2021年10月23日
人には生きていれば必ず訪れることがあります。
それは本人が好もうが好まざろうが、必ず訪れること。
それが死です。
いつか未来に永遠に生きられるような技術が出来れば別ですが・・・。
自分が存命中には不可能ではないかと思います。
2週間前の去る10/9朝、実父が永眠しました。84歳。
両親は数年前から認知が進行していたため、当方の自宅にほど近い施設に呼び寄せて暮らしてもらっていました。
そんな中、昨年コロナ渦において父親に38℃を越える発熱があり、血中酸素飽和濃度がかなり下がったため、救急車で運ばれて入院しました。
検査の結果、コロナ感染ではなく、誤嚥性肺炎だったようでしたので、この時は2週間弱で何とか回復して退院となりましたが、コロナ感染拡大予防のため入退院の手続きで病院に訪れても面会は一切出来ませんでした。
ただ、たまたま看護師さん立ち合いで自分が書類手続きしている最中に父親がナースコール(ピッチ使用)して来たので、看護師さんがピッチを貸してくれて父親の声を少しだけ聞け、会話にならないような感じでしたが、やり取りは出来ました。
退院・施設に戻るのもコロナ感染防止のため、施設の職員の方が対応したため、その後は毎月生活必需品だけを当方が施設に運んでいましたが、その後約1年、亡骸になるまで結局父親と会うことも会話することも声を聞くことも出来ませんでした。
約1年前に病院のピッチで聞いたのが、自分としても家族としても最後の本人の肉声になりました。
退院後も約1年は今まで通り施設で夫婦仲良く暮らせたのがせめてもの救いですが、施設の方によると父親は食べても栄養が身に着かないようで、徐々に徐々に痩せていってしまったようです。
亡くなる前日もそれほど普段の様子とあまり変化はなかったとのことでしたが、朝方食事のために寝ているところに職員の方が迎えに行ったところ、意識レベルが低く、呼吸が苦しそうだったので、酸素吸入はしたそうです。
ただ、暫くすると呼吸が止まり、近隣の提携の医師を呼んだそうですが、臨終が告げられたとのことでした。
死因はケガでもコロナ渦でありながらコロナ感染などでもなく、がんや心臓病などの病気でもない、老衰との診断でした。
当方は父親が亡くなった当日、以前に予約していた愛車K1600GTLの前後タイヤをショップさんで交換するため、朝一番で自宅を出発していました。
で、施設から父親の呼吸が止まったとの連絡が自宅電話にあったには時にはバイクで東名高速を移動中でした。
その後も連絡先として伝えていた自分の携帯電話には着信や留守電などの連絡がなく、出勤中のカミさんに連絡が入ったようで、カミさんから自分の携帯にはショップさんでタイヤ交換中にライン連絡(亡くなる前の様子だけ)が入っていたのですが、それに気付かずそのまま知らずに昼過ぎに帰宅。
訃報を聞いてもバイクのタイヤ交換が完了しないと帰れませんでしたし、下手に聞いて気が急いても危ないので、結果的には知らずに帰宅出来たのは良かったような気がします。
結局自分が父の臨終を知ったのは、施設からの自宅固定電話への留守電に折り返し電話した昼過ぎでした。
毎月施設に生活必需品を職員に手交しており、その際にはコロナ渦で両親には面会出来ないので両親の様子を簡単には聞いていましたが、最近、父親は食堂までの移動に車いすを使わないとならないなど歩くのも厳しそうで、食事(柔らかいものだだけ)は出来るが身にならない感じとのことでしたので、ある意味では自分も覚悟は出来ていました。
10/9午後、亡骸に対面した時やすぐに葬儀場へ移動させた時、葬儀までの数日は忙殺されていたこともあってか、また覚悟もあったためか、不思議と特に感情が高ぶることなく普段のような感覚で冷静にやるべきことを淡々と進めることは出来ました。
コロナ渦ですので家族葬とし、自分が喪主を務めて10/12には葬儀を行いました。
それまで割と淡々としていた自分ですが、出棺のために家族で棺に花を一杯に入れてあげている時には、『これでもう父親と生で会うのも最後なのか・・・』という思いが急に込み上げて来てしまい、流石に感情が高まってしまいました。
家族が亡くなったという事実は悲しいことではありますが、冒頭述べたように自分にも家族にも誰にでも、生きていればいつかは必ず訪れることです。
そして、コロナ渦でコロナ感染で亡くなった方が多くいて、葬儀や最後の対面も出来なかったと聞く中で、父親は比較的穏やかな最後を迎えられた上に、近親者が集って小さいながら葬儀という形で少し時間を掛けて見送られた訳ですから、本人にとっても近親者にとっても喜ばしく幸せなことであったものと思っています。
葬儀後、当方は暫く役所や相続の手続きなどでそれなりに忙しい日々を過ごしていました。今もいくつかまだ進めている途中のことがあります。
ちなみに、父親が亡くなった10/9以降も暫く北海道ツーリングの忘備録を連続でアップしましたが、既にブログ記載は進めて一時保管していたので、こちらを順に全てをアップしてから、本ブログをアップすることにしていました。
ご家族を亡くされた多くの方がそうだと思うところがありますが、父親の一番の供養になるのだと思って数日は父親にまつわる色々な思い出を振り返ったりしました。
父親は決してクルマやバイクを好きだとは言っていませんでしたし、むしろ50代の頃は『クルマはあまり好きではない。運転するのではなく、後ろの席に乗せてもらいたい。』などと言っていました。
父親は若い頃、借金して大学へ夜間で通うなど苦学し、諸事情もあっていくつか職を変えているのですが、その一つは日産関係の仕事だったり、最後の職は教習所で教官・学科も担当しており、それなりにクルマとは繋がっていました。
若い頃からクルマは運転していたので、しょっちゅうではありませんが、家族でドライブに行ったりした思い出も結構ありますし、当方の趣味の一つがクルマになったのは父親の影響も大きいと思っています。
また、父親は飽きやすい性格ということはないのですが、多趣味でいろいろなこと、新しいものに手を出していて、そんな後姿を見ていたからか、自分も多趣味で色々新しいことにもチャレンジするところ、鑑賞する映画や音楽の趣向なども似ているような気がします。
大学の学部(文学部英文科だった)は自分(理工学部応用化学科)とは違いますが、同じ大学に進学したということも父親の影響が大きかったと感じます。
他にも思い出はたくさんありますので、もちろん全てを記載することはしませんが、普段はあまり会うことがなかった妹とも葬儀などの打合せで何回か会い、父親や子供の頃の思い出話で盛り上がるなどしました。
先日妹との納骨に関する打合せの帰りに、懐かしくなって小中高の頃に住んでいた場所・小中学校を見に行ったりもして、思い出に浸ったりもしました。
晩年、両親は徐々に認知が進み、家の鍵が無くなったなどと助けを求められて車で3時間往復することが何度もあり、相談なく手続きが未完のまま引っ越しを繰り返して、その後の始末などに相当苦労させられたりしましたが、それら反面教師的な部分も含めて多くのことを父親から学ばせてもらいました。
存命中に直接言葉に出して伝える機会があまりありませんでしたが、やっぱり今の自分があるのは両親のお陰です。
よくある話ですが、亡くなってから毎日、位牌・遺骨に向かってお線香をあげながら、改めて父親に対する感謝の念が絶えないことにも気付きました。
自分にも息子が二人います。
自分の存命中には言葉で中々伝えてもらうことはないでしょうが、父親と同じように亡くなった時に息子や周囲に感謝されるような生き方を今からでもしないとな・・・などと、父親から最後に教えてもらったような気がします。
11/21に四十九日の法要をして納骨します。どうか安らかに眠ってください・・・お疲れ様でした。
Posted at 2021/10/23 22:30:48 | |
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