この記事は、
周到な「聖徳太子抹殺計画」 について書いています。
新しい歴史教科書をつくる会は、2月14日に文部科学省から発表された次期学習指導要領改訂案に対し、21日、下記の緊急声明を発表しました。そして同日、本声明は文部科学省が現在募集中のパブリック・コメントとして、同省に送付されました。
この案件は是が非でも阻止しなければなりません。会員ならびに支援者の皆様には、声明についてご理解の上、文部科学省へパブリック・コメントをお送りいただきますよう、何卒、ご協力をお願いいたします(パブリックコメントへの宛先は声明の最後をご覧ください)。
なお、今回の緊急声明は、改訂案の歴史的分野で「聖徳太子」の一点について指摘しておりますが、他にも歴史・公民それぞれに、懸念される部分があります。これらにつきましては、今後内容を精査し、会として改めて問題点を指摘いたします。
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日本人の精神の支えをなす聖徳太子の名前を「厩戸王」に変えないで下さい!
-次期学習指導要領改訂案への「つくる会」のパブリック・コメント-
平成29年2月21日
新しい歴史教科書をつくる会
文部科学省は2月14日、次期学習指導要領の改訂案を公表しました。その中で、小中学校の歴史教育に関し、日本国民として決して見逃すことのできない重大な記述が含まれていることがわかりました。日本史上もっとも大切な人物として長年位置づけられてきた聖徳太子のその呼称を否定し、「厩戸王(うまやどのおう)」と呼ばせるという方針が書かれています。当会は文科省のこの改訂案に絶対反対であり、改訂案に対するパブリック・コメントとして、ここに当会の見解を発表します。
(1)改めて説明するまでもありませんが、日本史上の聖徳太子(574~622)の事績は傑出しています。太子は冠位十二階と十七条憲法によって国家の仕組みを整備し、天皇を中心とする国づくりへ前進させました。中国大陸との外交では、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という文言で知られるように、中国の皇帝を中心とした華夷秩序から離脱する自立外交を展開しました。こうして聖徳太子はその後1世紀にわたる日本の古代国家建設の大きな方向付けをしたといえます。
しかも、その影響は古代史のみにとどまりません。明治以降発行された紙幣の人物像として最も多く登場したのは聖徳太子です。このことが象徴するように、聖徳太子は日本人の精神の支えとなる人物であり、聖徳太子を日本史上最も重要な人物の一人と見ることは、近代日本の国民的合意でもあったのです。
(2)学習指導要領の改訂案についての文科省の説明は、<「聖徳太子」は没後使われた呼称だが、伝記などで触れる機会が多く、人物に親しむ小学校で「聖徳太子(厩戸王)」、史実を学ぶ中学では「厩戸王(聖徳太子)」とする>(産経新聞2月15日付け)というものです。
中学校の場合について聖徳太子の扱いの変化を確認すると、次のようになっています。いずれも、「3 内容の取扱い」という項目で記載されているものです。(以下、引用文中の下線は引用者による)
◇現行学習指導要領(平成20年)の記述
<「律令国家の確立に至るまでの過程」については、聖徳太子の政治、大化の改新から律令国家の確立に至るまでの過程を、小学校での学習内容を活用して大きくとらえさせるようにすること>
◇改定学習指導要領(平成29年)の記述
<「律令国家の確立に至るまでの過程」については、厩戸王(聖徳太子)の政治、大化の改新から律令国家の確立に至るまでの過程を、小学校での学習内容を活用して大きく捉えさせるようにすること>
このように、現行版と改訂案ではほぼ同文であるのに、唐突にも、「聖徳太子」だけが「厩戸王(聖徳太子)」と変えられています。
(3)なぜこのような改変がおこったのでしょうか。その根拠は、世紀のはざまに日本史学界の一部で唱えられた「聖徳太子虚構説」と呼ばれる学説にあります。しかし、これが学界の通説になったかといえば全くそのようなことはありません。「聖徳太子」という呼称の初出は確かに1世紀以上後のことですが、核に当たる「聖徳」という呼称は、日本書紀以前にも存在したことが、すでに明らかにされています。(詳細は高森明勅・つくる会理事による別稿LinkIconを参照して下さい)
そもそも、
死後に使われた呼称だから使えないとすれば、教科書の人名の多くを書き換えなければならなくなります。そのことを無視して、聖徳太子の呼称だけを「厩戸王」にしようとするのは、
聖徳太子がまさに日本国家のアイデンティティの基礎となってきたからこそ、それを否定しようとする動機が隠されていると推測せざるを得ません。聖徳太子虚構説が全く省みられなくなっている今日、突如として、学習指導要領によって全国の小中学生の歴史教育の現場に押しつけるとは、誠に驚くべきことと言わざるを得ません。
聖徳太子の偉業はその名前と深く結びついてきたのであり、名前の否定は人物の否定に行き着きます。もし、この度の学習指導要領の改訂で「厩戸王」を強制することに成功すれば、文科省は10年後の改訂では人物そのものを抹殺するであろうとも予想されます。
学習指導要領では、歴史教育の目標として、「我が国の歴史に対する愛情を深め、国民としての自覚を育てる」(中学社会の場合)と書かれています。聖徳太子を抹殺しようとする今回の改訂案は、
この「目標」にも違反していると言わなければなりません。
私達の主張は以上のとおりですが、この声明をお読みいただいたあなたに訴えます。どうか、3月15日まで行われる文科省募集のパブリック・コメントに応募して下さい。そして、<学習指導要領から日本史上の最も重要な人物である聖徳太子の名前を消さないでほしい。「厩戸王」の呼称の強制をやめ、現行の学習指導要領の記述に戻してほしい>という趣旨の明確なメッセージを届けて下さるようお願いいたします。
【パブリック・コメントの宛先】
文科省のパブリック・コメントにネットで応募される方は、以下の<
画面の意見提出フォームへ>をクリックし、ご意見を記入の上、送信して下さい。
http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=185000878&Mode=0
*上記アドレスのページに「意見公募要領」がありますので、必ずその要領に従って意見をお送りください。要領に沿っていない場合、無効になる恐れがあります。ご注意ください。
文科省へのパブリック・コメント作成の参考資料
以下の文章はネットから集めた意見です。パブリック・コメントを書くときの参考になるかもしれません。
文科省に提出するときは、文末に
<聖徳太子の呼び名を厩戸王に変えないで下さい>などの明確な意思表示をするのがよいです。この一文を投稿するだけでも意思が伝わります。
また、文科省は意見分布の統計を取るはずですので、学習指導要領の他のテーマへのコメントは別立てでされるようお勧めします。
天皇はすべて後世の呼称。「聖徳太子」は後世の呼称だから厩戸王に改めるなら当然「推古天皇」も否定して、「大王額田部」などに改めないと意味がない。(中村武生 京都女子大・大谷大・天理大非常勤講師)
歴史の授業は、単に史実(+原因・結果)を教えるだけではなく、その史実が後世どのように解釈され、伝えられたのかも扱わなければいけない。(亀田俊和 京都大学文学部非常勤講師)
新しい中学指導要領では、「聖徳太子」なる呼称を「厩戸王」と改める方針だとか。なるほど学問的良心に乏しいくせに新しがりやの似非歴史学者どもの考へさうなことです。
優れた貴人に歿後美称を贈るのはわが祖先が大切にしてきた奥床しい嗜みであつて、まともな日本人ならこれに少しも異存はない筈です。独り嫉妬深い歴史学者のみが屁理屈をつけて反対し、定見なき愚かな役所が追隨するといふ、いつもの図式と見ました。よろしい、それならそれで歴代天皇の御名前などはすべて馬鹿学者の主張する「本名」とやらに変へたらよい。第一さうしなければ、聖徳太子のみ変更する理由がないではないか。
千年以上もの間、国民に親しまれてきた偉人の名称を、己の浅智恵で軽々しくいぢくることの罪深さを思へ。(井上寶護 里見日本文化學研究所研究員)
私は歴史学と義務教育の国史教育は一定の独立性を保つべきだという考えです。国史が社会科になって70年。日本の青少年の自尊感情は削られ続け、自我の健康な発達さえいじめにあっている状態です。蒲倉幕府の成立はあくまで1192で教えます。天皇の任命権威を教えることが国のかたちを教えることになるからです。
学界は天皇・皇室の歴史教育における地位を貶める動きでずっとやってきて、このところそれが露骨に出てきていると考えます。鎌倉幕府の成立を変更するのも、大和朝廷は否定して大和王権とするのも、聖徳太子を厩戸にするのも、共産党系の学界が主導してきたものです。(齋藤武夫 元小・中学校教諭)
新しい学習指導要領案。聖徳太子(厩戸皇子)と教えていたものを、中学校から厩戸皇子(聖徳太子)とする方針。古事記等では厩戸皇子であり、聖徳太子は約100年後の諡だから。私は変更することには賛成できない。
これまで一千年以上の長い年月、日本人は厩戸皇子ではなく、諡である聖徳太子として敬い慕い、「和をもって貴しと為す」の17条憲法や、「日出づる国、日没する国」と対等外交を貫く遣隋使の国書など、まさに聖徳太子の名は、わが国の精神の核となってきたからだ。
小学生はいいのに、中学生からは厩戸皇子(聖徳太子)にしなけらばならないのか? なぜ聖徳太子(厩戸皇子)のままではダメなのか。長年親しまれてきた聖徳太子の名を、少しずつ日本人の心からフェードアウトさせていいのか。聖徳太子=日本精神のフェードアウトになりかねない、今回の改訂には反対だ。(山田宏 参議院議員)
次期学習指導要領の改定案が今、パブリックコメント募集中だ。鎖国が消え、聖徳太子が厩戸皇子に変わっている。最近の研究で聖徳太子は歿後100年経ってからの呼称だからという。それなら太平洋戦争も大東亜戦争だ。太平洋戦争は戦後米国に言われて使い始めた。17条憲法はやはり聖徳太子でないと。(中山成彬 元文部科学大臣)
今度の教科書検定で「聖徳太子」は厩戸王となり、「鎖国」の呼称は消えるらしいが、歴史学者の病というほかない。ならば推古の名も変えるべきだし、太平洋戦争の呼称もやめるべきだろう。歴史は、その都度の「公称」の歴史ではないことが、わからないのだ。
歴史は、そのつど公定の事実の羅列ではない。無意味にみえたある事跡がその後の時代の変遷の中で重みを持つことがありえ、またそうした持続の中に、歴史の本当の意義がある。同時代に意味を持たなかった事跡を抹消する権利は、そも歴史学者には存在しない。この状況に学者は誰も怒りを覚えないのか。(田中希生 奈良女子大学文学部助教)
厳密にやり過ぎると名前を何回も変えてる人とかも、登場する事件毎に違う名前で書かないといけなくなる。鎌倉幕府打倒でも、途中まで高氏で、ページをめくったら尊氏になってないといけないとか、堀越公方家を急襲したのは北条早雲でも伊勢宗瑞でもなく、伊勢新九郎盛時とかになる。(石井晃 鳥取大学工学部教授)
「聖徳太子はおくりな(諡)だから、『厩戸王(うまやどのおう)』と併記する。」という考え方が仮に正しいのであれば、明治天皇、大正天皇、昭和天皇を含めて、歴代天皇の名は全て諡(し)号です。
同じ考え方に立てば、今後は、明治天皇、大正天皇、昭和天皇との表記もしないか、若しくは、それぞれ、別のお名前と併記するということになります。その様な考えは大きな間違いです。
何故、聖徳太子のことを「厩戸王(うまやどのおう)」と表記したいのか? それは、日教組を含む、所謂「左翼」の人達が、我が国の長い歴史の中で、大きな尊敬を受けてきた、聖徳太子の存在を、出来るだけ尊敬の対象から外したいという、非常に歪んだ思考思惑が有るからです。第一段階では、「併記」、そして、次の段階では「聖徳太子」の表記を無くしたいという思惑があると考えられます。
「聖徳太子」の表記に関して、「厩戸王」の併記を撤回して頂きたい。(諸橋茂一 教育を考える石川県民の会会長)
中学校学習指導要領案の40ページに「厩戸王(聖徳太子)」なる表記がみられますが、今まで通り「聖徳太子」とすべきです。
その理由は以下の通りです
①長年にわたって日本人が尊崇の念をこめて呼びならわしてきた「聖徳太子」をかっこ書きにするとは、私を含む現在と過去の日本人に対する侮辱です。
②何人かの大人に聞いてみたところ、「聖徳太子」は全員知っていましたが、「厩戸王」を知っている人は一人もいませんでした。
③子供が「厩戸王」を優先して覚えた場合、同一人物に関する親子の会話に支障が生じます。親子の会話、とりわけ歴史上の人物を話題にした会話は家族の団欒に欠かせません。
④「聖徳太子」は有徳の歴史上の人物として日本人の内面深く定着しており、これまで通り子供がその名とともに事績を学ぶ意義の大きさははかり知れません。
⑤パソコンで「うまやどのおう」と入力しても漢字に変換できないが「しょうとくたいし」は一回で変換できる。(駒田強 自営業)
(文責:「つくる会」事務局)
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※ 追記です。
コメント欄に寄せていただいた『Nathannate』さまのご意見を、こちらにも転載させていただきます。
専門的でありながら、要点をしぼり、わかりやすくまとめられたご意見は、大変勉強になります。
コメントの返信をすると、いただいたコメント欄の枠が縦長になり読みにくくなってしまうため、読みやすい形で、拙ブログにいらした方に読んでいただきたいと思います。
Nathannate
2017/03/05 16:59:29
下記と同趣旨のパブリックコメント並びにe-Govの各府省への政策に関する意見・要望において、内閣府、内閣官房、外務省にもメールしました。
【新学習指導要領案の再考を求めます】
第一 報道されている内容
新聞等で報道されている新学習指導要領案には、「「聖徳太子」は小学校で「聖徳太子(厩戸王)」、中学校は「厩戸王(聖徳太子)」に変更。小学校では人物に親しみ、中学校では史実を重視する観点から表記を入れ替えている。聖徳太子は死後につけられた称号で、近年の研究では厩戸王に当たる可能性が高いとされている。」
とある一方、「「日華事変」はより一般的に使われている「日中戦争」に表記を変えた。
」という内容であると報道されています。
第二 私の認識している事実
1:「厩戸皇子」の表記は、日本書紀に存在しています。一方、「厩戸王」の表記をお目にかかることはありませんが、ここでは、そのような表記が存在していているものとして論じます。
2:「事変」という表記には、「国対国の宣戦布告のある大規模戦争ではない」という意味があります。なお、以下では歴史的事実を指す語としては、日華事変=日中戦争=支那事変という語を用います。
第三 表記変更に対する評価
1:他の表記変更と異質な変更を含むことについて
新学習指導要領案には他にも表記変更がなされる項目がありますが、いずれも正式な歴史的事実の教育に資する観点から行われています。しかし、日華事変を日中戦争に変えるというのは、上記に示した通り、なぜかこの部分だけが「一般的な呼称」に合わせた変更であり、不可解です。
2:「事変」と「戦争」の違いを明確にする意義
(1)学問上の意義
支那事変を戦争とみるべきか否かについては、歴史学説上、種々の議論があることは承知しており、実質的な戦争とみることもできるという説があることは認識しています。しかし、正式な歴史的事実の教育に資する観点からは、当時の支那大陸における政体の混乱をも伝えるべきということになります。「日中戦争」という表記では、まるで「中国」という国家が確固たる地位を国際社会から認められ、統治機構を持ち、全国を統制していたという誤った認識を生徒に与えることになります。実態は国民党=中華民国=台湾と、共産党が争っていたのであり、国家としての体をなしていない状態だった、というのが正式な歴史的事実です。また、第二にて示した事変という語が持つ上記意味をも無視したものとなってしまいます。このようにして、「日中戦争」という表記を国家が教科書に求めるというのは、正式な歴史的事実の教育に資する観点から不適切です。
(2)政治的干渉の存在についての疑義
支那共産党政府にくみする者による、使用する言葉の強制による認識の変更の可能性を指摘します。「日中戦争」は、まるで今の中華人民共和国と日本が戦争をしていた、という認識を与えます。これは、正式な歴史的事実の教育に資する観点からも不適切ですし、支那共産党政府の国家戦略にくみするものです。そのような事実は不存在です。
3:「厩戸皇子」ではなく、「厩戸王」という表記を使い、かつ、聖徳太子を指す第一呼称とすることについて
まず、これまでの用語法は聖徳太子(厩戸王)ということでしたが、この点からすでにして疑問です。このような表記とするための、ありうる正統な理由としては、「聖徳太子」として認識されている人物が、学問上「厩戸皇子」と同一ではなく、「厩戸王」とのみ人格の同一性が認められる、というものです。このような理由が存在しているのでしょうか?仮にそうではないとするならば、次のような後ろ暗い思惑を指摘します。すなわち、「皇子」ではなく「王」とするのは、格下げを意味するものであり、聖徳太子に対する日本国民の敬意を低下させる意図を含むものであるというものです。
既述の通り、今回の表記法の変更については支那共産党政府の影響の可能性が疑われる以上、このような意図の存在を推認することも無理なことではありません。
4 結論
「厩戸王」を改め、「聖徳太子(厩戸皇子)」と表記すること、「日中戦争」という表記を国家が定めてはならず、定めるとすれば「日華事変」「日支事変」「支那事変」とすべき。
以上
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≪ 参考 ≫
聖徳太子虚構説は通説ではない
平成29年2月19日
理事 高森 明勅
大山誠一氏の聖徳太子虚構説(平成11年)(注①)は、学界の受け入れるところとはならなかった。私も批判の筆を執ったことがある(注②)が、文献の現状は以下の通りである。
大山説発表後刊行された関係書の書名は、吉村武彦『聖徳太子』(岩波新書、平成14年)など、「聖徳太子」の語が採用され、「厩戸王(皇子)」の例はアマゾンで調べても皆無である。同様に、『聖徳太子事典』(柏書房、平成9年)はあるが、いまだに「厩戸王事典」は存在しない。
梅村喬・神野清一編『改訂日本古代史新稿』(梓出版、平成16年)に、「聖徳太子の時代」の見出しで、「推古朝は、通説的には聖徳太子(厩戸皇子 574~622)の時代でもある」(福岡猛志執筆)とある(下線は引用者)。森田悌『推古朝と聖徳太子』(岩田書院、平成17年)にも、「聖徳太子非実在説が説かれることがあるが・・・・聖徳太子が実在したことも歴史的事実」と厳しい大山説批判が展開されている。
吉川真司『飛鳥の都 シリーズ日本古代史③』(岩波新書、平成23年)は、「継体天皇」「天智天皇」などの漢風諡号で統一表記することを断った中で、(混乱を避ける為)「『厩戸王』『葛城王』でなく『聖徳太子』『中大兄皇子』と記すのも、同様の理由による」とした。もし、「厩戸王(聖徳太子)」と表記するなら、「葛城王(中大兄皇子)」と書かないと統一を欠くだろう。
現代の日本史学の標準的見解を示すとみられている『岩波講座日本歴史』シリーズ第2巻(平成26年)にも、「聖徳太子と呼ばれるようになったのは後世のこととしても、厩戸王は、後に伝説化されてしかるべき位置を生前から有していたと考えられる」と記す(川尻秋生)。明らかに、虚構説に否定的だ。
なお、「聖徳」という諡号の初見は法起寺塔露盤銘(706年)に、「聖徳皇」とあるものだ(東野治之)。また、播磨国風土記(713~715年)にも「聖徳王」とある(高森・上田正昭)。「聖徳太子」の初見は懐風藻(751年)である。
以上の通りであるから、聖徳太子虚構説は、決して学界の通説とは言えないことは明らかである。
注① 大山誠一『<聖徳太子>の誕生』吉川弘文館、平成11年、ほか。
注② 高森明勅「聖徳太子をめぐる論争を手がかりに歴史への眼差しについて考える」『正論』平成16年12月号ほか。
(以上、転載 了)