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2012年07月05日 イイね!

「スープラの系譜」 第11回 ~スープラの胎動~(最終回)

「スープラの系譜」 第11回 ~スープラの胎動~(最終回) 1993年5月24日。遂に日本国内にてJZA80型スープラがお披露目となる。

 池袋にあるトヨタのショールーム「アムラックス」に姿を現した6台のスープラ。

 レビン、トレノ、セリカ、MR2……多くのスポーティクーペをラインナップに持ちながらも、あえてそれらをスポーツカーと呼ばなかったトヨタ。

 そんなトヨタが、スポーツカーと呼称する事を許したクルマ。毛筆体で記された「Supra」のロゴマーク。フェラーリでもポルシェでもない。それは紛れも無く「日本のスポーツカー」であることの顕示であった。


~THE SPORTS OF TOYOYA~


スープラ・崇高なる発想、常に光り輝き、天の高みへと昇る。
スープラ・我が希望、安らぎと調和し、舞い上がる天使よ……


 発表会では、スープラのコマーシャルソングを歌う声楽家の松木美音(現・ミネハハ)が登場し、イタリア語で綴られたスープラへの詩を歌い上げた。

 豊田達郎社長(※当時)の挨拶に続き、開発主査である都築功によるスープラの紹介と説明が行われた。

「ただ速く走るだけのスポーツカーではなく、名馬のように人との一体感があり、資質の高い走りと安心感を備えた車として、トヨタ自動車の新世代スポーツカーを構築したつもりだ」

 単にスポーツカーとしての運動性や操安性のみに注力するのではなく、これからの時代に求められる安全性や環境性。相反するとされてきた二つの要素を高い次元で融合させたクルマ。それこそがトヨタの提唱するスポーツカーのあり方であった。

 280psの馬力と、44.0kgのトルク。国産最強の出力を誇る2JZ-GTEエンジンに、国産量産車としては初となる6速マニュアルトランスミッション。徹底的な軽量化と高剛性化を図り、そして300km/hの領域でのエアロダイナミクスを追求したボディ。

「テクノロジーは人を手助けするための手段であり、操るのはあくまでドライバーである。マシンにコントロールをゆだねるのは、自動車とは言えてもスポーツカーではない」

 二輪駆動では、どうしてもオーバースペックとなりがちなビッグパワーに対して、まずはボディやサスペンションといった根幹の造りを磨き上げつつ、さらに新開発の電子制御スロットルバルブによってドライバーの安全を確保。しかして、ドライバーの意のままに280馬力のハイパワーFRスポーツカーを操ることを可能する。

 そんな前代未聞の試みを成し遂げたJZA80型スープラは、まさに国産最強・最速クラスに位置するスポーツカーに他ならなかった。

 だが、同時に不満も残った。どれだけスープラがフラッグシップ・スポーツであるとは言えども、その開発にはソアラとのシャシー共用という前提条件があった。それらによって、多くの“理想”を犠牲とすることを強いられたのだ。

 叶うならば、サスペンションを完全な新設計としたかった。可能ならば、トランスアクスルレイアウトの採用によって、フロントヘビーな前後重量配分を改善したかった。ドイツ・ゲトラーグ社と共同開発した6速マニュアルトランスミッションの硬過ぎるシフトフィーリングも、もっと日本人に合わせた繊細なものにしたかった……

 「スープラでやり残したこと」。都築は後年、そう語っている。

~スープラの黄昏~

 1993年5月に登場した80型スープラ。グレードは3つ。豪華装備でAT車のみを設定した“GZ”。メイングレードとなる、6速MT搭載のターボモデル“RZ”、NAエンジンに5速MTを組み合わせた“SZ”である。

 北米仕様では標準装備となる17インチタイヤの採用は、日本国内では認可が下りず、16インチでのデビューとならざるを得なかった。だが、これらのタイヤとブレーキはスープラのパワーとウェイトには明らかに容量不足であり、スープラの登場は時期尚早であるとの批判も上がった。

 これについて都築は、「いずれにせよ、サーキットを走る人は自分たちで足回りも交換するだろうから、16インチでの発売は決して間違いではなかった」と述べている。スープラのタイヤの17インチ化とブレーキの容量アップは、1994年8月に追加されるオプション設定を待つことになる。

 80型スープラの登場後、都築はスープラ開発主査の役職を片山信昭に譲り、自身は乗用車の開発プロジェクトへと身を移す。

 スポーツカーから身を引いた都築は、床下格納式シートを装備し、トールタイプのコンパクトカーながらも非常に優れた脚を持つファンカーゴ。初のフルデジタルで設計され、大ヒット車種となった初代bB。スライドドアを採用したステーションワゴンのラウム、と。一風変わった乗用車を手がけた後、トヨタ自動車を去った。

 1996年4月、片山の手によって80型スープラはマイナーチェンジを施される。エンジンはNA、ターボ共にスペックは変わらずであるが、GZグレードが廃止され、廉価版のRZ-Sグレードが追加。NAには6速MTを搭載したSZ-Rグレードが追加される。

 エクステリア、インテリアに変更が加えられるだけでなく、ダンパー、スプリング、ブッシュ類の変更や、サスペンション取り付け部の剛性向上。RZにはスポーツABSも設定されることとなり、スープラの走りは、さらに上の次元へと昇華される。



 ……やがて、斜陽の時代が訪れる。1990年のバブル崩壊、その波は確実に日本経済と日本車の存在を蝕みつつあった。スポーツカー全盛の時代が終わりを告げたのだ。次々と消滅してゆくスポーツカーたち。そんな中、倒産寸前にまで追い込まれる自動車メーカーまでもが現れるほどであった。

 だが、スポーツカーの開発と熟成を諦めないメーカーも少なくなかった。スープラもまた、同様である。各所で神経質なまでのコストダウンを図りながらも、1997年8月、スープラは最後のマイナーチェンジを行う。ターボモデルに搭載される2JZ-GTEエンジンは、新開発のVVT-iユニットを与えられ、トルクは実に46kgにまで到達する。

 さらに、サスペンションも新開発のものが与えられた。それが、相互連結ショックアブソーバーシステム「REAS」である。REASは、左右のリアのダンパーをオイルラインで接続。仲介する中間ユニットが、左右のダンパーの動作量に応じて常に最適な減衰力を導き出すというものである。

 ……そして、来たる2002年7月。JZA80型スープラは生産を終了。「排ガスの新規制をクリアできなかったから」と言う者もいる。「スポーツカーの売上げが激減したから」と言う者もいる。はたまた、「単純なモデル寿命」と言う者もいる。こうしてスープラは、セリカXX以来24年の歴史に幕を下ろした。

~胎動~

 スープラの生産が終了された後も、マスタードライバーの成瀬弘は独自にスープラの改良を続けていた。成瀬が手を加えたスープラは、超高速コースとして有名なヤマハ・袋井テストコースを豪雨の中、時速200kmでハイドロプレーニング現象を起こしながらも直進安定性を保ち続けてみせた。

 また、厳冬の北海道・士別テストコースでのテストでは、スタッドレスタイヤながらも最高速度180km/hを達成。圧雪路面であるにも関わらず、自由自在なドリフトコントロールができたと言う。FRでありながらも圧倒的なスタビリティとコントロール性を持つスープラ。これらのことから、スープラを最高のハンドリングマシンとして押す声もある。

 だが、成瀬弘は2010年6月。ニュルブルクリンク近郊でのレクサスLFAのテスト中において、帰らぬ人となってしまう……。マイスター・オブ・ニュルブルクリンクと呼ばれた成瀬の死は、世界中の自動車界に大きな衝撃を与えることになる。葬儀には、成瀬の直弟子である豊田章夫・トヨタ自動車現社長や、成瀬が師と慕った黒沢元治も参列した。

 スープラは、ビッグパワーのFRでありながらも、コントロールにおいてはクセのないハンドリングマシンであることから、生産終了から10年が経過した今なお、テストドライバーの育成の訓練教材として用いられている。これについて生前の成瀬は、「スープラはニュルできっちり鍛えました。だからスープラを超えるクルマが出なくてね」と笑っていたと言う……

 スープラの生産終了から7年が経過した2009年。一つの噂が自動車界で囁かれ始める。それはトヨタが、スバルとの共同開発でレビンの後継の開発に乗り出したというものであった。後に86という車名を与えられるこのプロジェクトの担当者となっていた人物は、多田哲哉。多田は、スープラ開発主査である都築が手がけた「bB」、「ラウム」。そのプロジェクトチームに在籍したエンジニアであり、トヨタの主査の中で唯一、トップガンたちも所持している「S2ライセンス」と呼ばれるドライビング・テクニックのライセンスを所有している人物でもあった。、

 続いて翌年の2010年、一つのニュースが世界を駆け巡った。それは、トヨタが北米において『スープラ』の商標を再登録したという内容であった。さらに、このニュースに呼応するかのように、トヨタの豊田章男社長は2010年7月下旬、メディアの取材に対して、「近い将来、次期スープラの開発に着手したい」と語った。

 既にトヨタには、次期スープラを占う一台として目されるクルマが存在した。それが、レクサスFT-HSである。


※2007年、モーターショーに登場したレクサスFT-HS

 FT-HSとは「Future Toyota Hybrid Sports」の略である。その名の通りFT-HSはハイブリッドカーであり、レクサスGS450hに搭載されている3500cc自然吸気V型6気筒エンジン「2GR-FSE」にハイブリッドシステムを組み合わせ、最高出力は400ps。0-100km/h加速は4.8秒であると言う。

 セリカXX以来、直列6気筒エンジンにFRレイアウトを組み合わせるスタイルが伝統であったスープラ。果たして、そのスープラがハイブリッドシステムを採用することは是か非か? 実はスープラが生産終了となった翌年の2003年。津田工業専務取締役となっていた都築は、次のように言い残している。

「これからは安全性だとか環境だとか燃費の向上とか、そういった部分への配慮がもっともっと必要になってくると思います。それは時代の流れで避けて通れないことです。ですから私は、これから出てくるスポーツカーはどんなエンジン、どんな動力系をもっていてもいいと思う」

「ハイブリッドのスポーツカーがあったっていいじゃないですか。ただ、スポーツカーを名乗る以上は、人間が操る、ということへのこだわりをなくして欲しくない。自動運転になってしまったら、それはスポーツカーじゃない。移動するだけだったら電車の方がいいんです。スポーツカーは、たとえ動力が電気モーターになったとしても、コントロールする人間の意志に呼応する特性を備えていて欲しいですね」


 ……時に、西暦2010年代。国産車のラインナップからはスポーツカーというスポーツカーが消滅してしまっている。そんな中でトヨタは、2000cc水平対向エンジンを搭載したライトウェイトFRスポーツカー「86」や、V10エンジンを搭載したスーパーカー「レクサスLFA」を市場に投入。

 それらガソリンエンジンスポーツカーに加えて、コンセプトカーとして、「GRMN スポーツハイブリッドコンセプト」や、ソアラ後継と見られている「レクサスLF-LC」などのハイブリッドスポーツカーの発表を行い、他社に率先してスポーツカー作りに対する積極的な姿勢を見せている。これらは、従来のトヨタでは考えられた無かったことである。

 伝統のガソリンエンジンか、それともハイブリッドシステムか?

 スープラの胎動は、少しずつ少しずつ確実に聞こえ始めている……


(「スープラの系譜」は今回で終わりです。お読み下さった方、コメントを下さった方、色々と貴重な情報を教えて下さった方。本当にありがとうございました。次章は「MR2の系譜」か「GTO ~Flagship of three Diamonds~」のどっちかを考えてますけど、最近、執筆意欲がわかねーや、ってことで未定ってことにしといてくださいな)

Special Thanks:

・正岡 貞雄様
・黒沢 元治様
・加計 長時様

 特に以上の方々からは、大変貴重なお話をお伺いできる機会を頂けました。ありがとうございます。また、講演会の御多忙の中にあって、自分のような若輩者の不躾な質問にも丁寧にお答え下さったスープラ開発主査・都築功先生にも、この場において御礼申し上げます。

参考文献:

・「モーターファン別冊 ニューモデル速報第41弾 『トヨタ スープラのすべて』」/三栄書房
・「モーターファン別冊 ニューモデル速報第133弾 『新型スープラのすべて』」

・「CARトップニューカー速報 No.47 『NEW スープラ』」/交通タイムス社
・「Xa Car」2010年8月号 /交通タイムス社

・「I LOVE A70&80 SUPRA」/ネコパブリッシング

・「ベストカープラス 2011 8月19日増刊号 FRスポーツ近代史とその総括」/講談社ビーシー
・「湾岸MIDNIGHT SUPER TUNEDCAR COLLECTION 」/講談社

・「ベストモータリング」1988年10月号より、『激走対決 トヨタ VS 日産』/2&4モータリング社
・「ベストモータリング」1991年07月号より、『トヨタはなぜスポーツカーを造らない!?』
・「ベストモータリング」1993年08月号より、『NEWスープラが挑む!!』
・「ベストモータリングビデオスペシャル Vol.29 『THE 疾る! TOYOYA スープラ』」

・トヨタビデオカタログ 「THE SPORTS OF TOYOTA Supra」/トヨタ自動車
・トヨタビデオカタログ 「Fun to Supra 新しいスープラで走りたい」/トヨタ自動車

関連リンク:

「スープラの系譜」 第01回 ~スープラの系譜~
「スープラの系譜」 第02回 ~ソアラとスープラ~
「スープラの系譜」 第03回 ~70型のパッケージング~
「スープラの系譜」 第04回 ~トヨタ2000GT、そしてスープラ~
「スープラの系譜」 第05回 ~“トヨタ3000GT” A70型スープラ誕生~
「スープラの系譜」 第06回 ~「JZA」 70から80へ~
「スープラの系譜」 第07回 ~SPORTS OF TOYOYA~
「スープラの系譜」 第08回 ~“トップガン”~
「スープラの系譜」 第09回 ~80型のシャシー・駆動系~
「スープラの系譜」 第10回 ~80型のエクステリア&インテリア~

Posted at 2012/07/05 23:02:29 | コメント(1) | トラックバック(0) | スープラの系譜 | 日記
2012年05月02日 イイね!

「スープラの系譜」 第10回 ~80型のエクステリア&インテリア~

「スープラの系譜」 第10回 ~80型のエクステリア&インテリア~自動車の新車開発時、まずは現行車のボディを切り貼りして製作されたテストカーを用いて各種テストが行われる。

また、新車の情報が世間に漏れてしまうことを避けてしまうため、多くの偽装を施した車体がテストに用いられる。近年では、インプレッサやレガシィの車体を用いた86/BRZのテストカーが目撃されたのが記憶に新しい。

だが、当然のことながら実車を走らせてこそ初めて分かることもある。多くの偽装と空力デバイスを取り付けたテストカーで開発試験が行われる中、“80スープラ”のボディ本体もまた、着実に開発が進められていた。

~軽量・高剛性ボディ~

 80型スープラの先行試作車において、一番に改善の対象となったのはボディ剛性であった。かつてのトヨタ2000GTなどは、フレームとボディとが別々のものであったのに大して、当時は既にフレームとボディが一体となったモノコックボディが主流となって久しかった。

 ボディとは、クルマの要である。路面からの入力は、タイヤ・サスペンションを通じてボディに伝えられる。そして、ボディが外力を受け止めることによって、クルマとは走り・曲がり・止まるものなのである。もし、ボディに剛性が足りなければ、路面からの入力を受け止めきれず、クルマそのものがグニャグニャに曲りながら走ることとなる。そうなれば、必然的に各種操作系のレスポンスにタイムラグとロスが生じ、まともに走ることすら適わなくなってしまう。

「乗って、ハンドルを切ると、素直に車が動かないんだよね。というのが一番最初の指摘だった」
                                       ――大道政義


 古くには、「ボディのトヨタ」「シャシーの日産」「エンジンのホンダ」などと言われたように、トヨタは古くからボディ製造技術においては国産では最も進んだレベルにあった。だが、そのトヨタのノウハウをもってしても、満足なボディ剛性を達成することはできなかった。

 とは言え、決してボディ剛性を実現することが不可能だったわけではない。ボディ剛性の高いクルマと言えば、ドイツのポルシェやベンツが代表例であるが、ベンチにかけて計測してみると、絶対的な剛性では負けてはいなかったという。

「大きくグイっとねじった時の値はそれなりに出るんだけど、最初の過程、微妙に動くような領域でまた違う」
                            
 ボディは単に強ければいいというわけではなく、立ち上がりにおける微妙な力の伝達の仕方こそが重要である。ボディ剛性と呼称すると誤解が生じやすいため、これを「ボディ特性」という言葉を用いて表現したという。(※ボディ特性の考え方については、賛否両論有)

 スープラ開発におけるボディ剛性への取組みの中で大きく貢献したのが、トヨタのテストドライバー300人の長点に立つマスタードライバー・成瀬弘であったのは言うまでもない。この中で、成瀬の持つ職人的な経験や勘からもたらされるノウハウが、初めて理論的に解析できるようになったという。

 だが、補強を加えてボディ剛性を高めれば高めるほど、一方ではボディの重量増が大きな問題となってくる。当然のことながら車輌重量の増大は、スポーツカーにとって致命的となる。80において、徹底的な軽量化が図られたのはいうまでもない。

 一つ一つの部品の軽量化、製造方法、軽量素材の採用……。アルミ製のレインフォース、サブフレーム。マグネシウム合金によって製造されたエンジン内部部品。トヨタ初となる高密度ポリエチレンを採用した燃料タンク。中空ビーズを混ぜ込んだ、巨大リアスポイラー。頭部を深く削りこみ、一本あたり2.5gの軽量化を果たしたディープリセスボルト……従来の70型に比較して、実にマイナス100kgの軽量化に成功した。

 ただ、この100kgのうち、素材の軽量化によるのは40kgであり。残りの60kgは設計技術によるものである。また、前後重量配分を少しでも良くするため、アルミ製部品が積極的に採用されているフロント周辺に対し、リア周りは従来のスチール製部品が敢えて採用されることとなった。

~エクステリア~

 「70型スープラはのデザインは、シンプルすぎてスポーツカーらしくない」。そんな意見が欧州からは寄せられていた。アウトバーンで、道を譲って貰えないのだと言う。リトラクタブル・ヘッドライトも古さを感じさせるという意見も多かった。もっとボリューム感を、もっと迫力を、もっとアグレッシブさを、もっと目立つデザインを……それが80型のデザインの起点となった。

 マツダのユーノスロードスターや、日産の32型フェアレディZ。ホンダのNSX……。平成元年から平成2年にかけて、日本車からも非常に個性的でアバンギャルドなデザインのスポーツカーが続々と送り出されていた。80型は、「その次」に登場するスポーツカーである。個性的でないデザインなど、許されるはずがなかった。設計は「ポルシェのようなヨーロッパの先輩に“恩返し”をする」という強い意気込みの元でデザインが始まった。

 まず、イメージとなったのはマスキュラー・デザイン。短距離アスリートも持つシェイプアップされた筋肉質のデザインである。(霧島注:SW20でも似たようなこと言ってたねぇ……)

 80型スープラのエクステリア・デザインにおいては、やはりメインマーケットとなる北米からの意見に色濃く影響されることとなった。映画・「バットマン」に登場するバットモービルのような「devil」「mean(原意は「下品な」であるが、転じて「難しい、上手い」のスラングとして使われている)が、一つのイメージ・コンセプトとされた。

 もう一つのデザイン・コンセプトなったのは「狼の衣を着た狼」。圧倒的で攻撃的、荒削りで、320馬力のビッグパワーを表現する迫力あるデザインが目指された。内包されるべきは、世界第一級の「高性能の昇華」と、いつの時代でも通用し、見る者を飽きさせない「普遍性」である。



 80型スープラは、「重くて大きくて贅肉の多い、いかにもアメリカ人好みのデザイン」などと表されることが多いが、それは間違いである。前述の通り、従来の70型に対して大幅な軽量化を達成していると共に、ボディサイズにおいても70型に比べて全長は短く、全高は低く、ワイド&ローなデザインとなっており、トータルでは70型よりも一回りコンパクトなボディサイズとなっている。

 エクステリア細部の形状においても、全てに意味が存在している。時速300kmで走行する際においては、空力が非常に重要なファクターとなるからだ。主査の都築は、大学院時代に空力学を修めた空力のエキスパートである。80型スープラにおいて、徹底的なエアロダイナミクスの研究と実験が行われることになった。

 ボディ下部を流れる空気の量を押さえ込むための、大型アクティブリアスポイラー。ミラー周りへの空気の滞留を防ぐため、ドアミラーはウィンドウ部分ではなく、ドア部に取り付けられている。その中でも、最も目をひくものが、巨大リアスポイラーである。

 80型の純正リアスポイラーは、国産車ではそれまで例を見ないほどに巨大なものであった。元はと言えば、スープラはリアスポイラーを持たないデザインで設計されていたが、高速時の安定性を持たせるために、新たに設計が行われた。

 スポイラーの高さを、敢えてルーフ近くにまで引き上げることによって、強烈なダウンフォースを発生させることを可能とした。一方で、スポイラーを高くすることにより、センターミラーとリアウィンドウを通じて得られる後方視界を全くさえぎることがなくなり、二重の意味での安全性を確保することにも成功した。

 このリアスポイラーは、超高速領域にも耐えうる剛性を必要としながらも、中央部に支柱を持たないアーチ状となっており、従来の素材でこれを製作しようとすると、3倍以上の重量になってしまうものだという。これを、素材メーカーからの提案で、中に中空ビーズを埋め込んだ新素材を用いることにより、大幅な軽量化を実現した。

 だが、このリアスポイラーは大きな物議を醸すことになる。あの巨大さがあまりにも派手だと言うことで、運輸省への認可がなかなか下りず、下りることを見越して量産の準備を進める中、ラインオフの一ヶ月前になって『認可が下りないかもしれない』との連絡があった。

 ラインでは、リアスポイラー用に穴をあけたトランクの量産も始まっており、もし認可が下りないと、大変なことになる。この時、都築は生きるか死ぬかで悩んだという。

 結局、なんとか説得して記者発表の日に実際に試乗して貰って決めることになったという。都築が、『ダメだったらどうするんだろう?』と思う中、運輸省の担当者たちがやって来て、『これか!』とスープラに実際に乗ってみたものの、何も言わずに帰ってしまったという。


※80型スープラのリアビュー。4連のテールランプも強烈なインパクトを与えてくれる。

 これは一重に、後方視界の良さによるものである。スープラのリアスポイラーは、コックピットから見ても、真後ろから見ても、その存在が全く分からないのだから……。これが後々まで語り継がれる「スポイラー事件」であった。


~80型のインテリア~

 「スポーツカーを目指す80型は2シーターであるべき」という意見もあったが、既にトヨタには2座を採用したSW20型MR2がラインナップに存在しており、結局は2+2シートの4座席となった。トランクは、北米からの要望で、ハッチゲートタイプとなっているが、ラゲッジスペースはあまり広いとは言えないものとなっている。

 70型においては「2+2座で、ゴルフバッグが2つ積めること」が条件とされていたが、80型のトランクは、70型のそれよりも狭いものとなった。これは、従来のトヨタの思想とは、少々相反するものとなっており、トータルでのスポーツ性を優先した設計となっている。


※80型スープラのコックピット・デザイン。戦闘機を髣髴とさせるデザインが特徴的である。

 「Gフォースフォルム」。スポーツカーにおいて切り離すことのできない加速G・減速G・縦G・横G、これらを積極的に楽しむため、腰周りのホールド感と、上半身の開放感、そして走る機能を力強い形として表現する。それがスープラのコックピットの目指した所であった。

 歴代セリカXXや、70型スープラもまた、メーター周りは非常に個性的でユニークなデザインであったが、80においても、それは継承されている。80型においては、超高速時におけるメーターの視認性が優先されたデザインとなっている。

 高速走行時では、視界が非常に狭くなってしまい、メーターを見る余裕所も失われる。そんな中で、瞬時にステイタスを判別できるよう、あえて“スポーツカー的な”多連装のメーターは避け、三眼のシンプルなものとし、文字も大きめのものが印字されている。された。アウトバーンでの経験から、警告等の位置なども、目に付きやすい場所に配置されている。

 ソアラやセリカXX、70型などではデジタル式のメーターも採用されていたが、80型においては「敢えてハイテクを排除したスポーツカー」ということで、メーター類にもデジタル式が採用されることはなかった。

 ステアリングやシフトレバーの位置なども、ミリ単位での配置調整・検討が行われ、自然体で敏捷なドライビング操作が行えるように煮詰められている。


……
………

 トヨタの持つテストコース。日本国内外のサーキットと、そして公道……。トップガンたちの手によって、世界を股にかけた膨大な量のテストが行われ、膨大な量の走り込みが行われた。トヨタのテストコースだけでも、その走行距離はル・マン5レース分に相当するという。

 都築自身も、自らステアリングを握り、アウトバーンにおいて時速300kmクルーズでも手放し運転が出来ることを確認したという。スープラの大型ヘッドランプも、アウトバーンにおける超高速走行の中で、視認性を確保するためにデザインされたものである。


※ニュルブルクリンクを走るスープラ。手前の右ハンドル・エアインテーク付きは、英国仕様。

 最後の仕上げは、世界最高峰にして最難関として名高い、ドイツ・ニュルブルクリンクサーキットで行われた。だが、これはあくまでもマシンが持つ能力を確認するためだけの場であり、スープラはニュルで鍛えられたわけではない。先行するNSXやR32型スカイラインGT-Rがニュルブルクリンクでの開発を大きな宣伝材料とする中、スープラ開発陣にとっては「(スープラも)ニュルで作った」と言われることは心外ですらあるという。

「基本をしっかりと合わせたら、ニュルにもバッチリ合った」
                        ――成瀬 弘

 かくして、1993年。北米・デトロイトモータショーで表舞台に姿を現したJZA80型スープラは、同年5月、ついに世に送り出されることになる……

(次回、最終回へ……)


参考文献:

省略。第3回までのを参照して下さい。

関連リンク:

「スープラの系譜」 第01回 ~スープラの系譜~
「スープラの系譜」 第02回 ~ソアラとスープラ~
「スープラの系譜」 第03回 ~70型のパッケージング~
「スープラの系譜」 第04回 ~トヨタ2000GT、そしてスープラ~
「スープラの系譜」 第05回 ~“トヨタ3000GT” A70型スープラ誕生~
「スープラの系譜」 第06回 ~「JZA」 70から80へ~
「スープラの系譜」 第07回 ~SPORTS OF TOYOYA~
「スープラの系譜」 第08回 ~“トップガン”~
「スープラの系譜」 第09回 ~80型のシャシー・駆動系~


Posted at 2012/05/02 14:29:29 | コメント(7) | トラックバック(0) | スープラの系譜 | 日記
2012年04月17日 イイね!

「スープラの系譜」 第09回 ~80型のシャシー・駆動系~

「スープラの系譜」 第09回 ~80型のシャシー・駆動系~新たなトヨタのフラッグシップスポーツカーとして開発が始まったA80型スープラ。

 目指されたのは、ポルシェでもフェラーリでもない「日本のスポーツカー」。

 運動性能の目標は、「時速300kmで手放し運転が出来る直進安定性と、コーナリングで意のままに操れる運動性能」を有しつつ、「動力性能・運動性能」と「省資源性・快適性」。「パフォーマンス」と「優しさ」を高いレベルで融合させること。それこそが、トヨタ製スポーツカーを名乗ることを許されるための、たった一つの冴えたやり方であった。

 与えられた開発コードは『720D』。バブルによって日本経済が絶頂をひた走る中、A80型スープラの挑戦が始まった。

~80型のエンジン・『2JZ』~



 時速300kmを達成するためには、何よりも第一に非常に高い性能を有するエンジンの存在が必要不可欠となる。トップガンたちの世界を股にかけたマーケット・リサーチの中で、北米からはV型エンジンを搭載して欲しいという要望が出されていた。

 スープラは、トヨタのフラッグシップと言っても、既存のコンポーネンツからの流用と、他車種とのシャシーの共用が開発の絶対条件でもあった。具体的には、トヨタの高級セダンであるクラウンやアリスト。高級クーペであるソアラとの共用化である。

 当時のトヨタには、クラウンやソアラ、アリストにV型8気筒4000cc自然吸気エンジンである1UZ-FEがラインナップされており、実際、スープラの搭載エンジンの案としてはV6やV8エンジンが挙げられていた。だが、軽量コンパクトで高出力が可能な直列6気筒3000ccエンジンこそが最良であるという、開発主査の都築の信念の元で、A80型スープラの心臓としては、トヨタの3000cc直列6気筒エンジンである「2JZ-G」が与えられることとなる。

 トヨタの直6エンジンであるJZ型は、マークⅡ・チェイサー・クレスタ等にも搭載されていたものであり、2500ccモデルの1JZは、70型スープラにも採用されていたものでもある。

 その3000ccモデルとなる2JZをベースとして、2ウェイツインターボを組み合わせ、北米仕様では320hp、ヨーロッパ仕様では330psを達成。また、JZ型エンジンの特徴としては、その非常に太いトルクがあり、トルクにおいては国産最強の44.0kgf/cm^2をたたき出す。(三菱のGTOが43.5kg、日産のR32スカイラインGT-Rが36.0kg。これを超えるのは、2代目センチュリーの1GZ-FE(49.0kg)を待つことになる)

 これらの、通常のV型エンジンを上回る出力を実現することによってアメリカ側を説得した。なお、この2JZ-GTEエンジンが搭載されたのは、後にも先にも、このA80型スープラと、「国産最速のセダン」と畏れられたアリストの2車種のみである。

 大トルク・大パワーエンジンにおいては、しばしば“扱いにくさ”の問題が発生することがある。この欠点の解決のため、トラクションコントロールシステムの採用が世界的な常識となっていた。

 だが、都築は従来のTCSとは全く異なる制御システムを試みる。確かに、TCSを装備すれば、ビッグパワーによるタイヤの空転は防ぐことが可能である。その一方で、どうしてもアクセルレスポンスに不自然さがつきまとうこととなる。

 そこで都築は、電子制御スロットルの採用を発案する。アクセルペダルと直結されている通常のスロットルボディに加えて、もう1系統のサブスロットルバルブを併設することとしたのだ。そのサブスロットルバルブをコンピュータで制御することによって、自在なエンジン特性を演出することが可能となった。

 従来のTCSとの違いを強調するため、「スリップコントロールシステム」と呼ばれるこれらの機構によって、A80型スープラは、電子制御にありがちな不自然さを排しつつ、280馬力の2輪駆動でありながらも非常にコントローラブルで扱いやすく優しいアクセル特性を持つクルマとなったのである。もちろん、SCSは室内から簡単にOFFにすることも出きるように設定される。

~日本初の6速マニュアルトランスミッション~

 都築がA80型スープラの目玉として考えていた機構の一つに6速マニュアルトランスミッションがあった。

 トヨタは1989年の東京モーターショーに出展した「トヨタ4500GT」において、既に6速MTの開発経験を持っていたが、市販の量産車となると話は別であり、当時の日本車には、まだ6速MTを採用した車種は存在しなかった。

 この6速MTについては、多くの賛否両論があったと言う。特に、「座るのはリアシートばかりで、自分で運転することがない。運転してもオートマチック」というトヨタの上層部からは、「5速ですら使わないのに6速など必要ない」と、大きな反発があった。他にも「これからはATの時代だ」という意見もあったが、都築は「信じてください、これは大きな売りの一つになります」と役員たちを説得した。

 当時のスープラ開発チームの中に、片山信昭というエンジニアがいた。片山は、都築の元でグループB仕様MR2=222Dの開発にも携わった人物であり、片山は欧州へ向けてトランスミッションメーカーの視察に送り出されることになった。

 その中で、ドイツのゲトラーグ社が、トヨタの予算に近い見積もりと、要求に応えられる技術力を有しているという報告があり、トヨタとゲトラーグによって、6速MTが共同開発されることとなった。

 これらによってA80型スープラは、日本車初の6速マニュアルトランスミッションを搭載することとなったのである。

~新開発のサスペンション~

 FRレイアウトのスポーツカーとして、物差しとされたのはポルシェであった。RRレイアウトに水平対向エンジンを組み合わせるパッケージこそが伝統とされてきたポルシェだが、1977年にはポルシェ928、1981年にはポルシェ944という、V8や直4エンジンをフロントに搭載したFRスポーツカーを世に送り出すようになっていた。



ポルシェが送り出した2台のFRスポーツ。左:928、右、944。

 この2台のポルシェはマイナー車種となってしまってはいたものの、実に20年の長きに渡って製造されることとなり、80型スープラ開発当時においても現役のFRスポーツであった。旧来の保守的なポルシェのファンたちからは、酷評という酷評を受けた928と944だが、その運動性能は非常に素晴らしいものがあり、944などは「世界最高のFRハンドリングマシン」とも呼ばれていた。70型スープラ開発においても、この944が目標として設定されていた。

 とりわけ928と944の2台の特筆すべき点は、電子制御に頼ることなく、ベーシックなメカニカルの面で、高い運動性能を実現していたことである。そして、その思想こそはA80型スープラが求める方向性と同じものであった。

 「ポルシェ928の直進安定性と、944ターボの回頭性を上回ること」。これがA80型スープラの開発のスタートであったという。

 スープラの足回りは、ソアラのプラットフォームを流用して製作することが絶対条件であった。4輪ダブルウィッシュボーンに、222Dや70型スープラで培った交流もあってドイツのビルシュタイン社製ショックアブソーバーを組み合わせる。

 だが、この足回りについては、どうしても不満が残った。そんな時、都築は、トップガンの一人である成瀬弘が、リアサスペンションへの改良点について進言があった。その言葉通りにサスを製作すると、確かに動きが良くなったという。

 都築は、二つの挙動の違いを誇張したビデオを作成し、役員達にプレゼンテーションを行う。上層部を説得して新たに5億円の予算をとりつけることに成功。これによってスープラのリアサスペンションは、ソアラとは違い、独自のものに変更されることになった。

 これらトップガンたちの活躍もあり、スープラには、ロール時に下向きの力が加わるような、従来のトヨタには存在しなかった新たなサスペンション・ジオメトリーが生み出された。これによって、高速直進性能が飛躍的に向上したという。

 タイヤについては、北米では17インチと設定されていたが、日本国内では運輸省の認可が下りず、16インチとすることを余儀なくされていた。これによってタイヤはもちろん、ブレーキについてもスープラは真の実力を封印されててしまう。

 後に、『現行タイヤはターボのスープラでは脆弱。あのままスープラを出したのは早計』と散々非難されることになるが、都築は『ターボ失くしてスープラ無し。どのみちサーキットを走る人はブレーキもブレンボだとか何やらにみんな変えるだろう』と考え、16インチ仕様のままでの発売を決断する。

 こうしてスープラの試作車が製作され、世界中のサーキットを舞台にテストが行われた。トヨタの本社・東富士・士別のテストコースはもちろん。深夜の筑波サーキットや、スポーツランドSUGO。北米のラグナ・セカ、ドイツのアウトバーン、そしてニュルブルクリンク……

 70型に似せて作られたスープラは、空力実験のために様々なデバイスを装着し、その姿はさながらバットマンカーのようであったと言う……


(文中、敬称略。第9回へ。今月中に終わらせたい……)


参考文献:

省略。第3回までのを参照して下さい。

関連リンク:

「スープラの系譜」 第01回 ~スープラの系譜~
「スープラの系譜」 第02回 ~ソアラとスープラ~
「スープラの系譜」 第03回 ~70型のパッケージング~
「スープラの系譜」 第04回 ~トヨタ2000GT、そしてスープラ~
「スープラの系譜」 第05回 ~“トヨタ3000GT” A70型スープラ誕生~
「スープラの系譜」 第06回 ~「JZA」 70から80へ~
「スープラの系譜」 第07回 ~SPORTS OF TOYOYA~
「スープラの系譜」 第08回 ~“トップガン”~

Posted at 2012/04/17 10:01:36 | コメント(5) | トラックバック(0) | スープラの系譜 | 日記
2012年02月10日 イイね!

「スープラの系譜」 第08回 ~“トップガン”~

「スープラの系譜」 第08回 ~“トップガン”~ 「時速300kmで手放し運転が出来る直進安定性と、コーナリングで意のままに操れる運動性能」

相反する二つの要素を両立させること。さらには、『動力性能・運動性能』と『省資源性・快適性』。『パフォーマンス』と『優しさ』を高いレベルで融合させること。それが、都築功の考えるニュー・スープラであった。

 長年にわたり、「スポーツカー」の名称を使用することを避け続けてきたトヨタ。そんなトヨタが作る「スポーツカー」との姿とはどうあるべきなのか。いかにすれば具現化できるのか。そして、それを可能とするためには、どのような人材が必要だったのか――

~自動車開発におけるテストドライバーの重要性~

 優れたクルマの開発には、優れたテストドライバーが必要となる。それは、単純にクルマを速く走らせることができるいうだけでは決して勤まらない。

 1cm、1秒、1/10G単位でマシンをコントロールし、且つそれを何度でも再現できるテクニック。マシンを構成する細かな部品の一つ一つの欠点を感知し、それを指摘できる能力。さらには、その解決策までも提示できることが求められるのだ。

 優れたテストドライバーありきのクルマと言えば、1990年に登場したNSXが、その代表例である。NSXの開発テストドライバーを一手に引き受けたのは、希代の名ドライバー・黒沢元治であった。黒沢は、NSXのコンセプト立案からNSX開発に従事。テストコースとしてのニュルブルクリンクの推挙から、テストドライブも担当した。

 そして、NSXは自然吸気エンジンながらも280psを達成、アルミモノコックによる軽量で高い剛性を有するボディを手に入れ、ニュルを8分16秒で走行する性能を手に入れた。黒沢は、尻込みするエンジニアを散々にどやしつけ、徹底的にサスペンションやブレーキをブラッシュアップさせたという。

 結果、NSXは、フェラーリやランボルギーニと言ったスーパーカーの老舗を慌てさせ、そして本気にさせる運動性能とハンドリングを手に入れることになった。

 現代でも、「陸の王者」と称される日産のR35型GT-Rにおいては、鈴木利夫。「公道最速の戦闘機」と畏れられる三菱のランサーエボリューションシリーズにおいては、中谷明彦が。名車と呼ばれるスポーツカーの陰には、常に優秀なテストドライバーの存在があるのである。

~“トップガン” トヨタの精鋭テストドライバーたち~

 新型スープラを最高ランクのスポーツカーとして造り上げるには、優秀なテストドライバーの存在が必要不可欠であった。ある時、スープラ開発の議論の場において、居並んだ十数人のエンジニアの中で『私に任せなさい。自信がある』と言ってのけた者がいた。その人物の名は、成瀬弘と言った。

 成瀬は『トヨタ2000GT』や『トヨタ7』と言った、伝説的、かつ自動車の歴史に残るトヨタのスポーツカーのメカニックも務めた、叩き上げの技術者であった。成瀬は、黒沢元治の薫陶も受けた人物であり、そのドライビングテクニックは、300人に及ぶトヨタのテストドライバーの中でも頂点に位置するものであった。

 初代MR2開発の際、トヨタは初めてニュルブルクリンクサーキットで開発テストを行ったが、そのステアリングを握ったのも成瀬だった。MR2開発のテストドライバーにおいて、マシンの味付けを決定する権限が成瀬に与えられたことが、後のマスタードライバー制度の始まりでもあった。

 都築が成瀬と出会ったのは1980年代のグループB仕様MR2開発の時であった。その時、成瀬は、10メートルから20メートル車を転がしただけで、『都築さん、このクルマはココが悪いよ』と指摘してみせたという。

 それは、単に車の挙動がどうこうというだけでなく、その挙動がどういう原因で発生しているのか、それをどう調整したらいいのかまで的確に分析したものであったと言う。

「私が横に乗ってテストコースに出ていくと、コーナーで『いまこういう挙動が出たでしょ? これはここが悪いからだ』と言うわけ。車の重心やサスペンションの動き、遠心力の働きまで考えた理屈を言うんです。それを聞いてこの人は並みの人じゃないなと思っていたわけです」

 都築は、その記憶からスープラ開発のテストドライバーとして、成瀬弘を起用。さらに、トヨタの運転技能ライセンスの中でも、10人しかいない最上級のS2ライセンス保持者の中から、テストドライバーを選抜する。そして、選び抜かれた精鋭たちは、アメリカの映画になぞらえて『トップガン』と呼ばれた。

 「ガードレールに5mmのスキマを開けてドリフトして見せた」

 「普通のドライバーなら分からないような左右のコーナリングの違いを感じ取り、調べてみたら空気圧が左右で違っていた、あるいはブッシュの硬度が違っていた」

 「サスペンションのセッティングを決める際。ダンパー無しのバネだけを取り付けて路面を走り、そこから計算して必要なダンパーの減衰値を導き出してみせた」

 トップガンたちは、レーシングドライバーよりも速く走れるテクニックと、エンジニア顔負けの知識を持つ者たちであった。それだけでなく、メカニズムの機構と仕組みと実際の影響を体感で把握することが出来、それの改善策までも指摘できる。『出来る・分かる・言える』を兼ね揃えた人材だった。

 中でも成瀬の自動車評価スキルは群を抜くものがあり、「全身がセンサー」と称されるほどで、1000分の1Gの違いですらも見逃さなかったという。

 また、世界で最もニュルブルクリンクを走りこんだ人物として世界中から「マイスター・オブ・ニュルブルクリンク」と賞賛されることになる成瀬は、20km以上にも及ぶ長大なニュルにおいて、8分という規定タイムに対して1秒以内の誤差で収めることまでできたという。


 ※生前、レクサスLFAのステアリングを握る成瀬弘。2010年6月23日、死去。

 トップガンに選ばれたのは、成瀬弘、原口哲之理、大道政義の3名。彼らには、「Disignated Panelist (指名された評価者)」として大きな権限が与えられ、開発スタッフは全員、この3名の言葉を聞かなければならないシステムが採用された。

 ※トップ画像は、中谷明彦と対談するトップガンのメンバー。左から、大道政義、成瀬弘、中谷明彦、原口哲之理、荻野優。荻野はDPとしては数えられることがないが、トップガンと同等かそれに近い立場にあったと思われる。なお、このトップガン制度は現在にも続いており、2010年時点では成瀬弘を頂点として、下に3名、さらに下に5名の9名構成であったという。また、現・トヨタ社長の豊田章夫も、彼らに匹敵するドライビングスキルの持ち主であるとされている。

 トップガンの3人は、テストドライブを行うだけでなく、北米から欧州まで世界中を飛び回り、世界各地の著名レーシングドライバーや技術者たちと非常に多くの議論を交わし、共にサーキットを走ったという。その中には、元F1レーサーのダン=ガーニーや、ポール=フレールも居たという。

 アメリカで求められるのはどのようなスポーツカーか。ヨーロッパで求められるのはどのようなスポーツカーか。地域によって求められるスポーツカー像も異っており、具体例としてD・ガーニーはフォードGTを、P・フレールはアルピーヌルノーやポルシェを挙げたと言う。

 アメリカではエネルギッシュで爆発的、突き進む感じが大事であり、一方でヨーロッパでは正確で繊細なステアリング感覚が求められていた。そんな中で、ニュー・スープラの目指すべき姿として、DPたちは一つの疑問と答えを得る。


「ヨーロッパとアメリカの代表的なスポーツカーに、それぞれのサーキットと環境の中で乗ってきた。著名なレーサーとも一緒に走り、互いにコミュニケーションを図りながらディスカッションもした」 (荻野優)

「アメリカの何か、ヨーロッパの何かがあるときに、日本は? ということになる。が、それは我々がつくり出すしかない」 (原口哲之理)

「タイトコーナーはこう、高速コーナーはこうと、場面に対しては意見をいってくれる。でも、本音としてはみんな一緒なのではないかと思う」 (大道政義)

「ハッキリ言ってポルシェでもフェラーリでもない。あくまでも目指すのは我々の世界」(成瀬弘)


 北米でも欧州でもない。作るべきはジャパナイズされたスポーツカーであり、日本のスポーツカーであった……

(文中、敬称略。第8回へ。)


参考文献:

省略。第3回までのを参照して下さい。

Special Thanks:

正岡貞雄 様
黒沢元治 様

関連リンク:

「スープラの系譜」 第01回 ~スープラの系譜~
「スープラの系譜」 第02回 ~ソアラとスープラ~
「スープラの系譜」 第03回 ~70型のパッケージング~
「スープラの系譜」 第04回 ~トヨタ2000GT、そしてスープラ~
「スープラの系譜」 第05回 ~“トヨタ3000GT” A70型スープラ誕生~
「スープラの系譜」 第06回 ~「JZA」 70から80へ~
「スープラの系譜」 第07回 ~SPORTS OF TOYOYA~

Posted at 2012/02/10 14:49:53 | コメント(3) | トラックバック(0) | スープラの系譜 | 日記
2012年02月06日 イイね!

「スープラの系譜」 第07回 ~SPORTS OF TOYOYA~

「スープラの系譜」 第07回 ~SPORTS OF TOYOYA~1986年に登場したA70型スープラ。

最後のマイナーチェンジにあたり、70型スープラの開発主査の役目は、都築功に引き継がれることとなった。

都築は愛知県刈谷市出身、名古屋大学大学院修士課程修了、専門は空力学。トヨタでは、トランスミッションの設計部に所属。初代セリカ開発時、後に日本初ガルウィング=セラの開発主査となる金子幹雄と共に、日本初の5速マニュアルトランスミッションを設計する。

 日本初のミッドシップ車である初代MR2の駆動系開発も担当した他、MR2のラリーカー「222D」の開発責任者も務めていた。最後の70型マイチェンにて都築は、排気量を落としながらも、国産最小排気量での最強馬力である2500cc・280psを達成。「JZA70」を世に送り出すことになる。

 最後の70型の開発をの傍で、都築は次期スープラの開発に取り掛かることになる――

~主査構想~

 手塩にかけたグループ B仕様MR2=222Dの開発中止によってクサっていたという都築は、その悔しさをスープラにぶつけることになる。次期スープラの開発は、現行の70型の改良と並行して「主査構想」と呼ばれるコンセプト作りから始まった。

『3Lターボで最高出力は300ps。最高速度は300km/h。重厚長大ではない、できるだけシンプルなメカニズム。安全性を高める為にハイテクを惜しみなく投入し、快適性も犠牲にしないこと。そして動力性能・運動性能はもちろん、燃費・安全性などの全てにおいてナンバー1を狙う』

 主査構想は、実に20ページ以上の大ボリュームにも及んだという。目指したものは、「スポーツカー」。スポーツカーの条件として、都築は次のようなポイントを挙げている。

・個性的で非凡なスタイルを持っていること
・「走る・曲がる・止まる」、圧倒的な運動性能を持っていること
・抜群の運動性能をカバーする為の高い安全性を持っていること
・省資源性を確保していること
・快適性を確保していること

「苦痛を伴わなくては操縦できないことが、スポーツカーの要件ではない。省資源・省燃費においても、やはり乗る人が罪の意識を感じるのはよくない」

 都築は、初代MR2、2代目MR2、MR2のラリーカー開発に携わっていた。MR2のラリーカー仕様は、トヨタ初のフルタイム4WDシステム(後に日本車初のWRCドライバーズタイトルを獲得するST165型セリカGT-Fourに実装される)のテストベースともなった。これらの中で、都築はスポーツカーの考え方を叩き込まれたという。

 ニュースープラにおいて、スポーツカーの絶対条件として、まずは高い動力性能と高速安定性を与える。さらには、直進安定性とは本来相反する要素である、自在な旋回性能とハンドリング。高い動力性能の代償となるはずの環境性能と快適性をも実現させようというのだ。

 これらの途方もない構想に、社内からも異論と疑問の声が出た。それは、「スポーツカー」であることについてである。「トヨタはスポーツカーを作らない」、これは当時のトヨタ内外における常識と呼べるものであった。

 確かに、スープラの兄弟車であるソアラとの差異化を図るため、スープラ(70・80)においてはスポーティな方向へと振ることが決定されていた。だが、70型はリアルスポーツをコンセプトとしながらも、「あくまでグランドツーリング」と呼称されるにとどまっていた。

 「日本一加速力のあるスポーツカー」をコンセプトとしたSW20型MR2ですら、トヨタはスポーツカーと大々的に呼称することはなく、スペシャリティカーであることを前面に押し出していた。大ヒット車種となったAE86型レビン/トレノ、日本初のMRである初代MR2に至っては「スポーティカー」である。

 ましてや当時は、安全性や燃費の問題などが社会問題となりつつあった頃である。そんな中で、日本自動車界のリーディングカンパニーであるトヨタが、そのような「スポーツカー」を作ることは、果たして許されることなのか――!?

「私としてはスポーツカー。スープラは、フェアレディZやGT-R、GTOなどより後からデビューするのだから、動力性能や運動性能がナンバー1であるのは当然で、燃費でも安全性でもナンバー1。つまり全て100点を狙えば企画がもらえると考えた」

「動力性能・運動性能などの『パフォーマンス』と省資源性・快適性などの『優しさ』は、相反するものではないかと言われたが、技術があれば高いレベルで融合できるのではないかというのが私の考えだ。そう言うクルマをあえてスポーツカーと名付けた。スペシャルティカーではなくてね」


 ……かくして、新型スープラの企画は承認されることになる。「スポーツ・オブ・トヨタ」、スポーツカーを作ることを敢えて避けてきたトヨタが提唱するスポーツカーのあり方。

 「スポーツカーとは何であるのか? スポーツカーとはどういうものであるのか? スポーツカーはどうあるべきか?」。トヨタ2000GT以来、あらゆる自社のクルマをスポーツカーと呼ぶことを許さなかったトヨタ。

 遂に、「スポーツカー」の封印が解かれる時が来たのである……

(第08回に続く……。今回はリハビリ、あんまり長文書く気が起きないや)

参考文献:

省略。第3回までのを参照して下さい。

関連リンク:

「スープラの系譜」 第01回 ~スープラの系譜~
「スープラの系譜」 第02回 ~ソアラとスープラ~
「スープラの系譜」 第03回 ~70型のパッケージング~
「スープラの系譜」 第04回 ~トヨタ2000GT、そしてスープラ~
「スープラの系譜」 第05回 ~“トヨタ3000GT” A70型スープラ誕生~
「スープラの系譜」 第06回 ~「JZA」 70から80へ~

トヨタ博物館 都築功スープラ開発主査講演会!

 ※おまけ



 昨年の2月19日に行われたスープラ発売20周年記念の講演会にて、都築先生と撮って貰った一枚。色々と貴重な話もお聞かせ頂きました。霧島の質問を気に入って下さったのか、何故か肩まで組んで下さった……(汗) えるすさん、シャッターサンクスです。ちなみに都築先生の現在のマイカーはプリウスとのこと。

Posted at 2012/02/06 12:22:10 | コメント(6) | トラックバック(0) | スープラの系譜 | 日記

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