
前回ブログから少し間が開きましたので、本題に入る前に諸事を先に記載。
先に掲載した通り、自車のバックランプをLED化しました。
これに関して、雑感を追記しておきます。
製品選択に際して、各社のHPをいろいろ確認したのですが、流行の商品らしく製品の改良が著しいことを感じました。今回選んだ商品もそうなのですが、単体での明るさよりもクルマ側のリフレクターを上手に使うことで明るさを確保するなんというのは、ユーザー側としてもありがたい改良です。
lm(光束)の数値の高いものは、W数もそれなりに高いというのにも、気付きまして、LEDに代われども、やはり数の力がものをいうのは変わらないようです(笑)
諸事もう一つ、先週、免許証の更新に行きまして、ようやくゴールドに回帰しました。
思い返せば、それまでの無事故無違反の継続(通算20年以上)を崩壊させたのが、5年程前になるわけで、元に戻すのは大変なんだなと改めて思います。もちろん、まだスタートラインに立てただけとも言えまして、今後も継続せねば、ですね。
諸事はこのくらいで、本題に入ります。
今回は30年前のモーターショー、ホンダ編です。
この回のホンダは、コンセプトカーの出品は見送るというのが特徴でした。メーカーからは、「最新技術は市販車に反映されているから、そちらで確認してくれ」というのが見解だったようです。
モーターショーをお祭りの一種と認識するなら、寂しい対応と言えるのですが、フルラインメーカーに急成長を遂げる中で、意欲的なモデルを連発していましたから、コンセプトカーの製作に回せる人手が無かったであろう事情を鑑みれば、仕方なしとも言えそうです。
この時期のホンダ車は、以前に2代目ビガーの他、ベルノ店のモデルはオプションカタログを中心に取り上げています。そちらと重なる部分もあるのですが、個人的に好きな車種が多いのでご容赦ください。
ホンダの長い歴史の中でも、特に好きな時期なのです。
それでは、以下紹介していきます。
この時期のホンダを語る上で、欠かせない言葉・・・という訳で最初に登場
するのは”F1”です。創業者である故本田宗一郎氏の「レースは走る実験室」という言葉を重ねられる方も多いと思います。
1983年にF1に復帰したホンダが頭角を現し始めたのがこの頃。この後、破竹の勢いで快進撃を続けることとなります。
右頁には、新世代ホンダテクノロジーということで、市販車のエンジンとサスペンションが紹介されています。
この時期のトヨタはDOHCを経て過給器の追加に、日産はSOHCターボを経てDOHC化にということで、共にツインカムターボに舵を切りつつありました。一方のホンダは、シティでターボに参戦したものの、それ以上は戦線を広げず、むしろNAの優位を強調していました。もう一つ、排ガス規制の初期から取り入れていたCVCCからの脱却もありましたね。
NAという共通項はあるものの、メカニズム自体は、DOHCとSOHC、4バルブと3バルブ、キャブとPGM-FIが車種やグレードに合わせて組み合わされていました。この辺りは、各々の長所が強調されるだけで、指針を定めずといった感がありましたね。
それは、アコードで4輪ダブルウィッシュボーンを構築して、今後はそれで行くのかと思いきや、レジェンドではリヤストラットをやってみたりしたサスペンションも同様でありました。(レジェンドは後期で4輪ダブルウィッシュボーンとなりますね)
その分、次は何で来るのか楽しみということでもあったのですが。
ショーの直前となる10月に登場したのが、ホンダの新たなるフラッグシップであるレジェンドです。
従来、クラウンとセドリック/グロリアがあらかた支配していた日本の高級車市場への挑戦、それはシビックから再スタートを切ったホンダが、上級市場に拡大を続けた象徴でもありました。
ボディサイズこそ5ナンバー枠が基準にありましたが、思想的には元祖「あの車とは違う」と言っていいと思います。クルマとしては初参入ということもあって荒削り感が強かったのですが、出たことだけでも評価できます。
このクルマや翌年のHCルーチェが登場していなかったら、Y31セドリック/グロリアが果たしてあの形で登場できたか怪しいと思っているのです。
また、ローバーとの提携で生まれたクルマとも言えます。この提携は、結局21世紀を迎えることもなく霧散してしまうのですが。
この年の6月に登場したのが、この3代目アコードでした。
それまでのアコードは1.6L&1.8Lを搭載するミドルセダンの中でも小さい方でしたが、主な輸出先である北米への対応もあって、1.8L&2.0Lを搭載するミドルセダンの中でも大きい方に成長しています。
もっとも、ボディサイズの拡大より何より、リトラクタブルライトを採用した低全高セダンという成り立ちが新鮮でした。
エアロデッキは、それまでのハッチバックが国内需要が低下しつつあったことを要因とする新たな市場喚起策でしたが、大きな成果は得られずで終わっています。国内専売という成り立ちからして、個人的には5ドアで問うていたらまた違った結果だったように思うのですが、これは仮定話に過ぎませんね。
ビガー含めて、数あるホンダ車の中でも屈指の好きなクルマです。
そんな思いは、以前に
こちらで語っています。
ベルノ店の上級車2台です。
上は、当時流行の最先端にあったプレリュード。
登場以来、尻上がりに人気が加速したことで、中古車が殆ど値落ちしないクルマでもありました。
1.8系は、前年10月にマイナーチェンジ。マイナーチェンジ前はテールのセンターガーニシュが黒で、輸出用のリヤフォグ付き赤への換装がお約束でしたが、チェンジにより、リヤフォグレスながら赤に変更されています。
また、この年の6月には新たなるトップグレードとなる2.0Siを追加。
更にプレリュードの人気に拍車がかかります。セリカがFF化されて、この市場に挑むも、トップの座は揺るぎませんでした。
○プレリュードのオプションカタログは
こちら
下は、アコードの兄弟車となるビガー。
先代はハッチバックも設定されていましたが、この世代ではセダンのみとなりました。
先代は、異形2灯のアコードに対して、SAE規格の角目4灯という違いがありましたが、より近い状態となっています。その分、差別化に苦労した印象もありまして、後にCAで追加される固定ライトをこの時点でどちらかに与えても良かったのではと思います。
○ビガーのオプションカタログは
こちら
ベルノ店の取扱車種が続きます。
上は、まだクイント名が付いていた時代のインテグラ。
この年の2月に3ドアが登場して、10月に5ドアが追加されています。
シビックをベースとしながらも、強く傾斜したハッチゲートを備えたクーペライクな装いは好評で、ミドルクラスと所謂大衆車クラスの中間クラスとしては珍しく成功したクルマとなりました。
北米で新たな高級車ブランド、ACURAを展開した際のエントリーモデルにもなっていますね。
○クイント インテグラのオプションカタログは
こちら
下は、CR-Xとセダンから成るバラードシリーズです。
CR-Xは1983年6月の登場で、セダンは同年9月の登場。共にこの年の9月にマイナーチェンジを受けて、それまでのセミリトラクタブルライトが固定式ライトに変更されています。
CR-Xは、元々ミニプレリュード的デートカーとしての性格が強かった(登場時のCMコピーは”デュエット・クルーザー”でした)のですが、Si追加以降は、シビック3ドア共々その身軽さを生かした、ライトウエイトスポーツの色彩を強めていきます。
○CR-Xのオプションカタログは
こちら
セダンは、シビックをベースとしながら、BLとの提携で生まれた4ドアセダンでしたが、直後に本家のシビックにもセダンが登場したことから、この世代ではシビックセダンとの関係がより近くなります。
シビックに追加されたSiも最後まで追加されることはなく、大人しさが身上のセダンでした。結局この1年後には、インテグラに4ドアセダンが追加されることで、取って代わられることとなります。
○バラードセダンのオプションカタログは
こちら
アコードと並ぶホンダの中心車種、シビックです。
この時点ではワンダーの名称で有名な3代目。
登場は1983年9月で、この年の9月にマイナーチェンジを受けています。
セダンはこのクラスらしいベーシックな成り立ち、シャトルは背高のワゴンボディを居住性に生かした意欲作でしたが、やはり3ドアの印象が強いですね。
それまではバンに見えるということで敬遠されていたロングルーフを採用したデザインは、それまでの同クラスの3ドア車を一気に置き去る魅力にあふれていました。さらにその勢いを加速させたのがSiで、その速さが人気の要因に加わります。人気を博したことで、この後のシビックは、しばらくの間このSiで見せた方向性を邁進することとなります。
4ドアの人気が確立するのも、”フェリオ”というサブネームを与えられてパーソナル性を強めたこの2世代後というのも、そのことの裏付けだと思うのです。
シャトルはその方向性とは親和性が低くて、意欲作ながらも、徐々にフェードアウトしていってしまいます。もう少し上手く育てられていれば、後に誕生するクリエイティブムーバーの一角を占めていた気もしますけれどね。
ベーシックモデル2台です。
左は、シティ。
1981年10月に登場。その出で立ちは一世を風靡しましたが、その後、1982年9月のターボ、1983年10月のターボII、1984年7月のカブリオレと次々に刺激的なモデルを追加していきます。その反面、ベースモデルの影が薄くなってしまった印象は拭えません。
この年はそれに対応するかのように、3月に経済性を重視したEIII、4月にハイパーシフトをそれぞれ追加といった具合で、ベースモデルへのテコ入れが行われました。
プレリュード以降、シャトル以外は低全高に進路を定めたホンダの中では異端児になりつつあったのも事実で、翌年に登場する2代目は低全高に180度の方向転換が行われることになります。
右は、ライフの生産中止以降、ボンバンで久方ぶりに軽自動車界への復帰が話題となったトゥデイ。
シティに影響されるかのように、車高が高くなりつつあった軽自動車界でしたが、当のホンダはそれに反旗を翻すかのように低全高での参戦となりました。
3気筒に主流を移しつつあった中、アクティ譲りの2気筒は時代に外れつつありましたが、それを問題にしないくらい、低全高から成るそのスタイリングはとても魅力的で、今昔含めた国産車全体の中でもグッドルッキンの一台だと思います。その中でもこの丸目初期モデルが一番、というのが個人的印象です。
商業車シリーズです。
左の小型商業車の方では、プロというネーミングがされていました。
シャトル転じた、シビック・プロとシティ・プロ、こうして並べると兄弟車のように映るのが不思議です。プロだけでも、初代シティを並存できたのではと思ったりします。軽商業車と違って、小型商業車は1年車検となるのが敬遠されていましたので、スターレットバン共々、4ナンバーの3ドアは販売が難しかったのも事実ですが。
右はアクティ。
フロントマスクこそ一新されていますが、唯一この6年前から世代交代がなかったモデルです。
新規格の中では登場が早かったモデルのため、ライバル車の更新が続く中では競争力の維持が難しく、この3年後にモデルチェンジを受けることとなります。
裏表紙は、販売チャンネル別の取扱車種が並べられています。
このショーとほぼ時を同じくして、従来のホンダ店をプリモ店とクリオ店に分けることで、先行したベルノ店との3系列体制になることが発表されました。
拡大に次ぐ拡大で進んできたホンダですが、3系列体制の構築は容易ではなく、プリモ店とクリオ店の扱い車種はアコードとシビックがクロスする形で、上方と下方に伸ばされています。
徐々に兄弟車を揃えていくことで、3系列体制を何とか維持していきますが、結局この約20年後には、系列統合を選ぶこととなります。
今になって振り返ると、レジェンドをベルノ店に送って2系列で進むのが正解だったのではと思ったりします。全車種を扱うというメリットがある一方で、高級車と軽自動車の並立に苦心している状況を見るに、何かと一長一短があるのが、系列問題ですね。
ということでいかがだったでしょうか。
最後の系列問題は、やや蛇足気味でしたが、こうして各車種を並べてみると、兄弟車以外は車種間競合もなく、キャラクターの立ったクルマが揃っていたと改めて思います。
キャラクター確立期の初期モデルらしく、長所と短所が明確なモデル達でしたが、だからこそその成り立ちが魅力的に感じられます。クルマとしての実力としてなら、プレリュード、アコード、シビック、その他を含めて、この次の世代の方が高いであろうことは間違いないのですが、やはり時代の寵児はこの世代のクルマたちだと思うのです。
誤解を招くかもしれませんが、記念碑的に印象に残るクルマというのは、多少の実力差よりもキャラクターの強さの方が勝ることが多いですね。
もう一つ、79年のモーターショー編(リンクは
こちら)で触れたとおり、僅か6年でここまで車種展開が広がったことも特筆すべきでしょう。
6年前の乗用車は、アコード・シビック・プレリュードの3車種に過ぎなかったのですが、この時点ではフルラインナップですからね。
会社の規模からしたら、これは正しく急成長だったと言えます。この年の各モデルの手の入れ方からしても、コンセプトカーまで手が回らなかったのだろうという、最初の推定に至ることとなるのです。