
少し前まで、あれほど騒がれたコロナ禍も最近はすっかり沈静化したようです。これまでの我慢もあって、世間的にはかなり開放感が溢れているような。
平日の通勤電車、休日の高速道路、共にその混雑ぶりは、大分戻っているようにも感じます。行楽地に向かう高速道路では、僅かながらも観光バスの姿も見受けられるようになりました。これまでのマイナス分もありますし、経済を動かす方向に振れるのは決して悪いこととは思えずです。
そんな動きに水を差しそうなのが、最近のガソリン高。ハイオクは150円をあっていう間に超えて、今では170円越えでも驚かなくなりました。まだまだ上がるという予想が主流で、さてどこまでいくのか心配ではあります。一時のように月末のスタンドに給油の車が殺到する姿はあまり想像したくないのですけれども。
前段話はこのくらいで、本題に入ります。
今回取り上げるのは、表題の通り、1977年に発行されたトヨタオート店の総合パンフレットとなります。これまでトヨペット店を主に取り上げてきて、時折カローラ店を挟むくらいでしたから、たまにはオート店もいいかなと思いまして。
今のネッツ店に至る系列となりますが、始まりは少し前に取り上げた通り、カローラ スプリンターの発売時。トヨタの販売系列の中では、4番目の系列となります。ネッツ店は5番目に発足したビスタ店と統合した関係で、他系列よりも販売拠点数が多いという特徴を持ちますが、オート店時代にはあまり販売力が強い印象は無かったりします。今回の取り上げで、40年以上前の空気感が少しでも伝われば幸いです。
それでは当時の取扱車種が網羅されたパンフレットの紹介に入っていきます。
最初の見開き、左頁に掲載されているのは、登場したばかりの初代チェイサー。
3代目マークIIのモデルチェンジから、半年遅れで追加された兄弟車という成り立ちでした。
発表前のスクープ記事には、新しい高級車あるいはマークIIベースのスポーティサルーン等、派手な推測が飛び交ったものの、発表された実態はマークIIのバッジエンジニアリングということで、拍子抜けという話もあったようです。
同時期には、日産もバイオレットのモデルチェンジを行い、同時に兄弟車オースターを追加していまして、この辺りが販売店違いの兄弟車が本格的に増え始めた時期と言えそうです。
マークIIはトヨタ東京オートでの販売実績があり、
初代バイオレットはチェリー店でも扱っていたという経緯がある点、派生車種はスポーティな性格が売りという点も似通っていますね。
オート店は、スプリンターユーザーの上級移行を受け止められる新型車を望んでいました。加えて、カローラの姉妹車となるスプリンター以外に切札ともなる収益源を持ちたいというのは、念願でもあったのです。
3代目以降は独自のボディシェルを持つようになるチェイサーも、初代では前後のデザイン変更のみで基本となる部分はマークIIと共用していました。
ボディカラーは全8色中5色がマークIIと共用。イエローとグリーンはマークIIにはなく、ベージュはマークIIと別色とされていました。
内装は、外観以上にマークIIと共用。シート縫製と表皮、メーターの囲いが丸→角が主な変更点となります。
グレード体系は、SXL以下はスタンダードとコラムシフトの設定がチェイサーにないくらいでマークIIとほぼ同じ。上級となるSGSとSGツーリングはマークIIの同等グレードとは装備の設定を微妙に変えることで、独自性を主張していました。この構成は独自性が不足と判断されたようで、翌年のマイナーチェンジの際には、SGSの装備をSXL並に省略する代わりに独自のハーダーサスペンションを与えることで、新たなイメージ戦略が行われることになります。
結局SGSは初代のみに留まりますし、その後の売れ筋も考慮すると、むしろ4気筒系に6気筒並みの仕様を備えたXLエクストラ等を設定した方が、売り易かったのかもしれません。
発売当初は、最上級の6気筒2000EFIのみ53年規制に適合で、その他は51年規制に適合。続いて、最廉価の1800がMTのみ53年規制に適合となっています。この時期、MTのみ53年規制に先行して適合、ATは51年規制のまま併売し、少し遅れて53年規制に適合というのは、トヨタ車では比較的多く見られました。
最初の見開き、右頁にはオート店の看板車種だったスプリンター。掲載されているのは1974年4月に発売された3代目。この時期は1977年1月にマイナーチェンジされた中期型となります。中期型に変わった時の主要変更点である、”ハードトップが追加されたことに伴う4ボディ構成”、”衝撃吸収バンパーの追加”、”新たなエクストラインテリア”は、この部分だけで表されていますね。
元々、オート店はスプリンターの発売を機に立ち上げられた販売系列でした。
当初はクーペ系のみ持っていたスプリンターも、1971年8月の一部改良時にカローラとはデザインを変えた4ドアセダンを新たに追加。以降、やや若者寄りのカローラの姉妹車という位置が定番となります。
左頁にはセダン。
元々クーペのみでスタートしたスプリンターですが、セダンの追加以降、販売の主力はセダンに移っています。カローラとスプリンターの関係においては、少なくともセダンは別ボディを持つのが伝統であり、その関係は最後まで続くことになります。
当時のスプリンターセダンは、カローラセダンではなくハードトップとフロントガラス等を共用することで、やや車高の低い設定となっていました。カローラと異なり、2ドアを持たず4ドアのみの点、よりノッチバック風味が強くなる点もスプリンターの特色。屋根の低さと相まって、ミニコロナ的にも映るというのは私感。
右頁にはハードトップ。
3代目の当初はカローラのみに設定されていましたが、中期型以降トヨタオート店にも並ぶことになります。
フルオープンになることが売りでしたが、セダンと多くを共用するパッケージングは、少なくともスプリンターにおいてはやや中途半端な立ち位置だったように感じます。次世代のハードトップでは、さらに車高の低いクーペ系の骨格を共用することで、居住空間よりスタイリング重視の方向に振れることになります。
内装は、こちらもカローラとはシート表皮が異なり、セダンとハードトップのみシート縫製とメーターの囲いも変えられています。カローラの囲いは角で、スプリンターは丸。マークII・チェイサーとは逆の設定ですね。
グレード体系は、チェイサーと異なり、スタンダードがない以外、カローラと名称違いだけの同じ構成となっていました。
左頁にはリフトバック。
3代目の当初はセダンとクーペという、共にカローラとは異なるボディシェルで独自性を主張していましたが、1976年1月に追加されたリフトバックでは、
フロントマスクやリヤテール等を変え、両者に設定されることになります。
リフトバックという名称、クーペベースでリヤハッチゲートを備える点は、先行したセリカと同じでしたが、こちらはもう少しユーティリティ寄りの設定。デザイン含めて、ボルボ1800ESからの影響が少なからずあると見受けますが、日本初のシューティングブレークに思える成り立ちは極めて先進的と今視点では感じます。商品企画や営業側が主導して企画が進んだクーペとハードトップと異なり、リフトバックは当時の主査だった佐々木紫郎氏の提案だったようです。先進的に繋がる理由でしょうね。
リフトバックの余談。
唯一リヤテールが変更されていないこともあり、前期と中期の判別は難易度高の一つ。ボディカラーを別とすれば、フロントのエアカットフラップ程度かなと。
右頁にはクーペ。
当初は、ハードトップよりもさらに低いパッケージングは独自の存在であり、特徴でもありました。カローラ店が扱うセリカにも対抗できるスポーティなボディ形状が望まれたという背景があるからですね。
同じ理由で当初は1200を持たず、1400と1600のみで構成されていました。省エネの風潮が強まり、少し遅れて1200が追加されています。
中期型では、50年規制の導入時にラインナップから落とされたトレノが、ソレックスキャブに替わりEFIを採用することで51年規制に適合した状態で復活したことが話題となりました。この時、同時にリフトバックにもGTが追加されています。
スプリンターにハードトップ、カローラにクーペが追加されて以降、スプリンターはカローラの姉妹車としての立ち位置が強くなっていきます。クーペ系は、フロントマスクとリヤテールを別形状とするは、最後まで続く伝統ともなります。
1977年8月に1600がシリーズ初の53年規制に適合、続いて1200が1300に拡大され53年規制に適合しています。先に書いた通り、共に適合はMT車のみであり、AT車は51年規制のまま発売を継続。翌78年4月の一部改良時に遅れての適合となっています。
続いてはスターレット。この時の正式名称はパブリカ スターレット。
スプリンター同様、1973年4月にクーペが先行して登場。同年10月に4ドアセダンが追加されてシリーズが完成となっています。翌年2月には2代目が登場していますので末期型での掲載となります。
当初はベーシックカーとしての位置づけだったパブリカも、2代目以降は若年層を主としたエントリーカーとしての要素が強くなり、市場のスポーティ化・個性化指向を背景に追加されたのがパブリカ スターレットでした。
ジウジアーロの関与が噂されるスタイリングは、同年代の他車よりも明確さが感じられ、モデル末期ながらもあまり古い印象は感じられません。モデルチェンジを強いられた理由は、デザインよりパッケージングの方で、この頃台頭し始めていた2BOXと比べると一世代前の感は否めません。約5年の間にこのクラスに求められる姿が大きく変わったという言い方もできそうです。
デザイン的にはセダン、クーペ共にハッチバックが成立しそうではあり、仮にそうした設定としていたならば、もう少し延命できたのかもしれませんけれど。
当初は、1000と1200の設定がありましたが、51年規制の適合の際に1200のみに。クーペのみ設定されていたフリーチョイスも同時に廃止されています。モデル末期という事で1300への変更は行われていません。
トヨタのボトムレンジを受け持っていたのがパブリカでした。
初代は1961年の登場ですから、トヨタの中でも古参車種であり、この時点で既に16年が経過していました。
1969年4月に登場した2代目は、1972年1月、フロントに加えてセダンのみリヤのボディパネルを大幅に一新。元々はノッチバックだったデザインはセミファストバックへと変更されています。
一時期はスポーティなグレードもあったパブリカも、スターレットの発売後はベーシックなグレードのみに回帰しています。排ガス規制の導入まで1000が主力で1200が上級という設定でしたが、この時期には1200のみとなっていて、スターレットやスプリンターとの分けが曖昧になった感は否めません。
もっとも、2代目のスターレットは初代との継続性よりパブリカ後継の感が強かったりしますから、その成り立ちは否定できるものではなく。翌年のスターレットのモデルチェンジにより、パブリカはトラックのみ継続生産とされています。
オート店の隠れたドル箱が、このライトエースだったように思います。
カローラ店のキャブ型は、ミニエース → タウンエースという経緯ですし、他系列にも同クラスの取り扱いはなく。実際、街中でもよく見かけたように記憶しています。
当時のキャブ型によく見られたとおり、トラックが1970年11月に先行して登場。翌71年2月にバンとワゴンが追加されています。排ガス規制の緩かったバンとトラックは継続されたものの、ワゴンは50年規制の導入時に廃止されています。当時の同クラス他車と横並びで比較した時、先進性を感じるのはハイルーフの設定で、ワゴンを含めて後年にはハイルーフが主流となっていきます。
一時的ながらも、タウンエースをオート店でも扱っていた時期がありました。
タウンエース登場時のプレスリリースでは、バン1600もオート店で扱うとあるのですが、既にワゴンのみに絞られています。
こうして並べて見ると、タウンエースはライトエースをベースとして誕生したことは明らかで、フロントドアとスライドドアは共通部品にも映ります。K型エンジンしか搭載できなかったライトエースをベースに、T型エンジンを搭載できるよう、フロントセクションを中心にワイド化したのがタウンエースという関係。K型とT型のエンジンの高さの違いだけは吸収できず、1600ではフロントセンターシートが省かれ、替わりにコンソールボックスが置かれていました。乗車定員が一人減るのは、この種では結構痛い点にも関わらず、セパレートシートによる乗用車感覚というアピールに置き換えたのは宣伝の上手さですね。
バンとワゴンは、2代目・3代目とタウンエースとは独立した関係を続けた後、1992年に2代目タウンエースの兄弟車となります。トラックも別キャビンの時期を経て、やがて兄弟車の関係に。この2車、販売系列の撤廃により、昨年後発のタウンエースに統合となっていまして、両車の歴史からすると感慨深いものがあったりです。ワゴンの系譜、ノアとヴォクシーは統合の噂を経て、どうやら併存となるようですが。
裏表紙には各車の主要諸元表を掲載。
タウンエース ワゴンが外されている点に緩やかな主張を感じたりします。各車の掲載グレードは、最上級に限らず、売れ筋とも異なっていて、選抜が謎という話はあるのですけれども。
パンフレットに貼られていた販売店名は、トヨタ南東京オートということで初耳に近い存在。都区内の南部地域をエリアとしていたと推測しますが、軽くの検索では会社情報を得られずでした。港営業所として記載されている住所も、10年程前にタワーマンションの建築に伴う街区整理が行われているようで、当時の面影は皆無のようです。
以上が当時のトヨタオート店の総合パンフレットの全内容となります。
小型車上限の2000ccから200cc間隔で刻んでいき、ボトムの1200ccに達する所謂フルラインナップが構成されていたことが解ります。細かく見ると、ミドルクラスが不在となるのですが、チェイサーの廉価グレードで補うというのがお約束でもありました。
こうしたフルラインナップは、メインとなる車種を前面に出した販売系列が新時代に入った象徴であり、オート店は一早くその体制を整えたことになります。もちろん他系列がその動きを傍観で済ませる筈はなく、翌78年にはトヨペット店がコルサで大衆車クラスに参入、1980年にはカローラ店もセリカ カムリでミドルクラスに参入という形でフルラインナップに向けた動きが活発になっていきます。同年には、同じくフルラインナップを揃えたビスタ店の設立もあり。
もちろん、全て別車種では成立するはずもなく、その過程ではニューネームを掲げた兄弟車や姉妹車がどんどん増えていきます。それを受け止める販売側は顧客を系列内に留め置きやすくなる一方、他社以上に他系列との競合が激化していきます。新車の販売台数が右上がりの時期には、”戦いは数”が正義でもあったのですが、やがて台数が飽和し新車市場の縮小過程に入ると、こうした兄弟車は開発側のリソースを圧迫するようになります。
近年では、ビスタ店の統合程度で長らく販売系列を維持してきたトヨタすらも、他社に追随する形で系列を撤廃するに至ってしまいました。当時とは別の形で近隣の他社と競合を強いられてもいます。
今の市場環境からすると、系列があり兄弟車があるというのも、決して悪いことばかりではなく、特にバブル前後の時代には必要な存在だったとも認識するのですが、将来を含めて再現されることはないだろうとも思うところです。
当時の製品単体だけではなく、そんな時代背景も含めて懐かしんでいただけると、ありがたく思います。