日本を弱体化し、日本を中韓にさし出そうとしている反日売国奴のドン。
皇室や日本の伝統を崇敬せず、恥ずかし気もなく、分を弁えずに、自分は皇族きどり。
それが、小和田雅子さん(皇太子妃)の実父、小和田恒氏です。
小和田恒氏をご存知ですか?【反日左翼売国奴】
「あの日韓W杯の黒幕」小和田恒氏の、素敵すぎるエピソード(棒)
につづく、第三弾。
びっくり仰天エピソードにつづき、
小和田氏とはどんな人物なのか画像を見るだけで納得してしまう、
空いた口がふさがらない、びっくり仰天写真をご紹介します。
エピソードⅧ 中国側が天安門事件のマイナスイメージを払拭するために「両陛下を政治利用」した'92年の両陛下訪中時の外務事務次官。まさに、中国の犬。
■テーミス2009年3月号
小和田恒氏の国連司法裁判所所長就任について
就任時の小和田会見
「背景には日本という国に対する国際社会の信頼があってのことだと思う。
日本の名を恥ずかしめないように仕事をしていきたい。」
外務省は“歓迎”よりも“困惑”
困惑の理由として外務省幹部の発言
小和田氏が所長として推されてもおかしくないだけの実績を持っているし、それまでの経歴も申し分ない。
しかし、その輝かしい経歴に“皇太子妃の父”という肩書きが加わると、
外務省の範疇をはるかに越えた存在になってしまう。そのことを本人がよく分かっていないようだ。
小和田氏はむしろ皇太子妃の父親という立場を利用することが日本の国益につながるという「独特の考え」を持っている。有能な外交官であることは多くの関係者が認めているが、
「日本の皇室につらなる無言の権威でものごとを有利に運ぼうとしている。
ハンディキャップ国家論の展開=軍事面で国際貢献できないからカネで賄う。
'92年の両陛下訪中時の外務事務次官であり、中国側が天安門事件のマイナスイメージを払拭するために「両陛下を政治利用したのではないか」という見方がひろがった。
いずれにせよ、小和田氏の存在は日本外交にとってあまりにも大きく、再びその立場が国際的に高まったことは、日本にとっても痛し痒し。
■テーミス2009年4月号
・全国紙政治部のベテラン記者
小和田氏は、何かいつも生臭い。
常にエリートでいたいという思いがあって、それを実現してきた。
小和田氏世代の外交官には“毛並み”という問題がある。
2世、3世がゴロゴロいる。
そんな中で
、田舎の教師の息子が出世していくのは、野心に裏打ちされた不断の努力があったからこそ
・外交官僚OB
小和田氏は確かに能力があると自他共に認められているが、講釈を垂れる癖があり、しかも話がくどいのでみんな敬遠していた。
優秀だったので出世コースを歩んだが、ある意味孤立無援。
松永信雄元駐米大使の派閥ではなかったので、駐米大使になれなかった。
・浅井基文/広島市立大学広島平和研究所所長の話
しっかり組み立てしてから小和田氏に説明に行かないと調べていないところを指摘されて怒られてしまう。
・福田赳夫総理時代の秘書官の一人
元秘書官同士、年1回ぐらい集まっているが、小和田氏に声をかけても、出てきたためしがない。
・田久保忠衛・外交評論家の話
ハンディキャップ国家論の提唱は、戦後レジームの中に埋没してしまって、それでよしとしている。それはおかしい。
・谷沢永一・関西大学名誉教授
小和田氏は東大で国際法を担当した横田喜三郎教授の系譜をひき、
自虐史観である。
このような状況での長女・雅子妃の皇室入りは小和田氏に訪れたチャンス。
小和田氏の先輩の柳谷氏が相当尽力したと聞いている。
小和田氏は雅子妃に対して、皇室に入ることは大変なことだということを言わなかった。
小和田氏は、小和田家を本当のエリート階級に引き上げたかったのではないか。
・別の外務官僚OB
適齢期の娘がいる外務官僚は、海外から賓客が来日してレセプションが開かれる時、上司に娘も参加させたらどうかと声をかけられる。
これが女性と知り合う機会の少ない皇太子殿下との出会いの場をつくることになる。
たいていは本当に娘を皇室に嫁がせることになったら大変だから断るが、小和田氏は違っていた。
むしろ積極的にそういう場に連れて行った。
宮内庁の要職に外務官僚が就任することが多くなった。
すべて小和田氏の差し金とは言わないが、全く関係ない、偶然の結果ということでもあるまい。
小和田氏の努力は中流階級の美徳を超えた。
エピソードⅨ 小沢氏とも仲良し。親中韓反日・売国奴の不愉快な仲間達!
■週刊ダイヤモンド1994年8月13・20日合併号
小沢一郎氏がニューヨークでこっそり小和田国連大使と話し合った“内容”
村山政権の誕生で、その権勢にもいくらかかげりの見える小沢一郎氏がこの7月24日、ひっそりとニューヨーク入りした。
今回の訪米の目的はワシントンでの講演で、ニューヨーク滞在は1泊2日とごく短いもの。
ところがこの1泊2日は、単なる「時差ボケ解消」のための滞在ではなかった。
関係筋によると、小沢氏は小和田恒国連大使と懇談の場を持ったというのだ。
小沢氏は駐米大使の栗山氏とはソリが合わないものもの。
小和田氏とはかねてから昵懇の間柄。これに小和田、栗山両氏の確執を重ね合わせると、小沢-小和田会談で小沢氏の外交戦略、そして国連戦略がじっくり語られたとみて間違いない。

エピソードⅩ 日本の伝統・歴史・文化に、全く興味なし。この親あっての、アノ娘。
■週刊文春2014年3月27日号
ある外務省関係者
小和田恒氏の外務事務次官時代の話が忘れられない。
「海外広報課では両陛下が海外訪問されるときは両陛下のプロフィールや
訪問国との関係を先方に紹介する外国語で書かれた冊子を毎回作る。
その前段に、日本の皇室や伊勢神宮、出雲大社や八百万の神について解説を入れることになった。
担当者が
『伊勢神宮と出雲大社をどう書くべきでしょうか』と聞いた所
小和田氏は『そういうことには興味がない』と冷たく言い放った。」
外国行かせろ会見
■平成14年(2002年)12月5日ニュージーランド・オーストラリア訪問前公式記者会見
皇太子妃殿下 ご質問にありましたように,今回公式の訪問としては8年ぶりということになりまして,ニュージーランドとオーストラリアを訪問させていただくことができることになり,大変うれしくまた楽しみにしております。中東の諸国を訪問いたしました折のことは今でもとても懐かしく本当にいい経験をさせていただいて,その時の思い出は今でも皇太子さまとよく話題にしたりしておりますけれども,その後8年間ということで,そのうち最近の2年間は私の妊娠そして出産,子育てということで最近の2年は過ぎておりますけれども,それ以前の6年間,正直を申しまして私にとりまして,結婚以前の生活では私の育ってくる過程,そしてまた結婚前の生活の上でも,外国に参りますことが,頻繁にございまして,そういったことが私の生活の一部となっておりましたことから,
6年間の間,外国訪問をすることがなかなか難しいという状況は,正直申しまして私自身その状況に適応することになかなか大きな努力が要ったということがございます。今回,昨年子供の愛子が誕生いたしまして,今年,関係者の尽力によりまして,ニュージーランドとオーストラリアという2か国を訪問させていただくことができることになりましたことを本当に有り難いことと思っております。
問 妃殿下にお尋ねしますけれども,先ほど1問目のお答えの中で,ご結婚以前の生活は外国に頻繁に行かれていて生活の一部になっていたと申し上げられましたが,ご結婚してから,なかなかそういう機会に恵まれず,大きな努力があったというふうにおっしゃいましたけれども,その時のお気持ちですね。努力があったこととか,自分なりに気持ちの整理などされた部分もあると思いますけれども,その辺をもう少しお聞かせ願いたいと思います。
皇太子妃殿下 そうでございますね。また子供が生まれましてからいろいろ状況も変わっておりますので,その前のことをはっきりと思い出すのもなかなか難しい面もあるのですけれども,やはり国民の皆さんの期待というものが,いろいろな形での期待があって,その中には子供という期待もございましたし,他方,仕事の面で外国訪問なども国際親善ということでの期待というものもございまして,そういう中で,
今自分は何に重点を置いてというか,何が一番大事なんだろうかということは,随分考えることが必要だったように思います。
↑ 皇太子妃としての自覚、覚悟が全くなし!
ひと目で分かる!
分を弁えず、傲慢な、「準皇族きどり」小和田恒氏
ビックリ仰天画像 4連発!!
◆小和田恒氏が国際司法裁判所で使用する椅子の背もたれには、「十六八重菊」の紋。
この紋の使用を許されているのは、皇族のみ。
皇室に対する尊崇の念や身のほどを弁えていれば
首相や内閣、皇室の紋章である桐紋で充分なはず。
◆生誕の地に立て札
旧新発田藩下屋敷の庭園「清水園」の一角に、一つの木札(高さ百二十センチ、幅五十センチほど)がある。
恆の生誕地から至近距離にあるその木札は、雅子さんのご成婚記念として平成5年11月に市の職員の手によって建てられたものである。
(略)
「清水園」を管理する職員に話を聞いてみた。
「何度か、小和田さんご夫妻がお見えになっていますよ。最初は細長い木簡のような札に書いて建てたのですが、
奥様から『なんだかお墓みたいね』と言われたので、市のほうであわてて現在の形に作り変えました」
これまで、東宮妃の父親り生誕の地が、わざわざ顕彰される事例はあまりなかっただろう。
(週刊新潮2014年10月9日号
ノンフィクション作家 工藤美代子 「正田家」と「小和田家」より、一部引用 )
◆他人の生家に自分の手形入り石碑を建立
日本人初の常設国際司法裁判所(国際司法裁判所の前身)所長となった
安達峰一郎(1869~1934)の生家・安達峰一郎記念館の前
生誕の地の木札も、来町記念の石碑も本人の許可を得て建てられたものであるが、・・・・・。
申し出があっても「辞退する」という選択肢はなかったのだろうか。
この方にはそれがないから、不肖の娘を嬉々として皇室に嫁がせ、娘の欠席している園遊会にも、夫婦で堂々と参加できる。
なんと厚顔なのかしらと、私は思ってしまいます。
◆にわか作りの墓石の土台の上に苔むした古くて小さな墓石
三代前が不明。正式な家系図にも記載されていない、なぞの小和田家ご先祖。
いい話がひとつもない、小和田家と小和田氏に関わるエピソード・・・oez
それでも、日本人として、知っておかなくてはいけないと思うのです。