2012年10月05日
眠れる胚子は己が殻の中にいることを知らずとも
己の心音と血流を聞き、世に音があることを知り
想像もできぬ殻の外を予感し、身を打ち振るわせ
されど身が孵ることが叶うか否か未だ定かでなく
殻の中でただ悶えるのみが、今許されし生の証し
想いも願いも半端な身で、己の形すら見えはせず
いたずらに膨れ上がり続けるのみの各部に戸惑い
その混乱の中で一筋の光明を感じた気になりしも
それは殻の中での、ひとときの成長過程のひとつ
果てに待つものは、殻の外のみが知ると言えども
その外の何たるか、殻の中より見える道理もなし
孵らぬ卵は恐れ戦きつつ、今も何かを夢見て動く
その夢は我等、生きるすべてと何ら変わる所なし
…
……
………
久しぶりに読みたくなって引っ張り出してきた。

メディアワークス(現アスキーメディアワークス)のライトノベルレーベルである電撃文庫から刊行されている、上遠野浩平の「ブギーポップ」シリーズ。今の十代とか二十歳ぐらいの人は知らんかも知れんけど、2000年代初頭から現代に至るラノベの方向性を決定付けた、ライトノベルの最高峰なんだぜ? ちなみに「笑わない」以外は全部初版である。
最近のラノベっつったら。何かと厨二病めいた二つ名を持つ能力者同士のバトルって感じになってるけど。それの走りがコレなんだな。だが、そんなことはブギーポップの本質ではない。
退廃で陰鬱、しかして人間の本質と真理、根源へと深く深く深く迫ってゆく。今の「やれやれ」な感じとか、派手な言葉で賑やかしてるだけのラノベとは全然ちがう。ブギーポップと共に一時代を築いた時雨沢恵一の「キノの旅」なんかもファンタジーながらも深い内容だったっけ。それ考えれば、ラノベって本当に「軽く」なったんだなぁ……
今から10年前。エヴァンゲリオンで創作の道へと誘われ、ブギーポップで物書きの道へ踏み込むことを志した。そんな夢はとっくの昔に忘れてしまったけど、こうして今も時々駄文をツラツラと綴っている。俺のテキストライティングの原点だろうな。80年代末期ぐらいの生まれの人には、そういう人が多いと思う。
俺には上遠野浩平が恐ろしいよ。27年、生きてきても。10年間、文章を書き綴ってきても。人間としての本質的な部分で勝てない、超えられないという衝動に襲われる。俺も、家庭、金銭、仕事、身体……大抵の地獄は見てきたし、「苦労」とか「修羅場」とかいうのでは、老若男女問わずそんじょそこらの連中に負けるつもりはない。だが、俺が上遠野浩平のレベルまで到達しようとしたら、間違いなく発狂する。
文章とは結局、自身の裡にあるものしか表現できないんだよ。一度でも小説家を志して自ら本一冊分書いてみて、その上でブギーポップを読んだ人には、上遠野浩平が送ってきたであろう壮絶な苦悩と葛藤、凄惨な人生と出生が垣間見えてしまって、どうしようもなく恐怖し、戦慄し、絶望するんだよな。こればかりは、文章を書く人間でないと分からないことだ、絶対に。
作家って言うのには、狂人じみた人間が多い。川端康成しかり、三島由紀夫しかり……太宰治なんて、その極致だね。ウィリアム・シェイクスピアやフョードル・ドストエフスキー、村上龍、ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン……世界的歴史的文豪クラスの人間なんて、もう人間として顕界できていたのが不思議なぐらい。俺は、そういった人種の人らからすればゴミでカスでクズみたいな存在だけど、それでも人間としての“方向性”だけは同じだと思う。
文章を書く人間には、ある種の「思考」があるのですよ。独特で特異な「思考の形態」と言うか……観察力とか分析力とかなんて、そんな薄っぺらいもんじゃない。「慧眼」と言えば、まだそれに近いかもしれない。世を疎み蔑み、常に時代や世間とは迎合せず適合できず、物事の本質と真理を見極めようとしてしまう。
それを表現する言葉を、ちょっと俺は知らない。それが悔しくてもどかしい。日本にはない概念をも言語記号化することに成功している古代中国や、あるいは禅の世界でなら、あるのかもしれないけどね。
分からない人には、何を言ってるのかサッパリ分からないと思う。それが当たり前。でも、分かる人には分かりすぎるほどに分かってしまうと思う。そして、「ああ、自分と“同じ”だ」と気づいてニヤリとすると思う。なお、実際問題として、厭世の中に自らを据え置き、自身を放り込んで、自らの肉を削ぎ落とし削ぎ落としの生活をしていない人間は、分かってるつもりでも、やっぱり分かってない。
奈須きのこなんかは、「根源の渦」という言葉でソレを表現してたね。「Fateは文学」なんて言葉があるけど、一体、どれだけの人間が、その言葉の真の意味と意義を理解しているのか……。まー、「文系なんて~、文学部なんて~」って言ってるヤツには絶対に理解できないだろう。一生かけてもね。文学部にいるヤツでも同じ。文学部にいるヤツですら、9割9分9厘以上は、「“文学”部」も「“文”学部」の本質を理解しないままで卒業していくんだから。とりあえず、なんで学校という存在が、「文」という地図記号で表されるかぐらい、考えてみたらいいのにね。
……みんカラ見てても、そう言う人は稀にいる。一人だけ、この人は俺と同じだと。俺の方向性を突き詰めた先に、この人がいると。そう確信している人がいる。そしてまた、確信までは無いけれども、自分と同じ方向を見ているだろうなって人も、何人かいる。誰とは言わんが……
でも、やっぱりみんな、まともな人生は送ってないけどね。
俺は痛い奴だ。はぐれ者だ。極悪人だ。狂っている。イカれている。キチガイだ。マッドだ。サイコだ。メンヘラだ。失敗作だ。欠陥品だ。負け組だ。27にもなって厨二病を克服できないガキだ。抹殺されるべき社会的非適合者だ。そして、社会の敵だ。
俺は、自分の考えと発言は、全て本質的に正しいと確信している。だが、それと同時に全て社会的に世間的に間違っていると言う絶対的な自信もある。
俺は、「普通」の人間になることだって出来る。簡単だ、自己を殺せばいいだけだ。俺も、この一年は、そうしようと努めてきた。だが、やはりそれは許されないらしい。腹の奥底より湧き上がってくる怒りと悲しみ、理屈と理性を突きぬけて、脳髄を直撃し、心身を貫ぬくこの衝動……
群れて媚びて諂って馴れ合って……周りの目とか社会的立場だとかお世話になっているからとかで自らの言葉を封印してきた。「自分はあなたの下にあります」と「あなたにだけは従順でいます」と、そう笑顔であり続けてきた……
もう、いい。もう……。たとえ俺が切り捨てられることになっても構わない。殺されることになっても構わない。俺の人生は、そんなことの繰り返しだった。何を今さら躊躇う必要がある? 何を今さら隠し通す必要がある? 「普通の幸せを手に入れたい」、そんなぬるい考えが、俺の思考と文章を鈍らせて来たんじゃねぇのか?
いいな、ブギーポップ。久々に読んで、自分が17、18の高校時代。19の浪人時代、20、21の学生時代に何を想っていたかを思い出したわ。
……俺は大学生の時、講義の履修登録理由を聞かれたら、「絶対的なものを見つけ出すため」なんて真顔で答えてた痛いヤツだった。そしてそれは、今も変わらない。でもさ、そういう自身の中に哲学や思想、信念がないと。学問なんて無意味で無意義なものに過ぎなくなってしまうと思うけどね。
文章が上手くても、知識に溺れているヤツなんていくらでもいる。自らの信念や哲学を持っているように見えて、それは全くの借り物であり、コピーであるヤツなんていくらでもいる。もちろん、俺もその一人だろう。
ホントに学問を探求した人ってのは、自分の専門分野を通じて人生を教えてくれるもん。でも、そんな優秀な人ってのは、みんな予備校に引き抜かれて行っちゃう。学校の教師?世間知らずのカス揃いですよ。小中高大専門どれもこれも。
そうそう。本や文章なんて、真面目に読むだけホント無駄ですよ。本を一冊読んでみて、その中から本当の本当に大切なこと。価値のある、“たった一文”を見つけられれば、それで充分ですよ。そして、何冊も何冊も本を読み込んで、その一文を点繋ぎのように繋いでゆけば、世界の形が見えてくるもんです。
本物は、いつも隠れたところにしかいない。決して表舞台で華やかに活躍することなどない。そう、俺は常に信じ続けて来たのではなかったのか?
そうだ。俺は何度でも言い続けてやるよ。
お前は裸の王様だ、と。
Posted at 2012/10/05 11:46:54 | |
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