チームクニミツの設立30周年を記念してサンエイムック社から「国光 THE RACER」が出版されました。
私は1995年のルマンにチームクニミツがNSXで参戦したときにその走りをカメラに収めることが出来、2008年その写真に国光さんのサインをして頂きました。
また2006年には LOLA CARS を訪問しホンダF1 RA300 を組み立てたファブリケーターの方と面談をしたときに1995年のNSXも LOLA CARS で森脇さん達が仕上げを行ったのを手伝ったということを教えて頂き、1967年の RA300 はイタリアに送られ F1 GP に優勝し、1995年の NSX はフランスに送られ ルマンでクラス優勝を勝ち取ったという不思議な縁を感じました。
そして本題の高橋国光さんの講演会です、2005年に開催され私は最前列の席に座り国光さんの顔を見つめて話を聞きました。
国光さんは大勢の人前で話をするのが苦手だということで話が時々途切れてしまう事もありましたが誠実さがあふれた講演で私はメモ書きをして記録を残していましたのでここで紹介させていただきます。
聞き間違いもあるかと思いますので内容に誤りがあればご容赦ください、また文中では敬称を略させていただきました。
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高橋国光は昭和15年(1940) 1月、東京の調布飛行場の近くで自転車店などの事業を営む一家の三男として生まれました。戦時中ということで幼いころに調布飛行場の空襲を二階の窓から眺めていた記憶があるそうです。
母親は教育熱心で塾に通ったり家庭教師がいたこともあったようですが、本人は勉強があまり好きでなかったので成績はあまりよくなかったそうです、唯一絵を描くのが得意でコンテストでは必ず入賞をしていたということです。将来は画家になりたいと思い美術学校への進学を考えましたが、画家で生計を立てていくのが大変な事や受験勉強が大変であるという理由から画家への道はあきらめました。
父親は自転車店を将来は自動車整備の事業にしようと国光をオートバイ店の丁稚奉公に出した。
そこでは朝6時半起床 夜12時就寝の毎日で、部品の仕入れやボーリング屋への持ち込みなど自転車で走り回る毎日だったそうです、それが強靭な足腰を育て後にオートバイレースで強みを発揮したということです。
2年間の奉公を終え自動車整備学校に入学、3級整備士の資格をとりました。
国光がはじめてオートバイを運転したのは免許を取得する前で運転中に犬を跳ねて転倒してしまい親父に「バイクを乗るのは未だ早い」と言われましたが、丁稚奉公を終えたごほうびにBSAのバイクを買ってもらい箱根や日光に走りに行っていたそうです。その後、浅間火山レースにアマチュアレーサーとして参加し幸運にも当時のBSAインポーターのサポートでBSAの350cc を借りることができ、レース前日はインポーターの社長の軽井沢にある別荘に宿泊していたのですが、当日の朝雨が降っていたので国光はレースが行われないと思い寝ていたところ、電話で早くレース場に来なさいと呼び出しがあり慌ててレース場まで走っていった、これが幸いし十分過ぎるウォーミングアップで他者を圧倒する走りができて総合3位という成績をのこしこれがホンダワークス(HSC:ホンダスポーツクラブ)に見込まれ北野元と一緒に本田技術研究所に入社し社員レーサーとなった。
白子にある研究所に実家から通勤することになった国光は始めての電車通勤になったが中央線で新宿、山の手線で池袋、東上線で成増と乗り換えで時間がかかり初日から30分も遅刻してしまい、その後スバルを購入し車で通勤することとなった。
当時のホンダのテストコースは荒川にある直線とヘアピンのみのコースではじめてのテスト走行の時、本田社長の前での走行ということで勇んでアクセルを開け加速していったがヘアピンで減速できずそのままコースをはずれ畑に突っ込んでしまい軽傷を負ってしまった。当時課長だった河島(元社長)の運転で実家までおくってもらい両親に対して怪我をさせてしまい申し訳ないといの言葉をいただいた。 転倒の原因は国光の前に走行したRSCのエースライダー谷口尚己が走行しているのをみて減速ポイントを決めたのだが、初めての走行となる国光にとっては相当無理のある減速ポイントだった、なおかつ自身の愛車BSAは単気筒ロングストロークでエンジンブレーキの利きも良かったのに対し、ホンダのエンジンは2気筒高回転でエンジンブレーキの利きはよくなかったという要因もあった。
ともあれ晴れてワークスライダーとなった国光は憧れのHSCのレーシングスーツとヘルメットを身につけレースへの参加を果たすことができた。
当時のレース課には宗一郎もよく顔をだして下ネタを話していたようで国光をはじめ若い社員はそんな話を興味津々できいていた。 因みにHSCのヘルメットは白地に赤のストライプ2本の真ん中に横棒が入りHマークになっていたが頭の中身もHだった様だ(ここは私の感想)。
転倒での怪我の為、欧州GPには第2陣での遠征となった初戦はドイツの公道サーキットで一周9km、現地に到着してべスパに乗ってコースを下見、何周も回るが公道なのでライン取りの練習は出来ずレースに臨む事となった。
結果は大観衆の目の前の高速コーナーでアウトから3台連続で抜かれてしまうとゆう内容で日本ではトップレーサーであるというプライドを傷つけられ、当時の日本とヨーロッパの大きな差を痛感した。国光はレーサーの技術の差のみならず道路事情、衣食住の環境にも当てはまるという印象を受けたが、同チームの田中健二郎は3位に入賞していたので自分の未熟さと健二郎のレベルの高さをも思い知らされた。
ところがその田中健二郎は北アイルランドのレースで転倒をして大怪我をしてしまった。
ドイツのデビュー戦でもチームの外人レーサーが転倒し死亡してしまったこともあり国光はレースの怖さを痛感することとなった。
そしてついに1962年ホッケンハイムでのドイツGP250ccクラスでの優勝をかざることとなり日本人初のGP優勝という歴史的快挙を成し遂げた。その瞬間は本人はあまり実感がなかったが表彰台の上から河島監督が涙をながして喜んでいるのをみて大いに感激をした。
優勝の実感がなかった事の理由としてホッケンハイムのコースが単純なオーバルで体重が10kgほど軽かった国光が有利であったこととチーム内の外人選手が日本人に優勝を譲ってもらったようにも感じテクニックで勝った実感がなかったからであった。
ともあれ優勝は優勝でそれ以後はGPレーサーの中でもトップクラスのレーサーの仲間に入ることが出来るようになり、クレルモンフェランの雨のレースではダントツの優勝を飾ることができ、ますます自信を深めることになった。ところがこれが落とし穴でその後のマン島TTレースで予選トップでの決勝レースの一周目スタートから4km先(一周は約60km)のコーナーで転倒し大怪我をしてしまった。マン島の病院に入院し10日後に意識を回復した時に目の前にいたのは日本から急遽渡英してきた父親だった。
その後、日本では船橋、鈴鹿とサーキットが完成し本格的な4輪の自動車レース行われるようになり国内の自動車メーカーも本腰をいれたレース活動が始まりホンダの社員レーサーであった、田中健二郎、北野元、高橋国光の3人がそろって日産自動車の契約ドライバーとなった。
因みにこの転籍は日産チームの難波とホンダの河島との間で相談した結果の事だった。
国光のレースに対しての信念は一つ一つのコーナーを限界で走ることで初めてマシンの性能が判り、うまくセッティングができる、限界を攻めなければマシンの性能は判らない。
レースでは一つ一つのコーナーを限界で走り続けることで一瞬も気を抜かないこと、この気持ちは人生の信念でもある。
以上
Posted at 2022/02/23 19:15:25 | |
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