
思い出のクルマ、第32回です。
本当は40周年に合わせる形で、5月中に取り上げたかったのですが、他の話が先行したため、間に合わずとなってしまいました。
このクルマ、私が三菱について語る時には、絶対外したくないクルマです。初めてホンダ車を意識したのが3代目アコードというのは、以前に書いたことがありますが、こちらは、初めて三菱車を意識したクルマなのです。
歴代で見ても、E3系に続いて、いや両方一位に並べてもいいくらい好きなクルマでもあります。これ、私だけでなく、根っからのトヨタ・ダイハツ好きな父も魅かれたくらいでして。
そんなギャランシグマは、1976年(昭和51年)5月に登場しています。
それは、前代にあたるニューギャランから、何と2年11か月での登場という早さでありました。ニューギャランは、その前代からの引継ぎ部分が多かったとはいえ、それでも驚くべき早さではあります。
それに加えて時代は、本格的な排ガス規制が始まったばかりの頃。トヨタ・日産は、その車種数の多さが足枷となって、それまでの4年毎というモデルチェンジ周期が遅れつつありました。マツダはロータリーでもっと大変な目にあっていましたし、ホンダはシビックに加えて、ようやくアコードが登場した時点。
そんな状況下にこれを登場させたのですから、三菱の意気込みが解ろうかというものです。市場もこれを大歓迎しまして、安全コロナが連続ベストセラー、それをブルーバードが810で切り崩しに挑むという構図の小型車市場に、それこそあっという間に割って入ることに成功するのです。
前振りだけでも、まだまだ書けそうですが、このぐらいにして、カタログの紹介に入っていきます。
掲載は、1977年(昭和52年)11月のパンフレットからとなります。
最初の見開きは、トップグレードとなる2000スーパーサルーンです。
シグマが成功した要因は、やはりそのスタイリングが最大だと思います。
ボディサイズは、全長(mm)×全幅(mm)×全高(mm)の順で、4,330×1,655×1,360(1800SL)。このサイズは、
安全コロナ:4,210×1,610×1,390(1800GL)、
810ブルーバード:4,260×1,630×1,390(1800GL)
と比較すると、一回り大きいサイズでした。一クラス上と認識されていた、
2代目マークII:4,380×1,625×1,400(2000GL)、
ケンメリスカイライン:4,250×1,625×1,405(1800GL)
というサイズですから、これらとの比較でもメーカーの主張するLOW&WIDE・LOW&LONGが、そのデザイン構成の基礎であったことが解ります。
特に全高の1,360mmは、当時のセダンとしてはかなりの低さです。4ドアを低く作るという点では、カリーナEDやレパードではなく、シグマがその走りという見方もできると思います。
その分、(特にリヤの)ヘッドクリアランスやトランクスペースには影響があったのですが、そのスタイリングの前には、些細な話だったのでしょうね。
左は1600SL、右は2000GSLとなります。
フロントグリルは、スーパーサルーンのみ専用品で、その他は共通となります。
LOW&WIDE、LOW&LONGから構成されるスタイリングは、斜めに切ったトランクリッドやリヤテールから成るリヤビューこそ、同時代の6気筒を搭載したトヨタ&日産のセダンからの影響を感じさせます。
しかしながら、「前傾させたボンネットライン」「フロントカウルから一段下げたウィンドーライン」「明確なエアダム」「グリル脇にまとめられたターンシグナル&クリアランス」「キャラクターラインがあまり主張しないシンプルなサイドビュー」等、その他の部分ではいくつもシグマが開拓したデザイン要素が存在します。これらは。他車も後から追随することになるわけですから、1976年の時点でこれを出せたのは、高く評価されるべきものですね。
この時点のタイヤ&ホイールは、途中から改良されたスーパーサルーンのみ14インチで、他は13インチの設定でした。外径的には25mmぐらいの差ですが、足元の安定感には、随分貢献しているように見受けます。一方の13インチは、LOWの強調には効いているような。
また、ボディ同色&メッキモール or ブラックアウトというドアサッシュの処理の違いによる見え方の差も興味深いものがありますね。
2000GSLのインテリアです。
シグマは、外観同様にインパネデザインにも見どころがありました。
メーターを横一線にずらりと並べたのは、70年代様式的ではあるのですが、それを一体ガラスで実現したのはシグマが初でした。メータークラスター以外を一段下げて開放感を演出したデザインこそ、他車に先行事例がありましたが、その全体のデザインは新時代の到来を感じさせたのです。
この時点では、GSLのシート地はモケットとなります。
デビュー当初は、スポーティを意識したレザーだったのですが、途中から変更された形です。このころ全体的に見られたレザーから布への変更の反映という見方と、スポーティからラグジュアリーへというキャラクターの変更の反映という見方、両方ができると思います。
後者に関しては、シグマ全体のキャラクターにも言えることでありまして、時代の流れを読みつつ、上手く寄せていった感が強いですね。
シートも、フロントシートのフルアジャストとか、リヤリクライニングが当時話題となりました。こちらはフルアジャストこそ他車が追随しますが、リヤリクライニングの方は追随するクルマはなかなかなかったですね。
オーディオやオーバーヘッドコンソールによる豪華さの演出は、トヨタよりも日産からの影響が感じられます。ちょっと気の利いたアクセサリーは、シグマの商品力に利いていました。
エンジンは、MCA-JETと名付けられたジェットバルブによる希薄燃焼方式により、いち早く53年排出ガス規制をクリアしています。
登場時点では、サーマルリアクタ(排気再燃焼室)とEGR(排気再循環)による排ガス対策で、51年規制をクリアしていたのですが、53年規制の時点で大幅に変更されています。
この変更、燃費への貢献も極めて大きいものでした。1600MTを例にすると、10モード燃費:9.4km/L → 13.0km/L、同60キロ定地走行燃費:19.0km/L → 21.0km/L。同じくスーパーサルーンATでは、6.5km/L → 11.5km/L、14.5km/L → 17.0km/Lという具合です。
51年規制の時点ではやや大食いという評価も、53年規制の時点ではライバル車よりも低燃費となり、シグマの新たなセールスポイントとなりました。
サスペンションは、リヤサスに4リンクコイルを採用。ちょうど時代はリーフサスからコイルサスに切り替わる時代であり、これには先んじたモデルチェンジが利いていた感があります。構造自体は、スプリングとショックの別配置やラテラルロッドではなくアシストリンクの採用等に特徴がありますね。
ブレーキは、スーパーサルーンと直前に廃止されたGSRのみ、登場の翌年から4輪ディスクが採用されています。この変更に関しては、登場直後にGSRのフルテストを行ったCG誌がブレーキを酷評したことが、要因となっているのかもしれません。(故小林彰太郎氏の著書に、車種名こそ伏せられていますが、記事に関してメーカーとの間でやり取りがあったことが書かれていますね)
ここで、いつもなら、そのままグレード紹介に入っていくのですが、このシグマ、同年代の三菱車の例にもれず、一部改良が多くて、結構な変遷となっています。この辺りを自動車ガイドブックからの引用を主に、解っている範囲で補足しつつ、掲載していくことにします。
1976年5月14日 新登場
登場時点の全グレードです。
スーパーサルーンを頂点とするラグジュアリー系とGSRを頂点とするスポーティー系で構成されていました。この内、GSRとGSは、ツインキャブ仕様となります。同年代の他車と比較すると、スポーティ系のグレードが多くて、スポーティセダンも狙いだったことが推測できる構成です。
1977年2月15日 一部改良
・1600はサイレントシャフト付サターン80エンジンに換装。
・ボディ内外のカラーコーディネートを全車に普及。
・一部に4輪ディスクブレーキ、14インチ径スチールラジアルタイヤを採用
1977年5月27日 一部改良
・1600をMCA-JETシステムにより53年排出ガス規制適合化
・1600SLスーパーを新設定
・1600GSを廃止(?)
シリーズの内、1600のみが先行して53年規制に適合となりました。同時に、1600の豪華版であるSLスーパーが新設定されました。この時にラムダに1600GSが新設定となっていますので、こちらのGSの廃止もおそらく同時だと思われますが、確証がないため?を付けておきます。
1977年8月26日 一部改良
・1850/2000のシングルキャブ型をMCA-JETシステムにより53年排出ガス規制適合化
・内外装に新色追加
・2000スーパーサルーンにパワーステアリング仕様新設定
・1850GL/SLにもリアリクライニングシート採用
・カーステレオのデッキ化、静粛性向上
・1600も一部内装の変更
この時点のグレード構成等です。
ツインキャブで継続されたGSRのみ51年規制のままとなります。当初は2系統あったグレード構成ですが、SLスーパーの追加やGSL・SLの仕様変更等により、全体的にラグジュアリー寄りになったことがご理解いただけると思います。GSLの仕様変更により、GLXとの差が解りにくくなった感はありますね。
1977年11月
・1850GL、2000GSRを廃止
唯一の51年規制だったGSRですが、ラムダは継続となる一方でシグマからは落とされています。同時にSLスーパーや1850SLとの関係が微妙となった1850GLもラインナップから落とされます。
1978年3月22日 エテルナシグマを追加
新型車ミラージュの発売に合わせて設立したカープラザ店向けとして、新たな兄弟車、エテルナが追加となります。これもカタログはあるのですが、長くなりますので、今回は省略します。
1978年5月25日 一部改良
・ペダルフリー・オートチョーク、ICレギュレーターを全車に採用
・フルトランジスタ・イグナイターを2000車に採用
・2000GSLスーパーを新設定
・2000GLを新設定、1850SLを廃止(?)
この時点のグレード構成等です。
先に登場したエテルナシグマに合わせるように、2000GSLスーパーが追加となりました。前年に装着車設定の形でスーパーサルーンに追加されたパワーステアリングは好評だったようで、GSLスーパーの最大の売り、その他いくつかの装備がGSLから追加されています。その際、スーパーサルーンはパワーステアリングが標準となったようです。
また、2000の廉価版としてGLが追加されています。グレードの意味合いからしても、おそらく1850SLの替わりだと思われます。
これにて、1600と2000という構成になったわけですが、最大のライバルだったコロナとブルーバードが1800中心だったことからすると、実に対照的な構成となりました。きっと1850という表示が半端と受け止められたためと推測していますが、1855ccという排気量からして、1800という表示には出来ずですから、仮に1900にしたとしても、難しかったと思うのですけれども。
もっとも、この辺りは、アストロンエンジンが次世代となるシリウスエンジンに更新される際に、整理されていますね。
ちなみに前年のカタログと比較すると、GSLとGLXの仕様が変更されていて、両グレードはほぼ同等とされています。ミッションの差が最も大きいくらいの状態は、デビュー当初からすると歩みを象徴しているようでもあり。これも、マイナーチェンジの時点でGSLに統一されています。
あとは、1600カスタムがLに変更され、一部仕様も変わっているぐらいでしょうか。
1978年11月10日 マイナーチェンジ
好評だったスタイリングに手を入れず、一部改良を続けたシグマもついにマイナーチェンジ。当時流行していた角目4灯となります。
評価の分かれるマイナーチェンジのようですが、自分的には後期も結構好きだったりします。次世代までの過渡期の感は拭えませんが、スタイリングそのものは悪くないと思ったりです。前期と同じくらい後期も近くで乗っている人が多かったクルマで見慣れていたというのも大きいと思うのですけれどね。こちらのカタログは、痛みが激しいので略にて。
今回は、諸考察は省略して、思い出話をつらつらと。
さすがは人気車、登場直後に父の恩人が初代ギャランからの代替でカタログ仕様そのもののGSLを購入したのを皮切りに、ご近所でも何台か買われたのが、この初代シグマでした。ご近所の代替は、いずれも他メーカーからだったはずですから、三菱のシェアアップに貢献していたのだと思います。
登場からしばらくした頃、父は病により入退院の後、しばらくの間自宅療養していた時期があります。その頃は、今と違って、訪問販売も結構重要視されていた時代で、そんなとある平日の昼間にふらりとやって来たのが、三菱の営業マンでした。おそらくご近所に売ったのもこの人だったのでしょう、同じくクルマ好きだった父とは話も合い、ずいぶん長居をしていたのを覚えています。営業マン的には忙中の息抜き的部分もあったのかと思いますが、まだのんびりとした時代だったとは言えますね。その時に置いていかれたのが、最初に掲載したカタログです。
サイレントシャフトで6気筒並みに静か、さらに燃費もイイというセールスポイントは父も気に入ったようで、魅かれている気配は子供心に感じましたね。
話戻して、父の恩人のGSLは、あまりの燃費の対策として、アミ55を追加購入し併用の後、後期スーパーサルーンのATにアミ共々まとめられることになります。コルト以来の三菱党とはいえ、シグマはとても気に入っていたようで、結局このスーパーサルーンがこの方の最後のクルマとなりました。90年代の中頃と記憶しているのですが、ついに乗らなくなったということで手放されたこのクルマは、倉庫保管の走行距離極小ということで、処分を頼まれた方がしばらく楽しまれたという話を聞いたのが最後となりました。
ご本人もそこから間もなくして亡くなられたというのが、悲しい思い出です。
自分的に強く思い出に残るエピソードを持つのが、このシグマです。他にも思い出しそうな気がするクルマでありまして、やはり時代の先端にあった一台だということなのだと思います。
当時は、三菱が現在みたいな状況になるとは夢にも思わずでした。様々な記憶は今でも鮮明ですが、やはり多くの時間が流れていることは否めません。
思い出は、私の中で美しい姿のまま残っていくのですけれどね。