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青と緑の稜線のブログ一覧

2014年10月31日 イイね!

日本より先に書かれた謎の吉田松陰伝【宝島筆者スティーヴンスン】

日本より先に書かれた謎の吉田松陰伝【宝島筆者スティーヴンスン】歴史にifはないけれど・・・

もしも、吉田松陰先生が黒船密航に成功し、黒船に乗ってアメリカまで航海することができたとしたら。

アメリカ人たちは、高潔で情熱家でユニークで好奇心旺盛な若き日本人の虜になったに違いない。
松陰先生は、アメリカの進んだ工業技術や開拓精神、自由平等精神に触れ、何を日本に持ち帰ろうとしたのだろうか。

アメリカという国と世界を知ることで、後に、日本がアメリカに追い込まれて戦争をするような事態は、避けられたのではないか。


そんなことをときどき夢想してしまう。


そんな時、ふと思い出した。

司馬遼太郎著の「世に棲む日日」を読んで、松陰先生に尊敬の念を抱くようになった。
(実は、司馬先生はあまりに淡々と松陰先生像を描いているので、物足りなく思っていた。『本を読んでいる時に蚊にかまれた足をかくと、ゲンコツで思いっきり殴られる。勉強しているのは公のため、足をかくのは私のため』こんな教育をしたのは松陰先生の叔父上・玉木分之進先生。乃木大将も松陰先生の叔父上の教えを受けていたというエピソードには驚いた!)

司馬先生の描く吉田松陰像よりも、もっと生き生きとして鮮烈で、憧れずにいられない気持ちを抱いたのは、平成12年(2000年)の正月にNHKで放映されたテレビドラマ「蒼天の夢~松陰と晋作・新世紀への挑戦」を見た時だった。

その夜。
「蒼天の夢~松陰と晋作・新世紀への挑戦」を正座して視聴した後、高校時代の友人宅に集まって新年会&ドライブ&初詣にいく予定になっていた。あまりに感動しすぎてボロボロに泣いて、たいそうヒドイ顔になっていた私は、・・・相変わらずだねと、笑われた。(運転手は飲まなくてもテンションが変わらない私。「飲んだら乗るな」は鉄則です)

どれだけ素晴らしいドラマだったのか、素敵なイラストで紹介している方のブログを見つけたので、興味がある方はこちら↓をどうぞ。

萌えかき
~ハマっているドラマ、映画、アニメについて ちょっと萌え風味 だいたい絵付きで書いてます~
http://moekaki.blog.so-net.ne.jp/2012-07-18


黒船密航に失敗した松陰先生が自首して投獄された萩の「野山獄」で出会った、生涯において、たった一人の恋人・・・。
それが、高須久子さん。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼女は、松陰より12歳年上の37歳の未亡人。
彼女は、萩でも300石の高禄の高須家のあととり娘でしたが、養子として婿になった夫が亡くなった後、その寂しさを埋める趣味としてはじめた三味線に、いつしか没頭する毎日を送っていた中、あるプロの三味線弾きの集団と仲良くなります。

芸能で身をたてる彼らは、いわゆる身分卑しき人たち・・・当時は、未だ封建的な身分制度の時代ですから、身分の違う者同士の交流が歓迎されない中、その交際が深くなるにつれ、頑固な父親がその関係に反対し、藩に届け出たというわけなのです。

それでも、本来は、獄につながれるほどの重い罪ではないのですが、彼女は、その取調べの時に、悪びれる事なく・・・
「普通の人と普通の付き合いをやって何が悪いの?」
と、主張した事が反感を買い、投獄されていたのです。

こうして知り合った二人・・・おそらく、久子は松陰の最先端の話に心踊らせ、松陰は久子の「人は皆平等」という精神に心魅かれたに違いありません。

今日は何の日?徒然日記
2008年12月26日 (金)
吉田松陰、生涯一度の獄中の恋~高須久子

より、引用させていただきました。ありがとうございます。
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2008/12/post-1f91.html

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

なんて素敵なお二人なのでしょう!
松陰先生が心を寄せた久子さんと、自分の意に副わない娘の結婚に反対した頑固な父親に反発して家を飛び出した自分を、図々しくも重ねてしまう私。(天海祐希さんが演じた久子さんは、ものすごく素敵でした)


そして。
ドラマ「蒼天の夢~松陰と晋作・新世紀への挑戦」の最後のナレーションで不思議なことを聴いたことを、ふと思い出した。

「宝島」の筆者スティーブンスンは、吉田松陰を. 「人類史上もっとも高潔な人物」と称えている。


なぜ「宝島」のスティーブンスン?
どこに接点が?
どうして、この時代に松陰先生を知ることができたの?


今まで調べなかった自分に、バカバカ馬鹿ヾ(゚Д`;≡;´Д゚)ノ゙


今は、目の前の薄い箱でググってみるだけで、知りたい答えがすぐに出てくる、摩訶不思議な有り難い時代。

カャカャカシャッ、ピッ。


おー。
なんと。
そんなことが!!

スティーブンスンは、日本人よりも先駆けて、吉田松陰先生の伝記 を書いていた!?


知られざる「吉田松陰伝」-『宝島』のスティ-ヴンスンがなぜ? (祥伝社新書173)新書– 2009/8/26
よしだ みどり(著)



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
楡の木陰で本を読む  手稲山人の読書録 9
烈々たる日本人 日本より先に書かれた謎の吉田松陰伝
よしだみどり:著 祥伝社 ノンブック(新書) 平成12年10月刊
より引用させていただきます。
http://nire.fool.jp/nagai/newnagai/nagap/naggp001/nagap009/nagap009.html

松陰吉田寅次郎(1830-1859)の伝記を「宝島」の作者、ロバート・ルイス・スティーヴンスン(1850-1894)が世界で初めて書いたという、信じられないような話である。 なぜ?? どうしてそんなことがあり得るのか?!

 著者は、かつては子供向けのテレビ番組「ロンパールーム」のお姉さんであり、また「毎日小学生新聞」に「英和対訳絵本」を連載する人であった。その彼女がスティーヴンスンの「子供の詩の園」に出会い、スティーヴンスンの人生そのものに関心を寄せたときに、彼女のよく知っている「吉田松陰」と言う名前があらわれたのである。

 とうとう彼女は「人物と書物に親しむ Familiar Studies of Men and Books , 1882 」の中に「ヨシダ・トラジロウ」を発見する。著者は、本書の第1章にスティーヴンスン作として訳出した(28-58頁)。 「ヨシダ・トラジロウは、長州の兵学師範を世襲する家の後継ぎであった。・・・

 彼の最大の関心事は、日本の置かれている状況であった。日本にとっての将来、その より良い姿を描くためには、日本の現状を知ることが大切だと考えていた。・・・ (日本と外国の軍備のあり方がどのようなものか、松陰は知りたかった。ペリーを追いかけ、渡航に失敗する。老中を暗殺しようとして旅に出て逮捕され、江戸に送られた松陰は未決囚の牢屋にいた。隣の独房には日下部伊三次[?]がいた。・・・)

 ヨシダのほうに顔を向けたなら、彼も同志の囚人として連座させられたであろう。

 クサカベは、ヨシダにチラッと視線を投げかけただけで、大きな声で次の2行の漢詩 を吟じて別れの挨拶をした。

    大丈夫寧ろ玉となりて砕くべし
    瓦となりて全うすること能わず ・・・・・」

 スティーヴンスンはこの草稿の本当の著者は自分ではないこと、マサキ・タイソウと言う教養ある日本の紳士から話してもらったものであることを認めている。

 この人物は正木退蔵(1845-1896)といい、萩藩出身、東京職工学校(東京工業大学の前身)初代校長でもあった。彼はもちろん松下村塾の出身で少年の頃とはいえ、吉田松陰の謦咳に接したことがあった。しかし、正木退蔵とスティーヴンスンとの出会いは、どこで、どのようにであったのか?  

 正木退蔵は日本からの留学生を監督するとともに、理学・工学関係の教官を物色していた。文学ではあり得ない。著者は、明治時代の日本と英国の関係について調査を進める。とりわけ、スコットランドから来た優秀な「お雇い外国人」たちやエディンバラ大学のことである。スティーヴンスンは祖父の代から「灯台造り」の家系であり、エディンバラ大学に学んだ。工学部に進み、「新型灯台用明滅灯」という論文を書いた。本人は横道に逸れたとはいえ、スティーヴンスン・ファミリーは科学者という立場から、スコットランドの各大学の教授たちと密接な関係があった。

 父トマス・スティーヴンスンは、グラスゴウ大学の名物教授フレミング・ジェンキンをエディンバラ大学に呼ぶことができるほど実力があり、高名な物理学者ケルヴィン卿とも面識があった。また、ケルヴィン卿はスコットランドの学者を日本に派遣したり、日本人の留学生の面倒を見てくれた。実際のところ、ジェンキン教授とケルヴィン卿は東京大学の工学部の教授を推薦してくれた人物であった。

 東京大学の2人目の工学部教授アルフレッド・ユーイングの回想から真相が判明する。
 「私にとって、ルイス(R.L.スティーヴンスンのこと)との思い出は、 ・・・・・・1878年のある夏の思い出である。

 それは、ジェンキンが私とルイスを、東京大学の教授となる人物を探し求めてエディンバラにやってきた日本の官吏、マサキ・タイソウ氏に会わせるために夕食に招待してくれた時で、マサキ氏が私に白羽の矢を立てた時のことである。

 マサキ氏は私たちに、日本の革新時代の初期の英雄、ヨシダ・トラジロウの話をした。 それは愛国と冒険・苦闘の連続と、希望と挫折の物語であった。 ルイスは深く感動した。

 ・・・彼は牢獄の中で若いヨシダがまもなく処刑されるという時に、この古典の詩の言葉を聞いて、いかに勇気づけられたかを語っている。

 大丈夫寧ろ玉となりて砕くべし
 瓦となりて全うすること能わず

 この言葉が、スティーヴンスンを魅惑して、彼のモットーになり、彼自身の短い生涯をもたらしたのではなかろうか。」

 正木退蔵がスティーヴンスンを含む人々に松陰の話をしたのはエディンバラのジェンキン教授のお宅で、1878年の夏のことであった。

 さかのぼること2年、1876年にスティーヴンスンはフランスを旅行しており、その地で、母娘の画学生がいてその母親のほう、36歳のファニー・オズボーンと運命的な出会いをした。彼女はアメリカ人で不実な夫に愛想をつかしていた。3人の子供を抱えて、母娘して画家をめざしてフランスに来たが、一番下の幼子を亡くし、失意のどん底にいた。スティーヴンスンは彼女を慰め励ましているうちに、1日も早く夫と離婚し、自分と結婚すべきであるという熱意を燃やしていった。しかし、ファニーは夫からせめられて仕方なく、78年アメリカに帰っていった。

 それから1年して、スティーヴンスンは、ファニーからS.O.S.電報を受け取る。彼は親友の反対を押し切り、僅かな金を用意して両親には知らせず、アメリカに渡る。飲まず食わずの船旅をして、79年8月17日ニューヨークに着いた。そこからファニーのいるカリフォルニアをめざして、移民たちと一緒に汽車を乗り継いでいった。しかし、立ち直っていたファニーは、変わり果てた姿に愕然とし、醜聞をおそれ、暖かく迎えてはくれなかった。傷心のスティーヴンスンは、カーメルの谷でキャンプ生活をして死にかけてしまうが、運良くハンターの一家に助けられる。

 病弱な彼は死を覚悟しながら、離婚が成立するまでの間、独りさびしくサンフランシスコの安宿で創作活動に励んだ。ここで「ヨシダ・トラジロウ」は書かれ、80年に雑誌に寄稿されたのである。

 スティーヴンスンは、父親トマスの了解を得てファニーと結婚することができた。カリフォルニアで静養した後、妻子を連れて帰国し、両親の下に落ち着いてから、空気の澄んだ土地に転地療養する。ご存じのように、スコットランドのブレマーに滞在していたとき、義理の息子、ロイド少年を喜ばせようとして、書いた地図がヒントになって「宝島」が生まれた。父親と息子のために、毎日の一家団欒の時に1日1章のペースで書いては読み、読んでは書いた。1883年、この「宝島」が発表され、一躍有名になる。つづいて85年、「子供と詩の園」、86年、「ジギル博士とハイド氏」が生み出され、彼の三大ロングセラーになる。転地療養のため、南太平洋のサモワへ移住し、1894年12月、そこで亡くなった。

 著者はスティーヴンスンの「ヨシダ・トラジロウ」と松陰の生きた歴史を調べて照らし合わせている。同時に松陰とスティーヴンスンとの共通点を引き出して見せてくれる。二人の恵まれた家族愛と、友人を大切にすること、科学と文学への愛好は決して変わるものではない。結局、スティーヴンスンは「ヨシダ・トラジロウ」を書くことによって生きる勇気をもらい、松下村塾の輪の中に入った。

 著者は、二人の素敵な人生を照らし出すとともに、感謝を込めて「スティーヴンスンが日本に残したもの」を教えてくれた。 

・・・・・・・・・・・・・・・・・ ≪転載 了≫・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

スティーヴンスン先生!
なんて波瀾万丈な人生。
あなたも茨の道を歩みがら、「宝島」「ジギル博士とハイド氏」などの名作を紡いでいったのですね。

まさに、類は友を呼ぶ!
「ヨシダ・トラジロウ」先生の生きざまに惹かれたスティーヴンスン先生もステキです。

もしも、吉田松陰先生が幕末の世にご存命で、アメリカに渡った先でスティーヴンスンさんに出会い、家族愛に触れ感化され、帰国後、獄中で出会った生涯でたった一人の心の恋人・高須久子さんと結ばれて所帯を持っていたら。

・・・歴史にifはないけれど。

さらにパワフルに、公のため、日本のためにご活躍、ご尽力されていたに違いないと、ますます妄想は拡がります。


素晴らしい方々が織りなす不思議なご縁を知り、ますます尊敬とお慕いする念が深くなった、美しいお月様が優しく光を照らす、秋の夜のことでした。


Posted at 2014/10/31 10:23:44 | コメント(1) | トラックバック(0) | 誇り | 日記
2014年10月26日 イイね!

【日本人少女ヨーコの戦争体験記】高橋富代氏論文から思うこと【エリザベス・サンダース・ホーム】

【日本人少女ヨーコの戦争体験記】高橋富代氏論文から思うこと【エリザベス・サンダース・ホーム】
前回のブログで紹介した静岡県下田市議会議員 高橋富代先生の論文について、追記します。



高橋富代先生の論文を拝読し、私が愛する故郷・静岡の市議会議員の先生がご活躍されていることを誇りに思い、感銘を覚えた。

ご自分の領分で、またそこを軽々と跳び越えて、やるべきことに粛々と取り組む先達から学ぶことは多い。

「女性だから」ではなく「能力があるから」ご活躍されている高橋先生や国会議員の稲田朋美先生の姿は、勇気とやる気を与えてくださる。

まずは、「真実を知る」こと。そこから謙虚に「学ぼうとする」こと。
そして、「自分に何ができるか考え、実践する」こと。
日本のため、子供たちが自信と誇りを持って堂々と暮らせる未来の日本のために、自分にできることをやっていきたいという思いを強くした。


今回の論文を拝読して、不勉強のため、恥ずかしながら今回初めてその存在を知った日系米国人作家のヨーコ・カワシマ・ワトキンズさん著作の「竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記」について調べた。

竹林はるか遠く-日本人少女ヨーコの戦争体験記wikipedia



竹林はるか遠く-日本人少女ヨーコの戦争体験記



【書評】『竹林はるか遠く 日本人少女ヨーコの戦争体験記』
2013.10.12 08:42 MSNニュース

■戦争の悲惨さと平和の尊さ
 「在米韓国人が猛抗議」「全米中学校の教材から排除運動」-。1986年に米国で刊行された本書は、その20年後に突然、理不尽な嵐に巻き込まれる。同様の動きが「慰安婦問題」という形で世界中に広がる最中、本書の出版が発表されるや、予約の段階でアマゾンランキング総合1位を記録。発表4カ月後の今も口コミで広がり続け、高い人気を維持している。

 著者は昭和8年、青森生まれ。父が満鉄職員のため、生後間もなく家族で朝鮮半島北部の羅南に移住。戦況が悪化した20年、当時11歳だった著者は母と5歳年上の姉の女3人だけで半島を逃避行する。

 本書は、この時の体験を米国在住の著者が子供たちに分かりやすく伝えたいと、少女の目線から平易な英語でつづった物語である。抗日武装勢力に追われ、命の危険に幾たびも遭遇、その上乏しい食糧で、死と隣り合わせの日々が連続…。危機意識の低い今の日本人には学ぶことが多い。

 戦後の記録的なベストセラーとなった藤原ていさんの『流れる星は生きている』、世界中で読まれている『アンネの日記』などに「匹敵する戦争体験記」というありがたい感想もいただいている。

 本書に一貫して流れているテーマは「戦争の悲惨さと平和の尊さ」、そして特に、ともに苦難を乗り越える母と姉との「家族愛」。問題となった朝鮮人に関する描写の適否は、賢明な読者の判断にお任せしたい。刊行から四半世紀を経て、この貴重な物語が日本語で読めるようになったことを素直に喜びたい。(ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ著&監訳、都竹恵子訳/ハート出版・1575円)

・・・・・・・・


戦中戦後を逞しく生き抜いた擁子さんの真実の体験記は、戦争の悲惨さを訴える資料としてアメリカでは優良図書に選ばれ 中学校用教材として多くの学校で使用されていたそうだ。

しかし、韓国人・韓国系アメリカ人による反発、この本の教材使用禁止運動、活発なロビー活動、韓国領事館からの米教育当局へ嘆願書の提出など、なんの根拠もない感情的な圧力によって、一部の地域では教材から取り除くなどの対応が行われているそうだ。

あの醜く的外れな「慰安婦=売春婦」像設置の流れと、全く同じではないか。

またしても、「嘘を100回言えば真実となる」などという、日本人には全く考えが及ばない卑怯なことをする韓国人・韓国系アメリカ人によって、真実の訴え、事実の重みを汚されようとしていることに憤りを覚える。

かけだし鬼女の、今が日本の一大事~よければ一緒に凸しよう!~【コチラは旧居です】 
悲惨な戦争伝える「ヨーコの話」が朝鮮人に排除された話~日本人引揚時の暴行殺戮と「二日市保養所」~
http://blog.goo.ne.jp/fukudaikichi/e/45b3f282890b56ecabb0fb6d05c86cbf


~高橋富代さんの論文から引用~
>日本人は、やったことは、やったと言う。時にはやってもいないことをやったとさえ言ってみせる。河野談話がそれである。善人が自縄自縛で苦しむ姿が日本である。神道にベースを置く日本の精神性は「直き」を善しとし、正直を旨として、いつまでも相手の非にはこだわらぬ。水に流し、恩義には恩義で報いる。いかに大空襲と原爆で非戦闘員を虐殺されようが、同盟国に蒸し返し言い立てはしない。その平明さが日本人である。しかしアメリカ人は、というより外国人は異なる精神性の持ち主である。自らの益と非の隠蔽のためには、顔色も変えず相手の寝首をかく。それを言い立てても仕方がない。日本人の思考と感性で外国と向き合わぬことである。外国は腹黒く不正直であると思い知ろう。


朝鮮半島北部の羅南から命がけで日本に帰国した女性。朝鮮半島での、そして帰国してからの筆舌に尽くし難い、困難、艱難辛苦。

そこに思いを馳せていたら、ふと、思い出したことがあった。

・・・・・・

時は、平成15年睦月。

まだ私が小学校教員時代、東京への出張があり、そこで、結婚前の主人と落ち合ってデート(照)をした。
さて、どこへ行こうか。
迷いなく私が告げた行く先は、「皇居」♪

当時、東京方面への修学旅行で靖国神社に引率した(全員ではなく希望したグループだけだが)自虐史観に疑問を持つ教員だったので、皇居や靖国神社は私にとって大切で大好きな、神聖な場所であった。

ちようど、天皇陛下の前立腺全摘出手術が成功裏に終わり、平成15年1月16日(木)から2月8日(土)まで、皇居にて記帳を受付していた時期だった。(記帳名数総計は 51,601名だったそうです)

今となっては懐かしい、冬の太平洋側特有の良く晴れた小春日和の午後。東京駅丸の内側から皇居へ向かう人は、当時は年配の方が多かった。

テントが並んだ記帳所で、都道府県と名前を書いていたら、ある年輩の紳士から話しかけられた。
「随分と、お住まいが離れておりますな。お若い方は珍しいから、つい、ちらりと見てしまいまして…」
と、柔和な表情で声をかけてきた。

結婚して転居する予定です、などと話していると、紳士はご自分のことを話し始めた。

神奈川県の大礒からいらして、両陛下より日ごろから御心を寄せていただいている「エリザベス・サンダース・ホーム」の関係者の方だとおっしゃった。

私は、恥ずかししながら無知で存じあげず失礼をしてしまったのだが、主人はその存在を知っており、澤田美喜さんの話題などにこやかに話をしていた。皇后陛下とも親しくお話をされることもあると、紳士はお話されていた。
後で主人から、大東亜戦争後の戦争孤児、それも混血の孤児を受け入れて育て上げた、三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の孫娘である沢田美喜さんが創設した児童福祉施設であることを教えてもらった。

その施設や孤児となった方、関係者の方々に陰ながら御心をお寄せ続ける、我が国の天皇皇后両陛下の御立派なお姿に、ますます尊敬の念を強く持った。

その後、テレビドラマに取り上げられたことで、「エリザベス・サンダース・ホーム」と澤田美喜さんについて、さらに詳しく知ることができた。

テレビドラマ データベース
女の一生シリーズ(2) 二千人の孤児の母 澤田美喜物語~母たることは地獄のごとく~エリザベスサンダースホーム実話!戦争が生んだ混血孤児に人生を捧げた女性!!名乗れない母たちの号泣


敗戦後、進駐してきたアメリカ兵との間に生まれたが故に、捨てられ、殺された混血の子供たち。戦争で焼け野原となった日本で、そんな哀れな子供たちを何とか救おうと奮闘した1人の女性がいた。澤田美喜、旧三菱財閥の三代目当主の娘である。当時は、旧財閥の娘とはいえ資金調達は厳しく、美喜は私財を投じ、寄付を仰いで金を集めた。美喜にとって、資金の調達以上に厳しかったのは、周囲の視線であった。日本人からは、令嬢の道楽とか、売春婦の産んだ子どもを育てていると中傷され、進駐軍関係者からは、アメリカの誇りを汚していると妨害を受ける。しかし、美喜は、様々な困難に立ち向かい、可愛い子供たちのために必死で頑張るのである。美喜が設立した『エリザベス・サンダース・ホーム』から巣立った混血児たちは、2000人以上。混血の子供たちに、夢や希望を与え、人間としての誇りを教えた美喜は、1980年の5月に天国へと旅立った。この作品は、戦後の荒廃した時代の中、愛と自己犠牲の精神で、見捨てられた混血児の救済に自分の半生を捧げた1人の勇気ある女性の物語である。日本の敗戦後、連合軍による占領が始まった1946年、解体された三菱財閥の三代目当主・岩崎久弥(児玉清)の娘・美喜(松坂慶子)は、アメリカ兵と日本人女性との間に生まれた乳児の死体が、そこかしこに捨てられているのに気付き、孤児院の設立を目指す。美喜が施設として目を付けた建物は、政府に物納された大磯にある岩崎家の別荘。これを多額の借金をして買い戻した美喜は、遺言で176ドルの寄付をしてくれたイギリス人女性の名前を取って、『エリザベス・サンダース・ホーム』と命名し、活動を始める。当時、日本人は元より、アメリカ人からの誹謗、中傷、妨害も激しかったが、美喜は哀れな子どもたちを守るため、必死で金策に走って…。【以上、日本テレビ広報資料より引用】



「戦争の悲惨さと平和の尊さ」などという美辞麗句、きれいごとでは語りつくせない、人々の葛藤と、困難にある人々を救った澤田美喜さんという女性の生き様、素晴らしさを知り、感銘を受けた。

朝鮮半島の朝鮮人と、日本の国内でも横行した米軍兵士による強姦、暴行は、全くといっていいほどマスコミに取り上げられることがないため、日本人に知らされることもない。
憚ることなく声を大にして自分を可哀想だと自己申告している「慰安婦」という売春婦だけが、まるで被害者であるかのようにとらえられている国内外の風潮は、正さなくてはならない。



まずは、「真実を知る」こと。そこから謙虚に「学ぼうとする」こと。
そして、「自分に何ができるか考え、実践する」こと。
日本のため、子供たちが自信と誇りを持って堂々と暮らせる未来の日本のために、自分にできることをやっていきたいという思いを、ますます強くした。

↑大事なことなので、二回言ってみましたww



Posted at 2014/10/26 09:35:23 | コメント(1) | トラックバック(0) | 斯くあるべき | 日記
2014年10月25日 イイね!

【高橋富代氏論文】アメリカよ、日本を打つならまず自らの手を清めよ~幾多のお吉たちへの鎮魂歌~

【高橋富代氏論文】アメリカよ、日本を打つならまず自らの手を清めよ~幾多のお吉たちへの鎮魂歌~井沢満氏ブログ、中山成彬氏ブログ、「ねずさんのひとりごと」などで絶賛されている論文を拝読しました。
執筆された方は、静岡県下田市議会議員 高橋富代さんです。

過去に二度入選されたアパ論文で、今回(第七回「真の近現代史観」懸賞論文)は惜しくも入選は逃したということですが、痛快で胸のすく、女性ならではの視点もありながら、まっとうな日本人なら誰でも共感できる、柔らかくも硬派な読み物で、感服いたしました。


以下に、紹介させていただきます。

http://blog.goo.ne.jp/mannizawa/e/a86433c497b4a15c047583d64148c0db
井沢満ブログ

見事な論文                               2014-10-24

中山成彬氏は個人的に存じ上げないのだが、私が最も敬愛する政治家のお一人でいらっしゃる。

時折ブログを拝見するのだが、下田市議会議員の高橋富代さんの論文が取り上げられていて、いささか驚いた。

といいうのは、自民党のどなたかのパーティにお招きいただいて出かけたら「あなたの小説『ゆきの、おと』の愛読者さんです」と紹介を受けたのが、高橋富代さんだったからだ。

その後取り立ててお付き合いがあるというわけでもないのだが、私が小説やドラマを書くとブログで取り上げてくださって、有り難い方である。

そんな高橋さんの論文で、しかも中山成彬さんのブログに転載?
と驚いて一読、更に驚いた。

あの秀逸な理論家でいらっしゃる中山さんが、絶賛なさるだけのことはある。
中韓の日本毀損の核にある、実はアメリカの反日性を冷静にしかし、女性特有の繊細な筆致で書かれ、情を湛えつつ、しかしながら情に溺れず、論理構成は緻密で間然するところがない。

小論だが、仮にこれをアメリカの高官に突きつけて、論破できる人はいないだろう。書かれたこと全て事実だからだ。
事実を並べつつ、アメリカが隠蔽してきた闇を腑分けして、陽のもとへ引きずり出すその手並みは鮮やか。NYタイムズのヤクザ記者などにもパンチをくらわし痛快。

私も折々に触れてきた、日本を損ねる2大要素war guilt informationやPress Code for Japanを引き合いに、憲法改正の必然性にまで論理を追い詰めてゆき、小論ながら目を弾かれる思いであった。

中山成彬氏が絶賛、自らのブログにまで転載されるだけのことはあった。


新党「次世代の党」中山なりあき オフィシャルブログ

ねずさんの ひとりごと 

伊豆下田発 高橋とみよ です! 


アメリカよ、日本を打つならまず自らの手を清めよ
                ~幾多のお吉たちへの鎮魂歌~

                                    静岡県下田市議会議員 高橋富代



 アメリカに愛着がある。私は下田の生まれで、物心ついた頃から黒船祭がありアメリカという国が水兵さんの姿で、時にはアメリカ大使の姿で日常にあった。
 先の戦争が、アメリカに巧妙に仕掛けられたのだと長じて認識してもなお、相模湾の潮騒と黒船祭を幼児期の原体験に育った私は、同国への憧憬を捨て切れずにいた。
 それが、突然崩れ去ったのは、二〇一四年四月二五日のことである。
朴槿恵大統領とソウルで会談したオバマ大統領が共同会見で言い放った言葉で、私のアメリカへの片思いは終わった。この片思いは多くの日本人が、アメリカに対して抱いて来た心情と同種だと思う。ハリウッド映画や、ホームドラマで見つめてきた、豊かで明るい正義の国アメリカ!

 「甚だしい人権侵害だ」とオバマ大統領は切り出した。「慰安婦らの主張は尊重されるべきだ」「過去を正直かつ公正に認識しなければならない」と日本を裁き「安倍首相や日本国民もそのことを分かっているはずだ」とまで口にした。
 一九四四年に朝鮮人慰安婦たち二十人へのアメリカ陸軍の尋問調書が収められているのは、他ならぬ米国立公文書館である。調書の「序」にいわく「慰安婦は売春婦、Professional camp followerにすぎない」と。
 しかしオバマ大統領にとっては真実など意味もなく、同盟国である日本を韓国と共に貶めることなど、蚊を叩く程度のことなのだ。と、そう私は唐突に思い知ったのだった。
 
 安倍総理の靖国参拝にアメリカが「失望した」と言ってきた時に、すでに違和感はあった。東京裁判の開廷者であるアメリカが、A級戦犯の何たるかを知らぬはずもなく、要するにでっち上げの戦犯であり、日本が勝っていれば、アメリカに戦犯が大量に生まれていただけのことだ。しかし私は、芽生えた不審の念に視線を当てることを避けた。アメリカを敵に回したら、防衛の要である日米同盟が壊れ去る、と潜在的恐怖心があったのだと思う。加えて、パブロフの犬的調教として、日教組、そして当時はGHQのコントロール下にあったNHKなどから、戦後七十年弱かけて刷り込まれていたのであろう。「アメリカ様に逆らってはならぬ」と。逆らえば餌をもらえず、叩かれるのだ、と。
 しかし、いともあっさり韓国に寄り添い日本を足蹴にしたアメリカ大統領に私は、悟らざるを得なかったのだ。親米保守であった私の足元が瓦解した瞬間であり、「鞭」の存在に気づいた瞬間であった。日本の頭上に常にふりかざされていた、アメリカの鞭である。この鞭は、日本が歴史の真実、つまりはアメリカが世界に知られたくない事実を日本人が知り始めた時、まず威嚇のために床にピシリと鳴り、日本が自立しようと立ち上がった時は脳天に振り下ろされる鞭である。それと共にNHKも、民放のある番組も新聞も、いまだ戦時下のプレスコードを抜け出していないという現実に私は息を呑んだ。日教組も、彼らが実質作る教科書も、時には入試問題さえ、日本毀損と弱体化のいまだ道具である。
 オバマ大統領はあろうことか、東京大空襲の「ドーリットル爆撃隊」の隊員に、 議会最高位の勲章を授与する法案に署名した。日本各地の大空襲では無抵抗の赤ん坊や、小学生まで含めて民間人計三十三万人が空襲で殺された。原爆と合わせると七十七万人の非戦闘員が命を落としている。ドーリットル爆撃隊への授章理由は「傑出した勇気」だそうだ。

 中韓の執拗な日本攻撃と反日の源流はつまるところ、東京裁判と、GHQの日本弱体化政策に帰する。思えば、進駐軍が日本のマスコミにかけた規制「プレスコード」には、連合軍への批判禁止に加えて「.朝鮮人への批判」と「中国への批判」があったではないか。わざわざ「朝鮮人」と特定して批判を禁じた意味を日本人は考えるべきであろう。在日優遇または犯罪お目こぼし政策は、彼らを自己増殖するトロイの木馬として日本に埋め込んでいったということではないか。「朝鮮進駐軍」容認がその一例である。差別的見地で言うのではない、歴史の実相を直視するところから始めぬと、日本の進むべき道が見えて来ぬ。日本人として戦った朝鮮の人々を、日本の被害者として置き換えたのも、GHQの力技ではあった。
 奴隷使役国の誹りを世界から受けぬために、アメリカは自国以上の悪者に日本を仕立てる必要があった。日本には奴隷制の歴史はないので、でっち上げたのが朝鮮半島の「植民地化」呼ばわりであり、人々を奴隷にしたというフィクションが、しかし東京裁判でノンフィクションとしてすり替えられた。インディアンを殺戮し土地を奪い、奴隷をこき使い、苦力を牛馬のように扱ったのはアメリカである。ハワイ王国の滅亡もアメリカによる。
 日韓併合は白人たちの概念にある植民地には該当しない。圧政と搾取が植民地であるが、日本が行ったのは合邦である。韓国の近代国家への礎を作ったのは日本である。

 先の戦争の大義は、それまで白人が有色人種を動物扱いで使役、暴利を貪っていた世界を一気に日本が突き崩し、世界の悪しきパワー・バランスを壊したことにある。日清日露の勝利は、白人たちにとっては黄色い猿が仰天すべきことをやってのけたということであり、彼らは憎みかつ怯えたのである。知力を備え文化さえ持った「猿の惑星」の猿を呆然と見つめ、そして我に返った彼らは猿を叩き、再び立ち上がれなくなるよう手足を折ったのである。
 
 占領軍の検閲対象の一箇条に「GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判」というのがあることに留意されたい。これは語るに落ちる話であり、昨今憲法改正について緒論かまびすしいことであるが、連合軍がプレスコードという形で、はからずも告白しているではないか。日本弱体化のために我々は日本国憲法を起草したのだ、それゆえ批判することまかりならぬ、と。
 となれば、日本が自立した国家たらんとするなら憲法改正は避けて通れぬ道であるということである。
 「プレスコード」には次の条項もある。「占領軍兵士と日本女性との交渉」を報道してはならぬ、と。交渉とはおそらく米兵による日本女性の強姦をも含む。これは多かった。ここに思いを致す時、私は米兵たちのレイプ頻発を防ぐため、性の防波堤となり、日本全土のあちこちに横たわった無数の「お吉」たちの顔が浮かぶ。生活苦から慰安婦を志願した女達もいるだろうが、彼女たちが身を挺してアメリカ兵たちを受け止めてくれたからこそ、強姦の発生件数が抑制されたのである。
 連合軍にはわずかの豪州、英国の兵もいたが、圧倒多数はアメリカ兵だったのだから、「アメリカ兵」と一括した呼び方も許されると思う。
 日本に進駐したアメリカが、まず要求したのは慰安所の設置だった。各地にそれは要求され「千葉公文書」として知られる史料には、昭和二十年九月五日、館山に上陸した米軍第一一二騎兵連隊相手に、慰安所が設置された詳細が記されている。
 そのことを憤るほど私は偽善者ではない。異性から長く遠ざかった若い兵士たちが、どれほど猛り立っているか、動物としてのオスの衝動である。これを、率直に認めないから清教徒の多いアメリカの、きれいごとの嘘がものごとの本質を歪める。日本に設けられた慰安所は「余暇・娯楽協会」とアメリカ風美名で呼ばれたが、売春宿である。アメリカ軍は公には売春施設を認めない。だから、なかったことにする。シカゴ・サン紙特派員マーク・ゲインは慰安所を「米軍を腐敗させようとする日本の謀略。その武器は酒と女で、目的は占領軍の士気と占領政策の破壊」とすり替え、占領期間中米兵による日本人殺害毎年平均三五0人。一000人以上の婦女子暴行(調達庁調べ)には触れない。一0万人が亡くなった東京大空襲は「死者六千人」と縮小。なんという偽善と嘘。外国特派員協会はGHQの情報発信基地だったが、その体質はいまだ生きている。
 「余暇・娯楽協会」はやがて封鎖される。ルーズベルト夫人の反対が原因であるが、彼女の「清らかさ」ゆえに、巷では再び強姦が増え、一般の日本女性が犠牲者になったのである。
 私が、大勢の無名のお吉たちに対して悲しみと憤りを感じるのは、身を挺して日本女性の貞操を守った彼女たちの犠牲を無視、アメリカは自らの手は汚れてはいないとして、日本を一方的に打ち据えるからだ。日本女性への狼藉を防ぐために、日本各地で横たわった大勢のお吉たちは、何のために払った犠牲であったのか。アメリカは、その時そこにそんな日本女性たちがいたことを見ようともしない。いや、いなかったことにしてしまったのである。私はそれを許さない。彼女たちの墓碑銘は私が刻み続ける。

 日本人は、やったことは、やったと言う。時にはやってもいないことをやったとさえ言ってみせる。河野談話がそれである。善人が自縄自縛で苦しむ姿が日本である。神道にベースを置く日本の精神性は「直き」を善しとし、正直を旨として、いつまでも相手の非にはこだわらぬ。水に流し、恩義には恩義で報いる。いかに大空襲と原爆で非戦闘員を虐殺されようが、同盟国に蒸し返し言い立てはしない。その平明さが日本人である。しかしアメリカ人は、というより外国人は異なる精神性の持ち主である。自らの益と非の隠蔽のためには、顔色も変えず相手の寝首をかく。それを言い立てても仕方がない。日本人の思考と感性で外国と向き合わぬことである。外国は腹黒く不正直であると思い知ろう。
 言うも気恥ずかしい初歩のセオリーであるが、しかしその初歩を戦後六十九年間怠って日本は現在のていたらくである。韓国と中国の二重の反日包囲網を更に、アメリカの「反日」が取り囲む。黄色い猿は優秀で、幾つかの幸運はあったにせよ戦後の焼け野原からあっという間に立ち上がり、経済大国となった。ならばカネをむしり取ってやれというわけで、中韓への理不尽なODA、国連へ実権を与えられぬままの出費、などなど金銭面での弱体化が試みられるが、それでも日本はしぶとく、またぞろアメリカは日本殴打を再開、その一環がアンジェリーナ・ジョリの反日映画「UNBROKEN」であろう。日本軍が生きたまま、捕虜の肉を食らったというストーリーで、 これは特派員協会の会員であったN・Yタイムズのニコラス・クリストフという男が「日本兵が中国人の子供を殺して肉を食った」書き散らした捏造と軌を一にする。 ちなみにクリストフの妻は中国人である。 ハリウッドは間歇的に日本貶め映画を市場に出す。だが日本人は、アンジェリーナ・ジョリの来日にファンが群がり、GHQがwar guilt information programに託して刷り込んだ、自虐史観と侮辱に鈍感な感性はいまだ機能している。アメリカが日本人に為したのは、神道の事実的追放である神道指令、学校教科における修身・日本史・地理放逐の「三科指令」であり、日本人はこれにより民族の誇りを抜き取られて現在に至る。言霊の幸わふ瑞穂の国から、その豊穣で美しい言葉が絶えつつある。言葉が痩せることはすなわち国の精神性の貧困を意味する。男系で百二十五代続いた天皇陛下を国の要としつつ、四方の海の要塞に守られて育まれた固有の文化を大事にしたい。言葉を守ることは防衛なのだ。

 朝鮮戦争時における米兵相手の元韓国人慰安婦が韓国政府を相手取って訴訟を起こしたのはこの六月のことであるが、朴槿恵大統領もアメリカも内心頭を抱えたのではないか。慰安所を開いたのは、皮肉にも朴槿恵大統領の父上である朴正煕・韓国元大統領であり、慰安婦を抱いていたのはアメリカ兵なのである。韓国は韓国でベトナム戦争の時、現地女性を「性奴隷」として虐待殺戮の事実がある。
 いったい、誰が日本を打つ白い手をしているというのか。日本の慰安所は合法で規律正しかった。ちなみに、 一説によると 進駐軍相手には「慰安夫」もいた。(『戦後の日本を知っていますか?―占領軍の日本支配と教化』百瀬孝監修)昭和二一年、名古屋は松坂屋の近く、焼け残った木造アパートに身体検査に合格した数人の若者が集められ、アメリカ女性兵の相手を したとされている 。売買春を、短絡的に女性の人権論に話をすり替える人たちが絶句すると思うので敢えて書いた。安倍政権による河野談話の見直しで形勢不利になったと見るや、韓国は「女性の人権論」に論点を置き換え、慰安所に日本軍が関わっていたと責めているが、売買春がさほど悲惨なら、日本に五万人いる売春婦(韓国・国会国政監査発表)を、早急に救い出しに来て欲しいものである。韓国が売春大国であることは「韓国女性政策研究院」が調査の上で、認めている。
 
 私の地元下田の唐人お吉を連想させるため、そしてまた慰安婦問題はライフワークだと思い定めているのでその記述が多くなったが、慰安婦は突出してわかりやすいアメリカ側の負の記号なのである。アメリカは現実を認めるべきだ。日本だけではない。ノルマンディーに上陸したアメリカ軍に対して、ル・アーヴル市長が慰安所の設置をアメリカ軍に懇願したが、軍はこれを拒否。その結果「往来をアメリカ兵たちによる強姦に遭遇せずに道を歩く事はできない」と言われるほどレイプが頻発したのである。
 アメリカよ、自らの汚れた手を見よ。その手で日本を撃てるなら撃て。バイブルに手を添えて宣誓する時の潔白さで、慰安婦問題には向き合え。日本は自らと、祖父と父の名誉を懸けた戦いである。これに負けるわけにはいかぬ。

 対中国があり日米同盟は必要だが、しかしアメリカもまた日本を必要としている。過度の依存とそれ故の過剰な謙虚さは、長い目で見れば結局日米関係を損ねる。まずアメリカが礎石を置いた中韓の重層的反日の構造を把握しないと、それへの対抗策を見出し得ない。結論を先に述べるなら、安倍総理の戦後レジウムからの脱却が急務で、そのためには憲法改正が必須。自衛隊から国防軍ヘの昇格を。それを即戦争と結びつけるのは幼稚である。日本が侵略したい国など、世界のどこにもありはしない。そこからの侵略から守りたいと思う国ならある。
 
 しかし東京裁判史観からの脱却に、政府レベルでは限度があるのではないか。たとえば、安倍政権の河野談話見直しは、韓国(とアメリカ)に痛打だった。それならなぜいっそ、談話を破棄するなり河野洋平氏を国会喚問せぬのだろう。後者は「前例がない」という納得しがたい理由で、呼ばぬという。
 ひょっとしてアメリカへの慮りであり、またアメリカからの「圧力」ではないかと、穿ってしまうのだ。明らかなことは唯一つ、何らかの理由で、政府が米国に対して及び腰であることだ。ならば、民間で立ち上がり声を上げるしかないではないか。いかなアメリカとて、国民の声までは封殺できぬ。政府を頼むな、自ら立ち上がり戦え。一部が怯える如き「ナショナリズムの復活」などではない。自力で立ち、自分で身を守れる普通の国になろう、と言っているだけのことである。

 具体案は幾つかあるが、たとえばアニメの製作。題材はこれもたとえばヨーコ・カワシマ・ワトキンズの「竹林はるか遠く―日本人少女ヨーコの戦争体験記」。この製作委員会を民間で立ち上げ、寄付を募る。その行動自体が大きな問いかけになろう。日本の汚名をそそぎ、真実を世界に伝えるに日本のアニメ技術と人気を使わぬてはない。尖閣であれだけのお金が集まった。映画がヒットすれば、回収は出来る。利益が出ればそれと合わせて、次のアニメ制作を企画する。具体的腹案は割愛するが、私は動いてみようと思う。
 
付記 拙稿を書き終えてからしばらくして、朝日新聞が八月五日の朝刊で「慰安婦問題の事実関係に誤りがあった」と認めた。しかし謝罪は無く、英文版では一行も触れず、その上、論点をずらして相変わらず慰安婦をネタに日本を叩く構え。政府はこれだけの環境が整ったのに、(おそらく対韓国対アメリカへの外交配慮から)河野談話の見直しはしないという。やはり国民が覚醒して立ち上がり、この仕組まれた情報という名の戦争を戦うしかない。互いに呼びかけ、手を組み立ち上がろうではないか。


転載 了
*******************



Posted at 2014/10/25 20:20:15 | コメント(2) | トラックバック(0) | 所感・雑感 | 日記
2014年10月19日 イイね!

【ハッチポッチ】名曲アルバム  ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノ \ / \

【ハッチポッチ】名曲アルバム  ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノ \ / \
親戚のお兄ちゃんにもらったABBAのLPレコードが、はじめて自宅のステレオで聴いた洋楽のアルバムでした。
その後、クラシックとオフコース時代を経て、洋楽を聴くようになった時、
(もっと、早く生まれてきたかったな)
(リアルタイムで聴きたかった)
そう思うロック・バンドとたくさん出会いました。


でも、今は、この時代に生まれてきて良かったなと思ってます(´∀`*)
ハッチポッチ・ステーションの WHAT'S ENTERTAIMENT? で笑える世代だから♪

ジワジワくる、ツボにはまる、ニヤリ、アハハ、そして、いつの間にか、腹筋崩壊!
心にも身体にも効能がある、グッチ裕三さんの WHAT'S ENTERTAIMENT?


どうぞ、お楽しみください♪


犬のおまわりさん by GUEEN


あのこはだレイラ by エリックかけブトン


うみ~おつかいありさん~森のくまさん by ビールと酢


ふしぎなポケット  by ベイ・シテイ・ドーナツ


おはなしゆびさん  by KISSA


おうま by YONTANA


クラリネットをこわしちゃった by ジョン・トラボタル


母さんの歌   by アース・ウィンドアンドーナッツ


おはなしゆびさん~単身赴任 by BABA
大きな栗の木の下で~YMCA  by ビレッジピーマン
山口さんちのツトムくん   by マホービン・ゲイ



♪いつが 都合いいの? 都合いいの?

もう、・・・ダメ。腹筋・・・・・・、崩壊 ((( ⊂⌒~⊃。Д。)⊃!!(爆笑)


♪♪♪

同世代のあなた。
先輩の貴方。
洋楽がお好きな、お若いアナタ。

お楽しみいただけましたでしょうか?


あなたは、どの「名曲」がお好きですか щ(゚▽゚щ)?


【追記】

ハッチポッチステーションとは。
1996年から2003年まで、教育テレビ17:40 - 17:50放送のパペットバラエティ子供番組。日本のテレビ放送の歴史において、最高視聴率を獲得した子供番組である。
2003年4月より2005年まで、水曜日と木曜日と金曜日の未明の週3回、『ハッチポッチあんこーる』と題して再放送。
パペットやイラスト、デザインは藤枝リュウジ氏。

「エドガワ・サリバン・ショー」「スマイリー高田のリズムでGO!」「きょうこそ料理」「日用品美術館」「小路ジャニ麻呂のザ・人生相談」「すみの園芸」など、パロディコーナーと共に人気を誇ったのが、
『WHAT'S ENTERTAINMENT?』

パロディ曲の大半が、日本の童謡、唱歌と、海外の大物アーティストの楽曲を組み合わせたもので、外国曲の歌詞は童謡の内容を踏まえた替え歌にされている。グッチ裕三やリトルグッチーズが元歌のアーティストに扮して歌う。アーティストの名前は駄洒落めいたものに捩られている。
子ども&子育て世代の親向けの内容で、洋楽好きの父親に支持され、夜の再放送が始まった。

ハッチポッチステーション~What’s Entertainment?~(「CDジャーナル・レビュー」より)
NHK教育テレビで人気の同番組の中からピックアップされた、グッチ裕三の“曲芸”が楽しめる一枚。この番組は子供向けだが、名曲のパロディ・ソングの数々に大人のファンも多いことで有名。演奏されるのはプレスリーなどのオールディーズからディープ・パープルなどの70年代ロック。それらが童謡と合体するのだからたまらない。たとえば「ハイウェイ・スター」が「アルプス一万尺」に、「ボヘミアン・ラプソディ」が「犬のおまわりさん」に変化する……。替え歌とは違い、曲に愛情を持って接しているさまがわかりヨロシイ。 (石塚隆) --- 2001年12月号



今回は、youtubeにアップされていたものだけの紹介ですが、まだまだ、イカした名曲がたくさんありました。
私はちょうど仕事をしていた時期だったので、本放送に間に合わない時には録画したり、深夜や未明の再放送を楽しみに待ったり、グッチさんの愛情あふれるパロディ曲に、大嵌りでした。
CDは持っていますが、できればDVDでも発売して欲しいな~と願っています。著作権とか、難しいのでしょうかね。

ハッチポッチステーション スペシャル スペシャル






Posted at 2014/10/19 07:58:36 | コメント(3) | トラックバック(0) | 音楽 | 日記
2014年10月15日 イイね!

車とわたし<後編>

車とわたし&lt;後編&gt;
☆これまでのお話は、こちらこちらをごらんください☆


前編、中編とくれば、後編へ続くもの。
ここからは、免許を取ってからこれまでの車生活について、端的にまとめなくてはならない、そう思うと、とっちらかった文章しか書けない筆力のない自分は、続編を書くのを放置してしまい、日々の気になることに関心を向けてしまった。


・・・やってしまった。現実逃避である。いつだって、やるべきことを先にできない自分。
昔から、何の進歩もない。
こんな駄文、続きなんて書かなくても誰も気にしないだろうし、・・・。でも。


さあ、どうなるのかは、書いてみないと分からない。
『成らぬは人の為さぬなりけり』とおっしゃった米沢藩主、上杉鷹山様のお膝元で、自動車免許取得を目指している場面に戻ろう。

☆山形県の思い出☆
・お米が旨い!なんだ東北、お米、本気で美味しいじゃん!
・野菜が旨い!肉が旨い!魚も旨い!水も旨い!空気も旨い!
・西洋梨(ラ・フランス)って、ちょっと柔らかくなってから食べるんだ。ちょー旨い!
・青ジソドレッシングなんてあるんだ(at ペンション)。旨い!ボトルで買って帰ろう。
・お米が美味しいから、マイ塩辛を冷蔵庫にキープさせてもらって食べた。旨い!ヤバイ食べ過ぎ!
・なんだ、なんなんだ、この大規模すぎるイベント「芋煮会」。人大杉。芋煮、ちょー旨い!!
・山形弁、なんだか面白いぞ。終わるころには、イントネーション、マスターしてきた!
・同部屋の東京から来たライダーのお姉さん。寝る前にもウォークマン聴いてるけど、結構な音量で歌ってるから、Boowy(真ん中、串刺し)一枚フルコーラス。本人だけ気付いてなくて、毎晩爆笑して眠れなかったよ。
・信号機が、縦に並んでる?そっか、雪が降っても見やすいようになんだね。
・高速道路がない。練習できなかったけど、まっ、大丈夫だね。
・腹心の友。なぜそんなに笑う。えっ?車に乗って、まずクーラーをつけるのはおかしい?安全点検?クーラーダメ、それならば窓を全解放、教習車でそこに肘を載せて運転してるのはおかしい?
だって、父親はいつもそうやって運転してたから。もうちょっと、緊張感を持てと? はいはい。
・卒験。友Aよ、なぜ落ちる。ディズニーは寄らずにみんなで帰るから、あと二日、がんばれ!

無事に仮免許を取得。地元の免許センターで合格。
晴れて、山形の楽しい思い出とともに、普通一種運転免許証を手にすることができた。
翌年、我が大学のメインストリートに山形の教習所の先生方が勧誘に来ていたが、あんなによくしゃべる先生たちが妙に無口だったのが悲しかった。方言は、素晴らしい日本の文化です!


さて。
免許がとれたあかつきには、まずは、自宅から最寄りの駅までスクーターに乗って通うことにした。
この頃のスクーター(HONDA、Dio)は、あの坂道を登り切る馬力があった。流石に、女子大生がスーパーカブにまたがるのはどうかと危惧したが、流石は日本製バイク。よかった。

そして、大学の授業や課題も増える二年生から、いよいよ、下宿をさせてもらうことになった。
12畳一間フローリングのアパート。夢の一人暮らしの、は・じ・ま・り♡

今度は、アパートから大学までスクーターで通う。
念願のお車購入資金を稼ぐために、せっせとアルバイトに精を出した。

☆アルバイト一覧☆
・家庭教師
・割烹料理店 ←はじめは着物着用。着丈が短くつんつるてん気味なので途中から着なくてもよいことに(涙)
・地元スポーツ新聞の週末スポーツイベントの取材、写真撮影、記事執筆、校正 ←これは一番長く、3年間続けたバイト。Canonイオスで写真を撮るのが楽しかった。少年団活動が主な取材先で、インタビューしたりするうち子供たちと仲良くなった。野球やサッカーなどのスポーツ新聞独特の言い回しは、実家で日刊スポーツを読んでいたから、なんとなくわかり役立った。サッカー、ミニバス、テニス、ソフトボール、剣道は経験していたから、ルールはわかった。
・スポーツクラブ(フィットネス)のインストラクター ←修行しながら、二年間継続。お兄様お姉様、おじ様おば様との会話のスキルを磨いた。趣味や素敵なところを見つけて、質問する、褒める。空き時間にアスレチックやスイミングができて健康になった。
・焼き肉店ウェイトレス ←憧れのバイトだった。まかないご飯が半端なく美味しかった。
・交通量調査
・バスの中の広告調査
・コンサートの楽屋のお世話 ←キヨシロー様に会えた。バクチク様の楽屋からヘアスプレーがパルサンのように燻って来てワロタ。
・地元新聞タウン誌、グルメ雑誌の取材、記事執筆 ←県内のレストランを回り、写真を撮り、取材、記事をかく。写真を撮った後食べさせてもらえて、嬉しかった。「美味しい」を言葉で表現するのは、難しいと実感。
・地元リクルート誌の写真モデル
・会計事務所、コピー取り、事務手伝い
・裁判所、被告の似顔絵描き
・地元テレビ局主催小中学生海上研修グァムサイパンの旅、大学生講師 ←洋上テレビ○小屋、まだやってますか?
・海外ミュージシャン来日コンサートの警備。 ←スティービー・ワンダーとちゃっかり握手した。ボンジョビ様も。
・プロ野球パリーグオールスター戦(シーズン終了後)のスタッフ・警備 ←野茂さんの熱烈ファンで、当時結婚するつもりでいた(勝手に)。その翌日、結婚発表(涙)

・・・きっと他にもいろいろやっているけど、失念しているものも多々あり。

とにかく、47万円(なぜか刷り込まれていた)ためれば、車に乗れると信じていた。
その他諸経費がかかることなど、当時は知る由もなかった・・・。


そんな、アルバイトに学業に邁進する日々、私は、ある車と運命の出会いを果たす。

すわっ! ←古い。 それは!

パトカー日産R30スカイライン!

この出会いについては、こちらをごらんください。

私は、この車に乗ろうと決心した。
もちろん、新車でなんて買えない。
中古車の雑誌を生まれて初めて購入し、中古車センターもスクーターで回った。
スカイラインは、お尻が大好き。まあるいテールランプ。
できれば、フロントはきゅっと締まっている「鉄仮面」がいい。
色は、ブラックか、赤黒ツートン。
RSターボ、なんてもっとカッコいいけど、エンジンとか性能のこととかよく分からないから、取りあえず、あのカッコいいボディに乗りたい。
スカイラインよりひとまわり小さい「ラングレー」も可愛いけど、やっぱりスカイラインがいい。

もう、乗ると決めたら、あとはバイトで稼ぐだけ。
夕方からも、夜からも、バイトをいれて頑張った。

そして。
ふふっ。あともう少しで買えそう♪
・・・というところで、実家に帰省して(スクーターでのんびり1時間半)、自分で貯めたお金で車を購入することを告げる。

父。猛烈に反対。
なぜ?
「事故に遭ったら死ぬから」
それはそうだ。死んでしまうこともある。だから、気をつけて乗るよ。
「ダメだ。そんな変な車だと(!)ぶつかったら死んでしまう」
じゃあ、どんな車なら死なないの?

いや~な予感がした。
実はその時、父は代々乗り継いだ日産「セドリック」から、フォルクスワーゲン「ジェッタ」に乗り換えていた。
弟が、学区を超えて公立高校で野球をするために転校した時にお世話になった方がヤ○セにお勤めで、その縁で車を購入していた。
白いジェッタ。なんだか、サニーのようにも見えて(失敬)、父が乗るにはちょっと違和感。

「おれは、そろそろ、他の車に乗ろうかと思う」
ふ~ん。

まっ、私は自分の稼いだお金で買うのだから、父にとやかく言われる筋合いはないと思っていた。

甘かった・・・。

「ちょっと、帰って来い」
実家に呼ばれて帰省すると、そこには車のカタログが。

『VW「ゴルフⅡ」』

「どの色にするか、決めろ」
へっw(゚△゚)w

「ぶつかっても死なない車に乗れ。俺が買ってやる」
「いらない。自分で乗りたい車に乗るから、買ってくれなくても大丈夫!」
「国産車は、鉄板が薄くて、自分で事故しなくても、ぶつけられても死ぬんだ」
なんという、むりむりな飛躍。
「この車じゃないと、車に乗ることは許さない。同じ町に住む○○(弟)の世話も頼みたいし」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・orz

こうして、私は「バカ娘」「ドラ娘」のステッカーを貼った、「ぶつかっても死なないゴルフⅡ」に載せていただくことになった。

さようなら、スカイライン。
あなたに乗りたかったんだよ~。

車に乗れることは、とっても嬉しかったが、どうしても素直に喜べなかった。
親に買ってもらった車を運転するのは、恥ずかしかった。
友達はみんな、
「そんなこと気にしないで、乗ればいいじゃん。ドライブいこうよ」
と言った。

私は、新車の車を手に入れた代わりに、とても大切なものを失ってしまった気がしていた。
自分で乗る車は、自分で買いたかった。
あー、乗りたかったわ。スカイライン。
山下達郎さんの♪ターナーの汽罐車 に載せて、もっとカッコいいスカイラインが発売されているわ。


しかし、いつまでも後ろ向きでいても仕方ない。
折角、素敵な車に乗れるチャンスだから、ゴルフⅡちゃんを大事に乗って、可愛がろう!
もう、他の車が欲しいなんて言ったら、罰が当たる。
私は、浮気はしない女よ(笑)♪

ゴルフって、すごく、いい車なんだね。
エンジンの音が好きだなあ。
ハンドルを握った感じが、しっかりとしっくりとくる。
ちょっと飛ばしたい時には、アクセル踏むとググーッとスピードが出る感じがする。
後ろにもスピーカーがあると、もっといい音で音楽が聴けそう。
よーし、BOSE、つけちゃおう♪

そうして、私と「ゴルちゃん」との蜜月が始まった・・・。

※楽しいカーライフについては、いつかまた、番外編で。


♪♪♪

今、私が乗っている車は、ゴルフⅣワゴンです。
前のゴルフⅡが壊れるまで乗ろうと思っていましたが、12年目に思いがけない出来事が起こったのです。

それは、地元ラジオ局から流れてきた懸賞のお知らせでした。

『フォルクスワーゲン新車購入資金50万円プレゼントキャンペーン!』

えっ?50万円も出してくれるの?
もしも当たったら、VWの新車が安く買えるの? 
ゴルちゃん、そろそろ乗り換えてもいいかな? まだ走れそうだけど。
もうちょっと、荷物も積める車もいいなって思っていたんだ。
カリブとかレガシーとか、便利そう。ゴルフにワゴンタイプもあるのね。
ビートルもかわいいなあ。限定色のきれいなペールグリーンがある。 ・・・荷物は積めないけど。

ダメでもともと。応募してみようっと。

「もしもし。こちら○-MIXですが、あなたが当選しました! 」

ま、まさかΣ(*★UvO*)艸!!

六星占術の「達成」の年の「達成」の月に(笑)、見事に当選!!

 しかし、……ここで私の一生の運を使い果たすことになることは、この時は知る由もなかった…。


そして、当選した2日後、横断歩道で手をあげて渡る小学生を停止して待っている時。
なんと、後ろから脇見運転をしていた車に追突され、ゴルちゃんはあえなく廃車に。

普通なら下取りも出ない年季の入った車だったが、保険のおかげで25万円もの下取り価格が。
そして、ディーラーさんも値引きしてくれて、さらに、展示してる車でも構わないと言ったけど、「あなたにばっかり安く売るわけにはいかない」と言われ、海の向こうから新車が届くのを待つことに。


こうして、私が乗る二代目の車、ゴルフワゴンとも、運命の出会いを果たしたのでした。

現在の走行距離は、もうすぐ133,333㎞。
ちょっと、いや、かなりガタが来ていますが、もうちょっと乗りたいな。


大好きな車とわたしのお付き合いは、きっとこれからも、まだまだ続きます。



Posted at 2014/10/15 08:19:04 | コメント(2) | トラックバック(0) | お車 | 日記

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