
久方ぶりの思い出のクルマ話、今回が35回目となります。
今回取り上げるのは、初代シャレード。
私の認識としては、ダイハツ渾身の一作と信じて止むことはなく、同社の名車を一台というお題でも迷わず挙げる存在であります。(以前に軽く書いた内容は
こちら)
登場は1977年(昭和52年)11月。
ダイハツは、ここから遡ること10年前の1967年(昭和42年)に行われたトヨタとの業務提携以降、軽自動車を除いたラインナップの大半をトヨタとの姉妹車関係で構成してきました。
その裏で、同社の独自商品の構想は、業務提携初期から水面下で進められていたようです。この独自商品構想は、1970年(昭和45年)に発売されたフェローMAXが爆発的に売れたことで一旦お蔵入りとなるのですが、同年に軽自動車が第一次ブームの頂点に達してから急激に衰退の一途を辿ったことで、1974年(昭和49年)にポスト軽自動車的な視点も持ちつつで新たなプロジェクトとしてスタートしています。
誕生の後押しとなったのはオイルショックと排ガス規制という辺りは、大なり小なり当時の新型車に共通する部分ですね。
初代シャレード誕生の秘話については、
「ニューモデル速報 すべてシリーズ 第130弾 新型シャレードのすべて」に一読の価値ある記事が掲載されていますので、興味のある方はご確認くださいませ。
渾身の一作、シャレードは時代の波に乗ったことで市場で大歓迎され、ダイハツ自身に大きな利益をもたらすと共に同社の存在価値を高めることに寄与しました。それだけに留まらず、マーチ、カルタス、ジャスティといったフォロワーを生み出し、リッターカー市場を形成することにもなります。
初代シャレードは、当時の平均よりもやや長い5年強のモデルライフとなりますが、その間絶え間ない改良が続いていたことは特筆すべきことかと思います。
幸いにも初期型と最終型の2台の同乗経験がありまして、完成度は結構違っていたなというのは、助手席インプレながらも印象として残っています。
前段が長くなりました。
今回の思い出話は、この最終型が主役となります。
それではカタログをご紹介。
この型は本カタログも持っているのですが、同社のパイオニアとしての自負を反映してか、結構解説に凝った内容となっていまして、ここに私の思い入れも加味した解説を加えると、それだけでブログ何回分にもなってしまいます(笑)
そこで、1981年(昭和56年)10月発行の簡易カタログを掲載することに致します。
左頁には最終型のイメージリーダーとして追加されたXTSが大きく掲載されています。XTSの特徴は、サンルーフとツートンカラーで主にヤング層に向けてのアピールを狙ったグレードでした。
サンルーフは、前年に登場したFFファミリアXG以降、要望が増えた当時の流行アイテム。コストの関係もあってか、電動式とはならず脱着式が採用されています。赤のボディカラーもXGのフォロワーアイテムですね。
右頁では内装等が掲載。
初代シャレードは、この前年に角目にマイナーチェンジする際に、インパネを一新しています。スイッチ類の配置からしても、内部構造も含めての一新のようでその力の入り方に驚かされます。2代目ではまたレイアウトが変えられてもいますし。タコメーター付はツーリングライン用、無はジェネラルライン用となります。
シャレードで一番驚かされたのは、小さな外装から想像するよりもはるかに広い室内空間でした。大衆車クラスはもちろん、小型車クラスとの対比でもむしろ広く感じられたくらいというのも、決して大げさではなく。センタートンネルやリヤタイヤハウスに空間を占有される車が多かった時代ですからね。
ラゲッジスペースはさすがにサイズが限られますが、必要ならリヤシートを倒せばいいという割切り。これも角目になった際に、不等分割式リヤシートが採用され、ユーティリティが向上しています。
続いてはバリエーションの紹介です。
当初は、XTE、XGE、XT、XG、XOの5グレードでスタートしていますが、最終型では、ここまでバリエーションが増やされていました。60馬力と55馬力の2タイプながらも1000ccキャブのエンジンは共通。価格差30万円弱の間にこれだけの選択肢ですからね。オプションを減らした分の対応ということはあるのかなと。バリエーションが一番最多だったことも事実。
5ドアが大半を占める中、唯一掲載されているクーペは、登場の翌年に追加されたボディ形状です。当初は、XTE、XT、XGの3グレード構成でしたが、想定より売れなかったことで、年次改良毎にバリエーションが減らされてきました。
乗降性を別にすれば、室内空間は変わらずの存在でしたが、当時の流行は3ドアハッチバックであり、クーペは同様のアプローチを行った初代ターセル/コルサの3ドア共々苦戦の要因となってしまいました。これらは全て、次世代では3ドアハッチバックに移行しています。
今視点で眺めると、ここまでやるなら、さらにサッシュレスドアとセンターピラーレスでハードトップとしてしまった方がアピールできたかなと。フェローMAXでもハードトップをやっていますから、案としてはあったと思うのですけれどね。
左頁は装備群が紹介されています。
掲載されているものは、モデルライフの途中で追加されたものも多く。バリエーションが増えた理由でもあります。
登場時点ではマニュアルのみで、オートマチックは角目になった時の追加。無段変速とありますが、2速ATでDレンジは2速固定、Dで不足する時は1速のLレンジへという仕様でした。セミオートマという分類もされていますね。軽自動車との共用を狙ったのかなと推測しつつ、フルオートマが当然となっていた時代には商品性で見劣りした部分であり、2代目にも引き継がれるものの、途中で3速のフルオートマへ変更されることになります。
アメリカで5マイルバンパーの装着が義務化された70年代中盤以降、日本車にも衝撃吸収式バンパーが流行の一つとなりました。上級グレードには、衝撃吸収”性”を謳う大型樹脂バンパーが採用されています。樹脂ということで重量が増えないのが利点でした。
右頁はメカニズムと内外装色の設定等。
当時としてはトップレベルの低燃費に偽りはありませんでした。シャレードが高く評価された理由の一つですね。リヤサスは、FFとしては珍しい5リンクリジッド。フェローMAXはセミトレの独立だったことからすると、退化にも映りますが、コストとの両立を狙っていたのでしょう。登場時点ではまだリーフ式も多く、コイルスプリングの乗り心地も長所となりました。
ボディカラーはXTS限定のツートンを除いても8色と多め。当時多かった3原色に加えて、シルバーやブラウン等渋めの色も、シリーズ等で限られることなく設定されていました。内装色も2色あり、ボディカラーとのコーディネートが図られていました。今のコンパクトカー以下では失われた部分と言えるでしょうね。
裏表紙は諸元表です。
スラントノーズや大型バンパーの採用により、初期モデルよりは若干長くなっています。凡そ全長:3,500mm×全幅:1,500mmのサイズは、現在の軽自動車より若干大きい程度。掛け合わせた5平米は、セールスポイントの一つでもありました。全高:1,360mmは、今基準では明らかに低いですね。当時は背の高いクルマは中々受け入れられなかったですし、前面投影面積も考慮すると、これ以上高さを上げる選択は難しかっただろうなとは。
エンジンは先に書いた通り、当初からの55馬力と1979年に追加された60馬力の2種類。前者はジェネラルシリーズのMTに、後者はそれ以外という分けがありました。
タイヤは12インチ。タイヤサイズにも秘話があったようです(と軽くネタ振り。詳細は上のリンクにあるすべてシリーズをご一読くださいませ。)
左下には登場以来のCMキャラクターだった、セーラ・ロウエルさんが掲載されています。"Yes Charade"のフレーズを思い出す方も多いのではないでしょうか。
ここからは少し長めの思い出話です。
だいぶ以前に50カローラの話をしています。(リンクは
こちら)
そのカローラの代替がこのシャレードということまでは書いていますね。
私視点ではFF2BOXが続々登場し、既にモデル末期を迎えていたシャレードって、やや古臭く映り始めていたのですけれども、父は私以上にシャレードを高く評価していました。父にとって初めての新車である
フェローMAXを購入以降、セールス氏との縁が続いていたことも大きかったのでしょう。
散々ぶつけまくったカローラを代替するとなった時に、父はシャレードを勧めまして。
グレード選びも任された父の選定は、XT。ラジアルタイヤとタコメーターが付いているし、これで充分というのが理由でした。私は価格差も少ないし、カローラのハイDXからの乗り換えだからということで、XTEを推薦。意見は言えても決定権は父ですから、XTE案は却下でした(笑)。4速or5速は失念したのですけれど、買主の希望は赤ということで、ACとCSを付けて契約に至ったのです。
普通ならここで話は終わるのですけれど、この車は忘れられない思い出を残してくれています。
この夏、埼玉の奥に引っ越していまして。
まだ荷物の整理も残っていましたが、父は当時兵庫で存命だった祖父を新居に呼び寄せたのです。祖父は既に80歳を超えていましたが、まだまだ元気で「今のうちに東北方面に連れて行ってあげるよ」という父の親孝行もそこには込められていました。
ところが、祖父が新幹線で東京に向かった当日、台風が山陽地方を直撃してしまいます。この日、祖父を迎えに、父と妹との3人、電車で東京駅に着いたところ、台風で新幹線のダイヤが大幅に乱れていることを知ることに。今と違って運行情報は容易に入手できませんでしたから、事前に把握できなかったのです。しばらく、運行を見送ってはいたものの、何とか運行は再開。当然大きな遅延となってしまいます。たしか16:00前後に到着する予定だったと記憶するのですけれど、待てど暮らせど電車は到着せず。東京の地理に疎い祖父に任せることも不可能で、結局何時に着くのかもわからない電車をずっと待ち続けることになります。普段は買ってもらえない漫画本一冊を買ってもらっただけで、文句も言わずに東京駅で待ち続けた兄妹は偉かったとつくづく(笑)
結局、7時間半とかの遅れで無事に到着し(祖父曰く定刻で乗車したものの米原辺りで動かなくなったと)、特急料金は払い戻しとなるのですけれど、問題は自宅への帰宅手段。新幹線があまりに遅れたことで、終電車に間に合わない気配が濃厚に。
そこで父が頼ったのが、この知人。車やら仕事やらで、当時本当に親しくしてもらっていました。「東京駅まで来てくれない?その後クルマ貸してよ。」という結構図々しいお願いにも関わらず、二つ返事でOK。
カローラだよなという予想に反し、駅を出たところに待っていたのは、当日納車だった新車のシャレードだったのです。
夜も遅くて、新車を観察する間もなく、4~5人に祖父の荷物も乗せたシャレードは、狭さを感じさせることもなく、エアコンを効かせつつで、首都高を元気に疾走。たかが1000ccというある種の侮りはこの時完全に払拭されました。その頃、家には父が
6万円で買ってきたMAXクオーレがあって、こちらはクーラーもなければ、高速に乗ろうという気にすらならなかったことからすれば、このクルマは本当にすごいと思わされたものです。
この時以来、MAXの次はシャレードだね、が親子の共通認識になりました。このXTの代替がチャンスという秘めた思いと共に(笑)
シャレードへの代替以降、幸いにもカローラの時とは異なり、毎週のように壊れた状態で持ち込まれるということはなくなりました。距離が伸びるのは変わらずでしたけれど。結局3年強乗られた後、2代目シャレードのガソリンターボに代替されることになります。既にその時には、我が家の2台体制も終わり、カローラにまとめられた後でしたから、結局縁は繋がることはなかったのですけれども。我が家のクルマになるかもしれなかった存在。個人的な思い入れの理由です。
シャレード自身は、2代目でディーセルやターボ等、1000ccの可能性をさらに広げた後、3代目以降は上級を指向することで、1000ccという枠を超え、激戦区に身を投じていくことになります。激戦区で苦戦した結果、登場から23年後の2000年には残念ながらモデル廃止という結果に。
もっとも、その後を継ぐように、ストーリア/デュエット、ブーン/パッソを経て、今はトール/ルーミー、ロッキー/ライズが3気筒1000というポジションを受け持ち、販売台数の上位を競っています。ジャンルは変わりましたし、だいぶ贅沢にもなりましたけれど、これらはシャレードの末裔と書いても共感は得られることでしょう。
この末裔たちは、初代シャレードが世に出ていなければ、存在していたかすら怪しいと思っています。ダイハツという社の運命を決定づけたと確信するクルマ、それが初代シャレードを同社の別格的名車と信じて止まない理由。
ここに個人的思い入れも加わってくる。私(と父)にとって、初代シャレードはちょっと特別な存在なのです。