あれはいつも通りの仕事をこなし、もう少しで午後の3時休憩になろうという時のこと。
2年前の3月11日。時間にして14時46分。
突然の揺れに、結構大きい地震である事は認識したものの、その時は恐らく「いつものようにすぐ治まるだろう」と誰しもが思っていたであろう、それ。
しかし止む気配がないどころか、ますます強さを増している気配。
消える明かり。
遠くで何かが倒れる音。
崩れ落ちる壁。
これは何かおかしい。
そう感じた瞬間、どこからともなく聞こえた「ダメだ、みんな逃げろ!」の声。
出口に向かうと目に入ったのは、恐らく人が乗ろうとビクともしないであろう玄関口の屋根が、まるでペラペラのアクリル板のごとくグワングワンとしなる異様な光景。
そして怖いながらも、そこを通らなければ出られないとあって、意を決して外へ走るみんなの後ろ姿でした。
外へ出てみると、まだ揺れは続いているものの、いくぶんかは穏やかになったような雰囲気と、グループごとの点呼で全員無事な様子に安堵する一同。
とても仕事を続けられる状態ではなかったため、当日はその場で解散という事になったのですが、恐る恐る荷物を取りに戻ってみると、体当たりしようがビクともしないような1トン以上ある製品が動いていた事が、その揺れの大きさを物語っていました。
とは言え、過去に経験した中で一番大きいであろう事は感じたものの、この時はまだ「きっと工場近辺だけが停電しているんだろう」と思っていたのも事実でして・・。
まだ時おり揺れている気がするなか駐車場を出ると渋滞していたのですが、一度に帰宅が重なったためだろう・・というのが思い違いであるとわかったのは、交差点に差し掛かった瞬間でした。
そう、信号が動いていなかったのです。
そのことで付近一帯が停電しているのだと認識し、事態の大きさを徐々に感じ始めたのでした。
これがのちに「東日本大震災」と呼ばれる事柄の始まりだった訳です。
何とか家に着き、家族が全員無事だった事にホッとして家の中を見回してみると、まずダメだろうと思った食器棚などがまったく無事で、倒れやすそうな液晶テレビも落ちずにそのままだったとか。
結局被害は、自分の部屋に積み上げたモノが崩れたとか(^^;、壁のクロスや駐車場のコンクリートにヒビが入ったという程度で済み、思い出してみれば横にグラグラというよりも、縦に波打っているような感じだった記憶がありますので、揺れの質によるものだったのかなぁと。
うちの辺りも停電でしたが、電気が止まっているはずの部屋が暖かかったのは、引っ越す時に「何かの時に役立つだろう」と、母が捨てずに取っておいた石油ストーブがあったためでした。
地区によっては水道が止まったとも聞きましたが、うちの辺りは水道が無事で水に不自由しなかったのと、電化せずガスコンロだったため煮炊きが出来たことなど、だいぶ恵まれていたと思います。
あとで聞いたらオール電化の家は相当苦労されたそうで、当時は携帯のガスコンロなどがあっと言う間に売り場から消えたとか。
停電ゆえに唯一の情報源は車のラジオだったのですが、帰宅の車内ではまだ起きたばかりで情報が錯綜していた状況で、ここで改めて知ることになったのは、県内全域が停電しているということ。
そして沿岸にとんでもない津波が襲ったという事実でした・・。
当日はかろうじて営業していたコンビニで買い出ししたのですが、さすがにインスタント食品はだいぶ姿を消しており、普段手にする事も少ない高級な部類のカップラーメンすらも残り少ない状態で、とりあえず残っていたカップラーメンを何個かと、袋菓子をいくつか買って帰宅。
いつもは時間がバラバラで顔を合わせての食事も少なく、久しぶりの団欒がこういう時というのもちょっと複雑ながらも、ロウソクの明かりに照らされる室内に、どこか暖かさを感じたものでした。
そして津波の被害は無かった内陸ながらも、いつにも増して聞こえてくるサイレンの音が、ただならぬ状況である事をより一層強めていたような気がします。
翌日以降も停電は続き、つながったりつながらなかったりの携帯も、いざと言う時のために車で少し充電しておいたのですが、そんな中「ようやくつながりましたね~」と連絡をくれた同僚から聞いたのは、会社は目処が立つまで休業という話しでした。
そんな訳でしばらく自宅待機ということになったのですが、家にいるにも電気が使えないというのは本当に何も出来ないものでして、普段いかに電気に頼っているかというのを痛感・・。
とは言え、じっとしているのも何か落ち着かず、付近を自転車で見て回ることにしたのですが、信号が止まっているとあって車の姿は殆ど見かけず、閑散とした風景を見ていると、あたかも世界に自分しか存在していないような錯覚に陥ったものでした。
そんな中、近くのスーパーは「こんな時だからこそ」と、手書きで値段をメモしては電卓で会計するという方法で営業を続け、あれが地域の人の支えになった事は言うまでもなかったでしょう。
もちろん夜になれば一面真っ暗ですから、日が暮れるとともに布団に入り、外が明るくなったら起きるという生活が続き、あれは13日を過ぎた14日の真夜中のこと。
何か物音が聞こえた気がして起き上がってみると、真っ暗な部屋の中にポツンと見えた明かり。
それはついに電気が復旧し、電化製品が放った音と光だったのです!。
しかしその喜びとは逆に、今までラジオでしか聞く事の無かった沿岸の状況を目の当たりにしたのもこの時で、これが本当に県内で起こっている事実なのか?と、信じられない気持ちにもなりました。
電気が復旧したことで、少しずつ街にも人の気配が戻ってきたようにも思いましたが、まだ物流はストップしている状態。その後訪れたのは一部の食品不足とそして・・そう、ガソリン不足。
その時スイスポに残されたガソリンは半分を切っており、通勤で4~5回走れるかどうかという状態。
16日から勤務先が再開したものの、出社しようにもガソリンが無くて来られないという人が徐々に増え、同じ方向の方が乗り合いで出社するケースもあったようです。
自分は幸い、自転車と復旧した電車を利用して通勤出来ましたが、車じゃないとアクセス出来ない人などは、半日並んでようやく1000円分給油したとか、そんな苦労話が後を絶たない状況でしたね。
なので足が確保出来る自分は、思う所もありスタンドに並ぶことはしませんでしたが、代わりに自転車の走行を快適にしようと、タイヤを交換してみたりしていました。

そういえば当時、ガソリン不足で自転車が飛ぶように売れたそうですが、この時ばかりは普段自転車で走っていたのが役に立ったかなぁ・・と。
その後、スイスポに給油出来たのは4月に入ってすぐのことでしたが、あの時「東北に燃料を」と疾走するタンクローリーの一団を見た時は、本当に胸が熱くなったものでした。
ガソリン不足が解消した頃からは、沿岸のように甚大な被害が無かった内陸はだいぶ普段の生活が戻りつつありましたが、同時に感じ始めていたこと。
自分には帰る家も車もあれば、仕事もある。家族も無事。
確かに停電や物資の不足は体験したとはいえ、そう、何も失っていないのです。
それ故、客観的にみれば被災県にあるとしても、被災者という意識はすでに無くなっていたのも事実でした。
そして、あれから2年。
同県にあるお友だちの紺之介さんもおっしゃっていましたが、普通に暮らしている自分が、今になってあれこれ語ることが果たしてどうなのか・・という気持ちと、その反面、今だから・・という気持ち。
何よりあれだけの事を目の当たりにしていながらも、どこか薄れつつある当時感じたことや想いを、誰にというのではなく、自分自身に宛てた独り言・・と受け取って頂ければ幸いです。
長々と乱文にお付き合い下さいまして、ありがとうございました。m(__)m