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2021年12月24日 イイね!

思い出のクルマをカタログで振り返る40(最初期型タウンエース)

思い出のクルマをカタログで振り返る40(最初期型タウンエース) 気が付けば今年も早クリスマスということで、残すところ約1週間となりました。年末恒例の振り返り等を考慮すると、今回がクルマネタとしては今年最後かなというところで。

何を取り上げるべきかは少し考えたのですが、今の車界隈で話題となっている一台は、来年早々の発表が決定しているノアとヴォクシー。長年のライバル車となるステップワゴンもモデル切替となるようで、既に前哨戦の様相を呈してもいます。

このセグメント、最近はユーザーのダウンサイジング傾向の影響は否定できないものの、この国のファミリーカーとしては一大マーケットを形成しているのは、疑いようのない事実かと思います。

それなら、これを機に創生期を振り返ってみようと思い付いたという訳なのです。


ノアとヴォクシーは、今もライトバンとトラックの名称で残るタウンエース(とライトエース)のワゴン版の系譜となります。初代ライトエースにもワゴンが存在していたという事実はありますが、一般的に広く売れたとは言い難く、このマーケットの開拓者は初代タウンエースと認識しています。個人的には歴史を作った一台かなとも。(軽く書いた回はこちら

初代タウンエースの登場は、1976年10月ということで、ちょうど45年前となります。時は、排ガス規制の真っ只中。商用車より一足早く乗用車には厳しい規制が導入された関係もあり、チェリーキャブ/サニーキャブ以外はこのクラスのキャブワゴンから撤退。バンモデルもモデルチェンジの先延ばしが行われていました。

そんな中で登場したタウンエースは、ライトエースのワイド&改良版という成り立ちながらも、久方ぶりの新型であり、ワゴンを携えていたことも話題となりました。この後、ライバル車の一新が続くのですが、少し早かった先行者の利は大きなものだったのです。


といったところで、カタログの本編に入っていきます。
今回取り上げるのは、1976年(昭和51年)10月に発行された最初期のもの。よくよく調べたら、オート店版のようで中々珍しいものかと思います。カローラ店版との違いは、バン1200の有無。オート店はライトエースバンを継続販売していたため、タウンエースの内、バン1600とワゴンのみを扱っていたのです。どうやら、バン1600も短期間で扱いを止めているようでもありまして。




最初期型のカタログのみバンとワゴンが一体での掲載。さらに最初に掲載されているのはバンということで、販売の想定はバン>ワゴンとなっていました。当時のプレスリリースによると、月販目標台数は、バンが3,000台、ワゴンが1,000台だったようです。

初代ライトエースからドアを流用しつつで拡大されたボディサイズは、初代ライトエース比で全長:120mm、全幅:85mm、ホイールベース:145mmのプラス。

初代ライトエースにはハイルーフの設定がありましたが、タウンエースでは最初期型には投入されず、後日追加となっています。

ボディカラーはバンの専用色となるブルー。街中ではこの色のバンをかなり多く見かけたように記憶しています。





全幅:1,650mmというのは、当時のミドルクラスセダンよりも幅広ですし、Fトレッド:1,430mmというのもより一層。K型より一回り大きいT型エンジンを搭載するにあたり、キャブ周辺のフロアパネルや足回り等、ハイエースとの共用があったのではないか?というのは推測です。

バネットが後年ワイド版のラルゴを追加したり、デリカが全幅:1,690mmで登場したことからすると、先見の明があったとも思います。

Rトレッドは、フロントよりも85mmナローとなる1,345mm。これでもライトエースからは75mmの拡大であり、当時としても幅広の部類とはなるのですが、フロントのワイドさと比較するとホイール位置の差は一目瞭然でした。

フロントガーニッシュに特徴のあったライトエース。こちらもライト脇のガーニッシュが印象的であり。丸目、バンパー下のターンレンズと相まって愛嬌のある顔と言っていいかなと。

リヤビューは、リヤコンビの外側を吊り上げた当時のトヨタ流。カローラ30バンと共通するイメージですね。





今視点では明らかにシンプルなインパネですが、当時はインパネにボディパネル色がないだけで、かなり豪華に映ったものでした。ステレオはカセットではなく8トラック、吊り下げクーラー共々時代を感じさせるオプションですね。ステアリングはカローラ系からの流用。

(恐らくエンジン高の関係で)センター部にシートは設けられず、2座となっていました。見方によっては乗用車風とも。セパレートシートだからなのか、シート背面にはディビジョンバーを設置。エンジンにアクセスするための、シートバック前倒し機能はあるものの、バンではノンリクライニングとされていました。





バン1600では、2人乗車時750kg、5人乗車時500kgで設定。これはバン1200&ライトエースの3人乗車時600kg、6人乗車時400kgよりも過積載が可能であり、このクラス最大の積載量ということでアピールされていました。このクラスのキャブオーバーは5年間で2.5倍の台数に急拡大していたそうですから、ミニエースの後継ではなく、一クラス上を狙うというのは戦略的でもあったのです。

荷室部分のサイズは、長さ方向はライトエースとほぼ同じで、幅方向が85mmのプラス。エンジンより後部のフロアパネルは、ライトエースを拡幅して使っているのだろうなと。





タウンエースバンもライバルに先駆けての部分は多々ありますが、新しい潮流を創った点ではワゴンが抜きんでていると感じます。

特に大きかったのは、ワゴンのみに設定されたカスタムの存在。初代ライトエース同様、デラックスに留めていたら、間違いなくその後の歴史は変わっていただろうとも思うところです。

フロントディスクブレーキ、(乗用車でもまだ珍しかった)ラジアルタイヤ、サイドストライプ、ファブリックシート。これらがバンの垣根を超えて、乗用車の領域に入り込む武器となりました。

パッケージング自体は初代ライトエース由来ということで、この後のワンボックス群と比較するとラゲッジ部分が長く、その分車室側が短いというシート配置でした。





メカニズムや装備品を紹介した見開きです。

エンジンはバンが2T-Jでワゴンが12T。後者は触媒付きのTTC-C、2T-Uも搭載可能だった筈ですが、希薄燃焼のTTC-Lが選択され、51年規制に適合していました。II型以降は、1800に拡大&触媒を付加した53年規制の13T-Uに換装されることになります。

因みにバン1200は64馬力。30馬力近い違いは、積載量増にも耐えられる1600のパワフルさが際立ってもいたのです。

ワゴンはこの後、カスタムエクストラ → スーパーエクストラ → グランドエクストラとグレード&装備の上積みが図られていきますが、この年代はまだバンと一体で掲載できるぐらいではありました。

イエローとブラウンのボディカラーがワゴン専用色。バンと共通のホワイトも選択可能でしたが、やはりこの2色が大半だったように記憶しています。





裏表紙は主要諸元表。

全長は当時のカローラクラスと同等。全幅は当時のコロナとマークIIの中間くらいの設定でした。このサイズ設定は、当時の大き過ぎない小さ過ぎない絶妙なところを突いていました。売れた要因の一つと認識するところです。

装備がまだまだシンプルということもあり、車重もワゴンで1,075kgと意外と軽量。当時のコロナ1600でも1,000kg前後の車重でした。バンの4ドアに+45kgですから、シート1列分+αぐらいですよね。もちろん、後年は豪華装備でどんどん車重が増えていきます。

ギヤ比は、バンとワゴンで共通というのが意外な驚き。II型以降はよりクロスレシオとなったワゴン用のギヤ比が採用されています。このギヤ比はバンが最大積載量を積んだ時を考慮した設定で、人数or荷物が少ない時ならセカンド発進も可能なぐらいの数値。この型のワゴンに乗せて貰った時も、ローは使ったとしても一転がりで直ぐにシフトアップという乗り方をされていました。

タイヤは165-14のラジアルを標準としたカスタム以外、ライトトラック規格の5.50-13のバイアスが標準。バン1600は積載量増に対応するため、リヤのみプライ数が上げられていました。ワゴンも商用車用というのが意外ですが、適当なサイズの乗用車用バイアスがなかったためかなと。


プレスリリースによると、当時の東京地区の価格で
 ワゴン デラックス:96.6万円、同カスタム:106.1万円。

デラックスで当時のコロナ1800DX、カスタムだとコロナ2000GLが近似の価格でした。セダンと比較すると、やはり少しお高めではあるのですが、それでも検討対象に上がれる価格設定ではあったのです。


といったところでいかがだったでしょうか。
70年代前半まではクルマは何よりスピードが第一だった時代。そこからオイルショック、排ガス規制が入ってきて、スピード重視から離れた価値観が芽生え始めていました。西海岸由来の文化となるバニングが静かなブームとなり始めていたのも、そんなムーヴメントからでした。

そのブームに上手く乗ったのがタウンエースと言えます。逆にブームを加速させる存在だったという言い方でもいいかもしれません。

トヨタが上手かったなと思わせるのは、ここでのカスタムの設定であり、2年後に登場するII型への手の入れ方もあります。初期型のカタログを見ていて、気になる点はII型でほぼ改良が行われていたりもしますし。

このセグメント、大衆キャブワゴンと分類するようですが、特にワゴンにおいては台数では凌駕されることがあったとしても、存在感としてはタウンエースが中心であり続けました。後継となるノアも少なからず同じような存在かなと思うところでもあります。


最後にいつものように思い出話を。

この型、兄弟車のデルタワイドの方でしたが、父の友人が父と長く親しくしていたセールス氏を通して、登場早々に購入しています。グレードは真ん中ということでデラックス。松竹梅の竹ということで選び易かったのでしょう。

もう一台は、後年父が知り合った方で、こちらはタウンエースのカスタムでした。

両者共に職業で、バスやトラック等に乗られていた方で、このボディ形状への違和感は少なかったようです。乗り始めて見ると、乗用車ではとても望めないようなユーティリティがあるということで、便利に使われていたというのも同様。
我が家が引っ越すという時も、タウンエースを出してくれて、大量の荷物を積めることに改めて驚き、何より感謝をしたことを鮮明に覚えていたりもします。

父はタウンエースを運転する機会があり、2代目のライトエースワゴンと比較するとこちらはパワーがない、なんて言い方をしていたような。

ご近所界隈でも、この型のワゴンが車庫に収まる姿を段々見かけるようになりましたから、キャブワゴンを一般家庭の購入対象に上がらせた立役者と言っていいかなとも。周りの増え方からしても、月販1,000台は余裕でクリアしていただろうと推測します。


以前にも何度か書いているのですが、このセグメントが約半世紀という長い時間の中で一番大きく変わり、何より進化をしたと思っています。その推進力となったのは、需要が確実に存在するからだと認識もします。

今に至る土台というか基礎を作ったのは、間違いなくこのタウンエース。今に通ずる部分、今と大きく異なる部分、各々を見出していただければ幸いです。
2021年12月18日 イイね!

思い出のクルマをカタログで振り返る39(G100系シャレード・ソシアル)

思い出のクルマをカタログで振り返る39(G100系シャレード・ソシアル) 12月に入り、すっかり寒い日が続くようになりました。寒波の到来により所によっては大雪というニュースも入ってきています。不要不急の外出を避けるのが一番の安全なのかもしれませんが、この時期そんなことは無理という方も確実に存在するわけで。皆さま、くれぐれも安全第一に。

さて、今回も思い出のクルマ話の回です。当初は別の車種を想定していたのですが、確かこの辺りに保管していた筈…の場所で何故か発掘できず。発掘の過程でつい当時を思い出した別の車種に代役を務めてもらうことにしました。

今回お題にするのは、シャレード・ソシアルが初登場した時のカタログとなります。ソシアルはシャレード初の4ドアセダンとして3代目のモデル途中で追加され、4代目にも継続。モデル廃止となるまで設定が続いた名称でした。こうしたモデルの場合、3代目シャレード・ソシアルだと違和感ありということで、表題をどうすべきか迷った末、形式名に頼ることに。

元々1960年代中頃において、大衆車というのは1000ccクラスと認識されていました。そこに+100ccの余裕を掲げて投入されたのが初代カローラであり、ライバル車もカローラに引っ張られる形で上級移行。その結果、1000ccクラスは1970年代中頃には空白地帯と化していました。そこに投入されたのが初代シャレードであり、新たなリッターカー市場を開拓することにもなりました。

しかしながら、シャレード自身もリッターカーに留まり続けることはできず、作り手曰く「発売後10年が経っていますので、区切りをもって新しい方向への転換」ということで3代目でついに4気筒1300を追加。当時は追加の理由をターボに代わるものと説明していたのですが、結局主力を1300に移すことになります。ソシアルは上級に移行し始めたシャレードの次なるステップでもあったのです。

それでは登場直後となる1989年3月に発行されたカタログの紹介に入っていきます。
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見開きにはイメージリーダーとなるSXがダークグリーンのボディカラーで掲載されています。後述する理由により、イメージリーダー=販売の主力ではないというのが微妙なところ。

ハッチバックの全長3,680mmに対して、ソシアルは全長3,995mmということで315mmリヤを伸ばしてハッチバックベースのセダンを成立させています。スタイリング優先なら、もう少しCピラーを寝かせてトランクももう少し伸ばしたいところです。一クラス上は、やや短かったジェミニを除き、全長が4,200mm前後でしたから、恐らく全長4m以内というのが確定事項だったのだろうというのは推測。3代目シャレードは、北米輸出対応もあり、大型バンパーの採用で70mm長くなっていますので、その分でも苦しかったろうなとは。

当時はモノフォルムではなく、セダンは明確な3BOXが当然という認識でもありましたから、限られた寸法ではこうしたフォルムで構成するしかなかったのでしょうね。全高が高く映るかもしれませんが、実は1,385mmしかなかったりします。

リヤドアは5ドアと共用。3代目シャレードのハッチバックはBピラーを頂点にして3次曲面的にリヤを絞り込んだことがデザインの特徴となっていましたから、セダンを起こす際の制約となった感は否めません。逆に厳しい制約の中で成立させたという点では初代シャレードと同じという見方もできますけれども。



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同じくSXの内装画像となります。

インパネやフロントシートはハッチバックと共用していました。
オーディオは、標準では1dinサイズのみ装着可能でしたが、写真のフロントコンソールを装着すると何と計3.5dinまで拡張可能。他車に先駆けてAMのみながらも電子チューナーラジオを設定したり、フロントスピーカーもインパネ下ではなく音重視で前席に向けたインパネ上部に装着する等、意外とオーディオに凝った設定がされていました。

リヤシートは、5ドアではリクライニング機構やタイヤハウスを覆った構造等を採用したグレードがあったものの、こちらは不等式分割前倒のみでした。不等分割ならセンターアームレストの併設も可能だったかもですが、車幅からすると苦しいかもで。

室内長はハッチバックの1,750mmに対して、こちらは15mmのプラス。



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全3グレード構成の内、残りの2グレードの紹介頁となります。

左頁は販売の主力だったSXリミテッド。
SXをベースに装備を上乗せする一方、オプションや内外装のカラーは制約。「SXがアラカルトでSXリミテッドは定食」と書いたのは当時の月刊自家用車誌ですが、内容的にもそのものズバリ。

ハッチバックには、特別仕様車から標準仕様となったKISSA(キサ)というグレードがあり、KISSAのセダン版がSXリミテッドでもありました。


右頁は廉価グレードとなるSG。
ハッチバックにはKISSAの廉価版として1000にWILL S(ウィルS)の設定がありましたが、こちらは1300のみということもあってか、独自グレードとなっていました。経済性や価格を重視する方向けの設定に映るかもですが、後で書く価格設定からすると、エントリー価格を下げるための設定のようでもあり。

廉価グレードだと、シート生地の一部にビニールレザーを使用するのがお約束でしたが、この時期には前面にはフルファブリックが奢られています。ドアトリムへの生地折り込み等、今以上に感じられる部分もあります。やはりいい時代ではあったのです。





メカニズムの紹介頁です。

元々3代目シャレードは、4気筒1300を搭載する前提で設計がスタートしていたようです。「よりよいエンジンへの仕上がりと、3代目シャレードの投入タイミングの決め方、これとの整合で、どうしてもタイミングが合わず、モデルチェンジのニーズを優先した」と当時のインタビュー記事には書かれています。

1300は1988年2月の登場時点では、先述の通りガソリンターボの代わりということでEFI仕様のみ(HC-E型)での登場でした。しかしながら価格面で不利と判断されたらしく、ソシアル登場の少し前に行われたハッチバックのマイナーチェンジ時(1989年2月)に電子制御キャブ仕様(HC-F型)が追加され、ソシアルの搭載エンジンともされています。

このエンジン設定の影響もあってか、ハッチバックにはKISSAの上級にTRとCRの設定があったのですが、ソシアルでは当初同等グレードの設定はありませんでした。1991年1月の変更で、1300は再びEFI仕様のみとなり、KISSAもEFI仕様へ。この際、ソシアルはSX→SRへと変更されています。同時期にキャブを廃しインジェクション化を進めていたトヨタに影響された感が強い変遷ですが、機を見るに敏or日和見主義、見解が分かれるところでしょうね。スペック上の比較では、HC-Eが当然最高出力&最大トルクで勝るものの、HC-FはHC-Eから高回転部分を削った形で燃費もHC-Fが好燃費となっていた点も判定を悩ませる点ではあります。

トヨタには4気筒1300、ワンカム12バルブのE型が先にあり、HC型はワンカム16バルブで登場するものの、その後E型も排気量拡大と同時にハイメカツインカムでの16バルブ化が行われ、両者は併存することになります。今なら確実にエンジン共用という判断となっていた筈で、当時のダイハツはトヨタとは離れた関係にあったのです。

当時らしいと言えば、リヤサスペンションも同様。
先代までは5リンクリジットでしたが、この代で4輪ストラットの独立式へ進化。この時期採用の多かったデュアルアーム式ですね。やがてこの方式は採用されなくなり、今に続くトーションビームへと変更されていくことになります。





ユーティリティ等の頁。

このサイズだとリヤシートのスペースに皺寄せがいくのは仕方なく、掲載画像は背のあまり高くない女性、ついでに前席はかなり前出しとされています。前席を一般的なポジションにすると、後席のレッグスペース・ヘッドルーム共にギリギリでしょう。今のトール等とは、隔世の感はあるかもですね。

反面、トランクはハイデッキも効いているのか意外と大容量。トランクの内張&フロアマットも結構しっかりした作りとなっている点も挙げたいところです。

空調はオートエアコンが選べる点が当時のこのクラスでは珍しく。販売の主力SXリミテッドはマニュアルが標準でしたし、装着率は決して高くはなかったでしょうけれどね。

ATのシフトロックは、この前年に本機構を採用した車が登場し始めていて、変更を機に採用が急拡大してもいました。この機構が開発された理由は、アクセルとブレーキの踏み間違いによる暴走ということで課題点は今と同じ。運転者は決まって「車が勝手に暴走した」と欠陥車の如く主張し、マスコミがそれを煽っていたのも時空を超えて繋がる点。結局は運転者の誤操作に尽きるんじゃないの?とは。機械側で抑止するには、大いなる知恵と労力が必要となってしまうのですから。





装備類の紹介頁です。
標準装備は、当時の水準というか割とシンプルな設定でしたが、反面オプションは豊富に用意されていました。

オートエアコンを始め、空気清浄器、オートライト、オートワイパーまで選択可能。内装頁にある通り、オーディオもAM/FM電子チューナーにフルロジックカセットデッキはもちろん、CDプレーヤーやグライコを追加することも可能でした。
購入検討をした際に、お試しで金額度外視で積み上げたら、オプションだけで7桁近くになって驚かされたものです。





最終頁には全グレードが一覧で掲載されています。
当時の車両価格は、SG:89.8万円、SX:99.8万円、SXリミテッド:105.0万円(東京地区の5MT。3ATは各4.5万円高)

SGにエアコンを付ければ、SXリミテッドの価格と然程変わらずとなる筈で、SXリミテッドのお買い得は抜き出ていました。こうした設定だとSGは装備より価格重視、SXはリミテッドで満足できない、ぐらいしか選択理由が成立しないですよね。

と書きつつも、自分でこの中から選ぶなら、定食よりアラカルトでSXのATにエレクトロパックとアルミホイールDを装着。色は外装:ネイビーブルー&内装:ブルーかなと。エアコンは当時からオート一択と思っていましたし、敢えてのSXならリミテッドでは選べない仕様にしたくもなります。

収入比では一番安かった時代かもしれません。最近アルトが100万円を切るということで話題になりましたが、当時は1300の4ドアセダンがエアコン付きでほぼ同等の価格で購入できたのです。





裏表紙には、主要装備一覧表と主要諸元表。

時はバブル最高潮ということで、このクラスにも装備水準急上昇の波は押し寄せていました。SGが少し前の標準で、SXリミテッドが当時の標準くらいの感じでしょうか。


ボディサイズの全長4m、全幅1.6mというのは、70年代のカローラやサニーのサイズと重なるところでした。両車がサイズアップした隙間を狙ったという点では、初代シャレードの精神再びという見方ができるかもしれません。安全基準が厳しくなる一方ですから、このサイズの4ドアセダンというのは再現されることが困難であることも間違いなくて。

このクラスだと4MTもまだ多かった時代に全車5MTが選択でした。一方、ATは3速が主流ながらも4ATの設定が増えている中、3速に留まる形。価格設定からしても、経済性等を重視してMTで買われる方がまだまだ多かったのでしょうね。


といったところでいかがだったでしょうか。
ソシアルが3代目の途中で追加された背景には、当時の北米輸出があったと推測しています。当時の北米市場では、防犯の観点でハッチバックよりノッチバックが望まれていると言われていたのです。

一方、国内市場では、シャレードのユーザーが上級移行を望んだ時の受け皿がないことが課題となってもいました。軽自動車だと小型車への移行って維持費を含めて低からずの壁となるのですが、1000が1500になっても税金等はあまり変わらずとなりますからね。当時は2boxより3boxが高級という認識も強かったですし。かと言ってシャルマンは、ソシアル登場のだいぶ前に商品力を失ってもいて。

こうした背景から投入されたソシアル、ダイハツとしてはセダンとしては隙間を狙ったこともあって期するものはあったのだろうと思います。そもそも3代目はツーサムでアピールして、想定を下回る販売状況からマイナーチェンジに特別仕様車の投入等、相当なテコ入れを図っていた訳です。

ソシアルは、失敗作とは言えずですが、シャレードを支える新たな柱となるほどではなかったと記憶します。近い価格帯には、1300のカローラXEサルーンやサニーEXサルーンGIIがあり、販売台数を背景にした大幅値引きで来られると表示価格では有利でも、実勢価格では逆転もしばし見られていた筈で。

もっとも関係者を含むダイハツブランド(特にセダン)に拘る層にとって、福音となる追加であったことは事実であり、アプローズが登場早々に欠陥車騒動で商品力を失ったこともあって、目立たないながらも失くせないモデルではありました。だからこそシャレードのモデル廃止まで設定が続いたのだろうとも思うところです。


最後に思い出話を書いて終えることにします。
だいぶ前に、3代目シャレードは最初のクルマとして購入を検討した一台だったと書いたことがあります。時は1989年2月のマイナーチェンジ直後、ソシアルが登場する前となります。

今に続くリヤドアありの方が便利という考えで、5ドアハッチバックで商談を開始したものの、やはり今に続くハッチバックよりノッチバックという認識は当時も頭の片隅にありました。

そのタイミングで登場したのがソシアルでした。ダイハツのセールス氏とは長い間かなり親しくしていたこともあって、父が大乗り気。カタログも早々に入手してきたと記憶しています。

父曰く「いきなりいいクルマを買ってもつまらない。ステップアップしていった方がカーライフを楽しめる。俺なんかフェローMAXから入ったんだから」と。ある種昭和的とも言える考え方ですが、今でも鮮明に覚えている言葉でありまして。

私は教習所に通い始めるまではかなりのMT派で、実際に5MTで商談していたくらいだったのですけれど、教習が進むうちにATの方が楽とあっさり転向。4ATが増えていた当時に3ATは明らかな見劣りを感じ、他車への目移りとなっています。
今思い返すと、マークIIやクラウンがカローラと販売台数のトップ争いをしていた時代にあって、自身も高級という言葉に誘われた感が否めずとは思うところです。シャレードを検討の際にも、最上級にオプション多数とか考えていたところでしたし。小さな高級、これもまた内に持つ趣向の一つなのでしょう。

結局当時の目一杯の背伸びで購入したのは、170コロナ。それも当初の想定は叶わず短期間で手元から離れて行きました。あの時にソシアルの方を選んでいたら…、というのは今回の振り返りで軽く空想したりもした次第です。次に選ぶ車が異なっていた可能性も高いかなとは。少し前の投稿企画で、「最初の一台というのは、基準にもなり得る非常に重要な意味を持つ」なんてことを書いていまして、その事は実体験に基づく言葉ではあるのです。
2021年12月03日 イイね!

思い出のクルマをカタログで振り返る38(2代目ハイエース ワゴン)

思い出のクルマをカタログで振り返る38(2代目ハイエース ワゴン)気が付けば、今年も残り1か月足らずとなりました。
今年も1年があっという間、さらに12月はその名の通り師走ということで、公私共に結構慌ただしかったりもします。

そんな時の更新には、比較的書きたいことが容易に浮かぶ書庫からの一冊ということで。今回の一冊は、カタログから当時のことを思い出した的な感じですね。


今回お題にするのは、2代目ハイエースのワゴンの中から最終モデルのカタログとなります。この時代だと、ワンボックスワゴンのブームがピークを過ぎて、やや下り坂に入った局面くらいでしょうか。一番の激戦区は、もう一クラス下にありましたが、ハイエースも今に続く最大のライバルであるキャラバンに加えて、当時は存在したキャラバンの姉妹車であるホーミー、このクラスに突如参入したファーゴと覇を競い合っていました。今回紹介するワゴンよりも、むしろバンの方が激戦だったかもしれませんね。

それでは、早速カタログの紹介に入っていきます。


最初の見開きに掲載されているのは、1980年(昭和55年)12月にマイナーチェンジの後、僅か3か月後となる1981年3月に追加された、スーパーカスタム サンルーフのディーゼル仕様となります。

サンルーフは当時のワンボックスで装着率の高かった装備の一つであり、流行の火付け役は同じトヨタのタウンエースとその兄弟車であるダイハツ デルタワイドと認識するところとなります。このクラスにおいては1980年8月に登場したキャラバン&ホーミー(E23)に先行され、ハイエースが後追いとなった形です。追加の時期からしても、マイナーチェンジには間に合わなかった節が感じられます。

角目、ウレタンバンパー、アルミホイールはマイナーチェンジで採用されたアイテムでした。サイドストライプと合わせて、バンとの差別化も担うアイテムでもあり。乗用車から少し遅れての採用でもあり、これらは70年代から80年代への時代の変革も表しているという見方もできるかもしれません。

ボディカラーはシルバーということで、白と黒が主流の現代からすると地味に映るかもしれませんが、屋根の洗車がしにくいワンボックスでは汚れが目立たないということで意外な(?)人気色でありました。

ガソリン仕様も多かったように記憶しますが、販売に力の入っていたのはディーゼル仕様の方でした。2.2Lのノンターボというのは、この巨体(と書きつつも、全長:4,440mm、全幅:1,690mmに過ぎなかったりしますが)には如何にも力不足の感が拭えませんが、キャラバン&ホーミーはSD22を搭載(後にLD20Tに変更)ということで、ディーゼルの方が商品力としては優位に立てるという目論見があったのでしょう。ディーゼルのみとは言えども、OD付4速オートマチックも選べる辺りも周到ではありました。以前に書いたクラウンvsセドリック&グロリアのディーゼル戦争が重なったりもしますね。
ちなみに、ファーゴも初期は2.0Lのディーゼル&MTのみの組合せということで、エンジン&ミッションではモデルの古いハイエースが商品力で勝っていました。





室内の見開きでは、マイナーチェンジで採用されたスイングウェイ対面シートを主にした掲載となっています。

これも対面シートはキャラバン&ホーミーが先行で、ハイエースは後追いの形。セカンドシート自体を回転させたライバルに対して、こちらは当時「新幹線方式」とも呼ばれた背面のみの移動で実現させていました。この機構の採用により、一番の優等席であるセカンドシートは座面の傾斜角が限られ(それでも何とか座面の後傾角は取っていたようですが)、背面も平面形状に近くならざるを得なかったのですが、それでも当時は対面シートの商品力の方が勝っていたということなのです。過渡期の仕様の感はあり、次世代ではシート自体を回転させるに変更されています。

2列目を回転させることで3列目との一体感が得られる一方、疎外感が強くなるのが1列目。当時は1列目のリクライニング角も限られていたこともあり、この画では外から輪の中に入ろうとしている感が否めなくなっています(笑)
今では消えてしまった装備の一つということで、当時らしい光景とは言えるでしょうね。





次の左頁もスイングウェイ対面シートを主にしての掲載。
セカンドシートの1人掛けと2人掛けを進行方向と対向で使い分けられる利点が書かれていますが、実際の使用状況で使い分けることがあるかというと・・・
サードシートの乗降では便利かもしれませんけれど。

同様の回転対座機構を採用したタウンエース&デルタワイドでは、対面の際に座面も前移動させることが必要でしたが、ボディサイズに余裕のあるハイエースでは座面を動かさずでの対面が可能でした。

エンジンのサイズはR型のガソリンよりL型のディーゼルの方が小さかったようで、ガソリン車にはセカンドシートの足元を侵食する出っ張りが存在していました。この位置だと、足を下ろすよりこの上に足を上げる使い方が多かったと推測。


右頁には同じく新採用となったオーバーヘッドデュアルエアコンの紹介。
採用前は助手席の後ろに弁当箱型を置いていたことからすると長足の進歩であることはもちろん、運転席側の壁にウォール型のクーラーユニットを置いた日産よりも確実に理想的な配置ではありました。今のミニバンも冷房の吹き出し口は天井にあったりしますし。

後付感の払拭までには至っていないものの、当初設計ではなくモデル途中での追加ですから、その辺りは仕方なく。フロントの冷房もエアミックスタイプでこそないものの、吊り下げクーラーからダッシュボードの埋め込みとなっていますし、空調に関してはここで大きな進歩をしたと言っていいでしょう。トヨタというよりデンソーの成果とするのがより正確な気はしますけれども。





ここでようやく1列目の紹介となります。
メーターパネルやセンターコンソールの形状をUPDATEしているものの、インパネの基本形状は1977年の登場時点のままということで、当時でも時流に乗り遅れつつある感はありました。3本スポークステアリングや画像にあるカーコンポ(松下製)が新しさを訴求している形ですね。両アイテムは40カリーナからの流用と推測します。

ライトエース&タウンエースは、同時期にはMT&ATにフロアシフトを採用、さらにATには足踏み式のサイドブレーキも採用されていました。一方のハイエースはコラムシフトとステッキ式のサイドブレーキを継続採用。このクラスだと多人数乗車が求められていた感があるのが理由でしょうね。フロアシフトは次世代での採用となります。





主な装備品の紹介頁です。

ウレタンバンパーの装備により、全長は100mmのプラス。右側のスチールバンパーと比較するとナンバー位置の違いが見た目に結構影響しているように感じます。

当初はバイアスタイヤが標準でしたが、ようやくラジアルタイヤの標準化が始まっています。195サイズが70扁平で、185サイズは82扁平。タイヤの直径としては195サイズの方が15mm程小さくなる筈ですが、当時は205/70サイズのラジアルは一般的ではなく、クラウンやセドリック等も同様の設定となっていました。次世代のハイエースでは205/70R14が設定に含まれることとなります。見た目的にも195サイズとアルミを選択してといきたいところですが、この世代のハイエースに関しては一長一短があったという話は後述。

パワーウィンドゥは助手席のみの設定。バンでも選択可能だった装備ですが、運転席が手動との組み合わせは珍しい感はあります。手の届かない助手席を電動化するというのは合理的ではあるのですが、両席パワーウィンドゥまでの過渡期的設定に留まっています。

スペアタイヤはガソリンとディーゼルで収納方法が異なっていました。セカンドシートに続くガソリン仕様のネガであり、明らかにディーゼルの方が理に適っています。理由を探ったところ、ワゴンのガソリンのみ燃料タンクの容量を増やしていた(ワゴンガソリン:65L、他:58L)ことに起因するようです。航続距離が厳しかったのかな?というのは推測。工具とジャッキの収納方法といい、スペースの割に使い方は鷹揚の感がありますね。





グレードの一覧です。
スーパーカスタムは後から追加されたグレードということで、ユーザーの上級&豪華志向に応える形でグレードを上に増やした形でした。スーパーカスタムをバンに近いデラックスと比較すると、バンベースで如何に高級に見せるか工夫の跡が見て取れるかと思います。後年のスーパーカスタム リミテッドからすれば、まだまだシンプルとも言えますけれど。

10人乗りは当初9人乗りと同じ標準ボディに設定されていましたが、この時点ではロングボディとなっています。4列を無理なく収めるには、このサイズの方が妥当と言えるでしょうね。





装備一覧表と主要諸元表です。

前頁のグレード一覧と付け合せると、違いがより解るかなと。
主要諸元表にはスタンダードの記載がありますが、装備一覧表には無。ガソリンの10人乗りのみですし、殆ど売れていなかったのでしょう。

主要諸元表で気付いた点をいくつか。
先ず、ホイールベースは短いのに最小回転半径は意外なほど大きかったりしますね。5.3mでもマークII系より大きく、クラウンより小さいぐらいの数値です。

逆に意外と軽く感じたのは車両重量。最も重いスーパーカスタム サンルーフのディーゼルでも1520kgですからね。装備がシンプルというのが大きいのでしょう。次世代では150kg近い増加となっていたりします。

次にディーゼルはやはりパワーレスだったようで、ギヤ比での工夫というべきか細工が散見。MTは全体的にワイドレシオですし、ATはギヤレシオこそ乗用車と共通ですが、最終減速比がかなりのローギヤード。4速は確かにオーバードライブですけれど、トータルレシオでは乗用車の3速並みとなります。

それでもディーゼルを設定した理由は燃費消費率にあり。この数値だとガソリンにATを設定したら10モードで7km/L前半となりそうで。





裏表紙には別カタログ扱いのバンとコミューターが掲載されていました。
この世代のハイエースだと、こうしたツートンカラーの印象が強かったりもします。ボディバリエーションとしては、この時点で確立していた感はあって、標準・ロング・スーパーロングという3構成は、この後も2世代、20年以上に渡って継続となっています。

ディーラースタンプは、東京トヨペットの高島平営業所。新車販売店の方はトヨタモビリティ東京に引き継がれ、今でも現存のようです。併記の高島平中古車センターは80年代末期に閉店しています。

カタログの発行年月は昭和57年9月ということで、この世代としては最末期ですね(次世代は昭和57年12月に発表&発売)。この年月からすると、父が3代目マークIIの中古車を購入後、(この世代のお約束でもある)ダッシュボードのセンタースピーカー部が割れ、中古車保証の扱いで入庫した時に貰ったものと推測します。当時から、父はワンボックスワゴンを心の片隅に置いていたようで、ディーラーでカタログを貰う際には指名とすることが多かったことを思い出します。


この時代のハイエースは、重ねて書いてきた通り、キャラバン&ホーミーと割とガチのライバル関係にありました。モデルチェンジの時期がずれていたこともあって、シーソーゲームだったようにも記憶するところです。この2代目ハイエースにとっては、初代キャラバンは超えたものの、再び2代目キャラバンが強敵となって現れたという構図だったような。結局この世代のハイエースは6年弱のモデルライフとなっていますし、次世代も7年弱で4代目へと替わっています。4代目は約15年、現行は15年を過ぎて次世代がまだ見えないということで、どんどんロングライフとなっていたりもします。

ワゴンはこの後も豪華指向をどんどん強めるものの、90年代末期にグランヴィア辺りから、バンとは別モデルという形での後継の模索が始まり、紆余曲折を経た後、アルファードへバトンを継いだ形とみるのが正しいと感じます。現行モデルにもワゴンはあるのですが、どちらかというと今回のカタログの中では10人乗りに特化した系譜と判断しています。コミューターにかなり近かったりもしますし。


さて、ここからは思い出話です。
この世代のワゴン、当時親しかった父の友人の一人が乗っていました。末期の特別仕様車リビングサルーンだったことは覚えているものの、複数回出ていたリビングサルーンのどのモデルかまでは探求できず。リビングサルーンはカタログを不所持というのも理由の一つ。

このリビングサルーンの前車が、2代目マークIIのセダン後期型LG。少し前に書いた通り、父としては一時期は一番欲しかった車そのものの仕様で、密かに放出を待っていたものの、中々代替とはならず、待ちきれずや目移りにより結局3代目のグランデを買ってしまったという経緯でもありました。冗談半分でご当人にもそんな話をしていたような。

当時から殆どお酒を飲まなかった父は運転手役となることが多く、自車を持ち出すことも度々ありました。この頃になると同乗の人数が増え、それならワンボックスをとなっていたようです。かなり親しかったこともあってか、リビングサルーンは比較的容易に借りることが出来たようで、父の仲間内の旅行では何回か出番となっていたことを思い出します。

乗せて貰う方からすれば、広大な空間と豪華内装に大満足となる訳で、かなり喜ばれていたようです。もっとも運転する方は「ディーゼルのATだから大勢乗せると明らかにパワーが足りない。何よりハンドルの重さが尋常じゃない。」という感想だったようで。
約1.5tの車重に大人6人の体重、特に前輪には重いディーゼルエンジンと大人2人の体重がまともに加わる形。その前輪は195サイズのラジアル。これを重ステで取り廻すのですから。この世代はパワステがオプションでも選べなかったのです。

「低速だと逆手ハンドルが必須。据え切りはもちろん、走行中の急ハンドルだって重過ぎて物理的に無理。」と話していたのを今でも覚えていたりします。それでも燃料の安いディーゼルということもあり、出番となることは多かったのです。

結局、持ち主もハンドルの重さか、度々の貸し出しが面倒になったのか、4年程で再び7代目クラウンのツインカム24へと戻られてしまうことになるのですけれど。この型のハイエースで真っ先に思い出す、私的思い出話となります。


当時のハイエースワゴンと現在のアルファードで通ずるものがあると感じるのは、友人等を後ろに乗せた時に喜ばれる、それがオーナーのプライドをも擽るという部分になります。その視点では、アルファードはハイエースワゴンの系譜あるいは末裔であることは揺るがないとも。それも車選びの価値観の一つなのかなと思ったりもしまして。

逆に大きく変わったのは、運転する方が我慢を強いられていた部分でしょうね。物理法則は動かしようがないので、セダンやワゴンと全く同じとは言えないのですが、日本国内で法令・法規を大きく逸脱しない範囲という前提に立てば、運転した経験からしても、まぁ不満を感じることはないと言えるわけで。

当時とは異なり、セダンやワゴンに回帰するユーザーが極めて少ないのもそんな理由かと思うところです。ミニバンやスーパーハイトの軽をそこまで成立させる過程では、技術の進歩だけではなく開発者の相当な尽力も積み重なっているのだなと。振り返ることで、そんなことを感じた回となります。
2020年11月26日 イイね!

思い出のクルマをカタログで振り返る37(ミラクオーレ)

思い出のクルマをカタログで振り返る37(ミラクオーレ)今年もまた、スズキとダイハツにより軽自動車の年間販売台数のトップ争いが行われているようです。ここ20年ぐらいの風物詩とでも言いますか。

そんな2社ですが、長い歴史の中においては、スズキが自社の軽自動車にダイハツのエンジンを搭載して販売していた時期があったりします。

若い方には意外に感じられそうな、この出来事ですが、発端は軽自動車枠の拡大と排ガス規制となります。第一次の軽自動車ブームが過ぎた70年代中盤、排ガス規制への適合の関係から、多くが2ストロークから4ストロークに移行する中、スズキは2ストロークのまま拡大の方針を採ります。この2ストが、乗用車の53年規制に適合困難という話が浮上したのです。

当時のスズキの国内販売は、軽自動車のみ。商用車が継続できたとしても、乗用車が継続できないのは死活問題に近い訳で、急遽他社からの供給を求めることに。その結果、ダイハツのエンジンが供給されることになります。当時もライバル関係にあった2社なのですが、この供給関係には確かトヨタが絡んでいたと記憶しています。

結局、期限間近になって2ストの53年規制適合が可能となり、スズキはフロンテに自社製の2ストエンジンとダイハツ製の4ストエンジンを併存させる形となります。この供給、スズキ側はあくまでも暫定的な対応という認識だったようで、約1年後に行われたフロンテのモデルチェンジでは、RRからFFに転換すると共に自社製の3気筒4ストエンジンを採用。この辺りは、スズキの強かさが感じられて仕方ありません。

このフロンテのモデルチェンジと同時に発表されたのが、47万円で大きな話題となったアルトです。アルトは価格優先ということもあり、当初は2ストのみでの発売ではあったのですが。

アルトは、他社先んじた新規格でのモデルチェンジと低価格を武器に販売台数を伸ばし、火が消えかかったかのように見えた軽自動車を再興させることに成功します。当然、他社もこの動きは無視できず、早速スバルは、それまでレックス バンスタンダードとして売っていたグレードをファミリーレックスと名付け、4.4万円の値下げを敢行。48万円で追随します。

この一連の流れの中でアルトから遅れる事、約1年で登場したのが今回紹介するミラクオーレとなります。ダイハツの軽自動車としては、途中やや大規模なマイナーチェンジは挟んでいるものの、フェローMAX以来、約10年ぶりのモデルチェンジでもありました。


いつものように前置きが長くなりました。
ここからはカタログの紹介に入っていきます。
どうしても先代との対比視点で書いてしまいますので、先代のカタログのリンクを先に貼っておきます。先代のカタログはこちら



今ではミラの名のみが残りますが、当時はクオーレの4ナンバー仕様のみ、ミラがサブネーム的に付けられていました。ダイハツのボンネットタイプ軽自動車は、時にメインネームとサブネームが下剋上状態になるというのがお家芸の一種でもありますね。

「これからのタウンミニ」というコピーが掲げられていますが、むしろ前面に出ていたのは「1.5BOX」だったように記憶しています。1BOXと2BOXという言葉が既に定着していた時代にあって、従前の2BOXではなく1BOXの背が高くてノーズが短いという特徴を取り入れているというのが主張でした。

そのアピールは、新鮮に映ったデザイン共々新たな潮流として受け入れられることになります。もっとも、デザインのテーマとしては同じ流れに映る初代シティの開発陣によると、ミラクオーレはパッケージングとしては軽自動車の枠内にあると分析されていたりします。アップライトなドライビングポジションを実現させるべく、コンポーネンツの大半を新設計したシティほどの革新さはないということなのでしょう。

むしろ大きく流れを変えたのは、リヤピラーを起こした点で、それまではバンに映るということで、皆が避けていたテーマへの挑戦は評価すべき点かと思います。3ドアからバンを起こしたように映るアルトに対して、バン単体としても成立するデザインのミラクオーレは対照的でもありました。

ホイールベースは先代から60mmの延長。先代は新規格に対応する際にバンパーの延長で対応していましたから、ようやくの新規格設計でもありました。ホイールも従前の合わせタイプから、今風のものとなる等、10年分の進歩は各所に散見することができます。





ボンネットを前傾させたデザインは、VWゴルフに影響されたものと思っています。ここまでの傾斜は日本車ではあまりなくて、当時の流行だった角目の採用と合わせて、失礼ながらダイハツもこんなデザインができるんだという驚きがありました。先代のデザインからの飛躍という観点でもそれは同じであり。

アルトは価格実現のために、助手席のキー穴も省略するという割切りぶりでしたが、こちらはサイドストライプの採用も含めて、ややコストに余裕があったかなと推測させます。お値段は、このAタイプで49.3万円。アルトの2.3万円高でした。





フロントがゴルフなら、リヤビューにはルノー5が重なります。

大型と書いてあるリヤコンビネーションランプは、当時としても小振りでリヤゲートの開口を優先したかなと推測します。これもバン様式で(ガラスハッチとなるクオーレの5ドアは全く変えていますね)、一度は採用したシビックも2代目では変更したくらい、敬遠されがちなデザインでしたが、思い切っての採用でした。ミラのアイコンの一つとなった感はありまして、後のエッセやミライース等、このデザインへのオマージュと思えるものがいくつかあったりします。

先代のバンは、上下2分割のリヤゲートを持っていましたが、この代では1枚ものに改められています。





従前の営業車需要に留まらず、セカンドカー需要としても買われたこの種のボンネットバンは、早期からイージードライブが求められ、先ずファミリーレックスが登場直後に電磁クラッチを用いたオートクラッチ仕様を追加します。続いてのアルトは、2速のトルコンAT仕様を追加。

操作性の面では当然ATとなりますが、性能的には4速ギヤが使えるオートクラッチが勝る、という一長一短がありました。ダイハツはこの時点では、オートクラッチを採用しています。

朧げな記憶ですが、当時の自動車雑誌のテストでは、アルトのATの最高速は100km/hに届かず、ミラクオーレのオートクラッチは、+10km/hほどだったかと思います。エンジンの違いもありますから、一概にミッションだけの差とは言えませんけれどね。
当時の軽自動車の法定最高速度は80km/hでしたから、当時のアルトの性能でも問題とはなりませんでしたし、120km/hで巡行できる今の軽自動車の性能は、隔世の感があるとも言えます。

また、オートクラッチ仕様のみ画像のセンターコンソールが標準。このコンソールは足元の邪魔になるという評価が多かったようで、2年後のマイナーチェンジでは省略されています。

また、トルコンATとオートクラッチの評価は、前者に軍配が上がり、登場後3年経過したマイナーチェンジでは、オートクラッチはトルコンATに設定変更されることになります。

エンジンや足回り等は、先代からの継続ということもあってか、比較的簡易な記載。女性ドライバーの比率が多くなることを想定していた可能性もありますけれど。

エンジンの出力は、乗用車版の31ps/6000rpm、4.2kg-m/3500rpmに対して、こちらは29ps/6000rpm、4.0kg-m/3500rpmとやや低スペック。当時は商用車の方が排ガス規制が緩かったですから、実際は軽量と相まって逆転していたかと思います。

この世代のリヤサスは、リーフ式。先代のバンの踏襲でもありますし、アルトも同様でしたから、商品力のビハインドとはなりませんでした。





エクステリアが10年分の進歩なら、インパネもまた同じ進歩を感じさせるデザインでした。

機能的にも、ベンチレーションの改善が大きく。先代は独立ヒーターだけで、換気は走行風頼り。停車中の強制換気機能はなかったのです。

ステアリングコラムはマルチユースレバーも含めて、恐らく先代からの継続。当時のダイハツは、シャレードも含めてライトとワイパーのスイッチ位置が今とは逆でした。他社でもこうした配置は、時折見受けられて、現代様式に統一されるのはもう少し後となります。このミラも、途中のマイナーチェンジで逆に改められていた筈。

販売直前で仕様変更が入ったのか、トリップメーターが消されていますね(笑)





続いてはインテリア。
商用車ですから、リヤシートはミニマムサイズ。画像では助手席を前に出して足元の狭さを見せないようにしていますけれど。

フロントシートなんかは、シンプルの極みに映るかもしれませんが、先代のスタンダードのシートからすれば、立体的な形状のツートンになって、リクライニングが付いただけでも、えらく豪華になっていたのです(笑)

リヤシートを狭めた分、リヤラゲッジは拡大されています。先代のセダンは、トランクタイプということもあり、物を入れるのだけでも一苦労していたのとは大きな違い。リヤシートとリヤラゲッジの配分は、税金の安さも考慮しつつでユーザーの選択に任された形です。当時は、これで十分割り切れるという買われ方をしていました。





最後の見開き、左上にはもう一つのグレード、Bタイプが紹介されています。
実はこれまで掲載されていたのは、安い方のAタイプで、とかく豪華さを訴えがちなカタログとしては珍しい構成かと思います。

アルトの例もありますし、ダイハツとしても売れ筋はAタイプと予想していたのでしょう。実際は5.3万円のプラスで装備が充実するBタイプが売れ、軽自動車の装備は高級への道を進むことになります。ミラも2年後のマイナーチェンジでは、更なる上級グレードCタイプ、その翌年にはスポーティなSタイプを追加。ここが分水嶺だったと言ってよいでしょうね。

下にはカラーバリエーション。
今だとブラックが加わりそうですが、当時は軽自動車のカラー設定としてはあり得ず。ビジネスユースで買われそうなことからすると、シルバーがBタイプのみなのは意外で、ブルーと逆でもよかった気はしますけれども。





裏表紙には諸元表と、イメージキャラクターだった岡田奈々さんが掲載されています。

アイドル要素も備えた女優さんがキャラクターとして前面に登場するのも、この辺りが走りで、他社も追随することになります。次はどなたがキャラクターとして登場されるのか、当時は密かな楽しみでもありました。


といったところでいかがだったでしょうか。

このミラクオーレ、先行したアルトを徹底的に研究し、ネガと判断した部分をつぶして登場したことを改めて感じます。スズキが先行して、ダイハツが後を追う。今でもよくある流れなのですが、その源流はここにある気がしてなりません。

商売としては大成功で、ミラはシャレードに続いてダイハツの懐を潤すことに大いに貢献します。先代のフロンテとクオーレでは、販売台数で大きな差が開いていたのに対して、ミラは末期に向かって台数を伸ばしアルトの台数に肉薄することになるのです。

アルトとミラの対決は、販売台数だけでなくハイパワーモデル、モータースポーツと場面を変えながら、激突を繰り返していきます。

冒頭にここ20年の風物詩と書きましたが、その基となったのも、このミラに行き付くように思うのです。


最後に思い出話を記すことに。
先代にあたるMAXクオーレを6万円で父が買ってきたという話は、これまで何度か書いています。実は、この選択は最初から決まっていたわけではないのです。

このミラクオーレも検討の段階は経ています。残念ながら、家族4人で乗るには狭いという理由で選択には至りませんでした。それならということで、5ドアのクオーレも候補に挙がったのですが、こちらは価格がネックに。

この型が登場して2年経過の時点でしたから、ミラ・クオーレ共々、まだ中古車もタマが無かったですし、あっても高価格、さらに人気も高くて直ぐに売れてしまう状態だったのです。

そうこうしている内に、父が「お安いのない?」で買ってきたのがMAXクオーレだったと。それでも一度はこの型を検討した後ですからね。玄関先で「車を買ってきた」と言われ、外に出て実車を見た時のショックと言ったら、それはもう。今でも鮮明に覚えている出来事です(笑)

今となっては、MAXクオーレも懐かしく、琴線に触れる一台ですけれど、当時は家にある間ずっと、カッコ悪いよなって思っていました。

要はそれぐらい大きな変わり方をしているんですよね。
ダイハツにとっては、初代シャレードに次いで転換点となった一台に違いありません。名車の一台とも思います。個人的な心境には、そんな理由で若干複雑なものが混ざってしまうんですけれどね。
2020年10月21日 イイね!

思い出のクルマをカタログで振り返る36(2代目ランサーフィオーレ)

思い出のクルマをカタログで振り返る36(2代目ランサーフィオーレ)今年は暑さが続くなぁと思っていたら、それまでの分を取り返すかのようにいきなり寒くなり、戸惑っております。

季節の変わり目でもあり、体調を崩しやすい時期、くれぐれもご自愛くださいませ。このご時世だと、風邪をひいて発熱でもしようものなら、噂話に尾ひれがつく可能性もアリ。例年以上の体調管理が肝心ですね。

時節話は早々に切り上げて、思い出のクルマ話、第36回です。
今回は、2代目ランサーフィオーレを取り上げることにします。

同車は、ちょうど37年前となる1983年(昭和58年)10月21日に登場。
初代の登場は、1982年(昭和57年)1月22日でしたから、何と僅か1年9か月でのモデルチェンジでした。

もちろんこれには理由があって、ベースとなったミラージュは1978年3月に3ドアが登場。同年9月に5ドアを追加した後、ランサーフィオーレの登場と同時に4ドアを追加して、ミラージュIIに車名を変更するという、やや複雑な変遷を辿っています。
最初のミラージュ3ドアから数えると5年半強となりますから、初代ミラージュはむしろ長いくらいのモデルライフだったとも言えます。4年近く経ってから4ドアを追加するというのが異例ではありまして。日本の小型車のFF化が進行する中での過渡期的展開がここにもあったと言えるでしょう。

三菱的には、前年に登場したコルディア/トレディア、スタリオン等が期待の割に販売成績に反映せずの状況でした。直前にFF化を果たしたギャラン&エテルナシグマに続く、ミラージュ/ランサーフィオーレというこれら主力車種のモデルチェンジは、反転の機会として期するものがあったであろうことは、間違いありません。


さて、ここからはカタログの紹介に入っていきます。



最初の見開きでは、表紙に続いて、ラグジュアリー系のトップグレードとなるCXエクストラが、専用色グレーストーンで掲載されています。グレーストーンは、カイザーシルバーにベージュの組合せだったようです。

このCXエクストラは、ハッチバックを主力とする姉妹車ミラージュ4ドアには設定のない、ランサーフィオーレの専用グレードの一つであり、同車のイメージリーダーともなっています。

先代もプレスドアの採用を始め、全体的にクリーンな印象のスタイリングであり、モデルチェンジでそれをさらに洗練させた感があります。

今回取り上げるにあたり、スペック等を再確認したのですが、パッケージングとしては、Aピラーから後は先代の踏襲。フロントトレッドを拡大し、エンジンコンパートメントも横方向に拡げたようです。拡げた理由は、ライバル車への対抗もあるものの、その最大は恐らくディーゼルを搭載するためと推測します。

キャッチコピーは「若い大人の・・・」。中高年層を主購買層と想定しつつ、大人の雰囲気を求める若者、あるいはヤングファミリーにも支持を拡げたかったのでしょうね。





当時の最多量販価格帯に設定されていたCG-Fのリヤビューと共に、スタイリングに関する解説が書かれています。

先述の通り、リヤビューは先代の面影を残すもの。ハッチバックからは4年遅れたとはいえ、先代から2年足らずでのモデルチェンジですから、それも当然かと思います。

先代はハッチバックをベースにトランクを後付した感が、どうしても拭えないものでした。この代は当初からセダンの検討が含まれていたのでしょう。プロポーションとしては洗練されたように感じます。

先代のボディサイズは、全長4105mm、全幅1590mmということで、一回りのサイズアップが行われています。

デザインの基調は、当時としても先進的に映るフラッシュサーフェス。注目点は、サイドカットオープニングフード、ブーメラン型ランプ、シンプルなフロントグリルが集まるフロントマスクにあるというのは私感。当時としてもモダンなルックスに映りましたが、市場評価としては理解が進まず、年次改良で加飾を加えつつで一般的な方向に舵を切ることになります。





インパネの紹介頁です。

先代の空調吹き出し口は助手席以外、インパネの下寄りに配置されていましたので、モデルチェンジに伴い内部構造は一新。ギャラン風にメーター下段にスイッチ類を集めた作りも可能だった筈ですが、こちらは先代同様、ライトとワイパーのみに留めています。

デザインのテーマは「できるだけ広く。見渡せて、しかも全て自分でコントロールできるもの。」とあり、イメージするものとしては「放送局」あるいは「オーケストラの指揮者」という言語が、当時の設計陣から語られています。

CXエクストラは、最上級ということもあり、液晶式電子メーター、オートヒーター、AM/FM電子同調ラジオ、フロントパワーウィンドが標準ということで、当時の同クラスとしては、かなり豪華な装備設定でした。

設定の狙いとしては「まだ贅沢ですが、客の需要をみてみたい。将来はこういう方向にいくと思う」「お客様の、ユーザー志向が多様化の方向になっている。豪華なもの、より上級グレードのものをほしがってきている」「大衆車クラスにサイズダウンする人たちも、装備は上級車にあったものを、そのままほしいという人が増えてきている」ということが語られています。

その後の動向も含めて正しい読みだったと思いますし、最後の部分はうちが正しくその一人でもありました。





インテリアの紹介頁です。

CXエクストラのフロントシートは、実はスポーティ系と共通の形状となります。
インテリアカラーをブラウンに、シート生地を高級ニットにすることで、高級感を演出しています。インテリアカラーやシート生地は、同時期のカローラ/スプリンターSEサルーン、サニーSGLエクストラ等と同じ印象を受ける部分です。

先代由来のパッケージングの不利を意識したのか、フロントのシートレールやドアガラスレギュレーターによるスペース創出の工夫が書かれています。今とレベルの違いこそあれ、室内の広さが重要視された時代ですね。

分割可倒とセンターアームレストを備えたリヤシート、トランクの内張等は、カローラ/スプリンター以上のきめ細かさだったりします。後の改良で追い付くあたりがトヨタの抜け目のない所でもあり。





メカニズムの紹介頁です。

実はエンジンは全て変更されていたりします。
先ず、1.3と1.5は先代の1.2と1.4からの拡大。同クラスは偶数排気量から奇数排気量に主流を移していましたので、ようやく追いついた感もありました。販売サイドの意向が語られていて、他車比-100ccと思われがちだったと。
1.6もあったことから、1.2を落として1.4と1.6にする案も質問されていますが、「間・間といくよりは…」「今までの1.4を1.6に上げるのは難しい」と返されています。1.5に税制の境界があり、1.2と1.4はオリオン、1.6はサターンと系列も異なっていましたから、主力を1.4と1.6の二本立てにする選択は考えられなかったでしょうね。

1.3は1244cc→1298ccで、1.5は1410cc→1468ccで対応しています。どちらもボアアップですから、1.5はこの辺りが限界だったのだろうと推測。同時期の1.5としては、トヨタ3Aの1452ccに次ぐ排気量の小ささとなります。

ターボは1.4のオリオンから1.6のサターンベースに変更。コルディア/トレディアが先に搭載したキャブターボを、両車が1.8ターボに移行したことに伴い、ECI化して流用したという見方もできます。同クラスのターボは1.5が多数派だった時期であり、100ccのアドバンテージがありました。

ディーゼルはこの代で初登場。このディーゼルは、後にターボが追加され、シグマに搭載されることにもなります。このシリーズだけに積むなら、一回り小さいサターンベースの方がベターだったように思いますが、小排気量ディーゼルの難しさと他車との共用を考慮しての選択でしょう。ちなみに、先に存在していた2.3のFR用ディーゼルは大き過ぎて搭載は無理だったとのこと。


ミッションは従来からの4速MT、4×2のスーパーシフト、3速ATに加えて、新たに5速MTとELCオートマチックが設定されています。

元々ミラージュは、当時の多数派が採用する、右ハンドルの運転席側にエンジン、助手席側にミッションという配置とは逆の置き方を採用して登場しました。シビックの後を追ったかなと推測させる配置ですが、エンジンを逆回転させた本田に対して、FRとの共用もある三菱は逆転も出来ず、ミッションで逆回転させることにします。逆回転ギヤに副変速機能を持たせ、アピールポイントとしたのがスーパーシフトの出自となります。

5速MTはターボとディーゼルのみの設定。従来はスーパーシフトだったターボのミッション設定をどうするか、議論はあったようです。5速にするか、スーパーシフトも加えて燃費とパワーを両立させるか。「走りを重視し、性能一本でいったらいいんではないか」が選択の理由とのこと。

実は市場模索も兼ねていたようで、翌年の年次改良では継続扱いのスーパーシフトは廃され、5速に変更されることになります。

ELCオートマチックは、ミラージュへの設定はなく、ランサーフィオーレのCXエクストラのみが選択可能でした。電子制御と2速・3速のロックアップを備えた効果は、燃費データへの反映が読み取れますが、通常のオートマ+2万円が設定拡大を躊躇わせたかなと。





バリエーション一覧です。

この内、GSR・CXエクストラ・CG-MDは、ミラージュだと5ドアへの設定(ただしCXエクストラではなくCXスーパー)となり、4ドアではランサーフィオーレのみで選択可能でした。

最近知ったのですが、GSRは翌年の年次改良でカタログから落とされています。ミラージュ5ドアは継続していたので、4ドアの廃止は意外でした。4ドアのターボならランサーEXを買われたのかなと。この改良では、CXエクストラがミラージュ4ドアにも追加されている点も含めて、三菱らしい設定の目まぐるしさがありますね。

大人向けという狙いからか、ボディカラーは地味目が多く。グリーンやブルー等の設定が無いのは珍しく感じます。反面、グレードにもよりますが、内装色はブラック・ブラウン・グレー・ダークレッドと豊富な設定。

サイドカットオープニングフードは、当時はまだ多かったフェンダーミラーの設定が難しかった筈ですが、フード側に設置する形で対応しています。






装備の紹介と主要装備一覧、そして主要諸元表と続きます。

装備の違いだけかと思ったら、実はメカ部分もきめ細かく違うのが、三菱の特徴。先に紹介したELC-ATに加えて、燃費向上を狙った1.3のエレクトロキャブ及び1500のMD等、既にこの時期から、なんでこんなに作り分けるんだろうの片鱗は見受けられますね。


といったところでいかがだったでしょうか。

FRでスタートしたランサーと、後からFFで加わったミラージュ。小型車のFF化が決定的となる中で、やや異なりつつもクラスの重なる両車をどうするのか、三菱はとても悩ましかっただろうと推測します。

選択は、当時のランサーEXと同クラスにミラージュをベースとしたトレディア/コルディアを投入。さらにミラージュには4ドアを加え、その姉妹車にフィオーレのサブネームを付けつつもランサー名を語らせる方法でした。

後発のFF2BOXは、伝統的なカローラ・サニーに対してややクラス下に見受けられてもいましたから、この選択は上下から包囲できるという目論見もあっただろうと推測します。

結果は、買い手を困惑させることとなり、その皺寄せは、新型車で一番ネームバリューの乏しかったトレディアが受けることとなります。取扱チャンネルを変えつつも、ランサーEXからの移行を想定していたトレディアが早々に失速した理由の一つですね。

トレディアの失速により、このフィオーレはランサーの代替需要も急遽担うこととなりました。三菱は、他社とはクラスを微妙にずらすことで、売り上げを伸ばせるという考えは、その戦略が外れたことで、新たな対応を迫られることになるのです。


この代の4ドアには、先代4ドアとの関係、トレディアとの関係が影を落としていることを感じます。前年に登場したこの2台が、サイズやシャシーの選択に影響しているように見受けられるからです。

エンジンこそ他社と揃えられたものの、先代のシャシーの多くを踏襲したことで、ライバル車よりもやや小さなサイズというハンデを背負うこととなりました。4ドアだけでもトレディアのリヤセクターを共用していれば、そのハンデは払拭できたように思います。でも、その選択はできなかった。改めて見直すと、全体計画の策定とその采配の難しさが伝わってくるかのようです。



ここからは思い出話を。

このランサーフィオーレは、カローラに代替する際に彗星のごとく、浮上したクルマとなります。

父は私が物心つく前から、とある自動車整備工場、所謂モータース屋さんと親しくしていて、車検はもちろん整備や装備品の後付け等も含めて、ほぼお任せしていました。
そのモータース屋さんは、全社の取り次ぎを可能にしつつも、一番の取次先は三菱(カープラザではない方)だったのです。

マークII、ましてや中古車となると、三菱に相当する車はなかったのですが、対象がカローラとなると、三菱の新型車も検討されては?というのが話の発端。
希望はハッチバックではなくセダンということもあり、お勧めされたのがランサーフィオーレ。グレードは中間のCG-F。この部分は朧気ながらですが、奥様も運転されるのなら、ということでATの見積もりをもらっていたように記憶します。これからはATの時代ですよ、という話もあったような。

話を聞いてきた父は、どう思う?と私に見解を求めまして。
私としては、最上級のCXエクストラの豪華装備に魅力は感じたものの、父がデジタルメーターがダメということで、これはボツ。それでも内装色や装備の設定等、女性向け仕様のCG-Fではなく、CXを候補にすべきだろうと。
ATについても、当時の父はMTに拘っていたため、ボツ。
結果、カローラSEサルーンとランサーフィーレCXの比較となったのです。両車とも試乗する機会はなく、殆どカタログスペックだけでの比較ではあったのですが。

お互い、同クラスに新型車として登場したばかりでしたから、比較してもほぼ拮抗していました。
最終的にカローラに軍配を上げたのは、ホイールベースとリヤトレッドの違いから生じる室内スペースとスーパーシフトよりは5速の方が使い易いだろうということ。CXの同等はSEでしたので、装備もSEサルーンがやや勝っていました。

ATなら縁故を優先してランサーフィーレの選択もありかなと思いつつも、カローラをATで購入するなら、当時3速だったSEサルーンではなく、4速のECT-Sを選べたカローラSRが候補に替わり、やはりカローラだなと。


当時の同クラスの状況を思い出しつつで、書いてみると。

私的には、むしろ同時期に一新されたシビック35Gの方が強力なライバルに映ったのですが、こちらは地元にも関わらず、父が全く乗り気にならず。
その他のサニー、パルサー、ファミリア等は、登場後の年数も経っていて、比較の俎上に上がることはありませんでした。

実は、隠れたライバルは、FFコロナEXサルーンで、ボディサイズの点から検討外としたものの、価格差もそれほど大きくなく、ここは検討の余地があったなとは、今更ながら。当時の商戦では、カローラとコロナの1500はガチのライバルで、コロナはカローラのお客を吸引して台数を伸ばす一方、カローラが苦戦する要因となっています。カリーナは、まだFRの末期。

こうして書いてみると、当時からトヨタの設定あるいはスペック上のアピールが上手かったという見方もできますね。


ランサーフィオーレは、先に書いた通り、翌年の年次改良でスーパーシフトに替えて5速を設定しますが、うち的には既に後の祭り。

比較対象だった2車は、その後、カローラは歴代比で苦戦しつつも大量の販売台数を計上する一方、ランサーフィオーレは不人気と判断される販売台数に留まることになります。
比較をした私からすれば、少しだけカローラが良く映ったのは事実ですが、その台数差ほどの違いがあったかというと、決してそんなことはなく。少しの違いが大きな台数差となって反映する、既に何度か書いていますがクルマという商品の持つ恐ろしさだとつくづく思います。


当時の三菱は、販売不振の原因を豪華さの不足と認識していたのか、クリーンに映ったスタイリングは、手が加えられていって、末期にはかなり異なる装いとなりました。私的見解で恐縮ですが、同時期のシグマ共々、一番のグッドルッキンは最初期型と確信しています。内容的には最終型が一番完成度が高いというのも、もう一方の事実ですけれど。

ギャランのポジションの再定義とミラージュ&ランサーの統合を果たした次世代以降は、買い手視線でも理解し易くなって、このクラスの選択肢の一つとして存在感を発揮していくこととなります。

40年近く前の大衆車。ましてやランサーフィオーレともなれば、今となっては希少車に類されるものと思います。再注目されるハチマルの中でも、かなり地味な存在。今回の取り上げが、極僅かでも再認識のきっかけとなれば幸いです。


登場年月日の出展:自動車ガイドブックより
作り手の言葉の引用:月刊自家用車誌車種別総合研究より

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何シテル?   07/31 22:03
3台計で20年以上の長きに渡って乗り続けたX80系からW204への代替がみんカラを始める動機となりました。 最初はW204関連を主とするはずだったのですが...
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