。GFRP(カーボンプラスチック)を組み合わせて作られている。

フェラーリ然としたデザインが否めない「MID4-Ⅰ」からデザインは一新され、ウェッジスタイルの効いたスタイリッシュなデザインへと変更された。大きな非難を浴びたⅠのデザインと異なり、前澤義雄氏は、「いつ市販に移されてもいい形として作っている」と自信を見せている。

最大の変更点は、縦置きとなり、ターボ化されたエンジン。縦置きこそがミッドシップの理想とよばれるが、MID4の場合、あくまでもトランスミッションの形式に合わせて縦置きにせざるを得なかった、と言うのが真実である。

フロントサスペンションは、ドライブシャフトを避けるためにツインダンパーとなっているのが目に止まる。ただ、操舵システムに関しては、中安技師の思惑とは異なり、通常のHICASが採用されてしまうこととなり、中安技師を愕然とさせた。


~MID4-Ⅱの評価と、その行方~

このMID4-ⅡにあってもⅠと同様に試乗会が行われた。MID4-Ⅱの走行性能は、日産社内で行われた仮想ライバルカーと比較しても、それらを凌ぐ走りをみせたという。

しかしながら、「スポーツカー」志向に振られたMID4-Ⅱはまだまだ未完成な領域もあったようで、1987年12月の「カーグラフィック」においては、

「ハンドリングという意味での足回りはまだかなり荒削りである」
「直進状態でも路面の僅かな不整を拾って割とチョロチョロしがち」
「ブレーキングではバランスが完璧に取れていない」
「高速からのフルブレーキでは瞬間的に左右へ振られ、肝を冷やした」
「何ラップかすると、かすかにフェードによる異臭が漂ってくる」

などの欠点が挙げられている。しかしながら、高速コーナリングにおいても基本的にはごくニュートラルに近いものがあり、全体的には完成度を深めなければならないのも明らかだが、今後に期待する所は大きい、と記されている。

これらについて、野口主管は、

「我々も開発段階で様々なヨーロッパ車に乗るが、いまだに関心させられるのは車の基本的な部分で実にしっかり作ってあることだ。例えば911だが、第一印象はすべての操作が重く、固いというマイナス的なイメージが支配しがちでも、ある程度走ってみると基本部分の優秀さが本当に分かって来る。まだまだ勉強すべき点は多い。エレクトロニクスやハイテクはその上での話だと思っている。そうした基本をきちんと押さえ、さらにMID4らしさとか、MID4ならではのものを付加したい」

と、謙虚な姿勢を示した。

また、中安技師は、

「モーターショーへの出品というタイムリミットがあって、ほとんど実験する時間もなかったですし、あのまま市販していたらオーバーヒートやベーパーロックが起きたかもしれません」

と語った。

ボディデザインを担当した前澤義雄氏は、当時の日産自動車社長である久米豊から「絶対に発売するぞ」と、一度ならず話しかけられたと言う。

しかしその頃。主要マーケットとなる北米では、生産者責任追及の厳しさが増し、それに対する完璧な実験確認が求められるようになっていた。

そして日産自動車にそこまでの余力は無く、MID4の市販化計画は暗礁に乗り上げる。また、仮に実験を行い、市販化に持ち込んだ場合の車輛販売価格の試算も行われた。

その金額は、1台あたり2500万円――

2千5百万円。この金額ですら、赤字ギリギリのラインであったと言う。

日産自動車は、ポルシェやフェラーリ、ランボルギーニではない。あくまでも「乗用車」のメーカーである日産がそのようなエクスクルーシヴ極まる「スーパーカー」を発売したとしても、販売台数が見込めるはずもなかった。

……結果、市販化は中止。MID4は市販化を目前とし、周囲からの大きな期待を集めながらも、その道を断たれ、歴史の中に埋もれて消えて行った――


※MID4は、コンセプトカーとしては異例ながら、各地のイベント等にも度々貸し出され、IMSAへの参加も想定したIMSA仕様のカラーリングを施した「MID4-IMASA」が製作されたり、WECジャパン1985でペースカーを務めたりもしました。

現在、何台のMID4が現存しているのかは不明だが、「MID4-Ⅱ」が日産自動車 座間工場跡地にある記念庫に保管されているのは確実のようです。

最後まで、大衆の目に晒されることのほとんどなかったトヨタ・222Dのことを考えれば、MID4にはまだ救いがあったのかもしれません、。

~MID-4の遺したモノ~

MID4の発売が想定されていた1990年。一台のクルマが世界に送り出された。

その名はホンダ・NSX。日本初の「スーパーカー」として登場したNSXは、ミッドシップレイアウトにアルミモノコックボディを組み合わせ、その性能と完成度から、世界中から非常に高い評価を受けることとなった。

もしも。もしもMID4の市販化が実現していたとしたら、その地位は日産と、そしてMID4のモノになっていたかもしれない――。それを思うとMID4開発陣は「悔しかった」と後に語る。

しかし、NSXに先駆ける1989年。日産自動車jは2台のスポーツカーを世に送り出していた。

1台は「Z32型フェアレディZ」。そしてもう1台は、16年振りに復活を遂げた「BNR32型 スカイラインGT-R」であった。

32型フェアレディZには、MID4に搭載されたVG30DETT型をデチューンしたエンジンが搭載され、国産車として初めて280psを達成。トルクにおいても現代の最新スポーツカーをも上回るパワーを発揮し、いわゆる「280馬力規制」を生みだすまでになった。

32型 スカイラインGT-Rについては語るまでも無いだろう。「RB26DETT」という国産史上最高傑作とも言える強力無比なエンジンを搭載し、そしてその足回りには、電子制御で前後のトルク配分を自在に可変させ、常に最適なトルク配分で走行することを可能とする4WDシステム=「アテーサET-S」が搭載されていた。その走行性能はまさに最強。日本のモータースポーツ界をまたたく間に席巻、震撼させた。

32型フェアレディZのエンジン。そして32型スカイラインGT-R。メーター周りのデザインとステアリング形状は、偶然か必然か、MID4-Ⅱと良く似たデザインとなっている。そしてまた、その根幹をなすエンジン、そして駆動系の開発には、MID4の開発で培われた技術と知識の蓄積がその背景にあることは容易に想像可能である。



MID4とは何であったのか。それについて中安技師は次のように語る。

「初めてのコンセプトのクルマに対しては、もっと謙虚であるべきだったと思います。性急にことを運ぶのではなく、あと1年じっくり熟成すればいいクルマになったと思いますよ。それでもMID4に関わった若い人たちは元気でしたね。MID4で苦労した現象がその後に解決したこともあったはずで、教材としてのMID4はやはり大きな価値があったと思いますよ」

MID4。新技術の開発と、次世代技術者の育成を目的として、その開発は始まった。

バブル経済の中にあっても、その存在は輝かしく、多くの者がその光に魅せられ、虜となり、夢中になった。

MID4。遂に時代の表舞台に立つことの無かった幻のクルマ――。しかしならも、コンセプトカーとしての役割を十二分過ぎるほど全うし、その駆け抜けた軌跡は、今も間違いなく続いており、そしてこれからも続いて行くのである。




~エピローグ。幻のMID4-「Ⅲ」。そして日産とミッドシップ~

MID4の発売が白紙となって月日の過ぎた1990年(平成2年)、8月――

驚くべきスクープが「ニューモデルマガジンX」9月号に掲載された。

それは何と、発売中止に伴い、プロジェクトも解散されたと思われていた「MID4」のテストが、今なお継続されているというのである。

そして、1989(平成元年)の「ニューモデルマガジンX」5月号には、「フェラーリを超える!」のスローガンの元、3代目MID4の開発が進められている、との「噂」が掲載されていはいたものの、その実物は未だに闇の中であった。



これが、ニューモデルマガジンXがスナイプに成功したMID4の後継・通称=「MID4-Ⅲ」である。

エアダクトを大きく取ったフロントバンパー。
エアスクープが追加されたフロントボンネット。
リトラクタブル・ヘッドライトはプロジェクタータイプに変更。

リアデザインはフロント以上の変更が成され、NSXと同じくボディ一体型のリアスポイラーが設置。
そして、これもまたNSXと同じくCピラーと面一化されたリアウィンドウは、空力の上で理想の形であり、国産初のミッドシップであるMR2と、そしてMID4-Ⅰ、Ⅱもが遂になし得なかったデザインである。

遠景からの作業風景もスクープされ、そこからはV6エンジンが縦置きされていることが確認出来る。

本来、テストカーは存在すら秘匿されるものである。しかしながらこの謎のマシンについて、日産自動車はその存在を認め、「高速走行でのクルマの挙動やハンドリング性能をチェックする為の車輛である」とコメントしている。

また、関係者筋の話では、VG型ではない次世代のV6ユニットとなる3.5リッターV型6気筒DOHC24バルブエンジンを縦置きに搭載され、400ps以上のパワーを発揮し、オーバー300km/hで走行。ポルシェ959やフェラーリF40以上の強烈な加速を実現していると言う。

なお、この「ニューMID4」は、1989年の東京モーターショーにて、1/5のクレイモデルがひっそりと展示されていたそうである。

「必ず市販はある」。そうニューモデルマガジンXでは断言が成されている。だがしかし、その後もMID4が発売される様子は見当たらない。

それに関して、ニューモデルマガジンXの編集長を務めた経歴もある牧野茂雄氏が日産自動車のエンジニアたちに取材した中で、興味深い発言が見て取れる。かなり長い文章ではあるが、その要点だけをまとめてみると、以下の様になる

「日産が自動車の運動性を設計する上で基本においている点は『誰が乗っても』『どんな時でも』『どんな道でも』。動き始めた瞬間から、街中でも、郊外のワインディングでも、高速道路でも、たとえ雨天であっても、ドライバーの意のままに走り、すべての同乗者も含めて気持ち良さを実感できるということだ。
 運動性能を高めるためには『エンジンパワーに見合ったタイヤ摩擦円を与えること』『とくに駆動輪に十分な荷重を与えること』『4つのタイヤを正しく保持すること』の3点が重要になり、これはFFでもFRでもMRでも変わらない。
 車輛運動性能にとって駆動輪のタイヤ荷重は重要な要素なのだが、後輪駆動車の後輪荷重をいたずらに高めることはマイナスをもたらす。グリップ領域での安心と、それを超えてしまった時の安全を考える時、必ずしも量産スポーツカーにMR方式のメリットがあるとは言い切れない。
 MRレイアウトを選び、いざという時はスタビリティコントロールでドライバーの運転操作に介入するという手もあるが、スピンモードに入り易いMRではその介入も早めに行う必要がある。敢えてMRを選択する意味は薄れる」

つまり、

「市販ロードカーの運動性追求なら、もはやミッドシップレイアウトは要らない」

これこそが現在の日産自動車の考え方なのである。

F1に見られるように、MRはレーシングカーの理想である。しかし、市販ロードゴーイングカーにおいては、リスクを伴ってでも限界性能を少しでも少しでも高めるよりも、若干限界性能を落としてでもドライバビリティとコントロール性を高めた方が『結果的に』速く走れる。これは、MRの代表であるSW20型MR2はもちろん、日産のスカイラインにおいても、同じような歴史と評価が実はあったのである。

そして、そのコンセプトを徹底追及したマシンこそが35型『GT-R』なのである。

……だが、これはあくまでもMR。つまり2輪駆動でのミッドシップの話である。MID4は、ミッドシップレイアウトにAWDシステムを組み合わせたマシンであり、ピーキーなMRとは比べ物にならない操縦安定性を誇っているハズなのである。

昔ほど、ニューモデルマガジンXも過激なスクープを狙うことはなくなってしまっている。つまりは、まだまだ知られざるテストカーが存在している可能性も十二分にあるのである。

『MID4』……最後の目撃から20年。今もどこかで、そのテストが繰り返されているのかもしれない――


(「備忘録 『幻の日本発・ミッドシップ4WD 日産・MID4』はとりあえず、これで終わりです。こんな長ったらしいブログをきっちり読んでくださってコメントまで下さった方、色々な情報をお教え下さった方、貴重な資料を貸与して下さった方。そしてこれをお読みいただい方、本当にありがとうございました)




参考文献:

・「ベストカー」号数不明(グループS仕様AWとMID4の記事について)/三推社

・「driver」1985年10月20日号/八重洲出版

・「CG CAR GRAFFIC」1985年12月号/二玄社
・「CG CAR GRAFFIC」1987年12月号/二玄社

・「ニューモデルマガジンX」1989年5月号/三栄書房
・「ニューモデルマガジンX」1990年9月号/三栄書房

・「オプション」2007年2月号/三栄書房

・「J's Tipo」1998年5月号/ネコ・パブリッシング

・「モーターファン別冊 illustrated Volume32 特集 ミッドシップ 理論と現実」/三栄書房


参考サイト:

・「ウィキペディア」
http://ja.wikipedia.org/wiki/

その他。MID4の歴史に関連する(かもしれない)霧島のブログ:

備忘録 11 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その1 ~はじめに~
備忘録 12 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その2 ~トヨタ・222D 第1回~
備忘録 13 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その3 ~トヨタ・222D 第2回~
備忘録 14 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その4 ~トヨタ・222D 第3回~
備忘録 15 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その5 ~トヨタ・222D 第4回(終)~

備忘録 16 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その6 ~日産・MID4 第1回~
備忘録 17 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その7 ~日産・MID4 第2回~
備忘録 18 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その8 ~日産・MID4 第3回~

スペシャルサンクス:

・アルティマ♪氏(資料提供)
2010年09月23日 イイね!

備忘録 18 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その8 ~日産・MID4 第3回~

備忘録 18 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その8 ~日産・MID4 第3回~ 「技術の日産」と、その復興。

それを目指して日産自動車は、二つのミッドシップスポーツカープロジェクトを立案する。

そのうち一つは、「2+2シーターのミッドシップ車」。そしてもう一つこそがミッドシップレイアウト+4WDシステムを組み合わせた「MID4」であった。

スカイラインシリーズの生みの親である桜井眞一郎技師主導の元、MID4の製作は進められ、様々な苦心と苦難の中、MID4の試作車が完成した。それが後に「MID4-Ⅰ」と呼ばれることになるクルマであった。


~『MID4-Ⅰ』の登場~

1985年(昭和60年)9月。ドイツはフランクフルトで行われたモーターショー。そこで発表されたMID4は、コンセプトカーと呼ぶにはあまりにも完成されており、いつ販売されてもおかしくないようなクルマであった。

実際、MID4は報道陣から多大な注目を浴びることとなり「いつ発売になるのか」「値段はどれぐらいか」「ラリーにも投入されるのか」、などと言った質問が日産関係者に多数投げかけれらた。

そのMID4の主要還元は、下記のようなものであった。


全長×全幅×全高:4,150mm×1,770mm×1,200mm
ホイールベース:2,435mm
ホイールトレッド前/後:1,470mm×1,540mm
重量:1,230kg
重量配分 前/後:40/60

エンジン:VG30E型(横置き)
エンジン形式:水冷式 60度V6 NAエンジン

排気量:2960cc
ボア×ストローク:87mm×83mm
圧縮比:10:1
燃料供給:電子制御燃料噴射

最大出力:230ps(6000rpm)
最大トルク28.5kg/m(4000rpm)

冷却系:フロントマウント式ラジエーター

ステアリング:ラック&ピニオン式 パワーステアリング搭載 HICAS
変速機:5速MT(ブルーバード・マキシマ用)
クラッチ:シングルディスク
駆動方式:フルタイム4WD(ファーガソン式センターデフ搭載)

サスペンション(フロント):独立マクファーソン・ストラット
サスペンション(リア):独立超ワイドスペース・ダイアゴナルAアーム
ブレーキ:前後ベンチレーテッド・ディスク
タイヤ:前後205/60VR15


↑MID4の第一次試作車。ライトがリトラクタブルでないモデルの珍しい画像。

当初は31型フェアレディZと同じパラレルライズアップ式であったライトはリトラクタブル式に変更。

ボディ外板をFRPで作られたことにより、そのボディサイズ+4WDマシンでありながらも1,230kgという軽量を実現(参考:SW20型MR2、GC8型インプレッサが1,260kgです)。

15インチに60扁平タイヤや、このボディサイズながらもストラット式サスペンションの採用など、時代を感じさせる部分も所々もあるが、モーターショーに登場したMID4は間違いなく、「和製スーパーカー」の様相を呈していた。

ただし、このMID4は、あくまでも新技術の探求と、次世代の開発者育成を目的として作られたクルマであった。そしてまた、日産自動車本社は「絶対にMID4を走らせるな」と厳しく命令を下していたのである。

しかしながら、ドイツ・日産が独断で、「いい宣伝になる」として、このMID4をヨーロッパ数カ国で走行させてしまったのである。

見た目は市販車レベルの完成度を誇っていても、結局は試作車。いくらMID4と言えども、うまく走るはずはなく、ようやく日本に戻された時には、MID4のチューニングの命令が下されたと言う。

※参考までに。トヨタが開発中のミッドシップレイアウト+4WDシステムの「MR-Sハイブリッド」。MR2、MR-Sと20年に渡りミッドシップを作り続け、そしてまた、グループB仕様MR2=「222D」でミッドシップ4WDの開発も経験のあったトヨタですら、MR-Sハイブリッドの走行試験には、すでに7年の歳月を費やしています。いくら「技術の日産」とは言え、たった1年か2年で市販に耐え得る走行性能を実現するのには難しかったのでしょう。


MID4のチューンは、元・プリンスワークスドライバーの古平勝に一任されることとなり、サスペンションを中心にMID4は手直しが施され、見違える程に「走り」は改善されたと言う。

後に栃木のテストコースで行われた比較走行試験では、ポルシェ911、アウディ・クワトロクーペ、プジョー205、メルセデスベンツ190E・コスワースチューンなどとの比較が行われた。

その中にあってもMID4は「よく曲がる」クルマであり、その「走り」は、ポルシェ911とよく似ていたと言う。

※不思議な話。MRと言うよりRR、と散々酷評されるトヨタのMR2(SW20)も、古いポルシェ911と良く似たドライブフィールであると称されています……


そして同年。年の暮れも近くなる中、日産自動車は追浜のテストコースにて報道陣を集め、MID4の試乗会を行った。その際におけるMID4というクルマについて、「カーグラフィック」1985年12月号は下記のように綴っている。

「簡単な結論。誰もが容易に安全に、ひとかどの運転が出来てしまうフールプルーフなGTである。エンジンは大排気量の余裕とノンターボの自然さを兼ね揃える」

「4WDメカニズムは、この出力とトルクをよく調教して活用している。基本的にはレールに乗ったような高速コーナリングが出来るけれども、積極的にやる気になれば、どういう姿勢にももちこえる二面性もあって、大いに乗り甲斐はある。」

「ただ設計者の方では『ドライバーのウデのふるいようのない、どうやってもスラリと走れてしまう水準まで追求したい』のだとか」

「いずれにしても、今から貯金だけは始めておいた方がいいかもしれません」

……と言ったように。MID4はパンチのある加速や過激でシビアな操作性などのマニアックさを可能な限り排し、「何も努力しなくてもプロと同じぐらい上手に速く走れてしまう」という桜井眞一郎技師の方針通りに味付けのなされたクルマであった。


↑追浜における試乗会のMID4・リアビュー

ただ、このMID4の数少ない非難点としては、デザインの問題があった。デザインを担当した前澤義雄氏は、「クルマは面白いがデザインがねぇ……」と散々聞かされ、開発時から困難のあったデザインとボディ成形についてはある程度の覚悟はしていたものの、「言い訳の出来ない悔しさはなかった」と後に語る。

そしてまたその試乗会においても、フランクフルトのモーターショーでなされたのと同様の質問が数多くぶつけれたという。

これについて、桜井眞一郎技師は、

「売る気ではじめたんじゃなかったんですが、報道関係の皆さんのほうで、発売時期とか値段とか、どんんどん早手回しに考えてくださってるようなので、こちらもそのうち、引っ込みがつかなくなるかもしれませんねぇ……」

と語った。

そして実際。その水面下では、さらなるMID4の性能の向上と、市販化に向けての改良とが進められていたのである……


(第4回に続く、と信じたい……ていうかそろそろ終わらせたい……)

参考文献:

・「ベストカー」号数不明(グループS仕様AWとMID4の記事について)/三推社

・「driver」1985年10月20日号/八重洲出版

・「CG CAR GRAFFIC」1985年12月号/二玄社
・「CG CAR GRAFFIC」1987年12月号/二玄社

・「モーターファン別冊 illustrated Volume32 特集 ミッドシップ 理論と現実」/三栄書房


参考サイト:

・「ウィキペディア」
http://ja.wikipedia.org/wiki/

その他。MID4の歴史に関連する(かもしれない)霧島のブログ:

備忘録 11 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その1 ~はじめに~
備忘録 12 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その2 ~トヨタ・222D 第1回~
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備忘録 14 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その4 ~トヨタ・222D 第3回~
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備忘録 16 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その6 ~日産・MID4 第1回~
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