秋田魁新報 2015年10月18日(日)掲載された1面 コラム『内館牧子明日も花まるっ!』を紙面より転載します。
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内館牧子の『明日も花まるっ!』
「陽が当らなくても」
このところずっと、私の自宅の電話がよく鳴ることよく鳴ること。みんな女友達やその娘たちからで、用件は全部同じである。
「ラグビーのルール、わかりやすく教えて」
まったく、ワールドカップの前までは、ラグビーなんて何の関心もなかった上に、試合を見に行く私に、
「あなたって肉体派の男が好きよね。趣味ワルッ」
と言っていた女友達全員がこの掌返(てのひらがえ)しである。
若い娘たちも全員が掌返しで、同じことを言う。
「今までアタシが見ていた男たちと、全然違うんですよ、ラガーマンって。今までの男って、やっぱりお肌の手入れとかして、細身で筋肉とかなくてもおいしいレストランとかよく知って…みたいな。ワールドカップ見て、やっぱ男はこうでなきゃってか」
ほう、やっとわかったか。
私は大学時代、体育会ラグビー部のマネージャーだった。といっても、武蔵野美大なので早稲田や明治を思い浮かべないでほしい。それでも東京芸大、多摩美、東京造形大、日大芸術学部の5美大リーグがあり、私は授業よりマネージャー業に忙殺されていた。
昔から、私は肉体だけを武器に使う男が好きだ。体中を傷だらけにして、時には重傷を負ってまでして、格闘する。何の得にもならないことを、必死にやる男たちに、男の原点を見るような気がしたものだ、弱小チームであってもだ。
そして20年ほど前、由利工業の現会長須田精一さんが、瀬下和夫さんを紹介してくれた。ご存じのとおり瀬下さんは秋田が生んだ最高のラガーマンである。秋田工業高校から明治大学に進み、日本代表選手だ。明大の主将であり、重量級フォワードのナンバーエイト。今でも、1980年代のナンバーエイトでは日本トップといる声がある。
私はそれまで明治のラガーマンを試合会場以外では見たこともなく、ナマ瀬下と言葉を交わした時は、興奮のあまり酸欠状態になったほどである。
その後、瀬下さんが秋田で、新日鉄釜石の松尾雄治さんを紹介してくれた。あの時はもう、酸欠を通り越して失神しそうだった。
弱小チームであっても、ラグビーはきつい。当然ながら、明治や早稲田や、全日本の選手たちのトレーニングと追い込まれ方は、絶対に人間が可能な範囲を超えている。それも、ラグビーは今回のワールドカップまで、本当に陽の当らなかったのだ。むろん、コアなファンはいるが、人気のある他球技に比べ、関心を持つ人は非常に少なかった。
陽が当たる兆しもない上、ラグビー人口は減る一方。いわば先細りなのに、全日本の選手たちは人間離れしたトレーニングに耐えた。
私は優勝候補の南アフリカに日本が勝利した瞬間、泣いた。何らの光も約束されない中、何をよりどころに耐えたのか。心の強さも、人間離れしている。
もしかしたら、これがラグビー魂なのかもしれない。今でこそ、瀬下さんが経営する瀬下建設工業は、秋田市を拠点に全国の有名ホテルやレストラン、図書館や結婚式場などの新築・大規模改築を手がけている。だが、最初の発注は、「犬小屋」だった。
今後に大きな仕事が約束されてもおらず、光のアテもない中、きっと懸命に身を粉にしたことが、今をもたらしたのだろう。
そう思うと、ラグビーとラガーマンの実直な生き方は、私たちに力を与える。
今回の勝利は、秋田ノーザンブレッツラグビーフットボールチームにも、必ずいい影響をもたらそう。
武蔵美のラグビー部室には「楽苦備」という落書きが今も残っているそうだ。
(脚本家、秋田市出身)
<毎月第1、第3日曜日に掲載>
以上、転載、了
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内館牧子さんを、ご存じでしょうか。
出典
wikipedia
秋田県秋田市(土崎)生まれ。父親は岩手県盛岡市、母親は秋田市出身。日本冷蔵(ニチレイ)に勤めていた父の転勤で、四歳から新潟県、小学校3年からは東京都大田区で育った。幼い頃はいじめられっこであったが
自身を助けてくれた男の子が大きな体を持っていたことから、体の大きな男の子は優しいのだという意識が刷り込まれたといい、これが
大相撲に興味を持つきっかけとなったという。東京都立田園調布高等学校を経て、1970年(昭和45年)、
武蔵野美術大学造形学部基礎デザイン学科卒。その後は
三菱重工業に入社して横浜製作所に勤務、同所硬式野球部でマネージャーも務めた。1987年脚本家デビュー。当初は岸牧子の筆名で活動。代表作に、
NHK連続テレビ小説『ひらり』、
『私の青空』、
大河ドラマ『毛利元就』などがある。
大の格闘技ファン、特に好角家であることが知られ、
2000年8月に女性初の大相撲・日本相撲協会の横綱審議委員に就任。東京で行われる場所は10日は会場に足を運んだ。その他プロレスにも造詣が深く2011年現在東京スポーツ催のプロレス大賞で特別審査委員も務めている。[5]。2003年、東北大学大学院文学研究科修士課程の社会人特別選抜を受験し合格。人間科学専攻(宗教学)へ入学し『神事としてみた相撲』を研究テーマに宗教学を専攻。2006年修了。(修士 (宗教学))
2000年に大阪府知事に就任した太田房江が、大相撲大阪場所での大阪府知事賞の贈呈を土俵上でと希望したことを、日本相撲協会が相撲女人禁制の伝統を理由に拒否したことに関しては、一貫して協会側を支持。2006年、修士論文を『女はなぜ土俵にあがれないのか』として刊行。宗教的儀式としての相撲の歴史と伝統を検討した上で、文化論争を抜きに、
伝統の世界に男女共同参画の観点を安易に持ち込む風潮に疑問を呈した。また、スーパーフリー事件や京都教育大学の男子学生による女子学生への集団暴行事件について、被害に遭った女子学生を非難する論調も目立つ。
2005年より
東北大学相撲部監督に招聘。2006年より秋田経済法科大学(現・ノースアジア大学)客員教授。2007年より武蔵野美術大学映像学科客員教授としてシナリオ制作の実習授業を担当。2011年4月東日本大震災復興構想会議委員に就任。なお近年は週刊誌の連載コラムやインタビューなどが主な仕事となっている。
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女性唯一の横綱審議委員
2000年9月、当時の時津風理事長(元大関・豊山)の任命により、女性唯一となる横綱審議委員会のメンバーとして約10年間活動した。
2002年1月場所前(同年1月7日)に行われた大相撲稽古総見の際、第67代横綱・武蔵丸が左手首の故障を理由に当日総見を欠席するも、数日前にプロレス・ラグビー観戦をしていたことに対し、「社会人として最低。あんな横綱に優勝して欲しくない」などと厳しく非難。その件がきっかけとなって「横審の魔女」の異名を冠するようになった。
2003年1月場所後、第68代横綱・朝青龍の昇進には関しては、「成績は申し分ないが、品格の面で問題有り」と反対の意見を述べていた。その後も朝青龍の常識外れの行動・言動についてその都度猛批判しており、「朝青龍の天敵」としてマスコミに大きく取り上げられていた。もっとも、私的な立場としては「私はプロのスポーツ選手として朝青龍をすごく認めますし、超が3つつくほど好き」「アスリートとしては、150%好き」と好意をよせていた。しかし普段の辛口のコメントについては
「でも大相撲には相撲道の精神がある。それを無視し続けていた朝青龍と、ビシッとした態度を全く取らない師匠(高砂親方=元・大関朝潮)がいるから、私は毎回鬼のように怒らなきゃならなかった」「私自身朝青龍に対して、『横綱』としては一切認めていない」などと報道陣に述べた経緯がある。
2008年12月、心臓弁膜症で倒れ緊急入院・手術のため約4か月間治療に専念。翌2009年4月29日の大相撲稽古総見で復帰の際、朝青龍の方から内館に近寄り「先生大丈夫ですか?心配しましたよ」と語りながら笑顔でハグされると、内館も思わず笑みを返す場面があった。その後内館は、記者陣に対し「(朝青龍は)まるで(豊臣)秀吉みたいな『人誑(たら)し』だわ。『天敵』の私を喜ばせるんだから」と皮肉交じりにコメントしている。
2010年1月25日をもって、横綱審議委員としての任期を満了した。同日最後となる横綱審議委員会の席で内館は、1月場所中の1月16日に泥酔暴行騒動を起こした朝青龍に対して「日本相撲協会は余りにも朝青龍に甘過ぎる。今回も『厳重注意』で済む問題じゃない。普通の企業なら間違いなくクビ、又次に何かやったら『引退勧告』すべきですよ」と苦言を呈している。しかし数日後、朝青龍が暴行した相手は当初報道された個人マネージャーではなく、一般人だった事が発覚。内館の横審委員退任から僅か10日後の同年2月4日、朝青龍は度重なるトラブルに責任を取る形で、突如現役引退を表明した。その際に内館は「朝青龍が自ら引退したことはベストの選択だったと思う。今後は日本であれ外国であれ、その国と業界及びその仕事に対し、敬意を払うことを忘れないでほしい」等とコメントを述べている。
なお2011年3月の本場所中止の要因となった大相撲八百長問題に関しては、「全く知らなかった」「夢にも思わなかった」と言う立場を貫いている。
主な作品
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映画
『BU・SU』(1988年)
『REX 恐竜物語』(1993年)
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テレビドラマ
『
特捜最前線』(テレビ朝日)原案。岸牧子名義
シャムスンと呼ばれた女!(1981年)
殺人クイズ招待状!(1982年)
『
想い出にかわるまで』(1990年、TBS)
東芝日曜劇場『
切ないOLのために』(1990年、中部日本放送)
『
クリスマスイブ』(1990年、TBS)
『
あしたがあるから』(1991年、TBS)
連続テレビ小説『ひらり』(1992年 - 1993年、NHK)
『
都合のいい女』(1993年、フジテレビ)
大河ドラマ『毛利元就』(1997年、NHK)
『
愛しすぎなくてよかった』(1998年、テレビ朝日)
『
週末婚』(1999年、TBS)
連続テレビ小説『私の青空』(2000年、NHK)
『
年下の男』(2003年、TBS)
金曜時代劇『
転がしお銀 父娘あだ討ち江戸日記』(2003年、NHK)
『
白虎隊』(2007年、テレビ朝日)
『
塀の中の中学校』(2010年、TBS)
『
エイジハラスメント』(2015年、テレビ朝日)
※他にも多数。
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舞台
『
ミュージカル 小野小町』(2007年、わらび座)
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著書
『
切ないOLに捧ぐ』徳間書店 1992 のち講談社文庫
↑ かつて、こんなに涙が出るほど笑いながら読んだエッセイはなかった。三菱重工OL時代の可笑しくも切ない葛藤と笑いの日々に、感心したり共感したり…。
内館牧子さんて、天然記念物クラスのスゴく素敵な方♡。なんてまっすぐで、ユニークで男気があってチャーミングなのって、惚れて、でも、…やっぱり笑っちゃう!
今でも枕元に置いて、ときどき手にとっては、爆笑してますww
『
心に愛唇に毒』秋田魁新報社・さきがけ文庫 2012
『
続 心に愛唇に毒』秋田魁新報社 さきがけ文庫、2015年
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連載
週刊朝日『暖簾にひじ鉄』
週刊プロレス『プロレスラー美男子列伝』
将棋世界『内館牧子の上達日記』(現在休載中)
将棋世界『月夜の駒音』
読売新聞宮城県版 『内館牧子の仙台だより』(2003年5月28日-)
↓ ちょっと、ウィキ、抜けてるわよ!
秋田魁新報『
内館牧子の明日も花まるっ!』(2007年4月-)<毎月第1、第3日曜日に掲載>
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内館牧子さんのエッセーにも度々登場するのが、同じ脚本家仲間の「井沢 満」さん。
NHKの若手脚本家を養成するメンバーにOL時代の内館さん共に同時に選ばれた井沢さん。
性格も、脚本の書き方も全く違いながらも、お互いに惹かれあい、今でも仲良しのお二人。
井沢さんのブログにも、内館さんとお食事に行った日記など登場します。
私も、お二人の大ファンです♪
お相撲さんが大好きで、格闘技ファン、学生時代はラグビー部のマネージャーだったことを存じ上げていたので、内館さんが今回のラグビー・ワールドカップをどんなに熱い眼差しで応援しているのか・・・。
隔週日曜日のお楽しみ『内館牧子の明日も花まるっ!』を読むと、想像していた通りラグビーが登場。胸がいっぱいになる内容でした!
♪♪♪゛
本日は、水曜日。
「マツコ&有吉の怒り新党」「新・3大〇〇調査会」もありますが、すぐあとの10月29日(木) 午前0:10~午前0:40(30分)、楽しみにしている番組があります。
NEXT 未来のために「ジャパンウェイ~ラグビー日本代表 戦いの舞台裏~」
<番組内容>
ラグビーW杯で3勝をあげた日本代表。快進撃の背景には、エディーヘッドコーチが、ジャパンウェイと名付けた戦略がある。独自の映像とインタビューで戦いの舞台裏に迫る。
<詳細>
ラグビーW杯で強豪国を次々と倒し、3勝をあげたエディー・ジャパン。快進撃の背景には、指揮官が「ジャパンウェイ」と名付けた独自の戦略がある。体が小さい日本人の特性を生かしたプレー、戦いに臨む心の準備をするメンタルトレーニングを徹底したのだ。番組では、独自の映像とインタビューをもとに、日本代表の戦いの舞台裏に密着。エディーヘッドコーチと選手たちの思いに迫る。
<3位決定戦 南アフリカ代表 対 アルゼンチン代表>(30日)
<決勝戦 ニュージーランド代表 対 オーストラリア代表>(31日)
いよいよ、今週末に迫った、三位決定戦と決勝を見る前に、もう一度、日本代表選手の闘いの軌跡と背景にふれて、感動に浸りたいと思います。