あれは何時頃からブームが起きてたんだろうか?
クマさんがまだ中学生だった時の事だ。
ファイティングブルが2台・・・従姉宅へ出向けばガレージで眠っていた当時が懐かしい。
今現在猛牛2台の姿もS800までも無くなった・・・・。
あの時・・・・お抱えの整備士が居ましてほぼ日曜日の礼拝が終わりランチが終わった頃爆音が!
市川の従姉宅はOMFって教会へ成りましたが当時・・・・個人宅で国道から徒歩で50mほど歩いて玄関だった。
伝説の浮谷東次郎ってクマさんの叔父なのは確かだけど・・・・・
戦時中・・・・クマパパが叔父宅へ出向き食料を分けてもらってた話があり・・・・
今現在と違い邸宅が大きく戦前は今現在のJR総武線の土手下のトンネルを抜けて沼地が。
南北に300m位長く・・・・・今現在は他の方々が暮らす街に成ってます。
そんな親族が居たのでブームが何か?
そんなの知った事じゃないクマさんでしたが幼馴染が車の形を模った消しゴムから火が付いた。
その相手が半世紀も続くお付き合いのDレンジだった。
消しゴムって樹脂に塗る塗装がまだラッカ系しかなくエナメル系塗料が普及し始めシンナー系が少なく成って塗装もし易く成った時分かな?
たまたまガチャガチャから出てきたのはランダムで選べない車・・・・・
クマ的には何でも良かったんです・・・・ミウラなんか実車のシートに座っててデフォルメされた消しゴムには興味なかったし。
車の免許すら無いのにドライビングシートに座れた事はまだ友人にも話してない。
その前に誰からも信用されない・・・・・100%
血縁者宅に2台も有ったのでわざわざカメラ片手に出かける手間も無かった。
そんなある日・・・・環八小山台まで自転車で都内横断計画が学校内で出た。
当然・・・日曜日の早朝オニギリの弁当を抱えて都内横断を数回。
今じゃバイク・車で簡単に横断してますが免許も車両が自転車1台では道具として最小限だった。
快適に走り抜け無事に帰宅を考えればチューニングすら知らずに呉CRC556を片手に走る思いでしかない。
現地での俳諧の記憶も無い・・・・・はるか遠い地へ出向いて帰ってくる事しか無いのは自分の気持ちがまだ定まって無い。
時たま信号の変わり目で置いてきぼりも当たり前だった。
その時はぐれて熊1匹でウロウロ[壁]/(エ)*)ハゥ・・・ヤバイ
完全に逸れたが翌日学校で会えば情報提供位出来ると思ってた。
だが現実は違ってて渋谷で居ないのに気が付いて青山ホンダ周辺でしんろへんこうがあったんだとさ。
迎賓館近くで今じゃ当たり前にディーラーが有るが当時は墓地に六本木ディスコ街しかなく・・・・・。
次回からクマさんは単独で出向く様に仕向けられた・・・・・
でも従姉宅へ出向けば周りは座れないシートに座れたし爆音のエキゾーストも聞ける。
この違いが今後どんな感じで心に残るか今だから把握できる。
さてスーパーカー消しゴムの話題は学期末試験にまでも影響し当然の如く?
赤点の見本と成った・・・・勉強してない遊んでばかり今も昔も何の変化も無い。
だがモノとして残して置けば・・・・・
何時か酒の席で話題に成った時あの頃の遊びが再現できると残して置いた。
昔の夢が現実と成った方は極わずかでも・・・・・
クマさんには身内が所有してた実車の方が見て聴けるよりも車体に触れられる座ってレイアウトを観れる方が格段に良い。
18歳でマイカーの免許取得し学校へ出向けば既に数名マイカー族だし・・・・・
社会に出て稼げばスーパーカーが買えると思ってた。
だけど・・・・・桁が1個多く現実の世界へ入ればもう抜け出せない自分がいた。
あの頃の楽しかった自分が正反対に見え・・・・
消しゴムの存在を思い出した時には手元にない・・・・・悲しい現実が。
(エ) ̄) フ・・・と昔のモノを地中に埋めてたのを思い出し実家の裏庭を掘り下げ見つけたのは高校受験前に埋めた缶詰だった。
掘りだした缶詰は変形し紙関係はその時点で1個の塊に成り消しゴムはビニール袋に二重にしておいたので数個の車だけが残った。
手にすれば数個はもう風化してバラバラになり原型すら留めてない。
モノを残す事が大変なのは20代過ぎに成って感じた・・・・・。
見つけたモノは更に管理を考えさせらてた。
今は喧嘩別れした親友が頻繁に出入りしてて金銭と同時に色んな物を持ち出され転売されててもう無くなってたモノをよそで見つけ持ち出した親友へ問いかければ?
持ち出されたくなければ自分で管理して置けって!
今現在その元親友は他人のモノを盗んでは金銭へ交換して生計を?
その事を親に話せば薄々と知ってても言ってくれなかったので罠に入ったら仕留めるまで数年が経過。
やっと尻尾を出した頃にはクマさんは古物商に成ってた。
後は警察にお任せしたんだけど家族総出で知能犯なので未だに捕まって無い。
ここ最近出没してるので他所に頼んで放置。
業界さんに頼んだのでその後は知らない・・・・・・。
無くなったモノは塗装した消しゴム数個が無くなってただけで他はもう見つかって無い。
今現在残ってるのは数個の消しゴムスーパーカーだけで?
こいつ等が残って無ければもうほじくり返す事も無く成ってただろうな?
綺麗に原型を留めてたのはこの2個だけ・・・・・
無くなった方が多いのに20個近くがな?手元にない時点で内心悔しいです。
今度これを持ち込んでチバラギオフ会で協議しないかなって思ってます。
その前に勇姿を募らなきゃ・・・・・
スケール的に1/100位ですので弾くボールペンも用意しなくちゃ成らない。
肝心なコース・・・・学校の勉強机が必要になるよね・・・・・♪
10分足らずの休憩時間の方が思い出に残る時点でどれだけ楽しかったか・・・・・
免許もなかった小中学生がなぜ熱狂!? あれから45年〜「スーパーカーブーム」をしみじみ回想してみる
小嶋 あきら
小嶋 あきら
1/24サイズのプラモデル。カウンタックは定番だった。スピード合戦が過熱し、このように単三乾電池を4本積むものも現れた。
1/24サイズのプラモデル。カウンタックは定番だった。スピード合戦が過熱し、このように単三乾電池を4本積むものも現れた。
1976年ごろから1978年頃まで、全国にスーパーカーブームが巻き起こりました。それまであまり知られていなかったランボルギーニやフェラーリといった、まるで未来の国からやってきたような姿のクルマに、全国の小中学生が熱狂。各地で開催されたスーパーカーショーにはカメラ少年が溢れ、さまざまなグッズが飛ぶように売れました。
最初は連載漫画から?
このブームの面白いところは、対象がクルマだったのに中心になったのが「まだ免許の取れない小中学生だった」ということではないでしょうか。
発端は池沢さとし先生の「サーキットの狼」だと言われています。そこにテレビがスーパーカーの特集番組を放映するなどして、一気に加熱したというのが、当時小学生だった筆者の感想です。まるで宇宙船みたいなスタイル、最高時速300キロという異次元のスピード、12気筒エンジンなんていう何が何だかよくわからないけど絶対にすごいに違いないパワーワードに、当時小学生男子だった筆者の心も鷲掴みにされてしまったのです。
ただ、いくらブームになったところで相手は小中学生。当時1750万円のカウンタックはおろかクルマ自体買えるわけもなく、本やグッズを集める方向に走るわけですね。今だったら、たとえばDVDやBDソフトなんか出せば売れるのでしょうけど、当時はまだビデオデッキも普及していない時代です。図鑑や写真集、下敷き、トランプなどの印刷物や、たまに雑誌の付録で織り込まれたソノシート(薄いペラペラのレコード。アナログレコードプレーヤーで音が聴けた)で排気音を聞くなどして、少しでもスーパーカーを感じるのが精一杯でした。
トランプ、カード、ブロマイド、下敷きと、とにかくなんでもスーパーカーだった。
トランプ、カード、ブロマイド、下敷きと、とにかくなんでもスーパーカーだった。
スーパーカーブーム以前のトイラジコン「アトコミ2号」。スイッチを入れるとひたすら前進、左ボタンでバック、右ボタンでジグザグ走行(離した時点でハンドルはその位置で固定)、という複雑な操作で、思い通りに動かすのには熟練の技が必要だった
スーパーカーブーム以前のトイラジコン「アトコミ2号」。スイッチを入れるとひたすら前進、左ボタンでバック、右ボタンでジグザグ走行(離した時点でハンドルはその位置で固定)、という複雑な操作で、思い通りに動かすのには熟練の技が必要だった
また、ミニカーやペーパーモデル、プラモデルなどのグッズもスーパーカーを立体で感じるアイテムでした。プラモデルは主に1/24スケールで、だいたい500円くらいで売られていました。誕生日やクリスマスにそれより大きい、例えば1/18とか1/12の大きなサイズのものを買ってもらったりすると、それはもう有頂天でした。
さらにその上にはトイラジコン(ラジコンというのは実は商標らしいのですが)という尊いアイテムもありました。それまでのトイラジコンはチャンネル数(右折とか左折とかスピードとか、制御できる動きのバリエーション)が少なくて、例えば「スイッチを入れると基本は前進し続けていて、右ボタンでバック、左ボタンでジグザグ走行」というようなやたら操縦が難しいものが多かったのですが、この頃から「前進、後退、左右」と普通に動けるものが増えてきた気がします。そしてさらにこの頃、あのタミヤから1/12電動ラジコンシリーズの第一作目、ポルシェ934が発売されました。友達のなかで、家が裕福だった子がそれを買ってもらったんですが、初めて目の当たりにする本格的なラジコンカーのその大きさとリアルさ、そしてなんといってもその速さには心の底から憧れました。
小学校を席巻した「スーパーカー消しゴム」
一般の子供がはまっていたのは「スーパーカー消しゴム」でした。消しゴムと言っても本当に文字を消せるかというと微妙なものでしたが、いちおう「消しゴム」とされていることで学校に持って行っても怒られない、という画期的なアイテムでした。主にガチャガチャで売られていたのですが、その中でも出来具合というかリアルさというか、製造元によってクオリティに差があったんですね。まあリアルと言ってもデフォルメされてるんですけど、それでも「これはポルシェ928、これはミウラ、これはベルリネッタボクサー」というように車種がはっきりと分かって、なおかつ裏側のシャーシもそれらしく(本当に実物をモデルにしていたのかどうかは不明ですが)表現されているものが人気でした。まあ子供なりに、その辺りのセンスみたいなのを見抜く目はみんな持っていたのですね。
45年前の消しゴムが、きっちり保管したわけでもないのにいまもあまり劣化していないのはちょっと意外。
45年前の消しゴムが、きっちり保管したわけでもないのにいまもあまり劣化していないのはちょっと意外。
比較的好まれていたシリーズのスーパーカー消しゴム。車種がわかる程度に絶妙にデフォルメされていた。
比較的好まれていたシリーズのスーパーカー消しゴム。車種がわかる程度に絶妙にデフォルメされていた。
スーパーカー消しゴム。クオリティは玉石混淆だった。
スーパーカー消しゴム。クオリティは玉石混淆だった。
この小さなスーパーカー消しゴムを、BOXYのボールペンで飛ばしてレースをする、というのが小学生の嗜みでした。画用紙とかにサーキットを描いて、ボールペンのバネでスーパーカーを弾いて走らせるのです。当然、いろんなチューニングをしました。ペンを分解してバネを引っ張って伸ばしてパワーアップする、消しゴムのタイヤ部分に接着剤を塗って乾かして摩擦係数を下げるなど、子供ながらにいろいろ知恵を絞ったものです。
基本的にスーパーカーは一般公道を走るクルマですが、ブームも末期になってくると6輪F1カーのタイレルP34やトヨタセリカのシルエットフォーミュラ、BMWやポルシェのグループファイブマシンといったレーサーまで対象が広がっていきました。そしてそのままブームはなんとなく収まっていきました。
ビデオもなく、テレビも民放の地上波が数チャンネルしかなかったあの時代。そういうマイナーなレースの映像は筆者たちにはほぼほぼ届かなかったわけで、リアルタイムにその時代を過ごしながら6輪タイレルが走ってるのを見たのは最近になってYouTubeで、って感じです。なのでスーパーカーブームはその後モータースポーツ熱として盛り上がるわけでもなく、なんとなく消えていったのかもしれません。
しかしあの時代にスーパーカーの洗礼を受けた年代は、きっと心のどこかにいまもスーパーカーを宿しているのだと思います。