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2018年01月14日 イイね!

第23回東京モーターショー、いすゞ扱いGMのリーフレット

第23回東京モーターショー、いすゞ扱いGMのリーフレット今回の話に入る前に、多くの「イイね!」をいただいている前回の話を追加的に少々。

成人式ネタに絡めて1998年に登場したクルマでやったのですが、よくよく考えてみれば1997年4月~1998年3月の方が話的にはより正しいですよね。この期間だと、ラインナップが変わり、それに伴って解説部分も変わっていたかもなどと。もっとも、セダン豊作という点や結論は変わらない気がしますけれどね。


そんなこんなで、さて本題。

今回は久方ぶりの、古のモーターショーのパンフレットネタです。
棚から、第23回のモーターショーのGMのものが出てきましたので、これを取り上げてみます。リーフレットということで、内容としては軽くなりますが、いすゞ扱いということで比較的珍しいモノなのではないでしょうか。

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先ずは、表表紙と裏表紙に当時の取扱車が主要諸元表と共に掲載されています。

取扱車を諸元表の順で並べてみると、
 1.シボレー シベット
 2.シボレー サイテーション
 3.ビュイック スカイラーク
 4.シボレー モンザ
 5.シボレー カマロ
 6.シボレー マリブ
 7.シボレー モンテカルロ
 8.シボレー カプリス
となります。

当時のGM車は、この他にヤナセ扱いでビュイックの中大型車やキャディラックが輸入されていた他、ポンティアック系も一部輸入されていたはずですが、いすゞ扱いということからか、比較的ベーシックに近いクルマ達に絞っていたようです。

当時のアメリカ車は、オイルクライシスの影響が大であり、生産中止の噂の中を生き延びたカマロ以外は、大きな変革を強いられたクルマ達でもありました。
後で紹介するシベットを除いて軽く(?)解説しておきましょう。

当時のアメリカ車は、サイズ別の分類として上からフルサイズ、インターミディエート、コンパクト、サブコンパクトの4種が存在していました。この内、サブコンパクトは急速に増え始めた輸入車への対抗を主目的に新たに設けられたクラスとなります。
オイルクライシスへの対応では、各サイズを一クラス下と同等まで下げるのが最初の策であり、続いてはFF化が行われることとなります。

一番最初にダウンサイジング行ったのが、フルサイズに相当するカプリスです。
ダウンサイジング後と言えども、今目線で見ても十分大き過ぎる数字が並んでいるくらいですから、これ以前の一番大きかった時代はどれほどかと(笑)。以前に近いスペースを確保するため、必然的にボクシーなスタイルとなったようですが、加飾を省いたシンプルなデザインは結構グッドルッキンだと思います。

マリブとモンテカルロは、インターミディエートサイズにあたり、ダウンサイジング第2弾。
カプリス級から縮小されたこのボディサイズは、現在のEセグメントのサイズに近いところですね。しかしながら、当時のメルセデスだとEクラスではなくSクラスが同等サイズとなりますから、これでも十分過ぎる大きさではあります。
この急激なダウンサイジングはスペースの確保に苦労したようで、ボクシーなスタイルに加えて、こちらのセダンではリヤドアガラスを固定式にして室内幅を稼ぐという、半ば荒業も行われています。さすがにやり過ぎだったようで、後年にはキャビンデザインを変える大改良を受けています。
モンテカルロは、マリブベースのパーソナルクーペとなります。

サイテーションとスカイラークは、コンパクト。
マリブでもスペースの確保に相当苦労したGMは、次のダウンサイジングでついにFF化という一大転換を行うこととなります。大きいクルマばかりを作り続けてきたわけですから、現在のアクセラ・インプレッサ級のこのサイズでも成立させるのには相当な苦労だったようです。
Xカーと呼ばれたこの兄弟達(この2台の他、ポンティアックフェニックス、オールズモビルオメガも存在)は、その第一弾ということで当時大きな話題となったモデルでした。デザイン等は従来の路線を引き継ぎつつも、メカニズム等は一新するという意欲的なモデルでしたが、初物故の習作的部分やそれに伴う苦労があり、販売もその意程とはならずとなってしまいました。この辺り、アメリカ版T11と言えるかもしれません。

モンザは、サブコンパクト。
これらのダウンサイジングが行われる前の登場で、かなりのヒットとなっていた初代セリカを迎撃する役割があったよう。逆に後から登場した2代目セリカは、こちらのデザインとイメージが重なるのが興味深い所。2代目セリカは、トヨタがアメリカに設立したデザインスタジオ「CALTY」のデザインということで、この種が当時のあちらの流行だったのでしょう。
付け加えると、モンテカルロのデザインにも、3代目マークII・初代チェイサーのHTが重なりますので、ヨーロッパを向き始めていた日本車もアメリカ車からの影響は少なからず残っていたという見方も出来ますね。

最後はカマロ。
元々はコンパクトをベースとしたスペシャルティでしたが、そのコンパクトが大きく変わってしまったことで独自の立ち位置を形成することとなります。日本におけるアメリカ車の人気が落ちる中で、ファイアバードと並んで高人気を保ったモデルですから、あまり細かく触れずとしておきます。
2代目カマロと赤の組合せは、ドラマ「俺たちは天使だ!」の印象が強くなるというのは私感ですが、同世代だと共感される方も多いはず。よくよく考えてみると、ちょうどオンタイムで放送中の時期と重なります。実際にドラマの中で使われたのは中古車ということで、年式や仕様はこの画像とは異なっています。



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これらモデルに加えて、新たに導入しようとしていたのが、このシベット(現地名はシェヴェットとなるようですが、ここでは表記沿うことにします)でした。

2ボックスの成り立ちは、一見FFっぽく映るのですが、フロント&リヤのオーバーハングの関係からも判るように実際はFR。GMが70年代初頭に作ったワールドカー構想の下、アメリカにもその一角を担わせてようと1976年に登場したのが、このシベットでした。当初は2ドアのみでお手軽にというコンセプトでしたが、オイルクライシスの中で想定以上に売れたことによりホイールベースを伸ばした5ドアが追加という形となっています。

ここでお気付きの方も多いと思うのですが、GMのワールドカー構想の日本版にはジェミニが存在しているわけで、ボディ形状の違いやアメリカ車っぽいディテール部から一見では判りにくいのですが、実は兄弟車の関係にありました。よく見るとフロントドアにはその面影を見出すことが可能ですね。


ジェミニが存在する中であえてシベットを輸入しようとした目的ですが、この頃大きな問題となっていたクルマにおける貿易不均衡(貿易摩擦という言い方もされていましたね)を多少なりとも解消しようということだったようです。アメリカ車は大きいから売れないというなら、小さいクルマなら買うだろうという訳ですね。

目的とか動機の部分はよしとしながらも、問題は手段でありまして、ジェミニの兄弟車を左ハンドルのまま、お値段約2倍の200万円級で売ろうというのはさすがに無理筋ではありました。当時の日本車のお値段だと、マークIIやローレルの一番お高い3ナンバー級に相当ですからね。同じ輸入車でもVWゴルフのお値段は、もっと下にありましたし。

肝心のクルマ自体も、このサイズは新型車を中心に既にFF化に向けて動き出していた中にあっては、設計年次の古いFR車の入り込む余地はほぼないに等しいものだったのです。ジェミニですら、その点を指摘され始めていて、DOHCやディーゼルに新たな活路を見出している状況にありました。

そんな中でのターゲットとなると、おそらくリーフレット内のアメリカ車を買っているお宅のセカンドカーにいかが?という辺りだろうなと予想はできるのですが、その数がどれほどだったかというと、やはり無理筋の感強し。
案の定とも言うべきか、この翌年に僅かながら輸入されはしたものの、程無く導入中止という結果に至っています。

このシベットからすれば、サンタナはもちろんキャバリエですら、よく考えての導入に思える不可思議と。


日本とアメリカにおけるクルマの台数の問題というのは、この当時から問題視され続けていて、特に大きな課題として取り上げられた際にはこうした策が講じられるのですが、解決には至らないという結果も変わらずで現在に至っています。

その努力の仕方は見解が分かれそうに思うのですが、いくつかの方法が試されているのは間違いがなく、それらを踏まえて向こうのメーカーが諦めに近い境地となるのも仕方ないのかなと思ったりもします。

結果的に台数は少数に留まり、皆の記憶にも恐らく残っていない存在ながらも、そんな歴史の中の一頁を刻むに値する貴重な一台がこのシベットですね。
2017年03月11日 イイね!

第23回東京モーターショー、フォードパンフレットの話

第23回東京モーターショー、フォードパンフレットの話久方ぶりとなる「古のモーターショーのパンフレット」話をお送りします。
配布されたのは1979年に開催された第23回東京モーターショーですから、今から40年近く前となりますね。

フォードは、ご存じのとおり、昨年末を以て日本から撤退をしているということで、何とも微妙なタイミングではあるのですが、ネタ探しをしていてふと書庫で見つけたというだけであって、深い意味や意図は全くありません。

今回のパンフレットを改めて読み返してみると、撤退の際に触れられていなかった内容も含まれていまして、意外と貴重な資料なのかもしれませんね。


それでは、以下紹介していきます。
最初は、メーカーについてということで、主に歴史を紹介したパンフレットです。




最初は、フォード自動車(日本)の概要について書かれています。

日本法人を設立したのは、1974年(昭和49年)のようです。
BMWジャパンの設立が1981年、メルセデスベンツ日本の設立が1987年ですから、一足早い日本法人の設立だったのです。もっとも、前年末にオイルショックが勃発し、クルマが大きな変革を強いられていたことからすると、何とも微妙な時期にも思えますね。


日本自動車輸入組合(JAIA)の統計を遡ってみると、フォードは、この年に9,000台弱を販売。この数字は、17,000台を売ったVWに続く台数でした。フォードに続くのは、約8,000台のGM。
今は台数を伸ばす他のドイツ車も、メルセデスが約5,000台強、BMWが約4,000台、アウディが約3,500台だったのですから、それらより台数としてははるかに多かったのです。

それにしても、当時の輸入車の総数は約60,000台。昨年の台数は300,000台を超えているのですから、新車全体の台数の増加を考慮しても、輸入車の伸びは著しいと言えます。

輸入車の中では定番の一つだったフォードの台数ですが、後述する理由により、翌年以降は減少に転じることとなります。





続いては、フォードの日本での歴史が書かれています。

フォードがはじめて日本に入ったのは明治時代まで遡るそうですから、その歴史の長さを改めて思うところです。トヨタや日産の生産開始よりも前ですからね。

今も使われている、ディーラー、ユーザー、サービス等の言葉は、そんな時代にフォードが持ち込んだものが由来であることも書かれています。





続いては、フォードの国際活動ということで、当時の拠点が紹介されています。

台数の規模は今とあまり変わらないようですが、拠点の場所は当時の世界情勢を反映している感がありますから、その数はきっと今よりも限られているのでしょうね。





こちらはフォードのあゆみ、世界編ということで、長い歴史を画像で紹介。
フォードの歴史がモータリゼーションの一角を担っていることは、間違いありませんね。





最終の見開きでは、モータースポーツでの活躍と当時のディーラー網を掲載。

レース&ラリーフィールドでの活躍に加えて、何故か宇宙開発も紹介。当時の宇宙開発といえば、やはりスペースシャトルですよね。

自分的に貴重な資料と思えるのが、当時のディーラー網です。
もちろんオートラマの展開前ですから、近鉄モータースを筆頭に商社系や地場の有力モータース系との混合でディーラー網が構成されていました。その中にはホンダ系のHISCOが含まれていますね。



そんなフォードが、1980年に向けてどんなクルマを売ろうとしていたのかというと・・・ということで続いては、当時の取扱車についてのパンフレットを紹介していきます。






この時の目玉は、久方ぶりの再登場となったサンダーバード、通称“Tバード”と、その兄弟車となるマーキュリークーガーXR-7でした。

元々は全く違う由来となる2台ですが、この時点では兄弟車の関係とされています。こうした名前を変えずでキャラクターを変えてしまう事例は、アメリカ車の方が日本車以上に多いですね。

マーキュリーは、フォードの一クラス上を担うブランドでした。長く続いていたのですが、フォードとリンカーンの間に挟まれたポジションは差別化に苦労したようで、近年になってブランド廃止となっています。


当時はオイルショックを契機とした、省資源化がかつてない規模で求められていて、恐竜に例えられるぐらいの大型化が進行していたアメリカ車は一気のダウンサイジングが行われていました。その成果は、何せ元が元だけに、長さ50cm、車重500kgという何ともスゴイ数字が並んでいます。





続いては、フォードの高級ブランド、リンカーンです。
キャデラックと並ぶ高級車の位置にありました。

リンカーンとコンチネンタルは、当時の子供心にセットの名称でありまして、どんなクルマか詳しくは知らなくても、何となくすごい(=怖い人の)クルマという印象があったものです(笑)

コンチネンタルシリーズは、こちらも80年モデルとしてモデルチェンジが行われていて、ダウンサイジングの成果として気前のいい数字が並びます。

軽く調べたところ、マークシリーズはこれまで2ドアのみだったところ、このモデルチェンジにより、4ドアが追加されてコンチネンタルシリーズの上級とされたようです。この後マークシリーズは一足先にモデルチェンジされて、再び2ドアのみに、という複雑な経緯を歩みます。

ヴェルサイユは、キャディラックセビルが成功に触発されて登場した、小さな高級車の成り立ちとなります。アメリカ車の”小さな”ですから、結構な大きさですけれど(笑)
急造モデルだったようで、フォードグラナダ/マーキュリーモナークをベースにリンカーン版を仕立てましたが、差別化が足りないという評価だったらしく、モデルライフの途中で手が加えられています。残念ながら、そうした手入れも販売には結びつかずということで、この後、新世代のコンチネンタルが後を継ぐことになります。

先に登場していたコンチネンタルは、新たにタウンカーを名乗ることになるのですから、何とも複雑な経緯としか(笑)。結局タウンカーは、部分改良のみで80年代を生き抜いたクルマとなりますね。






マーキュリーブランドの各モデルが並びます。
この時点のフォードの戦略は、やや上級のマーキュリーを主体としていたようです。

グランドマーキスには、インターミディエイトと書かれていますが、実際はフルサイズですね。こちらも、タウンカー同様に80年代を部分改良のみで乗り切っています。昔ながらのキャラクターは理解され易かったようで、本国では販売も好調だったようです。

モナークは、オイルショック直後に登場したモデルということで、この中では古株。登場直後は、他モデルを喰うほどのかなり好調な販売だったようです。モデルライフも後半に入っていましたので、当初の丸目2灯は角目の縦4灯に変更されています。

ゼファーは、コンパクトサイズということで、ようやく親近感のあるサイズとなってきます(笑)
かなりのヒット作だったようですが、台頭する日本車への対抗もあって、あまり時間を経たずで、FF&更なるコンパクト化が図られていきます。日本への輸入車としては、結構いい感じでして、勿体ない感もあるのですけれどね。

カプリは一見で判る、マスタングの兄弟車。
元々はドイツフォードのカプリを輸入していたそうですが、モデルチェンジを機にマスタングとくっ付けられたということのようです。最初に紹介したクーガーが、元々マスタングのマーキュリー版だったそうですから、複雑なモデル経緯は日本車の比ではないのです。







アメリカンマッスルカーとして、カマロ/トランザムと並んで日本にも多く輸入されたマスタングも、ダウンサイジングが進行することで、この時にはかなりコンパクトなモデルとなっていました。
最廉価のMT車は、200万円を切る価格設定ということで話題となったようです。まだ1ドル=200円を超えていた時代ですから、日本車と競合するまでは言えないものの、かなり戦略的な価格設定ではあります。

このマスタング、日本車に先行してのターボが追加ということにも注目が集まりました。省資源に寄与するというセールスポイントは当時のターボらしいものですが、この場合の比較対象はV8 4.2というのがポイント。それとの比較であれば、確かに省エネと言えそうではあります。エアスクープ付きのボンネットも当時らしいですね。





裏表紙には諸元表。
アメリカ車らしい、大らかな数字が並んでいます。

以上、80年モデルは、全てアメリカフォード製となります。

実は、この直前まではヨーロッパフォード、特にフィエスタが台数を稼いでいたのですが、この時点以降、ラインナップからは外されたようです。
この年に締結されたマツダとの業務提携、年々厳しくなる排ガス規制への対応等、導入を止めると判断する状況だったのでしょうね。


画像の引用元=FavCars.com


といったところで、いかがだったでしょうか。
80年代以降も躍進を期していたフォードは、マスタング等は好調だったものの、台数を稼いでいたフィエスタを失うことで、この年以降、減少傾向となっていきます。
マツダと共にオートラマを展開したものの、主に売れたのはマツダのOEMという状況しばらく続き、ようやく台数が上向くのは、初代トーラスやプローブ等の販売によってでした。

以降の歴史については、長くなるので触れませんが、確実に言えるのは、日本のメーカー以上の紆余曲折があったということでしょうか。輸入車の中でもヨーロッパ車が日本法人を設立し、日本市場での台数拡大を図る一方で、フォードはいろいろなアプローチを行ったものの、何れも大きな成果と呼ぶには難しいものがありました。

それだけに、撤退という決断に至ったというのも、非常に残念ではありますが、仕方がないのかなと思えるものがあります。

既に既視感のある日本市場の非関税障壁が再び声高に叫ばれつつある昨今にあって、日本市場における難しさというのを理解しているのは、何よりメーカー自身なのかもしれませんね。
2016年01月16日 イイね!

第26回東京モーターショー、スズキパンフレットの話

第26回東京モーターショー、スズキパンフレットの話30年前と書ける内に完結させるはずが、31年目に突入してしまった1985年のモーターショー話です(笑)

今回はスズキ編です。

この前の回では、フロンテ800以来の小型車市場への再参入となったカルタスの登場が話題となったスズキですが、翌1984年にアルトとフロンテをフルモデルチェンジを行った以降は、市販車での大きな話題はありませんでした。

ところが、そんな背景を裏腹にショーには2台のファンカーが舞い降りたのです・・・ということで、以下紹介していきます。



上は、「Light&Pure Sports」を掲げた、R/S1です。

縮小の関係で諸元が見辛いため、ここに転記すると
 ・全長:3,670mm/全幅:1,650mm/全高:1,090mm
 ・ホイールベース:2,230mm/トレッド(前)1,370mm/(後)1,380mm
 ・車両重量:720kg(目標値)
 ・エンジン:1300ツインカム4気筒16バルブEPI
 ・サスペンション(前):ダブルウィッシュボーン/(後):ストラット
 ・タイヤ(前):195・50VR15/(後):205・50VR15

カルタスをベースとする、MR2より一回り小さいサイズのミッドシップスポーツカーとなります。そのコンパクトなサイズと軽量は魅力的に映りますね。

フロントサスにダブルウィッシュボーンを採用することで、思いっ切り下げられたノーズを特徴とするスタイリングは、MR2比でも150mm以上低い車高と相まって、実にスタイリッシュに映ります。

当時のPCモニター風に6インチCRTを置くインパネもユニークですね。

市販化が期待されたものの、残念ながら参考出品に留まることになります。それにしても、ダイハツ(リンクはこちら)共々、コンセプトカーにミッドシップスポーツを掲げた戦略は、そのアプローチの違いも相まって興味深いものがあります。


下は、「Mini Performer」を掲げた、R/P2です。

こちらも最初に諸元を転記してみます。
 ・全長:3,430mm/全幅:1,540mm/全高:1,190mm
 ・ホイールベース:2,130mm/トレッド(前)1,310mm/(後)1,290mm
 ・車両重量:620kg(目標値)
 ・エンジン:800ツインカム3気筒12バルブEPI
 ・サスペンション(前後):ストラット
 ・タイヤ(前):175・50VR13

一見では、R/S1のミニ版的成り立ちに映りますが、こちらは横置きFFを基本とするパートタイム4WDのトラックでした。

タルガトップ&ガラスハッチを特徴とするスタイリングは、トラックという言葉からは程遠く、単なるデザインワークと見過ごすことはできませんね。

R/S1で外装:赤の内装:白の組み合わせをやって、R/P2では逆にする。
そんな小技も効いていたように思います。





左頁は、カルタスをベースとした参考出品のカルタスツーリングです。

ハイルーフにダブルサンルーフを組み合わせるだけではなく、リヤ側はボトム部を装着することでトランクにもなるというアイデアが披露されています。さすがに、このアイデアは市販化に至ることはありませんでした。

この車も90年代に実用化されたナビシステムが売りになっています。ディスプレイがCRTというのが時代ならでは。サイズ不明ながらも、クレジットカード風のナビカードが面白いですね。

エンジンは、1300ccの4気筒ディーゼル。需要はあったように思うのですが、残念ながらこちらも市販化されることはありませんでした。


右頁は、アルト/フロンテをベースとした参考出品のキャンバストップです。

Be-1といい、キャンバストップの流行が訪れていたことが分かりますね。あまり難しいことはせず、3ウェイの手動式となっています。ところが、シートは回転も含めて自動式を採用というあたりが何とも(笑)

アルトの方は、ほぼ同時期に販売開始となったEPIターボが搭載されています。キャンバストップにも需要はあったはずですが、ここだけに留まっています。





上段はジムニーベースの様々な提案です。
パノラミックルーフワゴンとEPIターボは、後に市販化に至ることとなります。EXPは、ロングボディ化して、オフロード系のパーツを追加したものですが、これのみ市販化はされませんでした。若干、スペースに余裕のできるロングボディに需要はあったように思えるんですけれどね。

マイティボーイのEPIターボも、イイ線突きながらも、この時のみに終わっています。セルボのターボが2年前に登場していることからすれば、遅きに失した感があるかもしれません。

SV250は、軽自動車よりさらに小さいサイズの提案です。
しばらく50ccでの模索が続いていたのですが、ここに至って250ccまで拡大されています。現在、各社が展開しつつある超小型モビリティの始祖と言えるかもしれません。時代は変わっても、この種を求める声は少なからずあるということなのでしょうね。

下には、当時のスズキを代表する2台である「カルタス」と「アルト」。そして両車のCMキャラクターと言えば、このお二方。もちろん、舘ひろしさんと小林麻美さんです。お二方の名前を付けた特別仕様車も随時投入されていましたね。





表表紙と裏表紙になります。
表表紙は、R/S1で、裏表紙はその他の市販車が掲載されています。
あまり目立たずに人々の生活を支えていた、そんなクルマ達ですね。

下段には、当時の関東と東海エリアの販売網が掲載されています。
カルタス店が別展開されているというのが、当時ならではですね。





タイトル画像の裏面です。
まごころの技術”HearTech”を掲げています。
中に書かれている内容は、今でも共感できるものばかりです。
ここにある「人々の暮らしを考え、生活を豊かに演出する便利なクルマ」というのは、今も企業情報トップに同様の文言が並びます。


といったところで、いかがだったでしょうか。
この頃のスズキは、当時のNo.1メーカーであるGMと組んでカルタスを誕生させる一方で、インドにいち早く拠点を求める等、外向きの動きを見せ始めた転換期にありました。

その一方で、当時のカルタスあるいはアルトというのは、よく言えば堅実、そうでなければ地味な印象のある商品でした。そしてそれらは、若向き路線を邁進しつつあったダイハツとは対照的でもあったのです。

そんなスズキが、このショーで見せた2台の筆頭コンセプトカーは、それまでのイメージを一新させるものがありました。スズキも凄いのを出すなぁ、みたいな感があったのです。

ここで勢いをつけたスズキは、翌年にカルタスとアルト&フロンテを比較的大きなマイナーチェンジし、それぞれ1300ツインカムと660ツインカムを追加しています。さらに後者はワークスに続くこととなります。もっとも、このマイナーチェンジは、スポーティ一辺倒だけでなく一般的なグレードにも効果的な改良を加えるというものでしたね。


今こうして振り返ってみると、ショーの参考出品群は、市販化に至っても不思議ではなかった提案が多くて、卓越した企画力と冷静な判断力がスズキを構成していたことが分かります。そして、そのことは今でも変わらない伝統的な社風なのだと言えましょう。

日本の自動車メーカー全てが、もしも国外ばかりに目を向けてしまったら、などという仮定で思える国内市場というのは、誠にお寒いのだろうなと想像してしまうわけで、スズキのように世界に目を向けつつも国内の人々のことも大事にするメーカーはやはり必要なのだと改めて思ったりするのです。
2015年12月20日 イイね!

第26回東京モーターショー、ダイハツパンフレットの話

第26回東京モーターショー、ダイハツパンフレットの話年の瀬も押し迫りつつあって、年が明けると31年前となりますので、30年前のモーターショーのパンフレット話を急ぐことにします。

今回はダイハツ編です。

この年のダイハツは、年初のシャレードのマイナーチェンジと夏に行われたミラ/クオーレのフルモデルチェンジが大きな話題でした。

その他車種ももちろんあったのですが、モデル末期、あるいはトヨタとの共通モデルということから、どうしてもこの2車種が中心にならざるを得ませんでした。ショーの参考出品も、そんな状況を反映した内容となっています。

それでは、以下紹介していきます。



最初の見開きでは、サファリラリーでの活躍について書かれています。
この年に開催された第33回では、シャレードターボがグループA・クラス2(1301cc~1600cc)で1位・2位を独占。シャレード926ターボがグルプB・クラス5(1300cc以下)でクラス優勝を達成していたことがその理由。

このサファリラリー、グループAの優勝はレオーネ4WD、グループBの優勝はセリカツインカムターボということで、日本車が上位を独占していました。各社が優勝を謳った構図は、第1回の日本GPと同じですね(笑)。

ダットサン510の活躍&優勝、それを基に映画化された「栄光への5000キロ」などもあり、サファリラリーは過酷なラリーとして比較的知名度も高かったことから、国内の各社が力を入れたため、このような成果となりました。

改めてその内容を読んでみると「総合優勝、そんなものはモンスター・マシンに任せておけばいい」と業務提携先の現親会社ですら眼中にないかのような一線を画す物言いが素敵ですね(笑)





次の頁には、そんなダイハツが作ったモンスターマシンが参考出品車として掲載されています(笑)

その名も「シャレードDETOMASO 926R」。
シャレード926ターボのエンジンをDOHC化してミッドシップに搭載するというレイアウトは、グループ4時代のルノー5や当時のグループBマシンであるプジョー205ターボ16に影響されたであろうことが想像できます。

イタリア、DETOMASO社がチューンアップしたことから、各チューニングパーツはイタリア製で占められています。

ダイハツは、この前回のショーでDETOMASOターボを参考出品し、その翌年に市販化に至ったことから、これももしや・・・という期待がありました。

結局、グループB消滅の影響もあってか、市販化には至らずモータースポーツへの参戦もありませんでしたが、このエンジンは本来の993ccに戻され、次世代のシャレードGT-tiとして陽の目を見ることとなります。





こちらはモータースポーツとは遠く離れた提案であるTREK。

当時の軽自動車の規格内のサイズに一人乗りのオープンボディを成立させています。ハンドル・シート・ロールバー等を畳み込めばフルフラットになるというアイデアは面白いですが、おそらくホンダのモトコンポからヒントを得たのだろうなと推測するところです。

シャシーはアトレーベースだと思いますが、レイアウト的にエンジンの搭載は無理なんじゃないかなとも。

まぁ小難しい話は脇に置いておいて、楽しい使い方を想像するのが正しい受け取り方だと言える、参考出品車なのです(笑)





参考出品車が続きます。

上は、シャレードのディーゼルターボをベースにした「ELECTROシャレード-EX」。

エンジン制御とコンパス制御の各コンピュータと中央制御コンピュータを連携させて、センターコンソールのCRTディスプレイに表示させるというチャレンジです。現在では、OBD2に接続したレーダー探知機でほぼ網羅できる機能ですね。

地図表示機能は持ちませんが、シート制御コンピュータと連携してディスプレイからシートアジャストをさせようというのが、新鮮な試みです。もちろん、シートスイッチからの操作からの方が早いというのは禁句(笑)

この種の提案は、同時期の他社からも同様の機能を搭載したコンセプトカーが出品されていることからしても、サプライアー主導なのかもしれませんね。


左下は、アトレー・キャンパー

ルーフを上方に拡大できるようにして、上下2段のベットとするという作りは、マツダが後年実現したオートフリートップの先駆けながらも、マツダ自身含めて先例がありました。

もっとも、アトレーの特徴的な装備だった交流発電機と組み合わて軽自動車のサイズで提案したのが新鮮ではあります。


中下は、ミラ・カブリオレ

次で紹介する登場直後のTR-XXをベースにカブリオレを構築しています。
ホワイトのインテリアカラーとの組合せで解る通り、志向はあくまでも上品ですが、ラベンダーあるいはライトパープルに全塗装しての屋根切と書くと、趣がだいぶ変わってきます(笑)

当時のミラは、市販モデルの上級グレードにもロゼメタリックという、この領域のボディカラーの設定がありました。


右下は、電気自動車のBCX-5

高屋根にスライドドアを組み合わせて、乗降性の改善を図るというのは、現在のタントやウェイクに至る提案です。

元々ダイハツは電気自動車に熱心で、70年代初頭からモーターショーへの参考出品を繰り返していました。

ライト、ウィンカー、ホーン、ドアロックを音声でコントロールするというのは、実現性が薄い気がしますが、移動の自由を担保する存在として、この種のクルマは今でも必要ですね。





ショーの直前に発表されて、とても驚いた一台。
この年の軽自動車のトピックは、これとホンダトゥデイだったと今でも思います。

この年の8月に発表された2代目ミラターボは、40馬力台で競っていた軽自動車ターボ界に52馬力を掲げての登場。これと2速ATとの組合せが高く評価されていましたので、ハイパワーを余力とする方向に進むのかと思っていたら、スポーティグレードの真打が僅か2ヶ月で登場した形でした。

シャレードDETOMASOターボ風にドレスアップした装いは、前回のモーターショーでも、初代ミラをベースに童夢と組んでミラ ターボSとして参考出品されていたりします。前回は市販化に至りませんでしたので、ようやくという言い方もできそうです。

これだけの仕様が商業車(4ナンバー)の枠内で実現したというのが、当時の税制の歪みであり、この後も馬力規制が入るまで、過激になる一方のハイパワー競争が繰り広げられることになります。





裏表紙も参考出品車の掲載です。
それまでは、市販車も掲載されていたのですが、この回は市販車の掲載はありませんでした。

上は、ミラFIOEターボ
こちらはTR-XXをベースに電子制御燃料噴射装置を装着した仕様です。
ショーでは、カブリオレと共にターンテーブル上の展示とされていたようです。

TR-XX登場時点ではキャブターボでしたが、ハイパワーと厳しくなる一方の排ガス規制への適合を両立させるには、電子制御燃料噴射装置の進化は不可避でした。事実、この2年後には、TR-XX EFIとして市販化に至ることとなります。市販時にはトヨタの商標を借りて、”EFI”名を使いましたが、この時点ではFIOEと名付けられています。


下は、ラガー・ターボ・ソフトトップ
オーバーフェンダーを後付してワイドタイヤ&アルミホイールを収めた姿は、この後に登場するプリオールの原型と言えるかもしれません。

グリルガード&フォグランプ共々、この頃急速に市中に増えだしたクロカン4駆のドレスアップ仕様をメーカー自ら手掛けた形です。
残念ながら市販化には至りませんでしたが、完成度は高く、市販されていれば、結構人気を得られたように思います。


といったところで、いかがだったでしょうか。

この頃のダイハツは、926Rに見られるとおり、DETOMASO傘下のイノチェンティへのエンジン供給を契機として、イタリア指向を強めていました。
チューニングカーの方向性がいすゞのirmscherを筆頭にしてドイツに向かおうとする中で、ダイハツの動きはちょっと珍しいものだったように思います。

当のイタリア車は、特に大衆車の分野において、品質問題を根源とした低迷期にありました。そんな状況の中で、ダイハツは日産と共に救いの手となるのですが、アルファと日産の関係よりも、ダイハツとDETOMASOの関係の方がお互い上手くやった感がありますかね。少なくても、この年代のイタリア車を語る上では、この両社の技術を反映したモデルは欠かすことの出来ない存在です。

ダイハツの国内事情に話を戻すと、シャレードは相次ぐライバル車の参入にも関わらずの善戦、ミラは初代が好評でスズキに次ぐ2位メーカーに浮上ということで、中心2車種が共にメーカー想定以上の成功を収めていました。この2車種の健闘というのは、それまでどことなく野暮だったダイハツのイメージの刷新にも貢献していたのです。
ただ、この2車種の成功により、若者志向や贅沢志向を強めたダイハツは、この後、リーザや3代目シャレードで進み過ぎてしまい、厳しい戦いを強いられることにもなるのですが。

それにしても、こうして当時を改めて振り返ってみると、90年代後半以降のトヨタとの結び付きが深まる以前のモデルというのは、ダイハツの独自性が今よりも強く、方向性もトヨタとは違っていて、面白いものが多いように感じますね。
2015年12月07日 イイね!

第26回東京モーターショー、ホンダパンフレットの話

第26回東京モーターショー、ホンダパンフレットの話前回ブログから少し間が開きましたので、本題に入る前に諸事を先に記載。

先に掲載した通り、自車のバックランプをLED化しました。
これに関して、雑感を追記しておきます。
製品選択に際して、各社のHPをいろいろ確認したのですが、流行の商品らしく製品の改良が著しいことを感じました。今回選んだ商品もそうなのですが、単体での明るさよりもクルマ側のリフレクターを上手に使うことで明るさを確保するなんというのは、ユーザー側としてもありがたい改良です。
lm(光束)の数値の高いものは、W数もそれなりに高いというのにも、気付きまして、LEDに代われども、やはり数の力がものをいうのは変わらないようです(笑)


諸事もう一つ、先週、免許証の更新に行きまして、ようやくゴールドに回帰しました。
思い返せば、それまでの無事故無違反の継続(通算20年以上)を崩壊させたのが、5年程前になるわけで、元に戻すのは大変なんだなと改めて思います。もちろん、まだスタートラインに立てただけとも言えまして、今後も継続せねば、ですね。


諸事はこのくらいで、本題に入ります。
今回は30年前のモーターショー、ホンダ編です。

この回のホンダは、コンセプトカーの出品は見送るというのが特徴でした。メーカーからは、「最新技術は市販車に反映されているから、そちらで確認してくれ」というのが見解だったようです。
モーターショーをお祭りの一種と認識するなら、寂しい対応と言えるのですが、フルラインメーカーに急成長を遂げる中で、意欲的なモデルを連発していましたから、コンセプトカーの製作に回せる人手が無かったであろう事情を鑑みれば、仕方なしとも言えそうです。

この時期のホンダ車は、以前に2代目ビガーの他、ベルノ店のモデルはオプションカタログを中心に取り上げています。そちらと重なる部分もあるのですが、個人的に好きな車種が多いのでご容赦ください。
ホンダの長い歴史の中でも、特に好きな時期なのです。

それでは、以下紹介していきます。



この時期のホンダを語る上で、欠かせない言葉・・・という訳で最初に登場
するのは”F1”です。創業者である故本田宗一郎氏の「レースは走る実験室」という言葉を重ねられる方も多いと思います。

1983年にF1に復帰したホンダが頭角を現し始めたのがこの頃。この後、破竹の勢いで快進撃を続けることとなります。

右頁には、新世代ホンダテクノロジーということで、市販車のエンジンとサスペンションが紹介されています。

この時期のトヨタはDOHCを経て過給器の追加に、日産はSOHCターボを経てDOHC化にということで、共にツインカムターボに舵を切りつつありました。一方のホンダは、シティでターボに参戦したものの、それ以上は戦線を広げず、むしろNAの優位を強調していました。もう一つ、排ガス規制の初期から取り入れていたCVCCからの脱却もありましたね。

NAという共通項はあるものの、メカニズム自体は、DOHCとSOHC、4バルブと3バルブ、キャブとPGM-FIが車種やグレードに合わせて組み合わされていました。この辺りは、各々の長所が強調されるだけで、指針を定めずといった感がありましたね。

それは、アコードで4輪ダブルウィッシュボーンを構築して、今後はそれで行くのかと思いきや、レジェンドではリヤストラットをやってみたりしたサスペンションも同様でありました。(レジェンドは後期で4輪ダブルウィッシュボーンとなりますね)

その分、次は何で来るのか楽しみということでもあったのですが。





ショーの直前となる10月に登場したのが、ホンダの新たなるフラッグシップであるレジェンドです。

従来、クラウンとセドリック/グロリアがあらかた支配していた日本の高級車市場への挑戦、それはシビックから再スタートを切ったホンダが、上級市場に拡大を続けた象徴でもありました。

ボディサイズこそ5ナンバー枠が基準にありましたが、思想的には元祖「あの車とは違う」と言っていいと思います。クルマとしては初参入ということもあって荒削り感が強かったのですが、出たことだけでも評価できます。

このクルマや翌年のHCルーチェが登場していなかったら、Y31セドリック/グロリアが果たしてあの形で登場できたか怪しいと思っているのです。

また、ローバーとの提携で生まれたクルマとも言えます。この提携は、結局21世紀を迎えることもなく霧散してしまうのですが。





この年の6月に登場したのが、この3代目アコードでした。

それまでのアコードは1.6L&1.8Lを搭載するミドルセダンの中でも小さい方でしたが、主な輸出先である北米への対応もあって、1.8L&2.0Lを搭載するミドルセダンの中でも大きい方に成長しています。
もっとも、ボディサイズの拡大より何より、リトラクタブルライトを採用した低全高セダンという成り立ちが新鮮でした。

エアロデッキは、それまでのハッチバックが国内需要が低下しつつあったことを要因とする新たな市場喚起策でしたが、大きな成果は得られずで終わっています。国内専売という成り立ちからして、個人的には5ドアで問うていたらまた違った結果だったように思うのですが、これは仮定話に過ぎませんね。

ビガー含めて、数あるホンダ車の中でも屈指の好きなクルマです。
そんな思いは、以前にこちらで語っています。





ベルノ店の上級車2台です。

上は、当時流行の最先端にあったプレリュード。
登場以来、尻上がりに人気が加速したことで、中古車が殆ど値落ちしないクルマでもありました。
1.8系は、前年10月にマイナーチェンジ。マイナーチェンジ前はテールのセンターガーニシュが黒で、輸出用のリヤフォグ付き赤への換装がお約束でしたが、チェンジにより、リヤフォグレスながら赤に変更されています。

また、この年の6月には新たなるトップグレードとなる2.0Siを追加。
更にプレリュードの人気に拍車がかかります。セリカがFF化されて、この市場に挑むも、トップの座は揺るぎませんでした。
○プレリュードのオプションカタログはこちら


下は、アコードの兄弟車となるビガー。
先代はハッチバックも設定されていましたが、この世代ではセダンのみとなりました。
先代は、異形2灯のアコードに対して、SAE規格の角目4灯という違いがありましたが、より近い状態となっています。その分、差別化に苦労した印象もありまして、後にCAで追加される固定ライトをこの時点でどちらかに与えても良かったのではと思います。
○ビガーのオプションカタログはこちら




ベルノ店の取扱車種が続きます。

上は、まだクイント名が付いていた時代のインテグラ。
この年の2月に3ドアが登場して、10月に5ドアが追加されています。
シビックをベースとしながらも、強く傾斜したハッチゲートを備えたクーペライクな装いは好評で、ミドルクラスと所謂大衆車クラスの中間クラスとしては珍しく成功したクルマとなりました。

北米で新たな高級車ブランド、ACURAを展開した際のエントリーモデルにもなっていますね。
○クイント インテグラのオプションカタログはこちら


下は、CR-Xとセダンから成るバラードシリーズです。
CR-Xは1983年6月の登場で、セダンは同年9月の登場。共にこの年の9月にマイナーチェンジを受けて、それまでのセミリトラクタブルライトが固定式ライトに変更されています。

CR-Xは、元々ミニプレリュード的デートカーとしての性格が強かった(登場時のCMコピーは”デュエット・クルーザー”でした)のですが、Si追加以降は、シビック3ドア共々その身軽さを生かした、ライトウエイトスポーツの色彩を強めていきます。
○CR-Xのオプションカタログはこちら

セダンは、シビックをベースとしながら、BLとの提携で生まれた4ドアセダンでしたが、直後に本家のシビックにもセダンが登場したことから、この世代ではシビックセダンとの関係がより近くなります。
シビックに追加されたSiも最後まで追加されることはなく、大人しさが身上のセダンでした。結局この1年後には、インテグラに4ドアセダンが追加されることで、取って代わられることとなります。
○バラードセダンのオプションカタログはこちら





アコードと並ぶホンダの中心車種、シビックです。
この時点ではワンダーの名称で有名な3代目。
登場は1983年9月で、この年の9月にマイナーチェンジを受けています。

セダンはこのクラスらしいベーシックな成り立ち、シャトルは背高のワゴンボディを居住性に生かした意欲作でしたが、やはり3ドアの印象が強いですね。
それまではバンに見えるということで敬遠されていたロングルーフを採用したデザインは、それまでの同クラスの3ドア車を一気に置き去る魅力にあふれていました。さらにその勢いを加速させたのがSiで、その速さが人気の要因に加わります。人気を博したことで、この後のシビックは、しばらくの間このSiで見せた方向性を邁進することとなります。

4ドアの人気が確立するのも、”フェリオ”というサブネームを与えられてパーソナル性を強めたこの2世代後というのも、そのことの裏付けだと思うのです。

シャトルはその方向性とは親和性が低くて、意欲作ながらも、徐々にフェードアウトしていってしまいます。もう少し上手く育てられていれば、後に誕生するクリエイティブムーバーの一角を占めていた気もしますけれどね。





ベーシックモデル2台です。

左は、シティ。
1981年10月に登場。その出で立ちは一世を風靡しましたが、その後、1982年9月のターボ、1983年10月のターボII、1984年7月のカブリオレと次々に刺激的なモデルを追加していきます。その反面、ベースモデルの影が薄くなってしまった印象は拭えません。
この年はそれに対応するかのように、3月に経済性を重視したEIII、4月にハイパーシフトをそれぞれ追加といった具合で、ベースモデルへのテコ入れが行われました。

プレリュード以降、シャトル以外は低全高に進路を定めたホンダの中では異端児になりつつあったのも事実で、翌年に登場する2代目は低全高に180度の方向転換が行われることになります。


右は、ライフの生産中止以降、ボンバンで久方ぶりに軽自動車界への復帰が話題となったトゥデイ。
シティに影響されるかのように、車高が高くなりつつあった軽自動車界でしたが、当のホンダはそれに反旗を翻すかのように低全高での参戦となりました。
3気筒に主流を移しつつあった中、アクティ譲りの2気筒は時代に外れつつありましたが、それを問題にしないくらい、低全高から成るそのスタイリングはとても魅力的で、今昔含めた国産車全体の中でもグッドルッキンの一台だと思います。その中でもこの丸目初期モデルが一番、というのが個人的印象です。





商業車シリーズです。

左の小型商業車の方では、プロというネーミングがされていました。
シャトル転じた、シビック・プロとシティ・プロ、こうして並べると兄弟車のように映るのが不思議です。プロだけでも、初代シティを並存できたのではと思ったりします。軽商業車と違って、小型商業車は1年車検となるのが敬遠されていましたので、スターレットバン共々、4ナンバーの3ドアは販売が難しかったのも事実ですが。


右はアクティ。
フロントマスクこそ一新されていますが、唯一この6年前から世代交代がなかったモデルです。
新規格の中では登場が早かったモデルのため、ライバル車の更新が続く中では競争力の維持が難しく、この3年後にモデルチェンジを受けることとなります。





裏表紙は、販売チャンネル別の取扱車種が並べられています。
このショーとほぼ時を同じくして、従来のホンダ店をプリモ店とクリオ店に分けることで、先行したベルノ店との3系列体制になることが発表されました。
拡大に次ぐ拡大で進んできたホンダですが、3系列体制の構築は容易ではなく、プリモ店とクリオ店の扱い車種はアコードとシビックがクロスする形で、上方と下方に伸ばされています。
徐々に兄弟車を揃えていくことで、3系列体制を何とか維持していきますが、結局この約20年後には、系列統合を選ぶこととなります。
今になって振り返ると、レジェンドをベルノ店に送って2系列で進むのが正解だったのではと思ったりします。全車種を扱うというメリットがある一方で、高級車と軽自動車の並立に苦心している状況を見るに、何かと一長一短があるのが、系列問題ですね。


ということでいかがだったでしょうか。
最後の系列問題は、やや蛇足気味でしたが、こうして各車種を並べてみると、兄弟車以外は車種間競合もなく、キャラクターの立ったクルマが揃っていたと改めて思います。

キャラクター確立期の初期モデルらしく、長所と短所が明確なモデル達でしたが、だからこそその成り立ちが魅力的に感じられます。クルマとしての実力としてなら、プレリュード、アコード、シビック、その他を含めて、この次の世代の方が高いであろうことは間違いないのですが、やはり時代の寵児はこの世代のクルマたちだと思うのです。

誤解を招くかもしれませんが、記念碑的に印象に残るクルマというのは、多少の実力差よりもキャラクターの強さの方が勝ることが多いですね。


もう一つ、79年のモーターショー編(リンクはこちら)で触れたとおり、僅か6年でここまで車種展開が広がったことも特筆すべきでしょう。
6年前の乗用車は、アコード・シビック・プレリュードの3車種に過ぎなかったのですが、この時点ではフルラインナップですからね。
会社の規模からしたら、これは正しく急成長だったと言えます。この年の各モデルの手の入れ方からしても、コンセプトカーまで手が回らなかったのだろうという、最初の推定に至ることとなるのです。

プロフィール

「12年目の1年点検に入庫 http://cvw.jp/b/1984303/48573850/
何シテル?   07/31 22:03
3台計で20年以上の長きに渡って乗り続けたX80系からW204への代替がみんカラを始める動機となりました。 最初はW204関連を主とするはずだったのですが...
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