わたしは、三谷幸喜さん脚本の舞台、映画「12人の優しい日本人」を思い浮かべました。
学生時代に、近所のレンタルビデオ屋さんで何度も借りて観たお気に入り。
「バックトゥザフューチャー」「遊びの時間は終わらない」と同じくらい、
大好きで何度も観ました。
そして、「12人の優しい日本人」の元ネタとなった、
洋画「十二人の怒れる男」も。
時代劇なのに漢数字ではなく数字の13人を使うのも、
「12人の優しい日本人」と関係があるのかも、と思っていました。
そしたら、週刊文春「ホリイのずんずん調査 」でお馴染みだったコラムニスト、
堀井 憲一郎さんが、スッキリするコラムを書いてくれました( *´艸`)
モヤモヤが晴れる、ニコニコしちゃうコラム。
自分でいつでも読めるように、転載させていただきます。
『鎌倉殿の13人』の今後の展開が、「十二人の怒れる男」「12人の優しい日本人」から見えてくる…!
2022.01.31
堀井 憲一郎
■「十二人の怒れる男」
三谷幸喜の大河ドラマのタイトルが『鎌倉殿の13人』であると知ったとき、すぐに連想したのは「十二人の怒れる男」と「12人の優しい日本人」である。
「十二人の怒れる男」は1957年のアメリカ映画で、主演はヘンリー・フォンダ。
「12人の優しい日本人」は1991年の日本映画。脚本が三谷幸喜。
『鎌倉殿の13人』というのは、かつての「12人の優しい日本人」を意識したタイトルに見えるし、それは「十二人の怒れる男」も踏まえていることになる。
とりあえず「十二人の怒れる男」と「12人の優しい日本人」はどういう映画だったのかを振り返ってみる。
以下、映画「十二人の怒れる男」「12人の優しい日本人」、小説「12人の浮かれる男」の細かいストーリー、および『鎌倉殿の13人』の背景となる歴史事実をネタバレします。
「十二人の怒れる男」も「12人の優しい日本人」どちらも裁判の陪審員だけが登場してくる「密室ドラマ」である。
評議室に12人が集められ、その12人の評議シーンだけで物語のほとんどが展開する。
「裁判員制度」と違い、裁判官(法律関係者)は同席しない。
一般市民12人だけで、「犯人が有罪か無罪か」を決定する評議である。陪審員制度では「全員一致」で評決する。多数決では決めないらしい。
まず「十二人の怒れる男」の展開を見る。
扱う事件は「スラム街の住宅で起こった殺人事件(父親殺し)」である。
陪審員には「スラム街の住人」に対する偏見が強い。
容疑者の少年の証言も曖昧で、有罪で決まりだろう、という雰囲気で12人が集まる。
その中で一人だけ、この流れに疑問を呈する人物が現れる。
ヘンリー・フォンダ演じる「アメリカの良心」とでも言うべき「8番」である。職業は建築家。
最初の採決のとき、彼ひとりだけが「無罪」で挙手する。彼自身もべつに無罪を確信しているわけではなく、でもその可能性がある限りは話し合いをしましょうという提言だ。
「時間の無駄だろう」と何人かが言い出す。
「7番」はその日のヤンキースのナイターチケットを持っており、この評議が終わり次第に見にいくつもりでいる。やれやれ、という反応で評議の席につく。
この時点で「有罪11:ひょっとしたら無罪かもしれない1」である。
■ 無罪への転向が続く
彼の心意気に打たれたという「2番」の老人がやがて無罪側に加担する。おそらくもう仕事はリタイアしているだろうという年齢の老人である。
ついで「5番」の「スラム育ち」の工場労働者が無罪に転向。
そして「11番」の「ユダヤ移民」の時計職人も無罪に転向する。
これで「有罪8対無罪4」になる。
この3人は、「8番」の示した良心に共鳴し、自分にもそういう部分があるはずだとおもって、大勢に逆らって反旗を翻した人たちである。
そして社会的に弱い立場にある人たちでもある。
やがて「2番」の眼鏡をかけた気弱な銀行員と、「6番」の礼儀を重んじる人情派のペンキ職人も同意する。
これで「有罪6:無罪6」になる。
ここまでの転向者は「心根のやさしい人たち」だと言える。
無作為に集められた人12人のうち、半数の6人は「いい人」であったという設定になっている。このあたりがこのドラマの妙である。
これ以降の転向者が見どころになる。
いわば「あまり真面目ではない人」たちの適当な転向が起こるのだ。
次に有罪から無罪へと意見を変えたのは、ヤンキースの試合を見たがっていた「7番」である。理由は「面倒だから」であった。つまり大勢が無罪方向に動き出したから、じゃ、おれも無罪でいいやという態度である。先に無罪を表明していた人たちから、ふざけるな、と糾明されるが、だってそうおもったんだから、と「7番」は意に介さない。
■ 感情に振り回されるタイプ
つづいて「12番」の宣伝マンと、「1番」の議長が転向する。
「12番」はお喋り好きの軽い宣伝マンで、典型的な付和雷同タイプ。このあとまた一度有罪に変えて、再び無罪に戻ると右往左往して、とても人間らしい。
これで「有罪3:無罪9」である。
残りは3人。
3人のうち、2人(3番と10番)は感情に振り回されるタイプであり、しかも「スラムの少年は人を殺すに決まっている」というレベルのすごい偏見を持っている。彼らはだから論理で説得できない。
もう1人の「4番」は感情的にはならず、ずっと論理的に考えるタイプの男である。職業は株の仲買人。常に冷静に喋る。
いわば無罪を冷静に主張する「8番」と対になっている存在である。「少年の刺殺を目撃したという証人がいる限りはあくまで有罪」という態度を崩さない。
そしてその証言の不確かさが指摘されると、4番は無罪に転向する。10番も同意する。
最後は3番だけが残る。かれは感情的に喋り続けるが、誰も何も反論せず、3番も自分で自分が言ってることがめちゃくちゃであると気づき、「少年という存在じたいが憎い」という個人的な感情だけで反対していたことも自分で認め、最後は無罪に同意する。
これで「無罪12:有罪0」で、少年は無罪となった。
そういう物語である。
この物語のおもしろさの根本は「逆転」にある。
11対1という圧倒的不利な状況から、粘り強く説得することで、0対12へと持っていく。そのスリリングさに引き込まれていく。
それと同時に「いろんな人がいるのだな」という人間模様の面白さも見せてくれる。
12人いると、「強い正義の心」を持つ人が1人いて、その心意気に反応する人が1人。みずからの良心に顧みて、正義の心を自分で呼び起こした人が4人いた。
人が流れるのにのっかっていく「付和雷同」な人が3人。
いったん自分で信じたことをなかなかひっくり返せない人が3人。
そういう比率である。
なかなかおもしろい比率だとおもう。
■ 「その意見はうきうきする」
この映画をもとに34年後に三谷幸喜の作品「12人の優しい日本人」が作られる。
その16年前1975年の筒井康隆の短編小説
「12人の浮かれる男」が書かれている。
三谷幸喜はこの作品もふまえて「12人の優しい日本人」を書いたはずである。
1975年の小説、「12人の浮かれる男」はどこまでも「12人の怒れる男」のパロディである。
筒井康隆「12人の浮かれる男」でも「父親殺し」を疑われた男性が容疑者である。
ただ、こちらは裁判を見るかぎり、容疑者は無罪、父はただ自殺しただけだろうとみんなおもっている事件である。
全員一致で「無罪」になりそうなところ、これは注目された陪審員裁判なのだから、目立たなくてはいけないと4号の喫茶店店主が言い出す。とたんにみんなが浮かれ出す。3号の内科医が興奮して喋り、7号の商社員、1号で議長の私鉄駅員「その意見はうきうきする」と言い出す。
残りの人たちは付和雷同する人たちと、あとは裁判なんかどうでもいいとおもっている人たちばかりで、評議は流れていく。たった1人小学校の教頭の10号だけが常識人として、無罪だと主張しつづける。
しかし、もとヤクザ(いまは堅気の教材卸業者)の6号に教材仕入れで収賄を行った過去を指摘され、自分の罪を認め、有罪に転向する。
無罪が妥当だろうとおもわれていた容疑者は、「注目を浴びたい」と考える浮かれた男たちによって有罪の評決を受けるという物語である。昭和50年代の筒井康隆らしい世界である。
■「有罪1:無罪11」からスタート
これも踏まえて、1991年の映画「12人の優しい日本人」が作られている。
もし筒井康隆の小説がなかりせば、三谷幸喜映画もみんなで有罪に持ち込むという結論だったのではないかとも想像するのだが、まあ仮定の話をしても意味はない。
「12人の優しい日本人」は元夫殺しの疑いをかけられた女性の裁判である。
始まりは筒井小説に近い。
元夫を突き飛ばしたら、国道でトラックに轢かれたという事件であり、最初はみんな「無罪だろう」という雰囲気で集まってきた。
そこで一人、まじめそうな2号が、話し合いましょうと「有罪」に一票を入れる。
「有罪1:無罪11」から始まる。
そのあとの評議のなかで、「有罪かもしれない」という人が増えていき、2号がさらに「計画殺人の可能性がある」と言い出すと、同意する人が増えていった。殺人は立証できないが「傷害致死で有罪」にはできるだろう、その場合、執行猶予がつくからそんなに罪悪感を持たなくていいという説得に出ると、一挙に有罪が増え「有罪10:無罪2」にまでになる。
ただ、11号の反攻によって、再び「無罪」が増えていく。最後は始まりと同じく陪審2号1人だけ有罪を主張する。でも彼は「元妻」という存在そのものに個人的に恨みをつのらせていたからとわかり、最後は説得され、「無罪」で全員一致する。
そういうお話。
「十二人の怒れる男」と「12人の優しい日本人」に共通するのは、言葉でもって相手を説得しつづけることである。劣勢だったものが、説得して状況を変えていくお話だ。
それを踏まえて、『鎌倉殿の13人』とは何を意味するのか。
■「鎌倉殿の13人」とは何のことか?
まず、基本的なところから。
鎌倉殿は、東国武士団の棟梁のことである。
最初の「鎌倉殿」源頼朝の死後、その子の源頼家が家督を継ぐ。しかし頼家に父のような専横政治をやられてはたまらないからと、家来13人が「合議制」を採ったのが「鎌倉殿の13人」である。ときに建保10年(改元あって正治元年/1199年)4月。だから13人とつくならこの鎌倉殿は頼家となる。
頼家が従えた13人という意味はない。
「鎌倉殿の13人」は「頼家に勝手なことをさせないために集まった13人の恐い武士」ということになる。本来の意味はそうである。
でも、たぶん、三谷幸喜だから、もっと楽しげな13人を描くのではないだろうか。
どうなるのかはわからないが、ストレートな歴史解釈からは、ずらすだろう。
だいぶ昔の話だから、少々、学界の主説とずれていてもかまわないだろう、という態度で書いてくるのではないか。それが楽しみである。
13人は以下のとおりである。
北条義時(小栗旬)、北条時政(坂東彌十郎)、比企能員(佐藤二朗)、梶原景時(中村獅童)、和田義盛(横田栄司)、三浦義澄(佐藤B作)、大江広元(栗原英雄)、三善康信(小林隆)、足立遠元(大野泰広)、安達盛長(野添義弘)、これで10人。
あと中原頼能、八田知家、二階堂行政。
このうちの何人かは粛清され、やがて「北条義時とそれに協力する体制」が築かれる。
この13人は、その体制に協力した人と、反対したから排除された人一覧でもある。
武力で排除されるのは、梶原景時、比企能員、和田義盛である。
彼らは「武官」であるから、おそらく「強大な武官は何人もいらない」という理由で(そういう歴史的な流れで)粛清されていく。
義時の父北条時政も、義時&政子コンビニよって追放される。
また、三浦義澄、安達盛長は老人なので、わりと早くに死んでしまう。
「没年不詳」とされている足立遠元や二階堂行政もわりと早い段階で書類から名前が消えているので、おそらく1200年代に隠遁したのだろうと推測されている。
■ 北条義時の説得
粛清は義時一人の判断ではない。東国の武士団の合意のうえで、ひとつずつつぶしていくのだ。
おそらくそのときに「北条義時の説得(味方になってくれの説得)」があるはずだ。
そのへんが「12人の怒れる男」ぽく「12人の優しい日本人」ぽい。
「12人の怒れる男」はずっとマジだけれど「12人の優しい日本人」は、みんなの言動はコミカルに描かれるから、「鎌倉殿の13人」もそういうトーンで戦乱が描かれるのだろう。
「13人の合議」となった時点で、正解が見つけにくくなる。多数についたものが生き残っていく。
そのためには策略、陰謀、意外な連携が必要となる。
歴史上はかなり陰惨な陰謀が繰り返されていたとおもわれるが、それも三谷幸喜によってカラっと描かれるのだろう。
ポイントは三浦義村(山本耕史)のはずだ。
ふつうの歴史本を読んでいるだけでも「この三浦義村という人は、いったいなんでこんなにフラフラと敵に行ったり味方に行ったり、暗殺現場で奇妙にかかわったり、わけのわからない行動を繰り返すんだ、ほんとに何かんがえてるんだよっ」と言いたくなる存在である。それを三谷幸喜がおもしろおかしく描かないわけがない。
この大河は「北条義時の説得」が見ものになるのではないだろうか。
義時(小栗旬)は人と人のあいだを走りまわってへとへとになりながらも歴史を進める人物として描かれるような気がする。そこに期待したい。
この時代をリアルに描くと、ただの暴力集団の陰惨な殺し合い繰り返しドラマになっちゃうからねえ。ひとつよろしく。
ホリイさん、ステキ♡
「鎌倉殿の13人」の見どころが、昔見たお気に入りの映画の面白さとリンクして、ますます楽しみになりました。
そして、筒井康隆さんの「12人の浮かれる男」。
未読でしたので、読んでみたいなあと思ってAmazonへ行ったら、
Kindle版があったので思わずポチッとしてしまいました。
2022年の冬。
3回目の接種をしろと半ば強制されるし、
ガソリンも灯油も値下がりしないし、
民族の祭典を見てるとチベットの動物なのに支那のマスコットになってるし、
NHKが特集した選手はいま一つ活躍できなくて疫病神みたいだし、
イライラモヤモヤすることもいっぱいだけど、
ステキな人たちや楽しいことをいっぱい見つけて、
上機嫌で毎日を過ごしたいと思います。